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家村浩明のブログ一覧

2014年11月30日 イイね!

第6章 「30点」のプロトタイプ

第6章 「30点」のプロトタイプ ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

1992年の初めに、GT-Rを含むR33スカイラインの主管に任命された渡邉衡三と、同GT-Rの「専任商品主担」という職務に就いた吉川正敏の二人は、まずスタッフの確保に取りかかった。といっても人事権があるわけではないから、彼らがスタッフを決めることはできない。二人で一緒に各部署を回り、その部長に「できれば、誰それをR33GT-Rのプロジェクトに回してほしい」という内々での願いを伝えるだけである。

しかし、このような根回しもあって、実験の川上慎吾、サスペンション設計の塚田健一、シャシー設計(電子制御)の佐々木博樹、エンジンの堀内朋房、同じくエンジンの実験で松村基宏と恒川康介、そして少し時期は遅れたが、評価ドライバーの加藤博義。これらのスタッフがコア・メンバーとして、R33とそのGT-Rのプロジェクトに集結することになった。

このうち、商品実験部の川上と加藤は、R32とR33の二代に渡ってのGT-R担当である。限られた時間で新GT-Rを完成させなければならない渡邉と吉川にとって、精鋭とそれぞれのスペシャリストがほしかったが、中でも渡邉と吉川が絶対に欠かせないとしていたのがこの二人であった。

さて、新しいクルマを作ろうとする際には、通常はどのような狙いのクルマにするのかという「コンセプト」を決定するのが、実はひと仕事である。一般の市販車の場合、この作業に数ヵ月以上を費やすことも稀ではないのだが、しかし、GT-Rだけはまったくの例外だった。

このGT-R、「普通のクルマ作りとは違うところがたくさんある」とは、栃木の実験部主管・萩原裕の弁だが、このコンセプト作りでも、その特別ぶりは遺憾なく発揮された。
「こんなもんでしょ」
「そうだね」
吉川正敏がメモを見せ、渡邉衡三が答える。コンセプト・ワークは、それで終わりだったのだ。新GT-Rには何が必要で、何が求められているか。二人は、わかりすぎるほどにわかっていた。

まず、従来型のR32より速いこと、これは前提条件になる。旧型より性能的に劣るクルマは、新型車作りでは絶対に不可である。ただ「より速いクルマ」とは、「走り・曲がり・止まる」のすべての面での向上と、かつ総合バランスに優れたものを意味し、これは口で言うほどには簡単ではない。とくにこのGT-Rのように、「速さ」ひとつを取っても、前作R32でかなりのレベルにまで来てしまっている場合はなおさらである。

そして、使用エンジンのマキシマムの出力は「280ps」と決まっており、車体はR32よりも大きく、ホイールベースも長いことが既に決定している。この条件のもとで渡邉と吉川は、R32より高性能のクルマを作ることを求められたことになる。

この時に吉川は、このようなコンセプト・ワークと同時期に、スポーツカーとして車体が大きくなったら性能的には劣るはず……というエンジニアリング的な常識を、どうやって覆すかを考えていた。そして、それを最もシンプルに示すのは「速い!」という厳然たる事実の呈示だと思った。同じ場所を走って、明らかにタイムが違う。これなら誰に対しても問答無用で、高性能であることをわからせることができる。

最後は「ニュル」で証明する! この時から彼はそう決め、この「はっきりと証明したい」というスタンスは、後に、よりはっきりと証明できる「Vスペック」バージョンの設定へと展開していく。GT-Rとして販価が多少高くなってしまってもいい、R32に比べて明らかに速いクルマを、俺は作る! 

コンセプトは、こうしてすぐに決まった。問題はその実現である。

新型「R33GT-R」を作るための作業がはじまった。まず、図面が引かれ、デザインが検討される。設計図がかたちになり、構成部品ができあがると、まずユニットで試験をし、それがクルマに積まれ、車上でのさまざまなテストが始まる。

社外にはまだ発表前だが、次期R33の基準車は、既にプロトタイプが社内には存在していたので、開発陣はそれを『R』にモディファイし、4WDやボディ内外装などのテストや検討を行なった。ただし、次期型のボディがあるといっても、エンジンだけは簡単には載せ換えられないので、GT-Rの専用エンジンである「RB26DETT」を載せての高速走行実験や、走ってみなければやれないエンジンのテストは、ボディはR32GT-Rの格好のままで行なわれた。

