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家村浩明のブログ一覧

2016年11月13日 イイね!

新ジャンル車としてのハイラックスとハイエース

新ジャンル車としてのハイラックスとハイエース書籍「トヨタをつくった技術者たち」(2001年刊行)から、今回は、1960~70年代、トラック系の主査として数々の製品を送り出し、商用車の分野で新境地を拓いた大塚隆之氏の談話を紹介する。

1970年代前半という時点、「RV」などという言葉はカゲもカタチもなかった頃に、既に「商用車」と分類されるジャンルに、大塚氏は「乗用車レベルの近代性」を持たせようとしていた。この証言には、やはりちょっと驚く。

○ハイラックス開発の経緯
「1トン積みのダットラが非常に羽振りを利かせていたので、(略)虎のシッポを踏むような正面衝突はしたくないということで、1トン積みトラックをプランニングし上程しても、何年も開発許可が下りなかった。ところが、ライト・スタウトとブリスカの二車種が生まれ変わり好評だったので、ボンネット型1トン積みトラック、ハイラックスの開発許可がやっと出た」

「ハイラックスの開発は、試作三号車まではトヨタ車体で作ったが、試作四号車から日野自工に切り換えた」

「ハイラックスは、トヨタが持っている乗用車を含めたあらゆる実績・経験に基づいて、新たな構想の下に基本設計からやり直し、生まれ変わった姿のトラックにした。トラックとしての資格は十分備えて、しかも乗用車レベルの近代性を持ったもの、使う人のことをよく考えた新たな正調1トン積みトラックだと思っている」

「ハイラックスという名前は、最初に販売部が辞書で『 HYRAX 』を選び、豊田英二さんも『それでいこう』と言われた。ウェブスターの大きい辞書で『 HYRAX 』を引いたら、昼間グーグー居眠りしていて夜ゴソゴソ歩くアメリカ産のヒグマと書いてあり、これではイメージが悪いから変えようと『 HIRAX 』にした。ラックスという石鹸があって心配したが、引っ掛からないという結果になって『 HIRAX 』が本物になった」

「ニッサンのダットラという牙城ができているところへ飛び込んでいくのは、構えている敵に攻め込むような難しさがあって、一番気を遣ったことは、ハイラックスを如何にして伸ばすかということ」

「特別に『王手』というようなことをしたわけではなく、オーソドックスにお客さんのニーズを掴み、それを反映したトラックを次々に提供していったということだと思っている」

「1969年に、アメリカ向けに3Rエンジン1900cc、1971年に12Rエンジン1600ccを搭載し、手頃なサイズと価格で輸出台数も順調に増加していった」

「内山田亀男さん(3代目クラウンの主査)に怒られたことがある。当時、エンジンキーをどっちから差し込んでも回せることが世界的な流行だった。ポケットから出して、どっち向きに差し込んでもドアが開き、エンジンが掛かる。うちの主担当員が『これをやりましょう』と言うので、『それはいいな』と採用した。ところが内山田さんに、『クラウンで最初にそういうことをしようと思ってアイデアを出したのに、先にやるのはけしからんじゃないか』と。申し訳ないことをしてしまった。

○ハイエースについて
「アメリカやヨーロッパでは、荷物運搬専用として代表されるデリバリー・バンがあって、このクルマが商売用のクルマとして使われていた。トラックのバン型化、屋根のあるトラックへの移行は世界的な流行だった。人間を尊重する乗用車的なムードを持ち、かつ積載もできる商用車が望まれるようになって来ていた。それまでは、標準トラックをベースに、多目的使用の変わり型ボデーを作っていたので、バン型としては構造的に使い難い面があった」

「こういう時代の変化を敏感にキャッチし、お手本があったわけではないが、家族で楽しみ喜ぶことができるバンにしていかなければと考え、バン型ボデーを標準型にして、ドアの開き方を前後方向の引き戸式にし、ヘッドランプを四つにしたものを開発した」

「人を乗せる機能と荷物を運ぶ機能を兼ね備えた、ほんとうの意味での貨客乗用車。全天候型の本格的な小型キャブオーバー商用車、デリバリー・バンは、トヨタが先鞭を付けた。その後、人員の輸送ということではコースター(マイクロバス)に発展していった」

