
……急いで読者に報告しなければならないが、ひとつ早トチリをしてしまった。この書「 THE FORD CENTURY 」では、草創期フォードの「AからSまで」のモデルについて、まったく無視していると書いたが、実はそうではなかった。読み進んでみると、後半の技術史を語っているパートで、この時期のモデルについて、そしてこの時期の組織改変についても触れられていた。
まず、フォード社による最初の「フォード製品」は1903年の「A型」で、2気筒の8馬力エンジンを搭載。これには「15歳の少年でも運転できるほど簡単操作」という広告コピーとともに、850ドルのプライスタグが付いていた。
その後、フォード社は1905年までに1808台の「フォード」を売って、株主には配当金を出し、新たに三階建ての工場を建てた。つまり、新生フォード社は上々のスタートを切ったということであろう。そしてその間、車種も揃えている。「ご好評にお応えして、お客様それぞれのご要望を満たすべく、フォード・モデルの製品ラインをすべて取り揃えています」というのが、その時の広告コピーだった。
おそらく、ここまではフォードも、当時のそのへんによくあるようなカー・メーカーだったのではないか。ただ、「AからSまで」の間にはいくつか実験モデルもあったが、ヘンリーだけはその間、彼としてのテーマを持っていた。その彼のテーマが「より多くの人々のための経済的なモデル」を作るということである。
ただし、これは当のフォード社の中でも多数派ではなく、社内には異見があったという。共同出資者のマルコムソンは、K型(2800ドル)やB型(2000ドル)のような利益の高い高級車を作るべきだと主張して、ヘンリーに反対した。それがどのくらい本気だったかというと、マルコムソンは自身で別会社を起こし、豪華なツーリングカーの製造を始めたことで知れる。
しかし、彼が押したK型は910台しか売れず、マルコムソンは持ち株をヘンリーに売却して、他の株主もそれに倣った。これが1906年のことで、この結果、ヘンリーが58%以上の株を持ち、フォード社の主導権をヘンリーが握るという体制になる。
そんな新体制から生まれたのが「N型」だった。小型にして軽量、エンジンは4気筒で、価格は600ドル。そしてこれは画期的な自動車であり、初の給油式で、エンジンとミッションを備え、ワイヤーハーネスも整えられていた。この「N型」はヒットし、「その価格で入手できる最高級車として、瞬く間にセンセーションとなり」(「 THE FORD CENTURY 」)、1906年から1908年までの一年半で、業界の記録となる6930台を販売した。
「N型はヘンリーがめざしていたクルマだった。N型は小型で耐久性に優れ、軽量で、価格の割りには高性能であった。しかし、四~五人乗りのサイズではなく、最高三人までしか乗れなかった」という交通歴史学者ボブ・ケーシーの言葉を、「 THE FORD CENTURY 」は載せている。さらに彼は「N型を改良しようと実践を重ね、後続モデルに完璧なクルマを求めて研究を続けた」として、T型とのつながりに言及する。
なるほど! やっぱりT型への“導線”となるようなモデルはあったのだ。(これは、日本の1960年代トヨタにおける、パブリカとカローラの関係にちょっと似ているかもしれない)そして、もうひとつ明らかになったのは、ヘンリーという人は最初から、コンパクトで実用的な、そして廉価なクルマを作ることを考えていたこと。この発想とそこからの実践は、当時の状況を想像すると、やはり驚きに値すると思う。
……というのは、図らずもフォードの最初の共同株主マルコムソンがそうであったように、「高価なものを売ろうよ!」……となるのが、当時の普通の戦法のはずだからだ。草創期のフォード自身も、そのようにラインナップを揃えている。クルマというものが2800ドル(K型)とか2000ドル(B型)するのが普通であった(と思われる)時代に、しかし、ヘンリーがイメージして実作したのは、A型にしてもN型にしても、どちらも“アンダー1000ドル”カーだった。
そして、N型をベースに、その「ユニバーサル・カー」化を計ったのがT型で、このT型を大量に作るために考え出されたのが、後に量販車製作メソッドのスタンダードになる「流れ作業」である。
安いクルマだったから売れたのか、量産して安くなったので、多くの人が買ったのか。これはニワトリとタマゴの関係に似ているかもしれないが、廉価車を作って、それを売って、なおかつ儲ける(会社を存続させる)ためには、安価である分、そのクルマを数多く売らねばならない。
一方で、その「量販」を確実にして、その販売を加速するためには、単にクルマを安価にするだけでは、おそらく足りない。ヘンリーが非凡であったのは、ここで「廉価車」にこそ、新技術やハイ・クォリティを投入するという方策を採ったことだ。このヘンリー・フォードの果敢にして大胆な戦略が、クルマとその世界を変えた。
『自動車の世紀』(折口透)では、「モデルT」の“新しさ”について、「クルマは金持ちのものであるという常識を打破。大衆に手の届く価格を設定。安価、軽量かつ頑丈、誰でも取り扱える」と語り、加えて、「低価格車だが、惜しみなく最新の技術を投入。フレームに、当時は珍しいヴァナジウム鋼を使用。一体鋳造された4気筒エンジン。シリンダーヘッドは取り外し可能でオーバーホールが容易」だったと、当時のフォードとそのT型を評している。
そして「 THE FORD CENTURY 」によれば、1908年に新しい自社工場をピケット・アベニューに設立。これは「ユニバーサル・カー」の開発を目的としたもので、同じ年の10月に、T型の生産体制が整ったとしている。
その「T型」は、当時、最も軽量かつ小型で、その重量に対しては強力なエンジンを積んでいた。そして、スクリュー・ドライバーと数本のレンチ、さらにペンチがあれば修理できる簡潔な構造で、これはその頃「サービスステーションがほとんど無かったため、簡単で、手早く修理できることが重要だった」(ブライアン・フォード)からだった。
それは「高さがあって、角張っていた地味な」クルマであり、「人々は親しみをこめて『ティン・リジー』と呼んだ」。ティンは“ブリキの”という意味で、「リジーは、信頼のおける優れた使用人を指す俗語」であるという。つまり「ティン・リジー」とは、ブリキ製でチャチだけど、でも極めて有能な、とても信頼できる、わが家の執事……といった意味になるのだろうか。
○タイトルフォトは、1906年フォードN型ランナバウト。「 THE FORD CENTURY 」より。
(つづく)
Posted at 2016/03/15 17:40:15 | |
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