2014年12月16日
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
さて“猫殺し”というアダ名の加藤プロデュースによる“超・高剛性ボディ”ができあがって、R33GT-Rのボディのあるべき姿は見えていた。次は、そのボディをどう「再現」するかがスタッフの仕事となる。厚木での試作段階が終わり、それをGT-Rの生産工場である村山の「工場試作」に移す時期が来た。
だが、できあがった村山工場製のボディに加藤が乗ると、彼のダメが出てしまう。栃木の不満が噴き出す。厚木と村山は、ちゃんと「一対一」の対応をしてるのか? 言った通りにならないじゃないか!
一方、工場の村山にも言い分がある。これはラインでの生産を前提としてのプロトタイプだ。純粋に性能狙いだけで作ってくる厚木の試作は、そのまま生産(量産)できない部分がある。たとえば、ネジの穴をこのサイズにしないとラインでは組めないとか、あるいはスポット溶接の箇所を変えざるを得ないといったことだ。さらに、プレスにしても、厚木で試作用に使っているものと、大量生産のための村山の機械とでは、そのできあがり具合が微妙に違っていた。
だが、こうして微細な差があるプロトタイプを作ると、恐るべきセンサーの持ち主である評価ドライバーの加藤博義は、違いをあっさりと発見してしまう。そして言うのだ、「これじゃあ、GT-Rにはならない」と。
開発の時間は無限ではない。甚だしい場合は、設計図も抜きだった。厚木の試作品を、田沼がそのまま村山へ持っていく。このブツで行きたい、これを工場(ライン)で作れる(組める)かどうか、やってみてほしい──。
「ある日突然(ボディに)これ付けたいって、設計担当が持ってくるんですよ」「設計図じゃなくって、段ボール切って、こういうパーツなんだけどって、田沼が来たことがありましたね(笑)」。村山工場の対厚木の窓口になっている工務部技術課の久松太久司は、この頃の田沼の行動をこう証言する。
設計者としての田沼の仕事は、「工場試作」が本格的に始まってからもなくならなかった。栃木の要求レベルのものを、村山の組立ラインで再現する。そのためにはどう設計するか、どう設計変更すればいいのか。それを考え続けなければならなかったからだ。
ひとつの例では、GT-Rはリヤのストラットの下側に、リヤ・ストラット・タワーボードという剛性強化のための板が渡されていた。これを工場のラインで組む際には、その板をトランクの開口部(上)から入れたいと、工場側は言った。それに対応して、二分割して上から入るようにしようと変更したが、栃木にテストをさせると「やはり一体化してくれ」という答が実験部からは返って来る。では一枚で、かつトランクから入れられるようにするには、どういう形状ならいいのか。こういう問題に対応しなければならない。
また、仮にその種の「板」が運ぶのには重すぎるとすれば、アルミに材料置換することが必要になるかもしれない。工場での実際の作業者が、仕事をしやすいようにする。これもまた、設計側に課せられた重要なテーマだ。田沼にとってのボディ設計面での開発終了というのは、彼が設計して村山で組んだものに、栃木がOKを出した時ということになる。
結果的にGT-Rのアンダーフロアは、その形状自体は基準車とまったく同じものになった。だが、その材質と厚さは、基準車とは全然違っていた。ボディサイドの部分も同様に、形状は同じで材質だけが異なるものとした。スカイラインの基準車が流れるのと同じラインで、GT-Rを組む。そのために、田沼をはじめとする厚木のボディ設計陣が編み出した巧妙な作戦であった。
「GT-Rは、ボディでいうと、基準車とはドンガラから全部違ってます。同じ生産ラインの中で、まったく別のクルマを作る。それがGT-Rの方法です」。厚木のボディ設計エンジニア・田沼謹一は、自身の仕事をこう振り返った。
(第17章・了) ──文中敬称略
Posted at 2014/12/16 08:34:10 | |
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90年代の書棚から 最速GT-R物語 | 日記