「人間の常として当然の帰結なんでしょうけれど、これからのクルマは、ますます家族ともどもエンジョイするというものになっていくと思う」

○大豊工業へ転出
「たまたま跡継ぎが欲しいという話が出て、大豊工業へ行くことになった。野口正秋さんが、『大塚君はまだトヨタで使いたい。役員会の時に、“私は一年で帰ってきます”と言え』と言ってくれたけど、役員会で言えなかった。大豊工業へ行って、海外との技術提携などをやっていたら、一年のつもりが二十年になってしまった」

「お客様の本質的な要望が入っていなければ成功しない。お客様の要望、欲望というものを掴んで、原理的にこんなものができないかというユニークなことを先手を取って作り、『こんなもの、どうでしょうか』とお客様に呼びかけていけば、大半のお客様は信頼してついてきてくれる。抜け落ちているところがあれば、お客様とともに考えて、より良いものにしていけばよい」

「自動車の製品企画をしていた時にも、そういうことを大いに採り上げた。待っていては、お客様のニーズは滅多に入ってこない。上の方がマーケットに飛び込んで行って、お客様の声を聞き、何を望んでいるかを拾い上げて、先手を取って社内をそういう方向に向けていくようにしたつもりです」

「日本人には、みんなと打ち解けて、みんなと一緒に築いていくということが向いていると思う。妙にカリスマ性を出そうなんて思って、大それたことを言うと、よそよそしいことになってしまう」

○豊田少年少女発明クラブ理事長として
「自動車はまだまだ改良を続けなければならないものだから、『こういう自動車にしてほしい』という提言を子どもからも出してもらう。そのためには、子どもを啓発するテーマパークを、豊田市の鞍ヶ池を中心につくろうと提案している。一番いいのは、優秀な技術屋が考えるだけでなく、子どもを含めた国民とともに、もっと広い視野から自動車がどのようになっていけば良いのかを考えていくことだと思う」

◆大塚隆之
1915:東京都に生まれる。
1941:東京帝国大学工学部・機械工学科卒業。
卒業後、東大付属航空研究所でエンジンを研究。
1942:陸軍の航空廠に入り、朝鮮半島・平城に赴任。
陸軍では発動機工場と自動車教育隊の教育を担当。終戦後、ソ連領エラブカ収容所に抑留され、1947年に復員した。
1948:トヨタに入社。
1959:第1エンジン部で、アルミV8エンジン、3Rエンジンを開発。
1965:製品企画室・主査となる。
1967年から、トラック関係全車種の主査として、ブリスカ、ランドクルーザー、ハイエース、ハイラックスを担当。
1972:大豊工業社長。1983年に会長。
Posted at 2016/11/13 04:43:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
2016年11月06日 イイね!

【60年代こぼれ話】トヨタS800は開発者の不満解消のために?

【60年代こぼれ話】トヨタS800は開発者の不満解消のために?「トヨタをつくった技術者たち」から、もうひとつ、歴史トリビア風のエピソードを紹介する。後にカローラ初代の主査となる長谷川龍雄氏が、パブリカの開発を担当していた頃の回顧で、派生機種である「スポーツ800」(トヨタS800=“ヨタハチ”)は如何にして生まれたのかという秘話だ。

長谷川龍雄氏は、初代クラウンを開発した中村健也氏とともに、トヨタが1950~60年代に「乗用車」を開発し始めた頃の“伝説の主査”のひとりである。(「主査」って何?……というのは短い説明は困難なので、いずれ改めて書きたい)その長谷川氏は、中村主査と一緒にやっていた初代クラウンの開発が一段落した後、既に開発がある程度進んでいた「パブリカ」を市販に向けてまとめるという新たな仕事に就いた。

その際に、当時の日本の道路事情、また技術的・時間的な制限と限界などを考えた結果、パブリカを「まとめる」には、当初の案だったFFでは不可能という判断をする。そして、同車をFR方式に変更し、トヨタ最小の“シンプル・カー”として、パブリカを1961年に発売した。

しかし、開発を始めた頃と、実際にクルマを売り始めた時とでは、マーケットやカスタマーの事情が変わっていたようだ。この点について長谷川氏は、「世の中に贅沢さが生まれていて」、パブリカは「『チャチなクルマ』と言われて売れない」と解析している。そして、そういう状況が見えていたから、長谷川氏はパブリカに代わるべき新しいコンパクト車を自身で企画していた。そして、そのクルマ(後のカローラ)の開発・市販を社内で訴えていたのだが、しかし、会社の上層部は、その提言になかなか反応しなかった。