一方で、対マーケットの戦略としては、販売中のR32の追加&強化バージョンをいくつか市販する予定もあったから、この時期のニッサンのテストコースでは、たくさんの「R32GT-R」が走っていたが、その内容は実は多種多様であった。たとえば、外観は既に市販済みの格好のままながら、ブレーキや4WDのチューニングが全然違うというテスト車がある。さらには、いずれはR33に載せられるための新メカを装着した、内容的にはまったく新しい“32の皮を着た33”と呼ぶべきGT-Rもいる。

1992年の5月に行なわれたニュルブルクリンクでのテストは、対外的には「R32・Vスペック」の市販に向けての確認テストということになっていた。それは事実だが、現場にはもう一台、中身はまったくR32とは別で、格好だけはR32であるというクルマがコースに持ち込まれていた。

91年にずっとユニットの状態でテストを続けていたさまざまな新メカや、新しい考え方によるクルマの制御テクノロジーなど、つまりR33GT-Rのための「要素技術」を満載した先行実験車がそれである。そして、この極秘のテストカーである“32の皮を着た33”が記録した「ニュル」のラップタイム、それが「8分13秒」なのであった。

このテストの結果、R33GT-R専任主担の吉川正敏は、R33用にこの2年間にNTC(厚木)で用意した各種の新しい「要素技術」は、実験部(栃木)の実走によるテストでも、そのポテンシャルを確認できたと認識する。同じように栃木でも、実験部の萩原裕主管が「課題はあるが、何とかなりそうだ」、つまり従来型であるR32のGT-Rを「超えられるであろう」との見通しを持つ。

このテストをその場で見ていた渡邉衡三は、次期GT-Rについて、まずひとつの目安をつける。そして、その6月のニュル24時間レースに、ブレンボ装着のR32スカイラインGT-Rを参戦させるのである。

これはレース部門に、R33プロジェクトのうちから予算を回して参戦させたものといわれ、渡邉の知りたかったこと、やりたかったことは、ブレンボのブレーキを市販車に付けることについての最終確認であり、そのための24時間耐久レースへの参加だった。ただ、ブレンボ付きのR32は市販していないので、N(ノーマル)クラスではなく、より改造範囲の広いグループAクラスへのエントリーとなった。

この8ヵ月後の93年2月に、R32のVスペックが発売されることになるのだが、その仕上げの作業と並行して、R33・新GT-Rのプロトタイプの開発が進められていた。この種のクルマの試作は、NTC(厚木)内の試作車のための工場で行なわれるが、「試作」という名が付いているとはいえ、かなりの量産規模を持つ本格的な組み立てラインがあるといわれ、いわゆる手作り的な試作車作りをイメージするのは大きな間違いであるらしい。

そして、1993年の初頭。レーシングカーを運ぶようなアルミのバンが厚木を出て栃木に向かった。その中には一台の、明らかにR33の基準車とは違うクルマが収められていた。ついに、R33スカイラインGT-Rのプロトタイプができあがったのである。

だが、栃木のテストコースをちょっと走っただけで、評価ドライバーの加藤博義は、ほとんどクルマを蹴飛ばさんばかりにして降りてきた。そして、言った。
「全然ダメ。点数? そんなもの付くレベルじゃない。30点だよ、これ!」

(第6章・了) ──文中敬称略
2014年11月28日 イイね!

MIRAI の未来…… その3

ただ、そうした水素社会が来たとして、その社会でも「ビークル」を動かすための原動機がモーター(電動機)であるのなら、それが必要とするのは電気です。さらに言えば、電気であれば、どんな作り方をしたものであってもモーターは回ります。そしてその電気を作る方法が“脱・化石燃料”であったら、水素社会の目的は一応達成したことになります。

でも、ハナシがそこまで来たら、その“地球を苛めない”であろう製法で発生した電気、それをビークルに充填して「EV」を走らせればいいのでは? ……と思ってしまいます。

燃料電池車=FCVは、電気を作ることを、それこそ自前で、そして車上で行ないつつ、電動のモーターを回して走行します。でも、その「製電」というシゴトは、いちいち個人ならぬ「個車」でというか、それぞれの自動車=ビークルがやらなければいけないものなのか。ドライバーそれぞれが、自車に発電のための“化学プラント”を抱えつつ動くのがベターか。

ここでおそらく「蓄電池」の問題が浮上してきます。EVが「電池車」である限りは、いわゆる航続距離は伸びない、内燃機関にはついに及ばない……という見解ですね。ここ10年くらいのバッテリーの状況を見ても、その見方は正しいかもしれません。ただ、電池というのはこれ以上進化しないのか。蓄電するための装置には“ブレークスルー”は起こらないのか? 

