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家村浩明のブログ一覧

2014年06月28日 イイね!

悲しき名作 ~ 映画『幸福の黄色いハンカチ』とクルマ 《3》

悲しき名作 ~ 映画『幸福の黄色いハンカチ』とクルマ 《3》映画では、このケンカのあと、さっさと逃げようぜ!ということで、島勇作は自身の運転で、その場から素早く走り去る。「お、島勇作はクルマの運転ができたのか」と、ここで観客は知ることになるが、しかしすぐに、運転はできても、それをしてはいけない立場だったことがわかる事件が起きる。

ただ、法規上は運転できなかったとしても、免許持ちであったのなら、それまでの島勇作の行動には、やはり、わからないことが多い。まず、少しでも運転の経験があれば、この青年の運転がヘタの極み(発進/停止がひどく乱暴、あれは酔う)であり、また、公道を走る際のマナーが並外れて悪いことに、すぐに気づいたはずだ。

まして、このときの島勇作は“年季奉公”を終えて出所したばかり。社会との無用な摩擦は、可能な限り避けたい状況であっただろう。それなのに、運転しながら周りにケンカを売っているようなトラブル・メーカー(青年)のクルマに、なぜ、乗りつづけたのか? その理由が、二人とも九州の出身だというだけでは、あまりに弱い。

* 

「クルマ側」からこの映画を観ていると、ここまで青年の態度と行動がひどいと、とても同行できないと思ってしまう。だから、もし、この青年と島勇作が一緒に行動するのなら、その理由を知りたい。観客としては、クルマが要るならヒッチハイクでもして、さっさと別のクルマを探せよ!……と島勇作に言いたくなるのだ。

もちろん、健さん……じゃない島勇作もさすがに気がついたと見えて、「俺は汽車で行くから」と、何度か二人に言う。しかしそのたびに、青年がどこからか蟹を仕入れて来て一緒に食うことになったり、あるいは雨の中で朱美に説得されたりで、彼は翻意する。島勇作本人はどうかわからないが、少なくともこの若い二人は島勇作を慕っており、優しい勇さんは、一緒に行こうと彼らから言われると断われなかったという物語にしたいようだ。

それと、いま気づいたが、シナリオとしては、この“バカップル”は観客に愛されているから、島勇作が二人を捨てないことには十分の自信があったということか。あるいは、青年の粗暴な行動、そしてクルマに関するハズレ描写、こういうのはギャグなんですよ、すべて、笑って済ませてくださいよ……なのか。

しかし、観客ならそうやって笑っていればいいかもしれないが、繰り返せば「島勇作」は出所直後だ。そして、何より「気になっていること」がひとつあって、そのために、彼は某所に向かおうとしている(という映画であろう)。それなのに、なぜ彼は独りで動かず、また道を急がず、不作法な青年と同行するのか。シナリオはついに語らない。

* 

ちなみに、二回目の島勇作の「翻意」は、以下のように描かれる。無免許運転で摘発されて警察署に連行された島勇作を、若い二人は建物の外で待っていた。前科者とわかっても、二人は「勇さん」を捨てなかったようだ。

警察署から出て来た島勇作は、クルマの中の二人に言う。
「待っててくれたのか」「俺、ここから汽車で行く。いろいろ世話になったな」
小雨の中を歩き出す島勇作。その背中を、車内から悲しげに見送る朱美。
「乗っけてやってもいいぞ」
運転席で呟く青年。
「ほんと?」
満面の笑みとともに、クルマから出て朱美は駆けて行く。
「勇さん!」……

ここでシナリオは、巧妙な手法を用いる。ほとんど禁じ手に近いというべきだが、それは“サイレント”というワザだ。朱美が「勇さん」を翻意させようと何か喋っている(らしい)のだが、その言葉は誰にも聞き取れないのである。

* 

こうして説得されて? ふたたび、青年のクルマの後席に収まる島勇作。この時点になって彼は初めて、二人に身の上話をし始める。ここから先はクルマに関する余計な描写が減り、ようやく登場する倍賞千恵子の存在感もあって、観客は物語に入って行ける。

