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家村浩明のブログ一覧

2014年11月24日 イイね!

第5章 決断!

第5章 決断! ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

ニッサンの社員は毎年、暮れが近づくと少しソワソワするという。当時、つまり1990年頃のニッサンの人事異動は1月1日付けで行われたからだ。上司から、何月何日には席にいられるかと尋ねられたり、いついつキミは居場所をはっきりしておくようにという指示が出されたら、それは確実に「何かあるな」と思わなければならなかった。吉川正敏は、1991年にそういう12月を迎えた。その時に所属していたのは、技術開発企画室である。

「901活動」の中枢から、設計屋としてフロントのマルチリンク・サスを作り、それがプリメーラとR32スカイラインに活きた。R32GT-Rのブレーキを中心とするモディファイに没頭し、より高性能のGT-Rの可能性を発見した。あるいはPRビデオや社内のモータースポーツ誌の編集に関わり、サーキットでのR32GT-Rの動向に注目し、そして89年からは企画室のスタッフとして、次期GT-Rのそれを含む社内のすべての「先行」に首を突っ込んだ。

そういう吉川が、12月のある日、技術開発企画室のボスである専務の三浦登から、某日の居場所の問題を打診されたのだ。(あ、来たな……)と吉川は思った。それは、どこへ行くのかはまだわからないが、どこかへ異動することは確実になったことを意味していた。

「ただねえ、それが微妙な言い方なんですよ……」、吉川はいまにして、こう明かす。三浦は吉川に、「このたび、商品開発に行ってもらうことになった。そこでスカイラインを担当してほしい」とだけ言ったという。担当すべき機種はあくまでも「スカイライン」、この時「GT-R」という名は出なかった。

おそらくだが、この時点での三浦にとっては「新GT-R」はまだ「やる」と決まったわけじゃないというものだったのだろう。あるいは、やれるかどうか、世に出せるかどうか、まだわからないというクルマだった。

「でも、だからといって(新GT-Rの)リサーチをやれというんじゃないんですよね……」(吉川)。新GT-Rを、やるべきなのか、やるべきでないのか。さらには、旧型を明らかに超える新GT-Rは可能なのか。ニッサンの役員会のレベルでも、最終的な決定あるいは判断を、なかなかしかねていた、そのことが窺える挿話であるかもしれない。

ただ、はっきりしていたことがある。この数週間ほど前に「決断」はなされていた。少なくともひとりの男の中では、新GT-Rを「やる」ことが決まっていた。決断したのは、商品本部長になっていた三坂泰彦である。

1991年の11月末。場は、商品部と開発部の合同検討会の席だった。三坂はそこで開発部に、「R33GT-R」を商品化してほしい旨の強い希望を述べた。同席した車両設計と実験のトップは、そこまで言うならと、商品本部からの要請を受けた。そして、異論がなくはなかったからこそ、三坂の決意は固かった。「やると決めた、決めたからには不退転でやる」、三坂はこう宣言した。

新GT-Rへの、2年間にも及ぶ「先行開発」と模索の時期が終わった。ついに、ゴーサインが出たのだ。

ただちに、1992年の1月1日付けで、R33GT-Rの主管に渡邉衡三が任命される。そして、基準車の実験主担とは別に、GT-R専任の商品主担として吉川正敏が就任した。それまでに例のなかったこの「専任主担」職の存在は、GT-Rがほとんど独立した別機種であることの証明であるとともに、商品本部長・三坂の「R33GT-R」完成への強い決意と期待の現われでもあった。

三坂はひと言、渡邉に「やれるよな?」と言った。渡邉は、ついに来たと思った。実はこの半年ほど前に、三坂から「やるかもしれないぞ、そのときは(おまえで)行くぞ」という決意を聞いていたからだ。そして同時に「江夏の21球」(注1)を思い出していた。(ノーアウト満塁……もう後はない!)

