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2015年01月11日 イイね!

car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その2》

 car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その2》……というわけで、そうした小説にも採り上げられるほどに、この場所(都内南部の環七)と自動車とは、当時“蜜月関係”にあった。そして、少年が通った小学校の校庭は、その「劇場」の観覧席であり最前列でもあった。金網から「いい道」を見ていた少年たちは気づいていなかったが、彼らは連日、50年代後半当時の「新鋭車」が動き回る様子を特等席から見ていたのだ。

そして、そんな“金網”はすぐに、同じようなことをする仲間を引き合わせることになる。少年たちは鉄の網に顔をくっつけ、目の前の直線路を指差しては、それぞれに叫び声をあげた。「ダッジだ、58年型」「あ、新型のシボレー・インパラ、もう走ってる!」「来た、プリムスが」……。

「環七」を走っていく自動車では、まずは、大きくて豪華なアメリカ車が少年たちの目を奪った。それには時代的な理由もあり、ひとつは、50年代末のアメリカ車は巨大な「テールフィン」をボディ後半部に“立てた”奔放かつ華やかなデザインだったからである。そんなテールフィンの高さでいえば、たぶんダッジとプリムスが双璧で、一方でシボレーのインパラ60年型は、そのリヤに、横方向に長い二つのテールランプを配して、リヤビューの全体で、恐ろしく派手な“芸”をしていた。

そして、注目した理由のもうひとつ。それは当時のアメリカ車が一年ごとにモデルチェンジをしていたことである。米ビッグ・スリーはこの頃、「計画された陳腐化」を毎年行なって、新型車をたった一年で旧型に追いやっていた。この頃のアメリカには、そんなメーカーの思惑に応えるだけのマーケットとカスタマーが存在したのだ。第二次大戦・戦勝国の戦後は、それほどに豊かであった。

そんな米車の現状と変化を知るためにも自動車雑誌は必要で、“金網の少年たち”は、誰かが雑誌を持っていれば、それを見ては情報を収集し合った。最新の雑誌を買えるくらいの小遣いをもらっていた少年が、たぶんグループにいたのだ。また、クルマの絵を描くことがとても上手な少年もいた。

私はといえば、最新の雑誌は持ち寄れず、そして、何かクルマのスケッチを描いてそれを友に示すようなこともできなかった。私は自動車のデザイナーになるという夢を一瞬たりとも持ったことがないが、それには単純にして厳粛な理由があった。そう、私はクルマに限らずだが、そもそも「絵を描く」ということがまったくできなかったのである(笑)……。

こうして、多少の時間が経った。“環七ウォッチ”と自動車雑誌のせいで少しだけ目が肥えてきた少年たちは、鈍重な乗用車(セダン)よりも、それより小さくて、俊敏そうで、そしてちょっとフシギな格好をしたスポーツカーを「環七劇場」で探すようになった。私の場合はそれに加えて、排気音とともに疾走する大型二輪車にも惹きつけられた。MG-A、ジャガーXK120、トライアンフTR3、オースチン・ヒーレーとそのスプライト、さらに二輪のトライアンフ、BSA……。こうしたモデルが、少年であった私にとってのスターたちだった。

* 

さて、この小学校の立地には何の変更もないと、先に記した。しかし、数十年後の今日、そこに小学校があるということを知っている人でない限り、いま、この学校を発見することはきわめて困難であると思う。……というのは「環七」側から見た場合、今日では、そこに学校があるという気配は皆無だからだ。

校庭と「環七」がスケスケの金網だけで接していた、自動車ウォッチャーにとっての幸福な時間は長くなかった。正確な時期は知らないが、おそらくは70年代に入った頃であろう(注4)。大量の自動車が走る幹線道路「環七」が発しはじめた走行騒音と、その自動車から吐き出される排ガスから児童を守るために、小学校は高い隔壁で“武装”したのだ。1970年代、環七は「劇場」から「公害」になっていた。それ以後とそして今日、外が見えないであろう塀の中で、この小学校のコドモたちは、校庭でどんな遊びをしているのだろう……。

(了)

注4:小学校の高い隔壁
この小学校のホームページを当たってみると、その「沿革」で、学校に「防音壁」が設置されたのは昭和38年(=1963年)と記されていた。70年代ではなく1963年時点で、つまり「カローラ/サニー」が登場する何年も前に、「環七」はすでに、学校として何らかの対策が必要なほど多くのクルマが走る道になっていたようだ。

(タイトルフォトは、キャデラック・シリーズ62セダン1959年型。トヨタ博物館・刊「BIG3の時代」より)
Posted at 2015/01/11 19:44:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2015年01月11日 イイね!

car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その1》

 car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その1》コドモというか幼少時から、どうも電車やバスなどの動くもの、そしてそれに乗ることが好きだったらしく、その種の“観察記録”は年長者から何度か聞かされた。たしかに、誰かに抱え上げられて──これはつまり、窓の高さに対して身長が不足していたからだが、そうやって抱えてもらえるような年令で、走る電車の一番前の車両で目の前を飛び去る景色を見ていたという記憶はある。