そんな社内に苛立ちつつ、長谷川氏はパブリカの拡販対策も、もちろん行なっていた。まず、デラックスとバン、ピックアップを用意して、バリエーションを増やすこと。二つ目は、海外市場を狙い、東南アジアでテスト走行をする。これは当時の日本には、高速で走れる道もテストコースもなかったことが理由である。そして三つ目が、エンジンをツインキャブで強化したスポーティ車を追加することだった。

そしてトヨタは、1962年の第9回自動車ショーで、「スポーツ800」のショーモデルを展示した。それは好評を博し、来場したファンからも市販してほしいという要望が寄せられた。さらに、ツインキャブにチューンした2Uエンジン搭載車のレーシング・パブリカが、鈴鹿の日本グランプリでワンツースリー・フィニッシュしたことも、市販化への後押しとなる。

「このツインキャブのエンジンを使えば、売れるかもしれない。売れ行き不振のパブリカ店にインパクトを与えることができるかもしれないと思い、ドア付きにして、排気量800ccのスポーツ800を作った」と、長谷川氏は語る。「ドアを付けた」とは、自動車ショーに展示したショー・カーは、車室とルーフが一体で後方に移動するという方式だったため、それを変更したということ。そして、「トヨタとしては、初めてドアガラスも丸みのあるものにした」(長谷川氏)。

市販化に際してのデザインは、「トヨタでは工数の余裕がなかったので、関東自動車工業に依頼した」。デザインを決める際には、長谷川氏はずいぶん「ちょっかいを出した」と言うが、それはこのクルマを「飛行機イメージにしようと思っていた」からだった。シルエットの「力点もベルトラインにあるのがよい形だ。レーシングカーとは違う」というのが氏の考え方だ。ちなみに長谷川氏は、東京帝国大学の航空学科を1939年に卒業した“飛行機屋”である。

さて、こうして好評のうちに受け入れられた「スポーツ800」だったが、その開発に長谷川エンジニアが注力したその理由がなかなか豪快だ。まあ、これはジョークもまじえてということで、「……(笑)」というように表記すべき談話だったかもしれないのだが、ともかくこの書で、長谷川氏は次のように言う。

「本音は、当時カローラの開発提案を認めてもらえず、溜まっていた欲求不満を解消するという気持ちで、スポーツ800を開発した」「パブリカ店にインパクトをという気持ちが10パーセントで、欲求不満が90パーセント。多少は、スポーツ800をモーターショーだけで終わらせではおもしろくないという気持ちもあったけどね」

……おお! では歴史の「イフ」ではあるが、もし「初代カローラ」の企画・開発に素早くゴーサインが出ていたら、「パブリカ・スポーツ」はショーカーのままで、世に出ることなく終わっていたということになるのか。

さらに長谷川氏は、海外でのこのクルマの評価にも触れる。アメリカにファンクラブがあるが、スポーツ800は輸出したのかとインタビュアーに問われると、「輸出せよとトヨタ自販が言った」が「私は絶対反対」で、役員に何といわれようとも「私は頑として許可できないと突っぱねた」と証言する。

長谷川氏が輸出に断固反対だったのは、初代のクラウンをアメリカに出してみたことがあり、その時、クラウンでアメリカのハイウェーを実走するテストを行なったのが長谷川氏自身だったからだ。その走行テストの結果、当時のトヨタ車には、まだアメリカへの輸出ができるだけの技術も体力もないことを、長谷川氏は自身の体験として持っていた。

ただし、トヨタ自販は「こっそりとサンプルカーを三十台くらい米国へ輸出した」(長谷川氏)。ファンクラブは、その三十台と、進駐軍が沖縄あたりで買って本国に持ち帰ったものでできたのであろうということ。そして、「スポーツ800」がアメリカで何も問題になっていないのは、「クラシックカーのような扱いで割り切っているから」で、もし普通に輸出して、乗るのが「一般大衆だったら、とてもじゃないけど、問題が起きていた」と長谷川氏は言う。

このインタビューの最後で、「乱世、変化の時代には侍が欲しい」に続けて、会社の「トップは、常日頃から侍が出てくることが可能になる土壌を作って」おく責任があると、長谷川氏は語っている。ただ、この「パブリカ・スポーツ」や「カローラ初代」の誕生などを見ていると、何より長谷川氏自身が“強烈な侍精神”の持ち主であったと思わざるを得ない。ともかく、「中村健也」と「長谷川龍雄」は、主査として1950~60年代のトヨタ乗用車を作った(開発した)だけでなく、「トヨタ車の作り方」も同時に創った、そんな伝説の二人なのであった。
Posted at 2016/11/06 19:00:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
2016年11月04日 イイね!