そしてもうひとつ、この「航続距離」という考え方が、あまりにも20世紀的なのではないか。そんな疑問も持ちます。ヨーロッパという交通環境で生まれたビークル、馬車が走れる道が既にあって、そこをより高速で走るために“馬なし馬車”に進化した。そういう場におけるビークルは、たとえば航続距離1000キロというような性能も必要だった。そして、そこ(西ヨーロッパ)では、ディーゼルなど内燃機関が適切だった……かもしれない。

それはそれでいいですが、でも、地球上で「人とクルマ」が住んでいるのは、ヨーロッパだけではありません。クルマに乗ったままで連続走行する距離数、それはせいぜい数十キロである。こんな環境や社会の中で用いるビークルを考えれば、今日の“電池車”であっても、既に十分に使い物になっています。

たまたまヨーロッパという、道路環境が異様に良く、そしてトラフィックが空いている。そういうエリアで、クルマに求められた性能。それを探って進化していったのが20世紀の自動車であり、そしてわが国の自動車工業も、同様にそのテーマを追った、20世紀においては──。でも、それは地球上の他のエリアでも、同じように求められる性能だったのか? 

「道とクルマとの関係」では、西ヨーロッパの場合、もし望むなら、誰でもがそのクルマの最高速で走れます。ただ、そうした「道との関係」は、西ヨーロッパ以外の地域でもあるのか。もし、他の地域はそうでないのなら、その状況に合った能力のビークルがあっていいはず。「西欧基準」だけがクルマではない。20世紀には見えにくかったかもしれない、こんなことも、21世紀も中葉になれば、誰かがふと気づいたりするのではないかと思います。

…… MIRAI 、そしてFCVに話を戻せば、そして、 MIRAI の未来を考えるなら、最大のライバルは、実は内燃機関による自動車ではなく、同じ“電動組”に属する、いまは「ピュアEV」と呼ばれている電池+モーターのEVではないか。そんな気がしてなりません。

たとえば5年先、もしバッテリー(蓄電池)の性能が今日より30%でも向上したら、ピュアEVのビークルとしての印象や価値は、今日とはかなり違ったものになるでしょう。化石燃料社会であっても、また水素社会になったとしても、そのどちらであれ、したたかに生き残るのは単純なEVかもしれない。複雑さを巧みにまとめた「商品としてのFCV」が登場したが故に、逆に、こんなことを考えるようになった昨今です。

(了)
Posted at 2014/11/28 06:25:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2014年11月27日 イイね!

MIRAI の未来…… その2

ついに“究極のエコカー”登場、走行しても排出するのは「水」だけ──。 MIRAI については、こうしたいきなりハイな論調もあるようですが、でも、既にデビュー済みの「EV」(電気自動車)は、その水さえも出しません。静粛で振動ナシは、その「因」が回転するモーターでクルマが動く「電動車」だからで、これはEVもFCVも同じです。また「音」でいえば、少なくとも現状では、電池+モーターでそのまま動けるクルマ、つまり“電池自動車”のEVの方が静粛度では優位でしょう。

ただ、いまFCVが騒がれている(?)のはやはりワケがあり、その最大の理由は、化石燃料に依存しなくてもクルマは動かせる、その可能性がある、この一点ではないかと思います。そのフィロソフィーというかグランドデザインというか、それにはやはり注目しますね。……というのは、化石燃料とは地球の歴史が生んだ偉大なる遺産で、それを人類が使い尽くしてしまっていいものか。まあちょっと大袈裟で、そしてロマンチックに過ぎる(笑)言い方かもしれませんが、そんな気持ちは持ってますので。

つまり、人類がもし「いまのような生活」をこれから先もずっとやっていきたいのであれば、電気を作るにしても、自動車のような物体を動かすにしても、地球の遺産(化石燃料)を燃やしてしまうのではなく、「自前」でやれよ!……と。

かつて19世紀の末から20世紀の初頭に、それまで使ってきた馬車を「馬なし」で動かそうとしたのは、いくつかの理由があったのだろうと想像します。たとえば、一頭の馬は“航続距離”はそんなにないので、大量の馬を集めておくための場というか「駅」が要る。「駅馬車」とはそういうことだったはずで、だから「駅」では人が乗り降りもしたけれど、同時に馬も換えていた。そして馬は老いるし、また、獣なので排出物もある。そして一頭が持つ“馬力”には、おのずと限りがある。もし、馬に代わるものが何かあるというのなら、それは試してみてもいいよ……?

