
レースの勝敗や結果は、時にいくつかの「もし……」とともに語られることがある。1967年、F1イタリア・グランプリ。モンツァにおけるホンダの勝利を語る際の有名な「もし」は、やはりあの“オイル”であろう。
レースの終盤、テール・トゥ・ノーズで競り合いを続けたホンダとブラバムは、そのままの態勢でファイナルラップへと突入する。広いモンツァのコースを、ほとんど並走する二台のマシンは、あとコーナー二つを残すというところまで来ても、さらに差のないまま、歴史的な競り合いを続けた。満場、総立ち! ホンダかブラバムか?
そして迎えたコーナーのコース上には、一条のこぼれたオイルのラインがあった。そのオイルに乗って、わずかにヨレたブラバム。一方、セオリー通りにそのオイルの“川”を直角に横切って、乱れなかったサーティーズ/ホンダ。
リードしたホンダは、最終コーナーを4速で立ち上がり、高回転ユニットの長所を活かして、そのままシフトアップせず、5速に入れることなくスロットルを踏み切る。1位ホンダ、2位ブラバム。その差、0秒2。F1史上稀に見る僅差だった。
もし、オイルがこぼれていなかったら? もし、5速に上げていたら? そして、4速でのエンジン回転の伸びが十分でなかったら? 最もドラマチックなF1グランプリのひとつとして語り継がれてきた「67年モンツァ」は、これらの「もし」を超えて、ホンダの劇的な2勝目として、人々の記憶に長く残っている。
1965年メキシコGPでのホンダの初勝利。ドライバーはリッチー・ギンサー。そして、このモンツァ。勝ったのはフェラーリを追われた男、名手ジョン・サーティーズ。(1964年のF1チャンプ)1968年でいったんF1から撤退してしまうホンダの、第一期挑戦時代における金字塔として、この時の「RA300」による優勝は、日本自動車史上に残るリザルトでもある。
ただ、この「67年モンツァ」は英国サイドから見ると、また、別の「もし」があるようだ。このレース、実はポールシッターがパンクのためにピットイン。そのため、1周以上の遅れというハンディキャップを負いながら、なお、リザルトとして3位で終えているのである。
イタリアで、凄いレースをやった男がいる。英国ではそのように、この「モンツァ」は今日に至るまで語り継がれているという。その男の名はジム・クラーク、マシンはロータス。そしてエンジンは、1991年のいまに至るまで戦闘力を保ち続けている、あのフォードDFV。そう、1967年とは、この「DFV」のデビューの年なのだ。
1965年、1・5リッターF1最後の年の最終戦にホンダが勝利して後に、レギュレーションが変わった。エンジンは3000cc。66年からF1はこの規格となり、その時同時に「過給1・5リッター以下」も許された。F1とはターボなり……という“芽”は、この時にまでさかのぼるわけだが、実際はターボエンジンは80年代まで、F1で闘えるレベルになることはなかった。
ついでに言うと、ターボF1時代になって、そして2リッターのF2が消滅して、“余って”しまった(それだけ使われていた)3リッターのDFVエンジンを活かすためのカテゴリーとして生まれたのが、今日にまで至る「F3000」なのである。(現在ではDFVではちょっと勝ち目がないが)
「モンツァ」に話を戻せば、ホンダ vs ブラバムという闘いになる前、首位を走っていたのはジム・クラーク。ピットインした後には、僚友グラハム・ヒルをスリップストリームに入れて引っ張り、ヒルのリタイヤ後も快走を続けて、レース終盤には三番手にいたというわけだ。“フライング・スコット”(空飛ぶスコットランド人)の面目躍如である。
そして、そこまで行って、なおかつ、このレースに「勝たない」のがクラークだった。速すぎたロータス・DFVは、最終盤でガス欠状態となり、スローダウン。その後に、前述のようなホンダ・ブラバムの名勝負になるのだ。
この年(1967年)、グランプリで最も多く勝った男はジム・クラーク(4勝)。では、年間チャンピオンはと言うと、ブラバム/レプコのデニス・ハルム。これが、この年のもうひとつのリザルトである。
そして、この「RA300」をめぐる、もうひとつの大きな「もし」がある。「RA273」というマシンに、もし、十分な戦闘力があったら、この「300」が急遽誕生して、イタリアGPの直前にモンツァに運び込まれ、そして……というドラマもあり得なかった。
(つづく) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌1992年 コンペティションカー・シリーズ より)
Posted at 2016/01/19 20:29:22 | |
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