【70年代こぼれ話】レビン/トレノ、その最初の名前は……?

【70年代こぼれ話】レビン/トレノ、その最初の名前は……?「トヨタをつくった技術者たち」という書は、トヨタで仕事をしてきたエンジニアがインタビューに答えて、社内での自分のキャリアを、時に個人史も交えながら語るという構成だ。インタビューをしているのは“後輩”に当たるトヨタのエンジニア諸氏で、そのため、専門用語や社内用語が説明されないままに飛び交うという特徴(欠点か?)はあるが、言い換えれば、登場する諸氏が率直な物言いに終始しているということでもある。また、トークによる社内史を作ろうという意図もあったはずで、歴史書としてもなかなか興味深い内容になっている。

今日はそんな中から、「カローラ・レビン/スプリンター・トレノ」の誕生と、そのネーミングをめぐるこぼれ話を紹介したい。語っているのは、本ブログにも既に登場いただいたカローラとターセルの主査、佐々木紫郎氏。初代カローラの主査・長谷川龍雄氏が役員に昇格したため、開発途中の二代目カローラの主査に佐々木氏が就任したのが1967年7月のことだが、このクルマを開発している時に浮上した企画が「レビン/トレノ」だった。

そのキッカケとなったのは、その頃シャシー設計担当で、後に初代セリカの主査になる久保地理介技師のひと言。彼はラリー・マニアで、山岳路を走るのが好きだったが、ある日佐々木主査に、「セリカ用に開発した2T-Gをカローラに載せませんか?」という「入れ知恵をしてくれた」(佐々木氏)のだ。「これはおもしろいぞ」と、佐々木主査は話に乗り、ハイパワー・カローラの企画がスタートする。

その車名を決める段になり、佐々木氏は取締役の長谷川氏に、「体育の日までに決めてください」と要請。これに対して程なくリプライがあり、長谷川氏から佐々木主査に一枚のメモが渡された。そこに書かれていた車名は、「カローラ鷲/スプリンター鷹」──。名付け親は、豊田英二社長(当時)。佐々木氏は、その頃「英二さんは『自動車の名前が英語ばかりでおもしろくない。日本語の名前を付けたい』という気持ちを持っていたようで」と語っている。

しかしこの時、佐々木氏は、内心「ウエッと思った」と告白する。上司の長谷川氏は、「体育の日までと言うから、決めてもらった。この車名が気にくわなければ、佐々木君が文句を言って来なさい」と言う。何といっても社長直々のジョブであり、「困ったなと思ったけど、決めてくれたものを『嫌です』とは言えない」(佐々木氏)。

とりあえず、クルマの販売を担当する「自販」側と相談するが、案の定、「日本語の名前では、まだ商売をしにくい、困る」という反応だった。しかし、そんな理由では断われないぞと話し合いつつ、まずは名前の登録ができるかどうかを特許部に調べてもらうことにする。

その結果、幸いにも(?)大阪の自転車屋が「ホーク」を登録していたことが判明。そこから、ホークは鷹に通ずる、「自転車も自動車も乗り物のジャンルだから駄目」という判断を下し、その後に、みんなで智恵を絞って考え出したのが「レビン」(雷の光り)と「トレノ」(雷の音)という二つの名前だった。このオリジナルの段階では「カローラ・トレノ、スプリンター・レビン」であったという。

後日、佐々木氏は、そのメモをポケットに入れて、恐る恐る社長のところへ行く。ちなみに、この時が英二社長との初対面だった。特許部の見解では「鷲と鷹」は登録がむずかしいと報告すると、「そうか、どうするんだ」と社長。佐々木主査は車名を書いてきたメモを提出。すると社長はそれを机の上に置き、さらに窓際で行ったり来たりしながら、しばらく考えていた。

そして、英二社長は椅子に座ると、名前を入れ替え、カローラ・レビン、スプリンター・トレノと書いて、「これに決めたとサインをしてくれた」(佐々木氏)。名前を入れ替えた理由として、「レビンは光りで、音よりも速い。速い方は兄貴分のカローラにやれ。スプリンターの方はトレノ」と英二社長は言った。

