
映画では、このケンカのあと、さっさと逃げようぜ!ということで、島勇作は自身の運転で、その場から素早く走り去る。「お、島勇作はクルマの運転ができたのか」と、ここで観客は知ることになるが、しかしすぐに、運転はできても、それをしてはいけない立場だったことがわかる事件が起きる。
ただ、法規上は運転できなかったとしても、免許持ちであったのなら、それまでの島勇作の行動には、やはり、わからないことが多い。まず、少しでも運転の経験があれば、この青年の運転がヘタの極み(発進/停止がひどく乱暴、あれは酔う)であり、また、公道を走る際のマナーが並外れて悪いことに、すぐに気づいたはずだ。
まして、このときの島勇作は“年季奉公”を終えて出所したばかり。社会との無用な摩擦は、可能な限り避けたい状況であっただろう。それなのに、運転しながら周りにケンカを売っているようなトラブル・メーカー(青年)のクルマに、なぜ、乗りつづけたのか? その理由が、二人とも九州の出身だというだけでは、あまりに弱い。
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「クルマ側」からこの映画を観ていると、ここまで青年の態度と行動がひどいと、とても同行できないと思ってしまう。だから、もし、この青年と島勇作が一緒に行動するのなら、その理由を知りたい。観客としては、クルマが要るならヒッチハイクでもして、さっさと別のクルマを探せよ!……と島勇作に言いたくなるのだ。
もちろん、健さん……じゃない島勇作もさすがに気がついたと見えて、「俺は汽車で行くから」と、何度か二人に言う。しかしそのたびに、青年がどこからか蟹を仕入れて来て一緒に食うことになったり、あるいは雨の中で朱美に説得されたりで、彼は翻意する。島勇作本人はどうかわからないが、少なくともこの若い二人は島勇作を慕っており、優しい勇さんは、一緒に行こうと彼らから言われると断われなかったという物語にしたいようだ。
それと、いま気づいたが、シナリオとしては、この“バカップル”は観客に愛されているから、島勇作が二人を捨てないことには十分の自信があったということか。あるいは、青年の粗暴な行動、そしてクルマに関するハズレ描写、こういうのはギャグなんですよ、すべて、笑って済ませてくださいよ……なのか。
しかし、観客ならそうやって笑っていればいいかもしれないが、繰り返せば「島勇作」は出所直後だ。そして、何より「気になっていること」がひとつあって、そのために、彼は某所に向かおうとしている(という映画であろう)。それなのに、なぜ彼は独りで動かず、また道を急がず、不作法な青年と同行するのか。シナリオはついに語らない。
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ちなみに、二回目の島勇作の「翻意」は、以下のように描かれる。無免許運転で摘発されて警察署に連行された島勇作を、若い二人は建物の外で待っていた。前科者とわかっても、二人は「勇さん」を捨てなかったようだ。
警察署から出て来た島勇作は、クルマの中の二人に言う。
「待っててくれたのか」「俺、ここから汽車で行く。いろいろ世話になったな」
小雨の中を歩き出す島勇作。その背中を、車内から悲しげに見送る朱美。
「乗っけてやってもいいぞ」
運転席で呟く青年。
「ほんと?」
満面の笑みとともに、クルマから出て朱美は駆けて行く。
「勇さん!」……
ここでシナリオは、巧妙な手法を用いる。ほとんど禁じ手に近いというべきだが、それは“サイレント”というワザだ。朱美が「勇さん」を翻意させようと何か喋っている(らしい)のだが、その言葉は誰にも聞き取れないのである。
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こうして説得されて? ふたたび、青年のクルマの後席に収まる島勇作。この時点になって彼は初めて、二人に身の上話をし始める。ここから先はクルマに関する余計な描写が減り、ようやく登場する倍賞千恵子の存在感もあって、観客は物語に入って行ける。
そして、このときの朱美嬢のお節介ぶりは、後にリフレインされる。躊躇している「勇さん」を《夕張》へ向かわせるために、ふたたび、彼女の世話焼きパワーが炸裂する。
「クルマ止めて!」
叫んだ朱美は、車内で続ける。
「万一、奥さんが独りで住んでるとしたら、どうすんの?」
「怖いんだったら、わたしが代わりに見てきてあげるから」
「黄色いハンカチがなかったら、黙って札幌に戻る。それなら、いいでしょ」
そして、映画は終章へ。島勇作とその(かつての)妻が出会ったとき、ふたたび、台詞は誰にも聞こえないという“サイレント・ワザ”が用いられ、物語は幕を閉じる。巧みなエンディングではあるが、だからこそ、クルマ関連におけるこの映画の無知とハズレばかりの饒舌が悲しい。
(了)
Posted at 2014/06/28 06:50:16 | |
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クルマから映画を見る | 日記