そして一方で、事の重大さに身を引き締めた。「GT-R」という名声を傷つけることは絶対にできないし、商品として失敗することも許されない。また、もしここでGT-Rが成功しなかったら、会社は二度と、このような高性能車を作ろうとしなくなるかもしれない。責任は重大だった。主管となった渡邉衡三はこれ以後、心の中で書いた辞表を常に懐にして、仕事をしていくことになる。

主担に指名された吉川正敏にとっては、この人事は青天のヘキレキだった。何の予兆もなく、いきなりGT-R(の専任主担職)が飛び込んできた。そして、この三坂の決断には「賭けに近い期待」を感じた。三坂は技術屋出身ではない。だからこそやれた、飛躍も含んだ決断にも見えた。(ブツや技術がどうなってるからというのじゃなくて、まず然るべき人間を集めて仕事をさせる。そうすれば、きっとR32は超えるであろう、いや、超えるに違いない……。これはそういう要求をこめた人事だ)

渡邉が満塁のピンチを迎えた投手の心境なら、吉川は好機に起用された代打者のようだった。ただし、これは絶対に凡退することが許されない代打である。吉川は思った、もしここで三振でもしたら、選手生命が問われるな、と……。

吉川正敏は、1976年の入社というから、渡邉衡三とはほぼ10年違いになる。入社当時に「荻窪」で、初めて自分が仕事をする社屋と向かい合ったとき、吉川は(これはけっこう汚い建て屋だなあ)と思ったという。その社内の廊下を一緒に歩きながら、人事担当者が言った。「キミの上司はすごくきびしい人だから、ぜひ頑張るように」。

誰なんだろう? ……その名前を聞いた吉川は驚愕した。彼はプリンスR380が勝利する「日本グランプリ」をTVで見て、路上にS54Bが止まっていると舐めるように見続けた自動車少年だった。そのクルマの設計者の名は、もちろん知っている。それと同じ名前が、そのとき自分の上司として、人事担当者の口から発せられたのだ。吉川正敏もまた、渡邉衡三と同じく、「桜井真一郎」と「荻窪」をルーツとするエンジニアであった。

こうして、R33と新GT-Rのプロジェクトが、ついに回り始めた。

(第5章・了) ──文中敬称略

○注1:江夏の21球
1979年のプロ野球日本シリーズ、近鉄バファローズ対広島カープ。両者3勝3敗で迎えた第7戦。広島1点リードの9回裏、マウンドにはリリーフ・エースの江夏豊。先頭打者にヒットを打たれ、無死満塁・一打逆転サヨナラ負けのピンチとなる。しかし江夏は犠牲フライも打たせず、さらにスクイズを外して、近鉄を無失点に抑え勝利した。広島カープは初めての日本シリーズ制覇。「21」は、この9回裏に江夏が投げた球数。

 ── 『最速GT-R物語』 第1部 了 
2014年11月23日 イイね!

第4章 先行研究 その2

第4章 先行研究 その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

若手エンジニア二人のヨーロッパ行きには、もちろん、具体的な目的があった。それは当時のパルサー(N13型)欧州仕様の「足」のスペックを探ることである。それを現地を走って決めて来い、これが宮田の吉川へのオーダーだった。そして宮田は吉川に、次のようにひと言付け加えることを忘れなかった。「向こうのクルマにも乗って来いよ」

1週間の間、パルサーのバネを換えショックアブソーバーをいじりながら、吉川は同僚の中村郁夫とともにヨーロッパを駆け回った。パルサーにもたっぷり乗ったが、宮田に指示されたように、他社のクルマにも乗った。そしてそこで、シャシー屋として重大な発見をする。欧州にはこんなに素晴らしいクルマがあるんだ!という驚きである。そのクルマとは、VWゴルフのGTIだった。

ベルギーからスイスへ、アウトバーンを一日に1000km以上、文字通りにノンストップで走る。このクルマは、それができた。一日ずっと乗っていられる、クルマで走り続けることができる、そういうクルマがあるのだ。この事実は衝撃だった。

それができるクルマとは、どういうクルマか。何がどうなっていれば、そんなことが可能なのか。吉川は必死でゴルフGTIというクルマを探究した。

まず、人間の身体によく馴染むということがあるだろう。だから、クルマに乗りつづけられる。また、触れつづけてイヤにならないためには、クルマが余計な動きをしないこと、そしてクルマを操縦することがずっと“快”であり続けることが必要になるはずだ。単にシートの出来云々だけで語るべき問題ではない。

さらには、情報性という問題もある。いまクルマがどうなっているか。もっと言えば、タイヤがどういう状態か。ゴムはどう接地していて、さらに、これからどうなろうとしているのか。これらをドライバーが感知できるから、ドライビングが積極的な喜びにも変わるのだ。重要なのはインフォメーションだった。そしてもっと絞れば、それはステアリング・インフォメーション──この一点に集約される。