なるほど、クルマに日本語の名前……。さすが進取の精神、他社と違ったことをやろうという姿勢には注目だが、でも自販側が言ったように、1960~70年代の時点では、やはり和風の名前は時期尚早だったのではないか。「鷲/鷹」では、レビン/トレノほどには売れなかったと思う。まあ当時も「すばる」という日本語の車種名は、既にあったのだが。そういえば、いすゞがミッド・セダンに「アスカ」(飛鳥)という名を与えたのは1980年代だったか。また、カムリの語源は「冠」だといわれている

そして二輪の方の日本語名では、極めつけと“勘弁してくれ”のどっちの選手権も、私見ではスズキが持っている。卓抜な方では、やっぱり「カタナ」! そして一方、彼らは1950年代に、バイクならこれだ!という「コレダ」を二輪車の名前にしていた。さらに1990年代の「ワゴンであーる → ワゴンR」という展開も、スズキ的な傑作ネーミングのひとつであろうか。
Posted at 2016/11/04 17:19:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
2016年04月23日 イイね!

【クルマ史を愉しむ】vol.22 『自動車の世紀』を読む 《15》

【クルマ史を愉しむ】vol.22 『自動車の世紀』を読む 《15》○日本の「国民車構想」
1955:日本の“乗用車元年”。
トヨペット・クラウンとダットサン110がデビュー。

1950年の乗用車生産台数、アメリカ662万8598台、ヨーロッパ110万0586台、日本は1594台。1954年に日本の乗用車生産が1万台を超えたが、その75%はタクシーで、1957年でもその割合は50%を超えていた。

1955:「国民車構想」
通産省・自動車課が発表したもの。大戦後の欧米では急速に自動車の大衆化が進んでいた。VW、ルノー4CV、モーリス・マイナーなど。一方で少し前に、一万田日銀総裁は“国産車育成無用論”を唱えた。国産車に金をかけるより、アメリカ車などを積極的に輸入したらいい、という発言をしていた。

通産省の川原技官がまとめた要綱案。将来の国民車の条件。
 ・最高速、時速100キロ以上。乗員四人。ガソリン1リットル当たり30キロ以上走行。
 ・月産2000台の場合、工場原価15万円以下。最終価格が25万円以下であること。エンジンは350~500ccを適当とする。
 ・通産省はこの条件を示して後一定の期日までに試作を奨励する。テストの上で量産にふさわしい車種を選定し、それに対して財政資金を投入して育成をはかる。

○“育成”ではなく民間主導で
戦前の日本の自動車工業は陸軍主導型で“育成”が計られたが、見るべき成果はなかった。本来、どこの国でも、自動車工業の発達は民間主導型が本命。通産省の要綱案は、行政指導のかたちを採ったが実施はされなかった。
しかし、「多くの企業は、この要綱案に前向きの関心を示した。そしてメーカーの多くは積極的に自社構想をまとめようとした」(著者)

ただ、この構想に猛反発したのがタクシー業界。この構想に近い車が発売されると、それがタクシーに転用され、料金のダンピングが起こりかねないというのが反対する理由の第一だった。
1956:トヨタ、IAI型を発表。
国民車構想に応えた、幻のプロトタイプ。2ドア・タイプで、これはタクシーには使えないことの証明のために、いち早く公表したと見られている。後年に「パブリカ」として現実化する。(1961年)

1960:三菱500、デビュー。
国民車の提案に対応したもの。

○“模範解答”の登場、スバル360
1955:社内の軽四輪計画懇談会で、コード名「K10」がスタート。
スバル360は富士重工の伊勢佐木製作所で、最初からオーナー・ドライバーのためだけに設計された。そしてもうひとつ、輸出可能であることという条件を付けていた。ちなみに1955年の輸出台数は、乗用車2台(!)、トラック、特装車などを含めても1231台だった。

「K10」計画は軽量化が最重要課題となった。さらに、大人四人が乗れること。まず、客室(キャビン)を決定。前輪はできるだけ前方に。サスペンションは横置きのトーションバー、全輪独立懸架。ポルシェ・コンセプトとの共通性。日本初のリヤ・エンジン方式。薄い鋼板(0・6ミリ)で強度を取るためのボディの曲面構成。