そして、このときの朱美嬢のお節介ぶりは、後にリフレインされる。躊躇している「勇さん」を《夕張》へ向かわせるために、ふたたび、彼女の世話焼きパワーが炸裂する。

「クルマ止めて!」
叫んだ朱美は、車内で続ける。
「万一、奥さんが独りで住んでるとしたら、どうすんの?」
「怖いんだったら、わたしが代わりに見てきてあげるから」
「黄色いハンカチがなかったら、黙って札幌に戻る。それなら、いいでしょ」

そして、映画は終章へ。島勇作とその(かつての)妻が出会ったとき、ふたたび、台詞は誰にも聞こえないという“サイレント・ワザ”が用いられ、物語は幕を閉じる。巧みなエンディングではあるが、だからこそ、クルマ関連におけるこの映画の無知とハズレばかりの饒舌が悲しい。

(了)
Posted at 2014/06/28 06:50:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2014年06月27日 イイね!

悲しき名作 ~ 映画『幸福の黄色いハンカチ』とクルマ 《2》

悲しき名作 ~ 映画『幸福の黄色いハンカチ』とクルマ 《2》さて、こうして映画では、北海道を「赤色のファミリア」が走りはじめる。このクルマにはボディのリヤクォーター部分に白い文字があって、それが「MAZDA」である。もちろん市販ファミリアのボディに、そんなメーカー名は入ってない。ここまで“される”と、観客としてもようやく気づく。(そうか、タイアップだったのね。このロゴを入れることを条件に、クルマを提供されたか)

……いや、タイアップがいけないと言っているのではない、映画としての表現はどうなのかということ。そしてクルマについての、映画屋としての選択眼である。仮に、映画製作側とこのメーカー&ディーラーとの間で車両提供の合意がなされたのなら、彼らが扱う車種のうち、この映画やストーリーの設定に最も適したモデルをセレクトすべきだった。

映画制作時点での最新型であるファミリアは、その時期に、メーカー側が最も広報・宣伝をしたいモデルではあったかもしれない。しかし、映画の中の青年が選択すべき機種としては、明らかに不適だ。映画はもっと「クルマ」という文化や社会的存在を大切にすべき。車種選択もシナリオのうちである。

この映画の場合、ストーリー上、後席に人を乗せなければならないという事情はあった。そのため、たとえば2シーターのスポーツカーは使えない。しかし、それを踏まえても、この時代にナンパ用として、また“クルマ好き”という設定の独身青年が選ぶであろうという「マツダ車」は、ファミリア以外にいくつも探せたはずだ。

* 

さて物語が進んでも、この映画は、ことクルマ関連では疑問符の付く描写が続く。例を挙げると、運転者である青年がいないときに、地元のトラクターがやって来た。赤いクルマが道を塞ぐような状態になっていたため、「仮免まで行ったのよー」という女・朱美が運転席に乗り込み、クルマを動かすことになる。しかしその時に、右のリヤを脱輪させてしまう。

そこからの脱出のために、力が強い男二人でクルマを押すことになって、ふたたび朱美がステアリングを握る。すぐに脱出はできたが、今度は止まれず、クルマは草原に向かって突進して行く。「止まれなーい!」、叫ぶ朱美。「ブレーキ踏め!」「踏んでるよー」

牧草地を疾走する赤いクルマ! ブレーキとアクセルを踏み間違えているという設定か。そして、干し草の山に突っ込んでようやく止まる。「何でクラッチ切らないんだ?」「切ったけど、止まらなかったー」。それまで止まらなかったクルマが、フワフワの干し草に突っ込んだら停止するとも思えないが、「?」はさらに続く。

この後、青年たち一行は近くの農家で一泊することになるのだが、あれ? ということは、あの草原からクルマは脱出不可能であったのか? しかし、クルマがあれほどの速さで走れたのは、草原の表面が硬かったから。それなら、走ってきたのと同じ路面を、そのままバックで戻ればいいじゃないか! 

