2015年12月04日
あるニューモデルが発表されて、それを見た瞬間に「おお、何だこれは? 今年出たxx車にそっくりじゃないか!」と思ったことはないだろうか。そして、A社がB社をマネした? 何ていうことをするんだ!……などと憤ったことは?
ただ、こうした事態が発生した場合、カスタマーもガッカリするかもしれないが、それ以上にガクッとなっているのは、その新型車の開発にかかわったメーカーや関係者であると思う。しかし、なぜ、このようなことが起こってしまうのか?
また、こんな疑問もあるかもしれない。先に他社の新型車が出ていて、自社の新型がそれと似ていることがわかったのなら、あとから出す方は「違えて」出せばいいではないか。なぜ、同じようなものを平気で発表するのだ?……という「?」である。
ただ、これはできない相談なのだ。クルマのデザインは、いくらでも包み直せる「包装紙」のようなもの……ではない。知る限りで言えば、「包装紙」とは最も対極にあるのがクルマのデザイン。時間軸から見ても、新車の開発スケジュールの中で、ごく初期の段階で決めておかなくてはならないのがデザインである。
そうやってクルマの造形が決まったから、ボディの設計が可能になり、その設計図によって、試作のボディというハードが出現する。ボディができたので、今度はそれを使っての「対衝突」や走行テストなど、各種の実験が可能になる。ざっと、こういう段取りである。
つまり、最初にデザイン(クルマのカッコウ)を決めることから、新車の開発は始まると言って過言ではない。逆算すると、クルマのカッコウは新型車のデビュー日の数年前には、もう決まっていることになる。言い換えれば、クルマのデザイナーとは、三年とか四年後に世に出る商品の見た目やカッコウを決めなくてはならない職業ということになる。新車を発表してみて、(あ、似ちゃったなあ……)と落ち込むのは、当の開発陣であろうと想像するユエンである。
では、そうやって何年も前にやったデザインが、まったく違うメーカーであるにもかかわらず、しばしば同じようなイメージになることがあるのは、なぜか? それはもう、「同時代だから」としか言いようがない。
新型車を企画して、たとえば、コンパクト車である、人をゆったり乗せたい、幅は5ナンバー枠を超えない、搭載エンジンは上限でも1500cc、空力対策もほどほどにやる……といった「要件」を並べていく。これは、要するに「時代」の把握であり、それに加えて、販売時期となる数年後の市場状況も想定することでもある。
また、それらに加えて、部品の問題もある。たとえばヘッドライトに新種のタイプや新しい構造のものが使えるようになった。そういうパーツは、当然、新しいカッコウをしている。次の新型車で、その最新のライトを使うことにすれば、その一点でもう、A社とB社の企画中の新型は「共通」してしまう。
「時代」を読み、近未来を展望すればするほど――つまり、作り手がマジメに“学習”して、得たデータを真摯に適用すればするほど、新型車に盛り込まれる「要素」は同じようになっていくであろう。ゆえに、社会的存在であるクルマは、同時代では「似る」のだ。
もちろん、時代性や社会性を一切無視して「クルマ」というブツだけをイメージすれば、同時期の他社製品とは異なるものができるだろう。新型車に入れ込む「要素」のうち、たとえば「空力」を抜いてしまう。こういう場合も同様だ。そうした経緯で出現したブツは、たぶん、どことも違うものになる。ただ、そのように《今日》を外した製品/商品が、果たして市場で支持されるか?
……まあ、クルマは複雑な商品なので(とくに、このニッポンでは!)あえて、そうやって“ハズした”クルマが、逆に一定の支持を受けることはあるかもしれない。しかし、それはあくまでジョークの範囲、もしくは少量販売が前提の場合であろう。量販をテーマに入れてクルマを作れば、同時代は「似る」。これは、時代を超えての、クルマ世界の真理なのである。
(「ワゴニスト」誌 2002年記事に加筆修整)
Posted at 2015/12/04 19:15:57 | |
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