
タエ子とトシオの「縁談」は、ばあちゃん独りだけの先走りなのか。それとも、実はばあちゃんだけが「事実」を見ていたのか。この点は、この段階ではどちらとも言えないのではないか。
たしかに、タエ子とトシオは一緒に農作業をして、二人だけの蔵王デートもした。ただトシオとしては、「東京から来た若い女」を“田舎人”として、しっかり「もてなしたい」のだろうし、またタエ子にとってのトシオは、憬れの「農業世界」に導いてくれて、さらに、いろいろなことを教えてくれる。そんな“お役立ち”の青年だという気配もあった。
そもそも、トシオ、そして(縁談を言い出したばあちゃん以外の)本家の人々は、タエ子が「東京人」であるということを大前提に、彼女に接している。山形に来てはくれるが、しかし、十日もすれば、また東京へ帰っていく人ということである。
また、トシオにとってのタエ子は、秘かなアコガレの人であったのかもしれないが、もし、それを意識してしまったら、また構わず「恋して」しまったら、タエ子が東京へ帰った後は、ただ寂しく辛い時間が過ぎるだけになる。アコガレの人だから一緒にいるのは楽しいけれど、しかし、そのアコガレは、自分に対しても隠しておかねばならない(認めてはいけない)もの。これが駅でタエ子と出会って以後の、トシオの立ち位置と姿勢だったはずだ。
一方、タエ子はどうだろう? 「10歳」の頃と「27歳」の時点と、これら以外の彼女が一切描かれないので想像するしかないのだが、たとえば、いわゆる恋愛経験やその挫折は、27歳まで、タエ子にはほとんどなかったのではないか。そして、結婚という状況が身近になったことはなく、だから、それについてのリアリティもない。奨められた見合いも簡単に断わってしまう。
また、同性の友人関係だが、タエ子が十日間も東京から“消える”に際して、彼女が友だちの誰かに連絡を取った気配はない。もちろんこれは、ストーリー上で煩雑になるために、実際には何人かに先の予定は伝えていたが、たまたまそれは画面としては描かれなかっただけかもしれないが。
ちなみに「1983年」という時点では、携帯電話はまだ出現していない。(レンタルの開始が1985年からだそうだ)
そして、タエ子がナオコに語った、エナメルバッグ~父親によって頬を張られた件。また、トシオに語った分数の割り算がわからなかった件。あるいは、夕陽の中で二人に語った、学芸会での好演~劇団への誘い、その夢が父親のひと言で断たれたこと。これらを、タエ子はこれまで、友だちでも恋人でも、自分以外の誰かに語ったことはあったのか。
これは家族間でも同じで、姉(次姉)が当事者だった“エナメルバッグ事件”にしても、その後に、家族の間でこれが話題に上ったことがあったとは思えない。(同じ「小学5年生」の時の事件や記憶でも、硬かったパイナップルとか、熱海の温泉でノボセた件などは、タエ子にとっては「傷」にはなっていない。ゆえに27歳にもなれば、「あの時は……」と、姉たちと一緒に笑い話として愉しんでいる)
トラウマとは「精神的外傷」とか「心的外傷」などと訳すらしいが、エナメル・バッグ、父親の殴打、分数の割り算、また、芸能界断念といった事件や記憶は、すべてタエ子にとってのトラウマだったはずだ。そしてそれらは、思い出すことさえしないように、また簡単には記憶を取り出せないようにして、ココロの奥底に仕舞って(秘めて)おいた。
そうであったのに、何故タエ子は、そんな「過去」(トラウマ)を、山形の地で、さらには会ったばかりのトシオやナオコに、告白に近いカタチで公開していくのか。
タエ子が山形へ向かう列車の中で薄々感づいていたように、彼女に「サナギの季節」がふたたび巡ってきたからか。彼女にとっての“第一次サナギ症候群”が小学校5年生の時だったとすれば、27歳のタエ子は、図らずも第二次の“サナギ症候群”の中にいる? そして、そんな“症候群”をもたらす「触媒」となったのが、寝台列車、本家の人々の畑での笑顔、紅花の手に痛い感触。さらには、山形の田園風景と、そこで出会ったトシオのストレートさだった?
……あ、「クルマ屋」のひとりとしては、それらに、トシオが出迎えに乗ってきたのがスバルの「R-2」だったことも付け加えたい。あの時、駅前でタエ子を待っていた、木訥な佇まいの白いクルマ。そのスバルがタエ子のココロに、ポッと小さな灯火のようなものを灯したと思いたい。
さて、タエ子がばあちゃんに「縁談」を持ち出され、たまらず、本家を飛び出してしまった場面に戻ろう。
この時に、たとえばタエ子がトシオに何の関心もなかったなら、残念ながらそれはちょっと……と言えば、それで済むことだったのではないか。一方、「え、トシオさんがそんなこと言ってるんですか?」であれば、「じゃあ、ここに呼んでくださいな」と、まずはトシオの気持ちを確かめる。ちょっとダイレクトすぎるかもしれないが、これはこれで、タエ子にとっては確認と区切りになったはずだ。
しかし、話はそのようには展開しなかった。
そもそも、タエ子は何故、「耐えきれず」に、縁談話の茶の間から去ってしまったのか。このことに思いを巡らせると、この映画の鋭さと非凡さが改めて見えてくる。
(つづく)
Posted at 2016/09/07 01:23:04 | |
トラックバック(0) |
クルマから映画を見る | 日記