おそらく当時にこんな動向が出て来て、そこから、こういう方法でも馬車は動かせますと、蒸気や電動も含むいくつかの案が呈示され、その中で内燃機関がヨシとされて生き残った。それを出発点に20世紀のクルマ社会が形成され、そして騒音や排気ガスといった「内燃機関+車体」のネガティブな部分については、クルマを社会的に使いつつ、少しずつ修整していった。

たぶん、これが20世紀だったのだと思います。人類以外の生き物(馬)に負担をかけることなく、人が自作したハードウェアとシステムによって、モノや人を運ぶことができた。この点では「内燃機関社会」はそれなりの答えを出し、またリサイクルまで可能になったことも考え合わせれば、ある程度の成果をあげてきたといえるのかもしれません。

ただし、「地球の遺産」を食いつぶしているという点に気づいたのは、ようやく前世紀の終末頃だった(CO2問題は異説もあるので、ここでは触れません)。そこから、21世紀における“脱・化石燃料”の社会へ。……まあ、こういう史観なのでしょう。そして一つの提案として、「水素+FC」で動く新種のビークルを創成してみた。これはなかなか好ましいストーリーであると思います。

(つづく)
Posted at 2014/11/27 20:12:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2014年11月27日 イイね!

MIRAI の未来…… その1

FCEVではなく「FCV」と呼ぶようになったようですが、ともかく「燃料電池車」という奇妙な訳語を持つビークル(乗り物)の「市販車」が発表されました。トヨタの MIRAI です。ホンダもまた、来年にこの種のビークルを出すということを公表しています。

MIRAI はクルマ業界的にはたしかにニュースだと思います。ひとつは、「FCV」の小型化。そしてこれともパラレルですが、バンやワゴンやSUVではなく「セダン」という格好でFCVを成り立たせたこと。ウワー、こんなことができる(できた)んだ!……と感心します。

そして、作り手からの、このクルマについてのメッセージも、なかなか気概に充ちたものでした。とくに「売り切り」に関するところは、製品/商品と顧客との関係、それをどう考えるか。そしてそこからの回答の出し方など、実にまったく「トヨタの仕事」だなと思います。

たとえば「売り切り」というかたちで販売してしまったら、カスタマーがどう使うか、もうメーカーは関与できません。つまり、どんな人にどのように使われたとしてもいいように、商品をまとめる必要があります。おそらくこのクルマについては、そこまでやったんだという自信と自負がある。FCVという未知の部分が多い(であろう)クルマでも、それをやってしまう。これはなかなか、すごいことだと思います。

また、クルマの新しさや軽量化を狙うなら「カーボン樹脂のボディやフルアルミのボディという選択もあった」けれども、しかし、それではクルマが高価になってしまう。その結果、「FCVが“お金持ちがたまに乗るだけのクルマ”だと思われたら、水素ステーションは増えない」ことになるので、普通のクルマと同じように鉄板ボディで作った。開発者は、このようにもコメントしています。

そして、「売り切り」方式にも触れます。「今回トヨタは、FCVをリース販売ではなく『売り切り』で出します」「リース販売で限定的に出すクルマは、自動車メーカーが言い訳できてしまうクルマでした」「FCVの『売り切り』をこのタイミングでやれたのは、われわれの本気の表われだと思ってください」。

さらには、「いままでは、SUVでしかFCVは作れなかった。それをクルマの王道であるセダンで作れるようにした」「まず王道のセダンを押さえたうえで、いろいろな車種を展開できれば……」。この MIRAI の発売が「トヨタが継続的にFCVを出していくという意識の表われです」……と続きます。

モノの作り手として、とても興味深い、また、やり甲斐のあるジョブだったのでしょうね。そして、困難なテーマだったからこそ、やった、ついに攻略した、ブレークスルーした!……というエンジニアとしての達成感や喜び。それがが思わず混じってしまったようなコメントでありました。ちなみに「ブレークスルー」は、彼らエンジニアが好んで使う“トヨタ語”のひとつです。

さて、エンジニアリングとその進展には興味深いものがあり、評価もできるこのコンパクトセダン型の「FCV」ですが、市井の庶民としては、これをどう捉えればいいでしょうか。

まずは今回、「FCEV」というこれまでの言い方をやめているのが、ちょっと気になります。おそらくこれは、燃料電池車は「EV」(=電気自動車)ではないんだと強く言いたいのだと思います。(水素社会との絡みでは、数年前から「FCV」と呼ばれていたようではありますが)