登場人物たちを一泊させるために、クルマが動けなくなったという設定が必要。しかしその前に、「映画的」にはクルマが疾走する迫力のシーンも撮りたい。つまりは、こういうことだったのかもしれないが、しかし、疾走とスタックはそもそも両立しない。もし、疾走後にクルマを立ち往生させたいのなら、それなりの仕掛けと描写が要る。

* 

このほかにも、他人のクルマのボンネットをテーブル代わりにして、平気で地図を拡げる朱美というシーンがある。これは、怒られますね(笑)。あるいは、悔しいときなど、青年がクルマを八つ当たり気味に叩いたりする場面も──。しかし、相当にイヤなことがあったとしても、初めて買った自分の新車に手を挙げる若い男はいない。まあ、この青年はもともと無神経で、だから駐車場で他人のアメ車を蹴っ飛ばして、その持ち主とケンカになるでしょ?……と、そんな流れを作るための布石なのかもしれないが。

そして、そのケンカに「島勇作」(高倉健)が割って入って青年を助けるのだが、その際に、強い健さんはケンカ相手の頭というか額をボンネットに叩きつける。でもボンネットは、いわばフワフワした鉄板であり、ケンカの道具には向いてない。そして、そこに硬い頭部をぶつければ、変形するのはボンネットの方だろう。その割りには、その後のシーンで、ファミリアのボンネットには何の痕跡もなかったが。

(つづく)
Posted at 2014/06/27 00:18:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2014年06月26日 イイね!

悲しき名作 ~ 映画『幸福の黄色いハンカチ』とクルマ 《1》

悲しき名作 ~ 映画『幸福の黄色いハンカチ』とクルマ 《1》名作の誉れ高い作品のようだが、「クルマ側」から見ると、これはちょっとあり得ないと言いたくなる映画だ。クルマに関連する描写があまりにハズレていて、物語に入って行けない。まあシナリオには一応パワーがあるので、クルマ絡みの部分を素っ飛ばす(無視する)ことにすれば、チカラワザで、ラストの「あのシーン」までは何とか行き着き、それなりに感動することはできる。しかし映画は、こと「クルマ的」にはおかしなことばかり。残念というより、ほとんど悲しい。

そもそも、クルマについてよくわからないのであれば、知らないなりに、余計な描写をしなければいいと思う。しかし、ロードムービーであることを過度に意識してか、この映画は妙に細かい部分で「クルマ」あるいは「クルマと人」を描こうとする。だが、それがことごとく的外れなのだ。

* 

まずは、冒頭──。失恋したらしい青年が自室で泣き、ヤケになったか勤めていた会社も辞めて、有り金はたいてクルマを買う。それに乗って北海道に行き、キレイに言うなら恋人を探しに、はっきり言えば、よし女を引っ掛けに行くぞ!……として、ストーリーは始まる。

その設定ならそれでいいから、クルマは手に入れたことにして、さっさと北海道を走りはじめればいいと思うが、なぜか、この映画はそうしない。どうやって青年はクルマをゲットしたかを、あえて細々と描く。しかし、それがどこの国のハナシかわからない。

たとえば、青年がおそらくは新車のディーラーで試乗をして、その際にカーラジオからはマツダ・ファミリアのCMソングが流れている。青年は運転しながら、「ギヤ、硬めだね」と言う。この台詞で、青年がある程度はクルマに詳しいこと、クルマがマニュアル・シフト車であること、そして、ミッションがまだ馴染んでいない──つまりクルマが新車(の状態)であることを示したい……らしい。

しかし、ディーラーが一般カスタマーの試乗に供する車両は、それなりの“慣らし運転”がなされているのが普通だ。「ミッションの操作フィールがまだ硬い」という状態ではないようにして、大切な未来の客に乗せる。

また、そういう試乗車はナンバー付きであり、ゆえに公道での走行(試乗)が可能なのだが、乗っていた青年は、クルマを降りながらこんなことも言う。「具合が悪かったら、また見てくれよな」。これは、これから新車を買おうという客が発する言葉ではない。その種の具合の問題(ユーズドのリスク)を回避するため、人は中古車でなく新車を求める。

* 

映画はたぶん、青年がピカピカの新車を買ったことにしたいのだろう。だが、この映画で青年がクルマを手に入れる際の描写は、そのほとんどが中古車を買う場合のことである。そしてその通りに、青年はディーラーで試乗したのと同じ車両で、北海道を走る(車両のナンバーが同じ)。

