
このクルマは、他の初期ホンダ車のように“過剰なほどのオリジナリティ”を抱えたものではなかった……かもしれないし、また、世界初やわが国初といったものが満載というホンダ車でもないだろう。しかし、国内で二番目というポジションに成長した「今日のホンダ」の原点を探るなら、モデルとしては、1972年登場のこのクルマに行き着くのではないか。このシビックの成功が、汎用エンジンも含む、総合自動車メーカーとしてのホンダの基盤となったのだ。
歴史に「if」はあまり意味はないが、しかし、もし1970年代の本田技研に、この「シビック」がなかったら? ……ホンダはレーシング会社として「フェラーリ」的な製造者になったかもしれないが、ただフェラーリは、フィアットというスポンサーなしには成立し得なかった“メーカー”とも言える。やはり、この1972年のシビック。そして、その2年後のアコードの成功が、独立独歩を好み、「レースもやるが、市販車も作る」というホンダ独自のスタンスと歴史を支えたのである。
この初代シビック、その基本アイデアのベースとなっているのは、1959年の「ミニ」に始まる欧州のコンパクトFF車であろう。そしてホンダとしては、既に1960年代に、軽自動車規格でN360を製作し、その後も、ほとんど「社是」としてFF車を作っていた。その意味では、シビックがホンダで生まれたのは、一種の必然であったのかもしれない。
ただ、シビックではひとつ、それまでのホンダとは違う画期的なクルマ作りが行なわれた。それはたとえば、搭載エンジンの選択にも現われ、シビックの場合、案件に上って、実際にも(短いコースではあったが)テスト走行するという中から、最も排気量が大きいエンジン(1200cc)が選択された。「回転」で走るのではない、クルマは「トルク」で“動く”のだという主張と姿勢である。
これによってドライバーは、「回して乗る!」という(それまでの)ホンダ車的な使い方をしなくてもよくなった。また、2ペダルのオートマチック車で走らせても、十分に俊敏なクルマになる。そんなニュー・エイジのホンダ車としてまとめられたのが、シビックであり、このコンパクト車が“トルクで走る”ホンダ車の元祖ともなった。
そして、もうひとつのニュースが「3ドア」の採用である。欧州ではアタリマエだったユーティリティかもしれないが、当時の日本では、クルマはまだまだ後生大事に乗るものであり、華やかさや日常使用での至便性以外の要素が求められていた。そんな1970年代前半、ここまでカジュアル(日常性)に、そしてユーティリティ(実用性)に振ったクルマ作りは、どのメーカーも行なっていなかった。
しかし、ホンダだけが「ライトバン」と言われることを怖れず(?)このシビックで、テールゲートが大きく開くコンパクト車を作った。後に日本マーケットで花開く“ハッチバック文化”は、このシビックが祖先と見るべきであろう。
ただ、「実用性」が強調され、また、スペック的には見るべきものがないという印象があるかもしれないシビックだが、しかし、軽量車体とトルクのあるエンジンの組み合わせ、そして、ラジアルタイヤとディスクブレーキの標準装着。さらに、ややハードに過ぎて、快適性では問題があったものの、そのサスペンションは「走り」を重視した設定になっており、見た目こそジミだったが、実際は俊敏で、速さも楽しめる「fun」なクルマとして仕上がっていた。
そんなシビックの「走り」の性能は、後年の「RS」というバージョンによって、さらに磨かれることになる。これはもちろん「レーシング・スポーツ」のことなのだが、1970年代、折りからのオイルショックや社会状況によってそれを名乗れず、これは「ロード・セイリング」でして……と言い訳したのは、いまや歴史の笑い話のひとつになっている。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/06 08:50:31 | |
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