ただ、クルマを運転するという立場からは、そのクルマの車輪を回している動力源は、エンジン(内燃機関)なのかモーターなのか。この一点で分類するなら、FCV車とは「EV」と同じく「モーター駆動車」で、つまりは同じように「電動車」であり、この点についてはEVと同様です。ちょっとズームを引いて俯瞰すれば、クルマを内燃機関によってではなく、「電動モーター」で動かしたいという“一派”に、このたび、市販車としてのFCVが加わった。それが MIRAI であると、そういう図式になるでしょう。

もちろん、その原動機=モーターに、エンジンでの“燃料”に相当する電力をどうやって供給するか。そこに決定的な違いはあります。電力を貯めておいたバッテリー(蓄電池)から供給するのが「EV」で、「フューエル・セル」なるもので水素を材料に車上で発電し、その電気によってモーターを回す。それが今回の「FCV」です。そしてクルマに“給油”するのがガソリンでも電気でもなく、このFCVは「水素」である。これも違いのひとつです。

(つづく)
Posted at 2014/11/27 11:55:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2014年11月26日 イイね!

ベーシック戦線の充実、ワークスだけがアルトじゃない

ベーシック戦線の充実、ワークスだけがアルトじゃない§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

軽自動車のニューモデルについては、これまで、いくつかの驚きとともにそのデビューに立ち会うということを常としてきた。それは、エンジンの出力やその特性についてであったり、室内空間の拡大であったり、スタイリングの、とくに居住性方向への大胆なツメであったり、はたまた、新たなるカテゴリーの提案や導入であったりである。

そういう歴史的体験からすると、今回のアルト並びにワークスのフルチェンジには、試乗してみた後でも、どうも驚きと感動に乏しいというところがある。だがこれは、ひとつには軽の過渡期の終了を意味してもいるだろう。ある規格のうちでツメられるべき部分は、既にツメてしまった。そうそう新しい手札は出せないのだ、と。

あるいは、そもそもアルト・ワークスの初代というのが驚異と挑戦のカタマリであり、その張本人がこのたび新装開店したわけで、二度はビックリしないというゼイタクな気分も多分にあるだろう。そのワークスは、今回のモデルではフロント回りをノーマル・アルトとは大幅に変更。ボンネットとフェンダー、バンパーなどはまったくの別物となり、印象としてほとんど独立した車種となるに至った。

この結果、軽自動車アルトは、スポーツ的なる部分と要素をワークスに全面委譲し、完全な日常の足グルマとして立ち現われたし、また、そのことが可能となった。そのような新・アルトの象徴がスライド式ドアの新設であり、そのインストルパネルのデザインであろう。カブトムシ時代の国民車(=フォルクスワーゲン)もビックリという、インパネの超シンプルな素っ気なさは、必要にして最小限の極致である。

これまで、日本の軽自動車は(軽だけではないが)一台に種々の要素を盛り込みすぎて、その本線であるべき「ベーシック」さが、むしろ希薄であった。付加価値のみが独り歩きして、それを付加されるべき本体の姿が見えにくかった。

日常使用の実用車としての、太い“本線”の獲得。これが、今回のアルトの重要な成果である。……のだが、その成果をもたらした原因が、そもそも「イタズラ」(とメーカーは言った)であって、ウルトラ級の試供品というべき存在であった「ワークス」が独立し得たことによるとすれば? 

そんな商品までも見事に呑み込んだわれわれのマーケットというのは、やはり深くて奥があって、まだまだ探究に値する“森”であると言わねばなるまい。ともかく、アルトの実用宣言に大注目。……そう、「軽」はやっぱり、いつも何かが新しい。

(1988/10/25)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
アルト/ワークス(88年9月~  )
◆アルトが一部車種に採用したスライド式のドアについて、他メーカーの軽自動車エンジニアから意見を求められたことがある。つまり、作り手として気になるのだろう。レアなるものは、クルマ世界においてはけっこう排斥されることがあるからだ。さて、この「ドア」については、以下のように思っている。スーパーへ買い物に行って、風でも吹いていて、それに煽られてドアが開いてしまい、隣のクルマにぶつけちゃって、恐い思いをしたしおカネもかかった。そういう経験があるドライバーにとっては、このカタチのドアはありがたいし、とってもリアルでしょうね……。

○2014年のための注釈的メモ
いわゆる商用車やワンボックス車などではなく、一般乗用に供されるクルマでスライド・ドアを採用したのは、ひょっとしたら、このときのアルトがわが国で最初であったかもしれない。スズキはクルマというものについて、いつもさまざまなる「新提案」をして来たが、ここでもまた、その姿勢を貫いていた。さすがに、軽自動車でのスライド・ドアは、1988年時点では(そしてその後も)受け入れられなかったようだが。
Posted at 2014/11/26 10:17:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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