また、ドライバーの「入力」に対してのクルマのレスポンスという問題もある。その自然さ、もっと言えば“人間らしさ”だ。それは、ただ反応が速ければいいというものではない。動こうという人の意志がそのままクルマの動きとなるような、そんなレスポンスだ。

吉川は少しずつ、ゴルフGTIを解析していく。そして思った、これは確実に負けている、と。同時に、だからこそ、必ずや越えねばならないとも思った。

キャッチ・ザ・GTI。帰国後の吉川は、このコピーを掲げて、社内で新しい「走り」を語る“宣教師”となった。それは、シャシー屋の同僚への具体的な目標の呈示でもあったし、同時に、現実をしっかり把握しろという檄でもあった。実力の差、わかってるのか、本気でやれよ! シャシーは、一番劣ってるんだぞ! こういう問いかけである。

ここから始まった吉川の設計屋としての足回りでの先行開発は、フロント・マルチリンク・サスペンションとして、後にプリメーラ、そしてR32スカイラインで結実することになる。

そして、帰国後の吉川が語る、以上のようなあり得べきクルマの挙動について、大いなる共感を示したひとりに、実験部の矢崎幸明がいた。ステアリングを切ったら、切った通りに曲がるクルマ、勝手に横を向いたりしないクルマ。彼らはまずそれをめざし、そこから、それだけではダメだとして、ドライバーとクルマとのコミュニケーション、具体的には“尻のGセンサー”へ、さらにステアリング・インフォメーションへと課題を作って進んで行った。

そういう活動に、実験の現場の立場から、加藤博義や川上慎吾が加わり、こうすればいいんじゃないかという意見を出した。たとえば、操舵感の向上とそのダイレクトさを創るためには、前輪だけのチューニングでは不十分で、リヤ・サスのグリップとの相関関係が不可欠だというのは、加藤と川上からの問題提起だった。

後に、R33スカイラインのテーマとして対外的に掲げられることになる「意のままに」というフレーズは、こういう活動の中から、矢崎がふと口にしたものが、そのオリジンである。

さらに吉川は、その「ステアリング・インフォメーション」を重視したニッサンとしての新しい「走りの理念」を、つまり、クルマは決してハードだけではないというスタンスを、もっと世に知らしめたいと考えはじめる。素材は、デビューしたばかりのR32GT-R。それを使って、「ニュル」を攻めるGT-Rのビデオを作ったらどうだろうかと思いつく。その提案に、宮田が乗ってきた。

だが、話がそこまで行くと、コトはエンジニアや実験スタッフの手に余るレベルになる。制作費の問題も絡むし、社内誌なら手作りでやれても、映像となると制作スタッフも必要だろう。これはもう、営業に相談するしかないなと、宮田が言った。そこなら、この種の制作についてのノウハウもありそうだし、何より彼らは販促費というものを持っているに違いないのである。

宮田と吉川が出向いて行った先の部長席にいた恰幅のいい男は、「本当にやれるのか?」と聞き、すかさず「で、いくら要るんだ?」と言った。この男に会ったのは、吉川はこの時が初めてだった。決断のすばやいこの男の名を、吉川は一瞬で記憶した。

もちろん、このとき二人が交渉に行った当時の営業部長が、後に商品本部長となって、吉川正敏や渡邉衡三に「R33GT-R作り」という“ハード・ジョブ”を強いることになるとは、このとき吉川は想像だにしていない。彼こそ、ニッサン屈指のマーケティングの才人、三坂泰彦その人だったのである。

(タイトルフォトは、P10プリメーラのフロント・サスペンション)

(第4章・了) ──文中敬称略
2014年11月23日 イイね!

