2014年12月13日
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
厚木に帰ってきた田沼と今井の報告を聞いた車両設計部長の藤原靖彦は、すぐに態勢の見直しを決定した。今度の「GT-R」は、文字通りにハンパじゃないものを作るプロジェクトだった。ボディ屋としても、そのハイ・テンションの進行に遅れをとってはならない。
北海道を走った“栃木製”のクルマが厚木に持ち帰られ、すぐに解析がはじまった。加藤がつないだこの「バー」は、いったい何に効いてるのか。モディファイされたこの部分は、何にどのくらいの効果があるのか。その解析が完全に終わるまでには、約二ヵ月の時間が必要だった。そして、この新たにGT-Rのボディを模索している時に、それまでにないテスト法として、モデルを宙に浮かせて「横G」をかけるという方法も考えだされた。
田沼は、この仕事に熱中した。どこにどのくらいの剛性が要るのかという解析の後は、その剛性を保ちつつ、それをスマートに見せるには、どういう代替案があるのかを探った。何故なら加藤が作ったクルマは、僚友の川上が苦笑いするくらいに、見栄えは構わずにバシッと棒と棒がつながっている、そういう「アクロバティックな(笑)」(田沼)代物だったからである。
もうひとつ、田沼にとっての大前提があった。ここが実験部による強化ボディ作りと決定的に違うところだが、田沼が設計するボディは、いずれは、村山工場の生産ラインに載る必要があるのだ。強靱なボディでなければならないが、しかし、ラインでの大量生産が可能で、かつ生産性も良いこと。それが必須の条件になっている。
工場のラインで作れて、合理的で、かつ軽く――。課せられたテーマは多かった。部材としてのアルミやカーボンの使用も検討された。レーシングカーを作っている系列会社のニスモにも、何度か問い合わせを入れた。
むろん村山工場とも「GT-Rを作るんだ」という点での合意があり、さらに栃木の意欲も、厚木を通じて、村山側に伝わっていた。田沼は栃木と村山を、厚木を拠点に精力的に動きまわった。栃木の求める「レベル」を、どう村山で作るか。そのためには、車体はどのような設計でなければならないか。
強固なボディを作るということは、部分だけでなく全体のバランスが、部分の出来具合以上に重要だ。そして、あくまでも『動性能』の中でそれを評価しようという加藤のシビアな目(というより「掌」か)も待っている。新R33GT-Rの車体の「セカンド・プロト」作りは、93年の半ばに、そのプロジェクトが新たにスタートした。
この年の秋、「ニュル」での初テストでは、栃木からの要請と必要条件とを入れて、かつ生産性というファクターも含んで、田沼ら厚木の設計陣が新作したボディが使われていた。ボディパネルの板厚を大幅に上げて再設計されたR33GT-R「セカンド・プロト」の原型である。
この新プロトに対して評価ドライバーの加藤は、サスの取り付け部など細部の剛性の強化を主に求めてきた。それまでは、主にリヤまわりに加藤のクレームは集中していた。加藤からの注文がこうして「細部」になったということは、ようやく車体の「全体」は何とか固まってきたんだなと、ボディ設計担当の田沼謹一はちょっとだけ息をついだ。
(第16章・了) ──文中敬称略
Posted at 2014/12/13 14:31:04 | |
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90年代の書棚から 最速GT-R物語 | 日記
2014年12月13日
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
(オレたちは、いったいどこまでやればいいのか……)先が見えない不安と、仕事のレベルを他の部署に“いじられる”不満とが交錯していたのは、スカイライン・プロジェクトの中のボディ設計担当チームだった。時は1993年の後半である。栃木の実験部に、R33GT-Rの最初のプロトタイプを渡して以後、厚木の車両設計部の仕事は突然“見えなく”なってしまった。
クルマ作りには、さまざまな部署があり、たくさんの人が関わる。そのため、ひとつのプロジェクトを進行させるには、各部署の間でそれぞれが達成すべき目標値を定め、それを互いに出し合って、いわば相互の「契約」とともに業務を進める。だが、このくらいだろうとした車体設計のレベルが、あるひとつの部署によってどんどん上げられていくのだ。
(やつら、戦車でも作ろうってのか……?)厚木のボディ屋のエンジニアたちからは、こんな声さえ洩れていた。「やつら」──つまり栃木の実験部は、厚木のボディ設計陣によるプロトタイプにダメを出したばかりでなく、あろうことか、独自に「車体作り」まではじめてしまったようなのである。
R33のGT-Rを「やる」ことについては、車両設計部でももちろん合意しているし、スタッフも用意した。だが、彼らの作品であるボディは、実験部によれば、ものの役に立たないということらしい。栃木では、いったい何をやっていて、何をやろうとしているのか。これを、厚木の車両設計部としても知っておきたい。また、そのことは、川上慎吾や加藤博義らの実験部にとっても、例の「問題を技術者と共有する」ために必要なことであった。
実験部による北海道・陸別でのR33GT-Rのテストに呼ばれて、つまり厚木のボディ屋を代表して、栃木・実験部の仕事を体験しに行くために現地に飛んだのは、車体設計のエンジニア・田沼謹一である。
陸別のテストコースでは“栃木製”のGT-Rが田沼を待っていた。グリルは、加藤の好みで大きな口を開けるように既にモディファイされていたが、それだけでなく、トランク内をはじめとして、至るところに強化のためのバーが張りめぐらされていた。
(これは、ほとんどレースカーじゃないか!)ボディのエンジニアとして、クルマを一見した田沼は思った。レーシングカーのようにロールケージの格好にこそなっていないが、それはもう市販車の常識を超えているものだった。(これは生産には載らないな……)、こう田沼は直感し、同時に、何でそこまでやる必要があるんだとも思った。
実験部の川上が、田沼にクルマに乗るように合図した。シートベルトを締めていると、そのドライバー席に加藤が乗り込んできた。「じゃ、軽く行くから――」。テストコースに、加藤が作った新プロトタイプが入って行く。
田沼の目の前にコースが開け、加藤がアクセルを踏んだ。その瞬間、ものすごい加速の「G」で、田沼の背中がシートに張りついた。そしてコーナーがやって来る。ブレーキングの「G」と「横G」とが一体となって襲ってくる直前、チラッと田沼が見たスピードメーターの針は、190km/hオーバーを指していた。
こうやって走り、こうやって曲がっているのか! これが彼らにとっての「GT-R」なのか!
「G」は、前後左右、そして上下、さらに斜め方向まで、さまざまな角度からボディを揺すり、捻じっては、軋ませていた。『動性能』の中でのボディ剛性という問題を、田沼は、こうして実体験した。
この連中は世界一をめざしている。これは本気だ! これに比べると、車両設計の方には、これだけのモチベーションとテンションの高さが、これまではやや欠けていたかもしれない……。
加藤は、田沼と、もうひとりのボディ設計エンジニア今井英二の二人を交互に横に乗せて、陸別の複雑な「G」が車体にかかるテストコースを何度も何度も回った。これが「GT-R」だ、この走りができるクルマが要るんだ! それが加藤の、そして川上からの、厚木・車両設計部へのメッセージだった。エンジニア・田沼の中に、フツフツとたぎるものが湧いてきた。
(つづく) ──文中敬称略
Posted at 2014/12/13 06:02:10 | |
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