また、九州某所で過ごした幼年時には、船舶の「進水式」に連れて行くと告げると、コドモ(私)はどんな状況でも瞬時に泣き止んだそうだ。見上げると首が痛くなるような巨大な船腹、それに「くす玉」が当たってはじけると、新造の船体が静々と動き始める。この儀式は、今日でも継承されているのだろうか。

ただ、電車でも船でもなく、また飛行機でもなく、コドモであった私が自動車のファンになったのは、やはり小学3年生以降を過ごした、ある学校(東京都内)の立地と関係があっただろうとは、いまにして思う。

その小学校がある場所は、21世紀の今日でも変わっていない。校庭が面していたのは、当時(1950年代)としては幅が広く、よく整備された直線の舗装路だった。その幹線道路と校庭を隔てていたのは金網だけであり、言い換えれば、視界にせよ音にせよ、遮るものは何もなかった。

そして、小学校の校庭から道を見た時の向こう側、道路を挟んだ対岸には大きな建物があった。それが有名光学メーカーで、例の邸宅(注1)から社長を乗せて這い出した“鋼鉄の生き物”は、朝の役目を終えたら、この建物内のどこかで休息を取っていたのだろう。

* 

校庭と接したその「いい道」が「環七」(かんなな=環状七号線の略)と呼ばれていることを、ある日、少年は知った。これは大人から聞いたのではなく、同年代の友が教えてくれたことだったと思う。そしてこの「環七」は、少し南方向に行くと、同じような「いい道」の「第二京浜」(国道1号線)と交叉していた。二本の幹線道路は立体交差で交わっていて、当時の日本の道路ではこのような交差の方式は稀であり、ここが唯一の例だったと、少年雑誌のどこかに書いてあった。(立体交差があるサーキット、あの《鈴鹿》はその竣工が1962年である)

さて、そんな「環七」だったが、実はこの道、当時の自動車とそのドライバーにとっては貴重な“ライブ・ステージ”であったようだ。校庭で金網を掴んで道を見ていたコドモたちには、そこまでの事情は見えていなかったが、1950年代後半から60年代前半、環状七号線と第二京浜国道(国道1号線)は「いい自動車」を持っている人々が好んで走りに来ていた道らしいのである。

このような状況はさっそく、新聞の連載小説にも採り上げられた。阿川弘之・作の『ぽんこつ』がそれで、これを原作とした映画も1960年に製作されている(注2)。この物語では、主人公の青年がようやく手に入れた一台のポンコツ車で、この「環七」に、わざわざ走りに来るのだ。

ただ、この環状七号線がよく整備されていたのは、この光学メーカーのあるあたりから第二京浜国道と交叉する部分に限られていた(はずである)。片側二車線が続く“夢の道路”は、ここから東南方向(大森方面)に向かうと、ある場所でブツッと、その短い夢が終わる。

「環七」道路がとりわけ狭窄になっていたのは、貨物専用の線路(注3)をくぐるガードの部分で、そこは自動車のすれ違いすら困難なほど、道幅が狭かった。(小説『ぽんこつ』の主人公は、このガードで悲劇に遭うことになる……)コドモのくせに何でこんな狭窄部分のことを知っていたかというと、環七~第二京浜~貨物線というくらいの距離と範囲なら、小学校高学年なら、自転車でもあれば十分に行動可能の範囲だったからだ。

(つづく)

注1:「例の邸宅」
https://minkara.carview.co.jp/userid/2106389/blog/c921160/
『小指とスポーツカー』《2》より。
「その頃の『乗用車』とは、少年やその遊び仲間たちとはまったく掛け離れた場で棲息している“鋼鉄の生き物”だった。(略)“黒色の巨大生物”はそこから静々と這い出て、そのリヤビューを見せつけながら去って行った。少年が小学校に通う道すがらにそんな邸宅はあり、噂ではその家は、そこからさほど離れていないところにある有名光学メーカーの社長宅ということだった」

注2:映画『ぽんこつ』
1960年の東映映画。監督は、これがデビュー作という瀬川昌治。主演は江原真二郎で、ヒロインは佐久間良子。脇役陣は、山茶花究、沢村貞子、上田吉二郎、山東昭子、清川虹子、東野英治郎、十朱久雄、小沢栄太郎らが顔を揃える。(未見)

注3:貨物専用の線路
これは当時の「品鶴線」(ひんかくせん)で、品川と鶴見を結んでいたため、この名が付けられていたという。1964年に東海道新幹線を通す際には、この品鶴線の線路(敷地)を使うということがニュースになった。

(タイトルフォトは、キャデラック・シリーズ62セダン1959年型。トヨタ博物館・刊「BIG3の時代」より)

Posted at 2015/01/11 14:24:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
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