
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
1992年の初めに、GT-Rを含むR33スカイラインの主管に任命された渡邉衡三と、同GT-Rの「専任商品主担」という職務に就いた吉川正敏の二人は、まずスタッフの確保に取りかかった。といっても人事権があるわけではないから、彼らがスタッフを決めることはできない。二人で一緒に各部署を回り、その部長に「できれば、誰それをR33GT-Rのプロジェクトに回してほしい」という内々での願いを伝えるだけである。
しかし、このような根回しもあって、実験の川上慎吾、サスペンション設計の塚田健一、シャシー設計(電子制御)の佐々木博樹、エンジンの堀内朋房、同じくエンジンの実験で松村基宏と恒川康介、そして少し時期は遅れたが、評価ドライバーの加藤博義。これらのスタッフがコア・メンバーとして、R33とそのGT-Rのプロジェクトに集結することになった。
このうち、商品実験部の川上と加藤は、R32とR33の二代に渡ってのGT-R担当である。限られた時間で新GT-Rを完成させなければならない渡邉と吉川にとって、精鋭とそれぞれのスペシャリストがほしかったが、中でも渡邉と吉川が絶対に欠かせないとしていたのがこの二人であった。
さて、新しいクルマを作ろうとする際には、通常はどのような狙いのクルマにするのかという「コンセプト」を決定するのが、実はひと仕事である。一般の市販車の場合、この作業に数ヵ月以上を費やすことも稀ではないのだが、しかし、GT-Rだけはまったくの例外だった。
このGT-R、「普通のクルマ作りとは違うところがたくさんある」とは、栃木の実験部主管・萩原裕の弁だが、このコンセプト作りでも、その特別ぶりは遺憾なく発揮された。
「こんなもんでしょ」
「そうだね」
吉川正敏がメモを見せ、渡邉衡三が答える。コンセプト・ワークは、それで終わりだったのだ。新GT-Rには何が必要で、何が求められているか。二人は、わかりすぎるほどにわかっていた。
まず、従来型のR32より速いこと、これは前提条件になる。旧型より性能的に劣るクルマは、新型車作りでは絶対に不可である。ただ「より速いクルマ」とは、「走り・曲がり・止まる」のすべての面での向上と、かつ総合バランスに優れたものを意味し、これは口で言うほどには簡単ではない。とくにこのGT-Rのように、「速さ」ひとつを取っても、前作R32でかなりのレベルにまで来てしまっている場合はなおさらである。
そして、使用エンジンのマキシマムの出力は「280ps」と決まっており、車体はR32よりも大きく、ホイールベースも長いことが既に決定している。この条件のもとで渡邉と吉川は、R32より高性能のクルマを作ることを求められたことになる。
この時に吉川は、このようなコンセプト・ワークと同時期に、スポーツカーとして車体が大きくなったら性能的には劣るはず……というエンジニアリング的な常識を、どうやって覆すかを考えていた。そして、それを最もシンプルに示すのは「速い!」という厳然たる事実の呈示だと思った。同じ場所を走って、明らかにタイムが違う。これなら誰に対しても問答無用で、高性能であることをわからせることができる。
最後は「ニュル」で証明する! この時から彼はそう決め、この「はっきりと証明したい」というスタンスは、後に、よりはっきりと証明できる「Vスペック」バージョンの設定へと展開していく。GT-Rとして販価が多少高くなってしまってもいい、R32に比べて明らかに速いクルマを、俺は作る!
コンセプトは、こうしてすぐに決まった。問題はその実現である。
新型「R33GT-R」を作るための作業がはじまった。まず、図面が引かれ、デザインが検討される。設計図がかたちになり、構成部品ができあがると、まずユニットで試験をし、それがクルマに積まれ、車上でのさまざまなテストが始まる。
社外にはまだ発表前だが、次期R33の基準車は、既にプロトタイプが社内には存在していたので、開発陣はそれを『R』にモディファイし、4WDやボディ内外装などのテストや検討を行なった。ただし、次期型のボディがあるといっても、エンジンだけは簡単には載せ換えられないので、GT-Rの専用エンジンである「RB26DETT」を載せての高速走行実験や、走ってみなければやれないエンジンのテストは、ボディはR32GT-Rの格好のままで行なわれた。
一方で、対マーケットの戦略としては、販売中のR32の追加&強化バージョンをいくつか市販する予定もあったから、この時期のニッサンのテストコースでは、たくさんの「R32GT-R」が走っていたが、その内容は実は多種多様であった。たとえば、外観は既に市販済みの格好のままながら、ブレーキや4WDのチューニングが全然違うというテスト車がある。さらには、いずれはR33に載せられるための新メカを装着した、内容的にはまったく新しい“32の皮を着た33”と呼ぶべきGT-Rもいる。
1992年の5月に行なわれたニュルブルクリンクでのテストは、対外的には「R32・Vスペック」の市販に向けての確認テストということになっていた。それは事実だが、現場にはもう一台、中身はまったくR32とは別で、格好だけはR32であるというクルマがコースに持ち込まれていた。
91年にずっとユニットの状態でテストを続けていたさまざまな新メカや、新しい考え方によるクルマの制御テクノロジーなど、つまりR33GT-Rのための「要素技術」を満載した先行実験車がそれである。そして、この極秘のテストカーである“32の皮を着た33”が記録した「ニュル」のラップタイム、それが「8分13秒」なのであった。
このテストの結果、R33GT-R専任主担の吉川正敏は、R33用にこの2年間にNTC(厚木)で用意した各種の新しい「要素技術」は、実験部(栃木)の実走によるテストでも、そのポテンシャルを確認できたと認識する。同じように栃木でも、実験部の萩原裕主管が「課題はあるが、何とかなりそうだ」、つまり従来型であるR32のGT-Rを「超えられるであろう」との見通しを持つ。
このテストをその場で見ていた渡邉衡三は、次期GT-Rについて、まずひとつの目安をつける。そして、その6月のニュル24時間レースに、ブレンボ装着のR32スカイラインGT-Rを参戦させるのである。
これはレース部門に、R33プロジェクトのうちから予算を回して参戦させたものといわれ、渡邉の知りたかったこと、やりたかったことは、ブレンボのブレーキを市販車に付けることについての最終確認であり、そのための24時間耐久レースへの参加だった。ただ、ブレンボ付きのR32は市販していないので、N(ノーマル)クラスではなく、より改造範囲の広いグループAクラスへのエントリーとなった。
この8ヵ月後の93年2月に、R32のVスペックが発売されることになるのだが、その仕上げの作業と並行して、R33・新GT-Rのプロトタイプの開発が進められていた。この種のクルマの試作は、NTC(厚木)内の試作車のための工場で行なわれるが、「試作」という名が付いているとはいえ、かなりの量産規模を持つ本格的な組み立てラインがあるといわれ、いわゆる手作り的な試作車作りをイメージするのは大きな間違いであるらしい。
そして、1993年の初頭。レーシングカーを運ぶようなアルミのバンが厚木を出て栃木に向かった。その中には一台の、明らかにR33の基準車とは違うクルマが収められていた。ついに、R33スカイラインGT-Rのプロトタイプができあがったのである。
だが、栃木のテストコースをちょっと走っただけで、評価ドライバーの加藤博義は、ほとんどクルマを蹴飛ばさんばかりにして降りてきた。そして、言った。
「全然ダメ。点数? そんなもの付くレベルじゃない。30点だよ、これ!」
(第6章・了) ──文中敬称略