2016年09月05日
東京のOL岡島タエ子の、農業体験付き山形旅行。その最終日に、事件は起きた。
ホームステイ先の本家の茶の間。座卓の上で、何かを混ぜているタエ子。ホイップクリームか。もう食事は済んでいて、何かデザートを作ろうとしているのかもしれない。そんなタエ子に、本家のばあちゃんが声をかけた。
「帰ってしまうのか、明日」
「はい。長い間、ほんとにお世話になりました。おばあちゃんもお達者にね」
「ありがとうさま。タエ子さん、あんた、ここが好ぎか?」
「ええ、とっても。もう、すっかり、自分のふるさとみたい」
そして本家のばあちゃんは、本当に東京よりここがいいと思っているのかと何度か確認した後に、タエ子に言った。
「タエ子さん。あんた、来てくれねえべか、トシオのとこさ」
「え?」
本家の息子とその妻が、ハッとして振り向く。
「ミツオが東京の人になってしまったから、ここが気に入っているあんたが、代わりにトシオの嫁に来てくれるっていうのは、どうだべ」
慌てる息子とその妻。
「ばあちゃん!」「ヤブから棒にほだな。タエ子さんがびっくりしてるでねえかや」
しかし、ばあちゃんは動じない。
「考えておいてけろ。な、タエ子さん」
あまりにも想定外のことが起きたのだろう、タエ子は声が出せない。そんなタエ子を気遣いつつも、本家の人々は彼らだけでやり合う。
「気にしないで下さい、冗談ですよ。な、冗談だべ、ばあちゃん」
「いいや、オレはマジメだ。お前たちだって、そうなってもらいたいんだべ」
「そりゃ、そうなってもらいたいよ。でもよ、タエ子さんは東京の人だって、アタマから決めてたからよぉ……」
「でもよ、タエ子さん、ここば気に入ってるんだし、野良仕事もがんばるし。見ててとっても気持いいもんなあ」
こう言った息子の妻が続けた。
「そりゃあ、トシオさんとこさ来てくれたら、こんないいことないけんど」
「何いうんだ、お前まで。タエ子さんに失礼でねえがや。タエ子さんは東京に、れっきとした勤め口があるんだし、トシオは年下でねえか」
「あら、勤め口なら山形にもあるでねえの」
そして彼女は、ばあちゃんの隣に座り込む。タエ子は、クリームを混ぜる手を休めないが、しかし、相変わらず、何も言えないでいる。
「タエ子さん、怒らないで聞いて。いまの農家の若い嫁さん、みんな勤めに出てんの。だから……」
「何で、急にこんな話はじめるんだ。タエ子さんは、休暇を楽しみに来てるんでねえか。それもたったの二回だぞ」
「んだら、あんたは反対?」
「現実的に考えろっていってるんだ。第一、トシオの気持ば、聞いでもみねえうぢに。ばあちゃんは」
息子に言われたばあちゃんは、間髪を入れずに断言した。
「ほだなこと、トシオば、ひと目見ればわかる」
わが意を得たりと、妻も言う。
「んだよ。あんたみたいに先回りして、ダメだって言ってねえで、タエ子さんの気持ば、聞いてみ……」
──ここで、タエ子は立ち上がった。そして、呼び止める声を振り切り、外に向かって走っていく。
残された息子は、「ほれみろ、ものにはな、順序ってものがあるんだ」と母(ばあちゃん)を責めるが、ばあちゃんは落ち着いている。
「オレは、悪かったと思ってねえよ」
食卓には、タエ子が調理しかけたボウルの中の白いクリーム、泡たての器具、缶詰のみかんを開けたものなどが残された。氷水の上では、白いクリームがいっぱいのボウルが揺れている。
夜の道を歩くタエ子、ナレーション。
「農家の嫁になる。思ってもみないことだった。そういう生き方が私にもあり得るのだというだけで、ふしぎな感動があった」
「“あたしでよかったら……”、いつか見た映画のように、素直にそう言えたらどんなにいいだろう」
「でも、言えなかった。自分の浮ついた“田舎好き”や、真似事の農作業が、いっぺんに後ろめたいものになった」
「厳しい冬も農業の現実も知らずに、“いいところですね”を連発した自分が恥ずかしかった」
「私には何の覚悟もできていない。それをみんなに見透かされていた。いたたまれなかった」
空でカミナリが光り、雨が降って来た。その時、タエ子は、ある声を聞く。
「お前とは、握手してやんねえよ!」
ハッとして振り向いたタエ子の前には、10歳くらいの少年がいた。少年は鼻くそをほじりながら、お前の顔なんか見たくないとばかりに、憎々しげに顔を背ける。さらにタエ子は、同級生、つまり小学5年生の女の子たちのヒソヒソ声を聞いた。
「ねえねえ、今日、アベ君が着てたシャツ、4年の時、田中君が着てたやつよ」「アベ君てね、アヒル当番の時、エサのパン、おうちへ持って帰るのよ」「アベ君の手のひら見た? すごいわよ」「よかった、隣の席じゃなくて」「先生に言って、席替えしてもらいなさいよ」「ねっ、タエ子ちゃん」
「私……、私は平気よ。そんなこと言うの、アベ君に悪いわよ」
「平気なの? なによ、いい子ぶってさ!」
……現在、つまり27歳のタエ子の額に汗が浮いていた。目の前に突如現われた少年は、「ぶっとばされんなよ!」と、もう一度悪態をついてタエ子に背を向け、肩を揺すりながら去って行く。
(つづく)
◆今回の名セリフ
* 「タエ子さん。あんた、来てくれねえべか、トシオのとこさ」(本家のばあちゃん)
* 「ほだなこと、トシオば、ひと目見ればわかる」(本家のばあちゃん)
* 「私には何の覚悟もできていない。それをみんなに見透かされていた。いたたまれなかった」(タエ子)
Posted at 2016/09/05 16:12:59 | |
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