○小さなクルマの冒険
ヨーロッパ自動車技術者の口伝、“小さなクルマ、大きな冒険”。
「日本独特の存在である各社の軽自動車も、すべて寸法とエンジン排気量の制約のもとでの冒険に挑戦し、それぞれ独自の個性的モデルを生み出した」(著者)
1958:スバル360、デビュー。
1960:マツダ・R360クーペ
1967:ホンダN360

○日本自動車技術の底辺
「日本の自動車工業は、軽自動車という底辺層の技術の下支えのもとに発達したといっても過言ではない」(著者)

乗用車ひとり当たりの人口は、1994年になると2・9人となり、欧米と並んだ。アメリカは2・5人、ヨーロッパ2・1人。
1980:日本の自動車生産台数、717万6250台。
アメリカの643万余台を抜いた。アメリカは1906年から74年間、首位の座を守っていた。乗用車元年の1955年から、わずか25年後で、世界一位へ。

日本の自動車工業、いくつかの特徴。
 ・欧米のノウハウを短期間に吸収・消化した。
 ・モーター・レーシングはほとんど経験しなかった。
 ・強力な軽自動車層という底辺がある。

         *

「自動車の世紀」は、このあと、文芸の中の自動車(日本を中心に)、映画と自動車、スピードの美学、自動車に恋した20世紀……といったテーマで論考が続きます。文芸と自動車の項では、欧米の小説では、作家が巧みに登場するクルマの車種を使い分けていると、著者は指摘します。

「アメリカのハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』では、アル中の作家はジャガー、その奥さんで一癖ある女性は、ジョエット・ジャヴェリンというあまり名の知れぬイギリス製スポーツカーに乗っている。(略)そして主人公の私立探偵フィリップ・マーローのクルマは、くたびれたオールズモビールである」

そして本書は、次のような言葉で結ばれます。
「20世紀の自動車を中世のゴシック大聖堂に例えた人がいる。ともに、ある一つの世紀、そしてその文化の象徴だからだろう」「ゴシック大聖堂はその本来の機能を果たした後も、一つの文化遺産として壮麗なかたちを残し続けている」
「はたして現代の自動車が、そのような形の遺産として21世紀を生き続けることができるかどうか──その答えは、神のみぞ知るというほかはないだろう」

(了)

(このシリーズは、折口透さんの快著『自動車の世紀』(岩波新書)をナビゲーターに、クルマ史におけるさまざまなシーンを見て来ました。お読みいただき、ありがとうございます)
Posted at 2016/04/23 11:40:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
2016年04月22日 イイね!

【クルマ史を愉しむ】vol.21 『自動車の世紀』を読む 《14》

【クルマ史を愉しむ】vol.21 『自動車の世紀』を読む 《14》○クルマ世界を変えた三つのモデル
「あるひとつのクルマの誕生が、自動車そのもののコンセプトを変革し、さらには社会的存在として人々の生活様式にまで深い影響を与えた例が、自動車の歴史の中で(略)少なくとも三つある」(著者)(注1)

その三つとは、アメリカのフォードT型、西ドイツのフォルクスワーゲン・ビートル、そして英国BMC/BLのミニ。「この三車はすべて(略)一人の個人のはっきりとした責任のもとに生み出された」(著者)。その個人とは、ヘンリー・フォード、フェルディナント・ポルシェ、そしてアレック・イシゴニス。

○アレック・イシゴニス
イシゴニスは、オスマン・トルコ帝国のスミルナ(現在のイズミール)で1906年に生まれた。父はイギリス国籍を持つギリシア人、母はドイツ人。イギリスで学校生活を送った後、いくつかの自動車会社に勤務。40歳を過ぎて、モーリス・マイナーを設計して成功。マイナーは、英国初の“ミリオンセラー・カー”となる。

小型軽量化のために、できるだけ「球」に近い形状のボディとして、前輪にはトーションバー独立懸架を採用。つまり、ポルシェ・コンセプト=VWビートルと同じ。ただし「イシゴニスがどれだけポルシェ・コンセプトに影響を受けたかを知る手がかりはない」(著者)。

1948:モーリス・マイナー、デビュー。
以後マイナーは、1971年までに160万台を売り切った。(注2)

1952:イシゴニス、アルヴィス社に移る。
BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)内部での旧モーリス系と旧オースチン系の主導権争いに嫌気がさした。
1956:イシゴニスがふたたびBMCに戻った。
社長直属となり、かなり自由な裁量権を与えられる。唯一の条件は、時代に先駆けた、売れるクルマを作ること。