新車のディーラーで客が試乗するのはあくまで見本車であって、それをそのまま“お持ち帰り”することはできない。試乗したクルマそのものを北海道で走らせたいのであれば、青年は中古車屋にでも行き、必要なら試乗もして、程度のいい(新車に近い)クルマを選んだ……とでもすればよかった。これなら「何かあったらよろしく」もスジが通る。

アメリカ映画の『ハリーとトント』でも、主人公がクルマを手に入れる描写があるが、老人ハリーは中古車屋に並んでいた中から、一番小さくて安価なシボレーのクーペを、さらに値切って250ドルで買う。老人に同行するのは猫(トント)だけだから、4枚ドアである必要もなかった。このように、クルマを買うという描写で、登場人物の心境や状況を示すこともできる。

そんなぁ! 買ったのが新車でも中古でもいいじゃない? 早く物語に入ろうよ!……という意見はあるかもしれない。まあ、この映画の舞台は日本ではないのかもしれないので、それなら、そういうことにしよう。

* 

では、クルマの購入事情は措いて、青年の車種選択はどうか。青年はこのとき、北海道ドライブで女を誘うためのクルマを求めた。そういう場合に青年が選ぶ車種とは、果たして何だろう? これはなかなか興味深いポイントであり、観客としても(フフ、なるほどね!)などと頷きつつ、映画の世界に入って行きたいところだ。だが、その期待はあっさり裏切られる。

この青年は自室に、いわゆるスーパーカーのポスターを貼っていた。もちろん、憧れのモデルと実際に買える車種は違う。それはその通りだが、では70年代の後半だとして(この映画の制作は1977年)、スーパースポーツ車の写真をピンナップするような青年が、しかもナンパ用として買うクルマ。それが「ファミリア」なのか?

この世代のマツダ・ファミリア、つまり70年代中葉のモデルは、大ヒットする1980年FFファミリアの前作で、その名の通りに、堅実なオトーサンが家族のために買うというキャラのクルマだった。どうヒイキ目に見ても、これはナンパには向かず、また、ワカモノが「俺はこれだぜ!」とチョイスする車種でもない。(このモデルは、独身者を惹きつける“パーソナル性”という匂いが稀薄なのだ)

もっとも、そんなクルマだったから、北海道でも、フラレてばかりの野暮ったい女・朱美(演ずるは桃井かおり)しか引っ掛からなかったでしょ……と、こうハナシをつなげるための高等戦術だったのかもしれないが。

(つづく)
Posted at 2014/06/26 08:47:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2014年06月24日 イイね!

果てしなきホスピタリティ……。でもソアラって、実はちょっと好き!

果てしなきホスピタリティ……。でもソアラって、実はちょっと好き!§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

「ソボクな」とは、妙に外車かぶれなどしていず、“エンスージァスト”でもないというような意味だが、そのようなニッポン人にとって、トヨタ・ソアラほど素晴らしいクルマはないだろう。誤解のなきようあえて言うが、ここにはシニカルなニュアンスはまったくない。われわれフツーのニッポン人が、クルマというものに求める有形無形の欲求──ハードにしてもソフトにしても、それが見事にたっぷりと盛られているクルマ。それがソアラだ。

たとえば、「クルマ買って半年ぐらい経ってね。あ、このスイッチはコレのためのものだったのか!なんて、発見できるクルマ。そういうのが、俺は好き!」と語った人がいる。この人を、中級車以上のクルマを欲しがる人たちは絶対に笑えない。アナタはまさにこのようにして、ニッポンの「高級車」を買ってきたはずだからだ。(外国製高級車へのアプローチも、実は、これとあんまり変わらんと思いますがね……)

ともかく、この“発見派”であるメジャーな日本人にとって、ソアラというクルマは日常的な愉悦に満ちている。

……フムフム、この「4リンク式」のドアの開き方ね。このドアの上端のアールの付き方、この造型もなかなかビミョーでしょ。スウェード調の内装っていうのも、日本初と。電動シートというのは、もう珍しくもないですけど。ほら、メーターが何というか“虚像式”なんですよ。ウインカースイッチなんかも、機械式じゃなくて、こう、電子のオンオフなのね。

