
第5章 50パーセント…… part1
ホンダ栃木研究所とクレマー=TCPの合作によるレーシングNSXは、94年の4月に初号機(1台目)が完成し、テストに入った。
このプロジェクトのプロデューサーという立場の橋本健は、テストは何回やったのかという問いに対しては、「えーと、二回と二分の一ってとこかなあ」と答えている。ただ、これは彼自身が参加したものを中心にカウントした場合で、クレマーは、4月15日のスネッタートン・サーキットでの初号機のテストを皮切りに、クルマができあがるたびにシェイクダウンのスケジュールを組み、精力的にテストを消化していた。
そして、より正確にいうと、4月15日にスネッタートンに現われたレーシングNSXは、94年のADAC/GT仕様で、このクルマは同月の19日にはドイツに運ばれ、ニュルブルクリンクでの現地テストをこなしている。
ル・マン用の初号機がサーキットに持ち出されたのは、94年4月28日のスネッタートンが初めてで、以後、5月8日のル・マン・テストデイではこの初号機・47号車が走った。5月17~18日のロングラン・テスト(ポール・リカール)で、2号機・48号車がシェイクダウン。そして6月1日、スネッタートンで3号機・46号車がシェイクダウンされた。また、ル・マンのテストデイには、94ADAC車も姿を見せ、サルテを走った。
こう書くと何やらメチャクチャなようだが、実はそうでもない。なぜなら、車体製作者であるTCPにとっては、ADAC車もル・マン車も同じクルマであり、燃料タンクの容量とリヤウイングが違うだけだからだ。
レーシングNSXというのは、TCPにとっては1タイプしかない。それを、ル・マン用に3台、ADAC用にTカーを含めて2台。計5台を“生産”した。それがTCPの仕事で、その点ではパーフェクトだった。その仕事を現地で見続けていたホンダ栃木の若いエンジニア石坂素章は、「非常に期間を限定されて、なおかつ、結果的にル・マン24時間レースで“走れる”クルマを作ったわけですからね。さすがTCPだと思います」と証言する。
ただし、ル・マンのための3号機、それのシェイクダウンが6月1日というのは、やはり、タイト極まるスケジュールというべきであろう。何しろ、その月の18日には、24時間レースがスタートしてしまうのだから。
ただ、それを言うなら、前年の9月に参戦を決定したことが、既にしてタイトだった。ハードなことは誰もが知っている。だからこそ全速で、このプロジェクトは駆けているのだ。
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4月15日、スネッタートンでの初テストは、初号機のドライブシャフト折損から始まった。それは実に見事に折れていた。とりわけ、取り付け部の肉厚が薄く、橋本の目から見ても、ちょっと無理だと思えるような頼りなさだった。
ただ、すぐにTCPに部品を取りに戻り、付け換えて、スネッタートンを20ラップ以上回ることができた。テストドライバーはアーミン・ハーネ。93年のADAC以来、彼はNSXを走らせており、レーシングNSXについて最も身体で知っているドライバーだ。そして、テストに関してはハーネひとりで行なうことも決めていた。このスネッタートン・テストは、初っ端こそ「あれっ!?」というアクシデントはあったが、シェイクダウンとしては順調だった。
そして、後のル・マン・テストデイでも、ドライブシャフトには何の問題もなかった。(やっぱり、ちゃんと対策やってんだなあ)、橋本はドライブシャフトの件は忘れることにした。その程度の初期トラブルに見えた。
さて、ル・マン・プロジェクトの橋本健は、テストのすべてに参加したわけではない。たとえば、レーシングNSXにとっての初めてのロングラン・テストとなる5月のポール・リカールにも行っていない。これは、なぜだろうか。
「だって、任せるってことが必要でしょ。あくまで現場にいる彼らに、その場で判断させて答を出させる。24時間レース、何が起こるかわかんないし──。“どうしましょうか”だけじゃダメですよ。あ、その、出て来た答えが正しかったかどうかっていうのは、また別ですよ。答の正否ウンヌンってことじゃなくって、判断をするっていうこと。これをやってほしいんです」
TCPへの石坂素章単身派遣も、そういう意図だろうか? 「石坂は、それまでエンジンがメイン(の仕事)だったんですけど、今回はトータルなクルマ作りを見てきてほしいということ。ンで、三日四日いただけじゃわからないから、ずっといろ、と。彼は93のADAC(NSX)もやってたし。ともかく、どんな作業をしてるのか、実地で見ろということですね」
「英語力なんていいんですよ。技術的な英語なんて限られてますからね。現場で実物を見てれば、わかってきます。例の、技術屋を二階に上げてハシゴを……っていう(笑)アレですよ。だから、敢えて一人で出した」
「あれで、クルマの開発の“動き方”っていうのかな、それがかなりわかったと思いますよ。(英語を)喋れないのに、トンプソン親爺に晩飯に誘われるのが辛かったって? でも、TCPのエンジン屋でアレックスっていうのと、けっこう仲よくやってたようですからね。きちんとした報告書も書いてるし」「でも、ル・マン(サルテ)に来るのに、あいつ、パリでタクシー拾って、それで来たんだよなあ……(笑)」
(つづく) ──文中敬称略
○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
Posted at 2014/03/22 16:34:26 | |
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Le Mans へ… 1994NSXの挑戦 | 日記