
この2002年の秋、三菱は同社にとって歴史と伝統の名である「コルト」を新しいコンパクトカーの名として復活させる。……ところで、このネーミングということでは、1970年代の三菱にはちょっと奇妙な(?)習慣があった。それは、あるひとつの車種に派生的なモデルを設定しては、その新しい派生モデルを次々と独立させていったことで、その大々的な例が1970年代の「ギャラン」の“増殖”であった。
ギャランは、まず派生モデルとして、1970年に「ギャランGTO」を発表。そして、クーペの「FTO」を1971年に設定し、やがて、それぞれを独立した車種とした。さらに、セダン車型である本線のギャランについては、1976年に「ギャラン・シグマ」を設定し、後年には「エテルナ」という次世代モデルに進化させる。歴史書によれば、このシグマが登場した時に「車名から“コルト”が消えた」ということになっている。
つまり、「シグマ以前」のギャランは、あくまでも「コルト」からの派生モデルだったということ。この「コルト」は1962年に端を発する車名で、それまでの三菱車は、単に「三菱500」などと呼ばれるだけで、とくにニックネーム(車名)は付いていなかった。そして「コルト」登場以降、これに排気量を組み合わせた名前(コルト1100など)で歴史を作ってきた。
そんな三菱=コルトが、外観としても内容としても、それまでのヤボったかったコルトのイメージを一新するニューモデルを発表したのが1969年のこと。そして、その新型車には、新世代への脱皮ぶりを象徴するような「ギャラン」というサブ・ネームが付けられていた。「コルト・ギャラン」の誕生である。上記したようなギャラン・ファミリーのその後の増殖と発展も、この1969年の「コルト・ギャラン」が成功したゆえであった。
そういえば三菱は、1990年代にオフ系のモデルの名をすべて「パジェロ」系として統一してしまったが、そのスタイル(方法)の原型としてあったのが、1970年代ギャラン・ファミリーの設定と成功だったのかもしれない。
さて、この最初の「ギャラン」だが、まず、スタイリングが新鮮だった。ダイナウェッジ・ラインと呼ばれたその造形には、若きジゥジアーロも噛んでいたといわれ、その低いボンネット内には、新設計のOHCエンジンが収められていた。そして、最も高性能なAⅡGS(1500cc)は、当時の高性能車の“お約束”のひとつだったSUツインキャブが装着されて、その出力は105psに達した。
この時のギャランに搭載されたSUキャブは、アイドリングもあまり安定せず、また異様に高回転を好むエンジンで、市街地ではトップギヤ(4速)が使えないほど。しかし、ドライバーがその気になって回した際の伸びは豪快で、スポーツ・フィールに充ちていた。
1970年代の三菱は、この「初代ギャラン」の成功を基盤に、上記のようにギャラン・ファミリーを発展させ、それと併行して、軽量・コンパクトなスポーティ・モデルとして、弟分のランサーを設定。ラリーも視野に入れた三菱的なスポーツ車の系譜を作っていく。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/23 14:28:17 | |
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