あと、このパネル、エアコンとオーディオの2モードになってましてね。こうなるわけですよ。タバコ? いいですよ。……ああっ、それ、押して! 引っ張らないで。そう、トッとこう押すと、灰皿出て来ますから。ドア・ハンドル? あ、そこです、それ。ええ、いろいろと「特別」なんですよ、このクルマ……。

所有者とその同乗者への、日常的な際限のないヨロコビの数々とは、たとえば、このようなものであり、そして、以上でネタが尽きたわけでもないことにも注意したい。(スープラとの決定的な違いはここで、ソアラはあくまでも日本人に向けて「ひらかれて」いる)

さらに! 前述の数々の「特別」が停止状態におけるものとすれば、いざ走り出したあともまた、ソアラは、いわば路上のキングというべきパフォーマンスを有し、ポルシェをすら凌ぐという。もちろん、単なるハイパワー車ではなく、それは優れた足回りに支えられてもいる。ディテールの出来や仕上げで騙すんじゃなく、はっきり速くて、そして快適なのだ。

ソアラは泣けるクルマだ。日本人の“泣き”のツボを見事に知っている。それはほとんど、松任谷正隆のアレンジに乗って歌う八代亜紀という、あり得ない組み合わせを連想させる。

そしてソアラは、「隣のクルマが小さく見えま~す」として発進したわが国モータリゼーションの、必然的な到達点であろう。このクルマは、ほかと比べてここが違うからと、ぼくらはこの二十数年、クルマというものを買い続けてきた。……そう、だから全部が違うクルマに到達せざるを得ない。ソアラがそれである。

欧米に「追いつけ、追い越せ」をほぼ達成した。同性能なら日本製品は絶対安い……等々の意味も含めて、ソアラには日本の「現在」と「戦後史」がびっしりと詰まっている。ソアラという存在に、ある種の気恥ずかしさがあるとすれば、それは、ソアラという鏡に、あまりにも日本人であるアナタ自身が映っているからだ。

(1986/07/09)

○単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
ソアラ3.0GTリミテッド(85年1月~  )
◆これは二代目だが、ソアラほど(クルマにおける)「知識人」に嫌われ、しかし「一般大衆」に愛されたクルマはないと断言したい。なぜ愛されたのかという一端は、本文に記した。では、なぜ、嫌われたか? おそらくこれは、ヨーロッパ車の牙城を侵しそうになった最初の日本車なのだ。彼ら「知識人」に「国産車」への認識を変換することを迫った、そういう“イヤな奴”だったのだ。……違っているだろうか? 
Posted at 2014/06/24 08:43:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年06月22日 イイね!

もしかしたら至上の贅沢。無印・白無地、ジェッタGT

もしかしたら至上の贅沢。無印・白無地、ジェッタGT§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

フォルクスワーゲン・ジェッタをご存じか? 無印で良品という表現は、それ自体がどこかの商品名らしいので使わないが、目立たぬスグレモノであることは確かであり、また、アウディにおける某氏のような声高なコメンテーター(注1)を持っていない点も好ましい。

思えば、俺はかくなる故にこの車種を選ぶ!とか書かれるのは、クルマにとってもかなり迷惑なことである。そんなことに惑わされるのが、まさに情報化社会の情報ドレイであることの証明なのだが、しかしクルマという商品は、好むと好まざるとに関わらず、そういう“情報含み”の商品になってしまった。それはもう、個人の反発やあがきを超えており、クルマも既にハードのみで自立してはいない。

「サンローランは五木ひろしがツブしたから、今度は俺がイッセー・ミヤケを着てやるんだ」と、数年前に言ったビートたけし(注2)は、やはり鋭い。ツブすとは大衆化ということであり、たけし流のデモクラシー宣言という含みとともに、自身の“成り上がり”ぶりを自己批評し、さらに、ソフトウェアが商品価値そのものだという時代相をも、同時に射ていた。

この発言は、予言としても見事なもので、事実として、つい昨日まで、われわれはすべてをツブしまくってきたといって過言ではない。(プリンセス・ダイアナのディナー・メニューを見て、オレの飲んでる酒と変わらねぇ……と言った奴がいる)