第4章 先行研究 その1

第4章 先行研究 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

1990年から1991年にかけて、もう少し具体的にいえば、89年夏にR32GT-Rをデビューさせてから91年の暮れまで。この期間、ニッサンと「GT-R」は社内的にも対外的にも微妙な時期を過ごしたということができる。

まず社内では、“ポストR32GT-R”のための各種の「先行実験」が続いていた。その成果を活かして、「Vスペック」などの新しいR32GT-Rも誕生した。これらはみな、R32GT-Rの「次」をやりたいがためのディベロプメントで、渡邉衡三が語ったのと同じように、GT-Rのスタッフもまた、R32で「高い山」に登ったがために、もっと高い山を見ていた。

一方、あのR32GT-Rを超えるクルマを作れるのかという疑問が、ほかならぬ社内から根強くあったのも事実だった。次期GT-Rを作るとして、ここにさらに上乗せできる新技術なんて、果たしてあるのか? 旧型よりもさらに高性能にすることはできるのか? R32GT-Rのエンジン出力は、国内発売車のマキシマム・パワーとして自主規制されている「280ps」に、当然ながら既に達している。次期モデルをさらに速くするとしても、エンジンのパワーを上げればいいという安直な手は、もう使えないのだ。

そしてここに、雑誌を中心とするジャーナリズムが絡む。社内の「批評的な見方」というのは、一部のジャーナリズムとも奇妙に共通するものだった。

──次期スカイラインは、どうも大きくなるらしいし、ホイールベースも伸びるってウワサだ。そうすると、GT-Rはどうなるのだろう? そもそもそういうベース車から“小さな旧型”より速いクルマを作れるのか? サーキットを見たって、同出力なら軽い方が速いのは自明の理だ。ニッサンは、R32に及ばないGT-Rを、もう一度作ろうとでもいうのか?

この時に支配的だった論調が新GT-R待望論ではなく、次期GT-Rに対して、多くは恐ろしくネガティブだったというのは記憶しておいていいことだ。R32GT-Rのブレーキ・キャパシティの不足、アンダーステアの強さといった欠点を一方で指摘しつつ、日本のモーター・ジャーナリズムは、まだ見ぬ来たるべきGT-Rに期待するのではなく、「60点」(実験部)だったR32GT-Rへの“愛惜の歌”だけを奏でた。この“トレンド”はここから先も、渡邉衡三と吉川正敏をはじめとするR33のスタッフを悩ませ続けることになる。

さて、そのような次期GT-Rを「やるか、やらないか」というリサーチの面も含んで、R33GT-Rの「企画」が社内でスタートしたのは、1990年の初め頃だったといわれる。この時の渡邉衡三は、R32の「まとめ」をやり終えて、クルマ作りの現場からは少し離れた実験部の主管という管理職に就いていた。

一方の吉川正敏は、80年代後半からこの時期にかけては社内を精力的に動き回っていた。後にその動きに最もふさわしい場として、彼には89年の10月から「技術開発企画室」という先行開発専門の遊撃的な部署が与えられたほどだ。彼はここに属していた約2年間の間に、社内のモータースポーツ誌の編集長も務め、同時に、ニッサンという企業全体の「先行開発」のプロデュースと舵取りを行なった。

彼は社内の先行的な研究をすべてヒアリングし、こういうやり方でやった方がいいという方向づけを行ない、ときにはテーマを与えて指導もした。そのリサーチの中には、今日、急速に注目されている「安全」や「環境」「リサイクル」も含まれていた。そして、これと時を同じくしてGT-Rの先行研究が始まり、吉川がそれに首を突っ込んで、「ハンパなら、いっそやらない方がいい」という辛口の発言をしていたのも、その立場ゆえだった。

吉川正敏は6代目にあたるスカイラインR30に、入社3年目の若手として関わったエンジニアで、そこでクルマの「開発から墓場まで」(吉川)を経験した。そしてこの時に吉川は、当時の呼称で「シャシー実験」に所属していた川上慎吾と出会っている。

川上は一エンジニアとして独自にLSD(リミテッド・スリップ・デフ)を研究し、それを装着して、さらにフロント・サスの支持剛性を上げ、ステアリングの取付け剛性も大幅に上げた“彼のスカイライン”を作っていた。それを吉川にも見せ、二人でテストコースを走り、「こういうクルマにしなければダメだね」と語り合っていた。

R30以後の吉川は、「先行」という立場に身を置き続け、ミッドシップの実験車「MID4」の研究と開発も行なった。ただこの時は進化のステージを上げ過ぎて、クルマがとても市販はできないようなレベルの“スーパーカー”になってしまったと、吉川は苦笑とともに言った。

そして、その「MID4」研究に吉川が一段落をつけた頃、社内呼称「P901」が始まるのである。後に「901活動」として、1990年にシャシー性能を世界一にする目的で始まったと外部にリリースされるこのムーブメントのシナリオを作ったのは、シャシー実験部の次長・宮田進であった。

