
さて、前述のように、後に輝かしい栄光に包まれることになる「MP4」系だが、そのスタートも、なかなかドラマチックだった。まず、それまで航空機の素材でしかなかったカーボンファイバーをモノコックに用いて、他のどのクルマとも違うマシンとしてF1界に登場した。今日のF1の“黒色のシャシー”は、実はこの「MP4」(/1)に始まるのである。
そして、このシャシーは戦闘力があった。1978年から1980年まで勝利ナシだったマクラーレンを、1981年のイギリスGPで勝たせた。1982年には、ドライバーのジョン・ワトソンにシリーズ3位の座をプレゼントした。
そんなマクラーレンのもうひとつのエピソードは「ニキ・ラウダ」である。大事故後、引退状態にあったこの名ドライバーに、一流好みの(?)ロン・デニスが復帰を強く求めたのだ。ともかく乗ってみてくれ、というわけで、1981年・秋にラウダがテスト。MP4でサーキットを走ったラウダは、このクルマなら!……とカムバック要請に応じた。
そして、1982年のロングビーチGPで、さっそく勝利。ラウダのマクラーレンは、ノンターボのフォード・エンジン(DFV)で、フェラーリやルノーのターボ・パワーに、シャシーによる闘いを挑んでいく。そして1984年はTAGポルシェ/V6ターボ・エンジンを得て、ラウダは5勝(僚友プロスト7勝)。一度引退したドライバーのチャンピオン獲得という“不死鳥伝説”をF1の歴史に残すことになった。
──マクラーレンMP4/5B。1991年のチャンプ・マシン、アイルトン・セナの愛機。このシャシーナンバー「4」は、初戦のアメリカGPでティレルのジャン・アレジとバトルを演じて勝利し、モナコでも勝ち、シーズン後半はセナのスペアカーとして使われたクルマそのものである。「MP4/5」は、さすがビッグチームのマクラーレンらしく7台が作られたが、その中でも劇的なリザルトを持っているマシンだ。
シャシーとしてのこの「5B」は、その名の通りに「5」の改良型。そして、「MP4/5」が、あの「MP4/4」(年間15勝!)のリファイン版。言い換えると、ホンダ・パワーの大いなるヘルプもあっただろうが、ともかく3年間、F1で通用した“名シャシー”であると評価できる。そのようなスグレものである「MP4/4」は、ロン・デニスの長年のパートナーであったデザイナー、ジョン・バーナードのマクラーレンへの置き土産である。
カーボン・モノコックをF1に持ち込んだジョン・バーナードは、1988年初頭にフェラーリに電撃移籍した。彼の手になる89年仕様フェラーリは、例のセミ・オートマチックをF1に導入したほか、大きなサイド・ポンツーンや特異なノーズ形状など、またまた新たなトレンドをF1世界にもたらした。そして熟成の1990年シーズンでは、そのフェラーリは「MP4/5B」の最大のライバルとなる。
この年、マクラーレンは確かにチャンピオンになったが、コンストラクターズ・ポイントでは121対110点と僅差だった。年間6勝を挙げたマクラーレンだが、しかしフェラーリもプロスト5勝、マンセル1勝で優勝回数は同じだ。ドライバーズ・ポイントでも、セナとプロストは大接戦となった挙げ句に、「鈴鹿」のスタート直後、両車の“絡み”で決着がついたのはご承知の通り。
1980年代後半以降で、優勝請負人をもし探すとすれば、ドライバーではアイルトン・セナ、アラン・プロスト。そして、それをデザイナーで見るなら、明らかにジョン・バーナードということになる。マクラーレン、フェラーリでその手腕を発揮し続けた彼は、いま、ベネトン・チームにいる。
ジョン・バーナードによるベネトン「B191」は、既に実戦デビューの時を待っている状態で、この堅実な才人はまたしても、F1マシンにニュー・トレンドを持ち込もうとしている。それは、コースによってマシンのノーズを付け換えるアイデアであるという。やはり、バーナードの仕事には目が離せない。
少しでも停滞していたら、すぐに出し抜かれる。それが「F1」である。王者マクラーレンの歴史も、そのことを語っている。勝ち続けることは、至難の業。現に1976年のチャンピオン・チームであるマクラーレンが1978年には未勝利になってしまい、それが1980年まで続いてしまった。ロン・デニスが王座をどう維持していくか。そして、かつての僚友ジョン・バーナードが何を仕掛けるのか。フォーミュラ・ワン頂点決戦への興味は尽きない。
(了) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/31 07:50:21 | |
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