痛快なほどの民主化の嵐の、その風速が弱まったのは、ここ一年くらいだろうか。戦後の焼け跡のような(?)フラットな商品の地平に、揺り戻し的な保守反動の風が吹き始めた。インかアウトかの「ネオ・サベツ主義」の台頭である。いわゆるお嬢様現象にしたって、明らかにこの流れの中にある。

また「渋い」という言い方も、このネオ・サベツ主義をひとひねりした土壌の産物であろう。民主化(平準化)のあとの、差異を見つけるためのキーワードだからだ。使い方次第では、極めてイヤミにもなる“武器”だから、取り扱い注意の語でもある。(いま一番むずかしいのは、商品選択=何を買うかだ、ほんとだぜ!)

仕立ての良い、ケレン味のないデザインだが、しかしブランド誇示の胸マークなどは決して付けない。しかし、良い品という意味でのブランド商品であり、そのプレーンさによって、知ってるヒトは知ってるけれど、知らないヒトはまるで知らない、そんな白無地のシャツ……。こういう製品がファッションにおいて実在するかどうかは定かではないが、VWジェッタ──ゴルフでもサンタナでもないジェッタは、おそらくそのような位置にいる。

流行現象からは巧みに離れ、新しモノ探しのカタカナ職業人の魔手からも逃れ、デザイナーズ・ブランド風のケバさもなく、成り金からは(安価だから)無視され……。VWはいま、そのような好ましいブランドであるが、その中でもジェッタは、お目立ちヤング版でもなく、お買い得ですよKDバージョンでもない、程よきマイナーである。

この7月からラインナップに加わった、ゴルフGTIと同じエンジンを積む「GT」に試乗したが、これがまた、いかにもジェッタ的なというか、そんな渋い速さを持ったクルマであった。なるほど、太いトルクをいつでも吐き出すエンジンとは、このような走りを生むのか。

回して乗ることもむろん得意な、よく吹けるエンジンなのだが、それよりも、徹底したフラットトルク設定にむしろ感心する。スポーツカーとGTとは違うものなのだと、ヨーロッパ人に諭されているような気さえしたが、しかし、そんな定義論や史観よりも、「渋い」かどうかなんてことの方が重要な市場だというのは、これも“成熟”なんだろうな。

ともかく、クルマ選びに雑音が多すぎる昨今、ジェッタの選択というのは、なかなか毅然たるものがあると思う。なぜジェッタかなどは語らず、乗るべし。

(1986/07/02)

○単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
フォルクスワーゲン・ジェッタGT(86年~  )
◆トルク型エンジン、そのパワーに対してたっぷりと余力のある足、軽快な運動性、シンプル・パッケージ。ジェッタGTは魅力的だったし、自身でもジェッタCLDには乗ったが、このGTはついに買わなかった。ひとつは、右ハンドル仕様がないこと。そして、高価なことである。VWのラインナップの中で追っていくと、まァこんな値段になるのかなとも思うが、その値段をまず口に出してみて、それでどんなクルマが買えるのかと車名/仕様を挙げてみると、このGTはものすごく高い!

  ──────────

○2014年時点での注釈

注1:このコメンテーターは、自身が大学生の頃に「なんとなく、クリスタル」(通称なんクリ)なる小説でメディアに登場した作家・田中康夫。当時の彼は、アウディという(まだ目立たなかった)ブランドを、これこそスグレモノであるとして絶賛していた。

注2:今日の読者にとっては「ビートたけし=北野武」であり、むしろ「北野武」が何かのブランドを着るなら、そのことの方が(ポジティブな意味で)ニュースになるのかもしれない。しかし、当時の「たけし」は、あくまでも「ツービート」の片割れという立場の一漫才師。「北野武」という映画監督が出現するのは、このコラムから数年後の1989年、「その男、凶暴につき」公開以後のこと。80年代半ばのこの時点で、ビートたけしが後に「世界の北野」になるというストーリーは(おそらくは本人も含めて)誰も想像していなかったはずだ。
Posted at 2014/06/22 13:25:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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