宮田はまず、吉川ら若い設計のエンジニアを集めて、FR車のフロント・サスの先行開発を命じた。どうやったら「走る楽しさ」が生まれるか。それを新しい“ブツ”を作るという面からやってみろということである。また一方で宮田は、そういう若手にしっかりと現場での研修活動をさせることも怠らなかった。その一環として宮田は、吉川をヨーロッパに出す。

それまでのニッサンの海外出張は、いわゆる管理職がリーダーとなって行われることが普通だったが、宮田の考え方は違っていた。エライやつを出張に出すから、カネもかかるし、いろいろと面倒なんだ。若いのを外に出す分には、たとえば飛行機だってエコノミー・クラスで済む。エライのを一回行かせるより、若手を何回も現場に行かせた方がよっぽどいい。「……というわけで、小僧が二人だけでですね(笑)、ヨーロッパに行ったわけです」と、吉川は述懐する。

(つづく) ──文中敬称略
2014年11月21日 イイね!

第3章 実験部 その2

第3章 実験部 その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

栃木の商品実験部でスカイラインを担当したシャシー実験のスタッフは、R32GT-Rが発表されるとすぐに、実験部としてのモディファイに取り掛かった。社内では、R32GT-Rの出来は相当なレベルだという声もあったが、それを実際に担当した当の実験部は、そんな風には考えていなかったからだ。「せいぜい、60点……」とは川上の言である。

栃木・第一商品実験部の主管である萩原裕も、「R32GT-Rは、まだまだ向上できる部分がある。少なくとも100%じゃない」という認識だった。だとすれば、栃木としての、あくまでも“ブツ”に沿った、あり得べき「GT-R像」が要るし、また現場としても、それを探っていきたい。

いま振り返ると1991年の一年間は、ニッサン全体をあげての、「次期GT-Rはやるべきかどうか」の論議の年だったと位置づけられる。

ただ、あくまでもブツによって「思考」する立場の実験グループとしては、イメージや展望だけでものを言うことはできなかった。だから、彼らなりのR32GT-Rについての一年間以上のテストを行なっており、そこから栃木(実験部)としての次期GT-Rへの「感触」は得られていた。感触とはつまり、従来型のR32を超える新GT-Rを作ることは不可能ではないという展望である。

R33スカイライン主管の渡邉衡三は、実験部・萩原裕からの報告が、R33GT-R実現の契機のひとつになったと思っている。だが萩原は、渡邉のためにそんな後押しをした記憶はない。でも、もしそうだとすれば……と、萩原は言った。「何をやってこういうことをすれば、課題はあるけど、次の段階には行けるだろうという報告書は、たしかに書いた」

それは92年5月、「ニュル」でのR32・Vスペックのテストの後だった。ブレーキをブレンボにしてE-TSなどがチューンされた“新GT-R”は、ニュルブルクリンクのラップタイムを「8分13秒」にまで上げていた。これは、かつてR32のGT-Rがニュルで刻んだタイムから「マイナス7秒」である。その現場には萩原と川上がいて、そしてR33の主管になっていた渡邉もいた。

おそらくこの時に渡邉は、開発者として、そして主管として、ようやく一息ついたのだ。「ニュル」という場に、萩原、川上らの信頼する栃木の実験部がいて、実車があって(といっても、これはR32だが)、それが「ニュル」のコースをこうして速く走っている。そして、それを自分の目で見ている。(これだったら、何とかなるな……)この連中がいて、そして、R32をこれだけ速くした技術がある。これならR33でも「GT-R」は、きっと成立する。

このとき彼は、それまでの“悩める主管”から、ほんの少しだけだが、前へ踏み出すことができたのだろう。そのくらいに、R32を超える「新GT-R」を作るということは、主管・渡邉にとってはヘビーでタフなテーマだった。

この点について渡邉は、次のような「厳粛な数字」を挙げて、その胸の内の一端を明かしたことがある。R32のGT-Rは、結果的には、作り手の予想をはるかに超えるヒットとなり、累計でおよそ4万台がさまざまなレベルのカスタマーの手に渡った。これは8代目であるR32スカイラインの、実に十分の一はGT-Rであることを意味していた。つまりGT-Rの次作への期待とその度合は、ゼロ・スタートだった前回のR32に比べるなら、いわば4万倍なのだ。