○「ミニ」の誕生
1956:エジプトのナセル大統領、スエズ運河を国営化。
同時にナセルは、シリアを通過するパイプラインを封鎖した。このパイプラインがイギリス石油需要の20%を負担していたため、イギリスではガソリンが配給制となる。

BMCのロード社長は、ポメロイとイシゴニスの二人の技術者に、競作で、小型経済車の設計を依頼した。当時の小型大衆車の定石は、VWのようなRR(リヤエンジン/リヤドライブ)車。ポメロイはこのRR車を提案したが、急進的に過ぎてBMCは採用しなかった。

一方でロードは、イシゴニスには外形寸法について厳しい注文を付けた。全長3000ミリ、全幅と全高は1200ミリ。これは日本の軽自動車/360cc時代(全長3000ミリ、全幅1300ミリ)の規格とほぼ同じ。(注3)

○FF+横置きエンジン
イシゴニスはかねてより、シトロエン2CV(FF)に注目していた。最初は、BMCの1100cc4気筒エンジンを分割した2気筒でFF車をプランニングしたが、エンジンの振動が激し過ぎた。そこから“コロンブスの卵”的に「エンジン横置き」と、その下にミッションとデフを一体化するという解決法に至る。(注4)

生産型の「ミニ」は、ホイールベース2030ミリ、ボディは、全長3050ミリ、全幅1390ミリ、全高1350ミリ。サスペンションは圧縮ゴム+アームの独立懸架。848ccのエンジンで34馬力、最高速は116キロ。

「イシゴニスは元来保守的で、戦前のごつごつした乗り心地で騒音も高いスポーツカーがいつも念頭にあった。彼は言っている、『シートはあまりコンファタブル(快適)でないほうがいい。緊張があって運転に集中できるから……』。また、ラジオの装備を打診されると、運転中気が散るからいけない、といって拒否した」(著者)

○モータースポーツと「ミニ」
「ミニの独特のサスペンションは、文字通り“足が地に着いた”走りを可能にした」(著者)
1961:ミニ・クーパーのデビュー。
レーシングカーで有名なクーパー社がチューニングに名乗りを上げ、1962年にクラブマン・レースで153回優勝した。ミニ・クーパーSの登場で、ミニのレース活動は国際的になった。エンジンは1275cc、70馬力、最高速160キロ。
1964~1965:モンテカルロ・ラリーでミニが連勝。

(つづく)

◆注1:この「四台目」は、私は、1993年に日本から登場したスズキ・ワゴンRであると思う。超コンパクト車において、「高さ」を活用すれば十分な快適性を確保できること。併せて、着座位置(ヒップポイント=HP)を600ミリ以上とする「人」優先のパッケージングを提案して、超・小型乗用車の概念と造形を変えた。

◆注2:エリック・エッカーマン「自動車の世界史」によるデータ。1950~1960年代における100万台突破の小型車。
 ・フィアット600:1955~1970
 ・ルノー4CV:1947~1961
 ・モーリス・マイナー:1949~1961

◆注3:日本の「軽規格」は世界には通用しない“ガラパゴス”だ……と自虐する必要はない。欧州の自動車人も「小型経済車」を企図すれば、「軽規格」と同じようなサイズをイメージする。

◆注4:エッカーマンは「自動車の世界史」で、「BMCミニ」について以下のように述べる。
イシゴニスの“驚異の空間”、全長の80%を居住とカーゴに利用。横置きエンジン、その下にミッション。10インチ・タイヤ、現代小型車の元祖。ラリー用には SUツインのキャブレターで997ccから55psを得て成功。

ミニはエンジンの下に変速機があり、仕切りがなかったので、同一のオイルを用いる必要。オイルの組成は重要で、サービス性には問題があった。
エンジンの横に変速機を置く配置を初めて採ったのは、アウトビアンキ・プリムラ。これで各メーカーは、従来の装備を活かしつつ前輪駆動とすることができた。親会社のフィアットは、プリムラの5年後に「128」を発表。

1969:フィアット128。4気筒1116cc、55ps/6000rpm。全長3860mm、ホイールベース2450mm、車重805kg。

(このシリーズは、折口透さんの快著『自動車の世紀』(岩波新書)をナビゲーターに、クルマ史におけるさまざまなシーンを見ていきます)
Posted at 2016/04/22 09:48:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
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