
そして、結果もともかく、それ以上に見る者を魅了したのは、「R381」による“翼のダンス”だった。このウイングは「動いた」のである。しかも、左右が別々に! たとえば「富士」のヘアピン。ここに現われた「R381」の羽根は、左コーナーに合わせて、中央で分割された左半分だけが「立った」。そして、クリッピングポイントから加速状態に入るとウイングは元に戻り、ふたたび一枚の羽根となって、クルマはコーナー出口に向けて立ち上がっていく。「鳥のようだ……」と誰かが言ったが、その通りだった。
「R381」は“羽ばたくレーサー”だったのだ。自動的に、各コーナーごとに、そのウイングはカタチを変えた。目的はもちろん、コーナリング時のダウンフォース(地表へ車体を押しつける空気の力)を高めるため。ヘアピンカーブのような速度の遅いコーナーでは、とくに効果はないかもしれないが、当時の富士スピードウェイにはバンクもあり、高速(150 ㎞/h 以上)コーナーだらけのサーキットであった。
コーナリングでクルマの外側に荷重が移る時、内側のタイヤに下向きのチカラを与える。そのための、左右二分割だった。そして、その作動は、クルマのロールを検出して行なったといわれる。ロールで油圧を発生させ、ロールした側とは反対側のウイングを動かした。これは画期的だった。そして、世界唯一だった。
1966年にアメリカのレース・シーンに登場して以後、ウイングはすぐにその効果を発揮した。「シャパラル」というレーシングカーが、その“怪鳥マシン”の最初だった。そしてスポーツカー・レースだけでなく、F1マシンにも波及したが、羽根はすべて固定されていた。(シャパラルは「可動」を試みたことがある)
1968年という時点で、レース界の最先端テクノロジーであった「ウイング」を、いち早く採り入れた「R381」。そして、ただ羽根を付けるだけでなく可動方式に挑み、さらに分割して別々に動かそうとしたマシンは、この「R381」だけだった。F1シーンでの最初のウイング付きマシンは、1968年8月のベルギーGPに使われたフェラーリだったが、「R381」はこれよりも早く実戦に使われ、そして勝利したことになる。
ただ、圧勝したかに見える1968年「日本グランプリ」だが、そのニッサンの勝利はタイトロープを渡るようなものだった。実績のあるエンジンということで確保したシボレーV8は実はトラブル続きであり、耐久性も懸念されていた。またテストも十分にできず、本番の二日前でも、チームはまだ「富士」に入ることができなかった。「ニッサンは出ないのか?」──こんな声さえ、関係者の間では出ていたほどだ。
3台の「R381」のレースは1台が残って勝利したものの、2台はマシントラブルでリタイヤした。ウイニングマシンのカーナンバー20も、レース終了後のチェックで、クランクシャフトにクラックが発生していたことが発見されている。
また、“羽ばたくウイング”も、もしトラブっていたら大変だった。可動状態でコーナリング・フォースを高めてくれているものが、もし、急に消えたら? これは即ちアクシデントである。早くレースが終わってくれ……と製作サイドが祈っていたというのは実感であっただろう。
さらにこのウイングは、ブレーキとも連動させてあり、ブレーキング時には「立てて」エアブレーキの機能も持たせてあったのだが、これまた、トラブルが出なくて幸いだったというところ。「R381」によるニッサンのグランプリ奪取作戦は、さまざまな意味でリスキーだったということが、いまにして見えてくる。(それを一番知っていたのがニッサンで、だからこそ、同じレースに3台も出場させたのだろう)
だが、確実にいえることがある。1968年の「日本グランプリ」に対して、ニッサン・ワークスはとにかく「攻めた!」ということだ。より新しく、より速く、よりチャレンジングに! この「攻め」の姿勢がウイナーの座をニッサンにもたらした。運もよかったとはいえるが、しかし、幸運は奪い取るものでもある。
富士スピードウェイ一周6㎞(当時)を80ラップ。480キロをひとりのドライバーが走り、途中の給油もありで、しかも種々の排気量やカテゴリーのマシンが一緒に走る。「日本グランプリ」の1968年の闘いは、こうして終わった。
レーシングカーの「ウイング」は1969年に禁止された。そして、1970年6月8日。ニッサンは「日本グランプリ」への出場中止という声明を発表した。
(了) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/22 18:21:27 | |
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