2016年09月17日
卓抜なエンディングだ。そして、「幻の子どもたち」に引っ張られるような格好で、タエ子は東京へ行く電車から降りたのに、トシオに会うと、「子どもたち」にはロクな挨拶もせずに彼らを置き去りにするのが、ちょっと泣ける。ラスト、呆然と佇む「5年生のタエ子」は、その寂しさに涙をこらえていたのではないか。
さて、タエ子が電車に乗ってからはセリフが一切ないので、そこから先は「妄想」するしかないのだが、まず、何故タエ子は、東京へ向かった次の駅で、電車を降りたのか。これはタエ子が、本家のおばあちゃんに一度「返事」をしたかったからだと、私は思う。
ホームステイの最後の晩、縁談話が出た時に、タエ子はただ黙っているだけで何の意思表示もしなかった。そして、帰りの駅のホームで、見送りに来てくれたばっちゃんは、彼女にもう一度言った。「あのこと、考えててけろな。タエ子さん」
優しいばっちゃんは本気なのだ。適齢期の娘だから、ちょっと声をかけてみたとか、そういうのではなかった。対してタエ子は、いやも応も、また可能性のある/なしにしても、訊かれたことについて何もコメントをしていない。(これは、いけない)……と、タエ子は気づいた。
タエ子は「対トシオ」ということでは、駅のホームで、今後のことについては一応の話をしている。トシオは、スキー客としてタエ子がまた来ると思っているし、タエ子は、次に冬、トシオに会ったら農業の話をしようと決めている。二人はまだ、そのような「仲」だ。
ゆえに、高瀬駅まで戻った時にタエ子が最初にしたのが、本家への電話だった。この時は本家のお母さんが受話器を取ったが、そこでタエ子は、「あの件について、おばあちゃんに返事をしたくて」とでも言ったのではないか。「私、お話ししたいので、一度、本家に戻ります。……あ、ここですか、駅前の公衆電話です」
そして、様子を察したばあちゃんが、トシオに声をかけた。この時トシオはタエ子の見送りのあと、ばあちゃんたちと一緒に本家に戻って、そのまま庭にいたのだろう。
「タエ子さんが駅に戻ってきたって。お前、迎えに行くか?」
もちろんトシオは、「行きます、行きます!」と答えたのだろうが、ただ、これはたぶん、タエ子が電話を切った後ではないか。そういう段取りになったことを、タエ子はおそらく知らない。
だからタエ子は、駅前で誰かを待つことはなく、路線バスを使って、自力で本家に向かおうとした。そして、そのバスとトシオのスバルがすれ違い、互いに気づいて……というのが、セリフなしの画面で描かれた状況だったのではないか。
もしもの話だが、タエ子が既にトシオに「恋して」いて、彼の腕の中に飛び込みたくて高瀬駅に戻ったのであれば、駅から直接トシオのところに向かえばいいと思う。また本家に連絡を取るにしても、トシオを呼んでくれと頼むのではないか。しかし、そういう“恋愛状態”ではないので、タエ子は本家に連絡した。その後に、バスから降りたタエ子とスバルで来たトシオが出会った時でも、二人はまず、互いに深く一礼している。
そして、「幻の子どもたち」(これはたぶん、トシオには見えない。だからトシオはイタズラ小僧に転ばされそうになった)を置き去りにして二人が向かった先は、ばっちゃんの待つ本家であっただろう。
「農家の嫁になる、私にも、そういう可能性がある。こんなこと、私、一度も考えたことがなかったんです。だから、ただただ驚いてしまって、何もお応えができなくて」
「あ、いまでも、何の覚悟もできてないということでは、あの時とまったく同じなんですけど」
「でも、考えてみます、私。田舎のこと、農業のこと。そして、トシオさんのことを、もっと……」
タエ子は、大好きなおばあちゃんに、このような話をしたのではないか。この時のタエ子は、成虫の立派な「蝶」となっていたかどうかはともかく、少なくとも十日前に紅花を摘み始めた頃の“サナギ状態”ではなかった。タエ子は山形の田舎で脱皮し、ひとつ「殻」を破っていた。
また、タエ子のいくつかのトラウマは、トシオという存在によって、それが「傷」ではなくなった。これから先は、もし、タエ子の前に「小学5年生の私」が登場しても、パイナップル事件のように単なる「過去」として、家族や友と一緒にそれを迎えられるようになるのだろう。
ただし、たとえば数年後に、タエ子とトシオの二人がどうなっているかは、まったくわからない。何といっても二人は、「知り合い」になって「十日」が経っただけなのである。田舎の生活、また、生きものを相手にする仕事、そして、そんな農業の辛さとおもしろさ──。何よりタエ子は、自身のトラウマはいくつか“溶けた”かもしれないが、トシオという青年については、まだ何も知らないに等しいのだ。
(了)
Posted at 2016/09/17 15:28:59 | |
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