
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
R33GT-Rの主管・渡邉衡三は、ニュルブルクリンクに先発した実験部のクルーからは一週間以上遅れて、ひとりでドイツへ飛んだ。
新型車を発売する直前の半年間というのは、主管として、さまざまな業務やいろいろなことの決定事務に追われる。対村山工場の問題は、主として主担の吉川正敏に任せていたが、そのほか、カタログや広報資料などの制作の準備や、さらにはどのような形式で新型車を発表するのかまで、主管は、それらのいちいちに最終責任者としての判断を出すことが求められる。
「ニュル」での新GT-Rが、どのような“リザルト”を出せるのか気になりつつも、そこでの最終テストに赴いた実験部のスケジュールとフルに付き合うことは、この時の渡邉は時間的にも不可能だった。
フランクフルトへの直行便のシートに身を沈めながら、渡邉は現地でかなり苛ついているらしい実験部のボス、萩原裕からのファクスによる報告を思い出していた。天気が悪い、そしてコースには、何とガードレール交換の工事が入っているという。全開で回って来てちょうどオイシイというところで、アクセルをゆるめなければならないようなのだ。
渡邉はフランクフルトに着くと、そのままタクシーで、ニュルブルクリンクのドリント・ホテルに入った。街に着いてすぐ、渡邉は萩原の苛立ちの理由がわかった。ニュルブルクリンクは、しっとりと、深くて暗い雨と霧に覆われていたのだ。
ホテルで休む間もなく、クルーが拠点にしているガレージに向かうと、まず渡邉を迎えてくれたのは“コーゾー君”と名付けられたテルテル坊主だった。こんなことをするのは、あいつに決まっている。案の定、その名付け親は加藤博義だった。
ここ一週間以上、ニッサン栃木・実験部の萩原裕を中心とする6人のスタッフは、ただただ「晴れ」を待っていた。あまりにも雨が続くため、川上慎吾はありあわせの板で卓球台を作って、待ち時間対策にしていたほどだ。クルーに時間が余っていたのは、クルマの準備はもうできていたからである。スタッフがいて、態勢も整っていた。ただ、機会だけがなかった。
クルマは村山工場が組み上げた最終型の試作車で、市販時には「Vスペック」と呼ばれることになる仕様である。アテーサE-TSとアクティブLSD、そしてブレンボのブレーキを装備していた。ドライバーは、栃木からの加藤博義。そしてもうひとり、ダーク・ショイスマンがガレージで待機していた。彼もまた、渡邉を見つけると飛び出してきて手を差し出した。渡邉とショイスマンは旧知の仲である。
このショイスマンは、ヨーロッパでずっとレースをやってきたが、欧州のレース界ではうまくステップアップすることができず、結局、欧州ニッサン(NETC)の社員兼テストドライバーというポジションに収まっていた。
そしてレーシングドライバーとして、ここニュルブルクリンクでのR32GT-Rによる24時間レースの経験があった。また、英・独・仏語のほかに、オランダ語とベルギーのフラマン語までも操る“欧州人”で、ニッサンの欧州向け市販車の評価やテストをずっとやってきたのも彼だった。ニッサン車が「ニュル」を走る際は、これまでも常にこの男が現場にいたのだ。このショイスマンが、今回の“ニュル・アタック”でのエース・ドライバーである。
加藤は、「評価ドライバー」と「レーシング・ドライバー」の違いを語ったことがあった。クルマを壊すかもしれないという可能性があっても、他車より前に行くため、またタイムを出すためには、時にはそれを辞さない。そうやって走るのがレーシングドライバー。対して、必ずスタッフの前に無事に帰ってくることを前提に、あくまでも評価のためにコースを攻めるのが評価ドライバーだという。
加藤博義は、鶴見(エンジン)の松村基宏と組んで、3年間の「N1」レース参戦の経験を持つが、はじめのうちはスタート直後の1コーナーでは、「おおっと!……危ないなあ、先へ行かそう」という“レース”をやっていたと、苦笑いしながら明かした。
さて北海道・陸別で、加藤が「これでニュルへ行ける」という結論を出した時、ハードウェアとしてのR33GT-Rはほぼ完成していた。この「ニュル」では、もう「評価」は要らない。必要なのはただひとつ、「8分以下」のタイムだった。
発表前のニッサンのクルマを託せて、しかも「ニュル」をよく知っていて、さらに「タイム」を出せるドライバー。このすべての条件に見合う男は、渡邉衡三の知る限りでは、このショイスマン以外にいなかった。
だが、「ニュル」に渡邉が合流してからも、雨と霧は続いた。全長20kmに及ぶニュルブルクリンクのオールド・コースは、標高差があり、また半分は森の中で、コース内の一部だけが気象が違うということもザラである。そして二日目も、同じような天候のままに暮れた。
「ニュル」でのハード走行は、「インダストリアル・ランニング」という専有時間内に行なわれる。本来このサーキットは、誰もが然るべき料金を払えば走れるというオープンなコースだが、この時間だけはプロフェッショナルのドライバーに限られて、ツーリスト・ドライバーは締め出される。
そして、自動車メーカーとタイヤメーカーだけが、この種の専有時間を取れるというルールになっていた。ニッサンはこの時、ブリヂストン・タイヤの専有によるテスト期間に合わせて、R33GT-Rの「ニュル・アタック」を準備していた。
ちなみに、R33GT-Rに装着するタイヤだが、これはBSのワンメイク(2ブランド)に限定した。開発期間に制約があり、複数のメーカーを導入するとテストしきれないという開発チームの判断からだった。そして単にグリップだけでなく、ウェットや耐久性という要素も入れてBSと共同開発を進めてきたタイヤは、「ニュル」をハードに走行しても最低20ラップは保つというライフ性能も有していた。
渡邉がスタッフに合流して、三日目の朝が来た。実験部は、朝の8時から走れるようにというと、7時前から準備して万全の態勢を取り、ドライバーを待つ。渡邉は二日目と同じようにホテルでひとり朝食を済ませ、ガレージへと向かった。
9月の欧州は、もう冬である。明るくなって、路面が淡い陽光で乾いたこの時間がタイムアタックにはベストだと、栃木のGT-Rスタッフは考えていた。加藤博義がコースを一周して、ガレージに戻ってきた。ガードレールの工事は相変わらず入っている。でも、「いけるんじゃないか」と加藤は言った。
(第23章・了) ──文中敬称略