
クルマの後部にあるフタやドアを開くと、そこはトランクだったり荷室だったりする――。これが今日の常識であるかもしれないが、しかし、1970年代以前はそうではなかった。というのは、リヤの“ボンネット”の下にエンジンが収まっているクルマは、決してレアではなかったからである。
さらに当時、その種のクルマは、数としてもマイナーではなかった。たとえば延々と生産された世界のベストセラー、カブト虫のVWはこのレイアウトだったし(このオリジナルVWのレイアウトを引き継いで今日に至っているのが、ポルシェの356~911系)、わが国でも日野自動車でノックダウン生産されたルノー4CV、そしてテントウ虫として親しまれたスバル360なども、みなリヤにエンジンを置いていた。「FR」というのは、フロントにエンジンを置いてリヤ(後輪)を駆動する方式だが、このレイアウトへの“対抗馬”は、かつては「RR」、つまり「リヤエンジン/リヤ(後輪)駆動」だったのだ。
この「RR」方式は、1959年に英国BMCから、FFの「ミニ」が出現して以後も、コンパクトカーのあるべきレイアウトのひとつとして生きつづけた。たとえばスバル=富士重工のジョブを見ても、テントウ虫はRRだったがスバル1000はFFだったというように、RRとFFの双方に、それぞれ存在理由があったことがわかる。
この点においては、スズキも同様であり、同社の最初の軽自動車であるスズライトは(本邦初の)FFレイアウトを採用していたが、それに続く軽自動車のフロンテではRRを選択した。軽自動車のような小さなクルマでは、FFがいいのか、それともRRなのか? そんなメカ・バトルの時代もあったのである。
さて、このフロンテ・クーペが登場したのは、1971年・秋のこと。RR方式となったフロンテが、1970年に2代目としてデビューしてから、約一年後という時だった。この“衝撃のクーペ”の全高は、わずかに1200ミリ。ただ、こんな数値で、そして、いまよりも「軽規格」そのものがずっと小さかったが、2シーターに割り切ったこのクルマの室内は、ドライバーにとっては余裕十分だった。
そして、そのドライバーの背中後方に、2ストロークの3気筒エンジンがあった。3気筒の好バランスと、4ストロークとは比べものにならない2ストローク・エンジンの太いトルクで(昨今のバイク用、高回転型でレーシーな2ストをイメージしないでほしい)、このクーペは扱いやすくて、同時に、速いモデルだった。カタログに記されている最高速の120km/hは、テスト路さえあれば、誰もが容易にマークすることができたはずだ。
また、そうした性能もさることながら、このクルマでは造形も話題になった。流麗かつ鮮烈な2シーターのクーペ・デザインはインパクトがいっぱいで、あのジゥジアーロによるデザインをもとに、生産車としてスズキがまとめたものだというのが定説になっているが、それは真実であろうと思う。(注1)
1990年代、ビートやカプチーノといった軽自動車規格のスポーツ車がいくつか登場したが、しかし1970年代という時点で、こんなにもスタイリッシュで、そして内容的にも強烈な軽自動車があったというのは、記憶しておいていいことだ。とくにインテリアの充実とそのデザインには、今日でも十分に通用する機能美と華麗さがあった。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
○注1:「SUZUKI STORY」(小関和夫著 三樹書房・刊 1992年)によれば、スズキの依頼を受けて、1960年代のスズキ・キャリイ40系のデザインを行なったのがジゥジアーロ。そして後に、彼が、原寸大の木製モックアップをスズキに送ってきた。それが2ドア+リヤハッチの、一種“バン&ワゴン”的な、フィアット・ウーノやパンダとも通じるような造形だった。そのモックアップのラジエター・グリル、フロント・ウインドーの傾斜角29度、そしてサイドのプレス・ラインなどを活かしつつ、スズキ社内でクーペ型に向けてデザインを進め、最終的に「フロンテ・クーペ」としてまとめたのがこれであったと記されている。
Posted at 2016/12/07 11:28:57 | |
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