さらに渡邉は、そっと言った。R32で、たしかにGT-Rは作った。だが、そのときの販売目標台数は、月販でたったの200台だった。R32主管の伊藤修令は、GT-Rでレースをしようというのはいいけれど、ホモロゲーション(注1)はいったい、いつになったら取れるんだろうかと、主担の渡邉に冗談ともなく言ったという。R32のGT-Rは、はっきり言って売れなくてもいい機種だった。そして、だからこそ、技術屋は逆に自由だった。

だが、R33は違う。代替需要だけを考えても、その母体が4万台もあるのだ。「ニュル」でのモディファイされたGT-Rの快走が渡邉に与えた安堵感というのは、おそらく彼にしかわからないものであったろう。

この時の「ニュル・テスト」の報告書に、実験部の責任者として萩原は、以下のような内容のことを記している。「さらに“こういうこと”をやれば(ブツとワザを揃えれば)、ニュルでのラップタイムは、現在の8分13秒から、8分のひとケタ台には入れるであろう」……

ただ、「ひとケタまで行けるのなら、8分だって切れるだろう!」と言い出す男が出現するとは、その時スタッフの誰もが予想すらしていなかったが。

○注1
ホモロゲーション:市販車として一定以上の台数を生産することによって、そのモデルに与えられるレースへの参加資格。

(第3章・了) ──文中敬称略
2014年11月21日 イイね!

第3章 実験部 その1

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

宇都宮からクルマでおよそ半時間。上三川町にあるニッサンの栃木工場は、セドリックなどFR車の量産ラインを持つ生産工場であるが、もうひとつ、ニッサンFR車の開発と実験を行なう「第一商品実験部」の本拠になっている。

1989年8月、R32GT-Rデビューのその翌日。シャシー実験部(当時の呼称)の川上慎吾は、出社するとすぐ構内のテストコースに赴き、デビューさせたばかりのR32GT-Rに乗り込んでいた。念願としたGT-Rの「復活」は成った。そして、かなり速いクルマにすることもできた。しかし、どこかすっきりしない。(残ってる、まだ、やり残してる……)

実験屋として、未完成のままに商品(R32GT-R)を世に出したとは思わない。ただ、「やり切ってない」という部分をいくつか残したまま、R32GT-Rは、川上らスタッフの手の中から、ひとまず飛び立ってしまった。

走りを極めたい! 主管・伊藤修令も実験主担・渡邉衡三も、そして栃木・実験部の面々も、そういうテーマのもとにR32GT-Rに取り組んで来た。クルマはできた。高性能であり、かなり速く、そして新コンセプトの4WD(E-TS)やスーパーハイキャスなどの最新のハイテクも、それだけが目立つことがないようにクルマに溶け込ませた。そして、あのニュルブルクリンクに行って、タフなオールドコースを「8分20秒」で走ることもできた。

しかし、走りを極めたいという割りには、どうだったろうか。川上は、心の中でピックアップする。(まず、タイヤか。そしてE-TSも、何とか一応まとめたなというレベルだろう)(そうそう、ブレーキとクラッチもある……)

実験部にとってのクルマ作りというのは、きわめて即物的である。あくまでもモノがあって、それをどうしていくのか、どう修正するか、どうまとめて行けばいいのかという攻め方をする。新しい何か(パーツ)を創りだすことで新展開を図ろうというのが「設計」の発想だとすれば、「実験」は徹底的に“ブツ”につくのだ。

ただし、その“ブツ”について、どうすれば良くなるのか、どうしたらディベロプメントできるかという手段は、実験部の独自のノウハウとイマジネーションに任されている。

商品実験部の評価ドライバーであり、R32スカイラインを担当し、そしてR33GT-Rでもう一度、スカイラインのクルーに呼び戻されることになる加藤博義は、それを「料理」にたとえた。ある材料を与えられて、それをどこまで旨いものに仕上げられるか。それが実験の仕事だというのだ。

したがって、その「メニュー」は豊富でなければならないし、どう調理するかという方法の蓄積も要る。実験部は日頃から、その蓄積のためのテストを怠らない。そして、そこで得られた成果を“貯金”しておく。

たとえば実験部として、FRはこうでなくちゃいけないという足回りについての研究成果があり、それを“技術銀行”に預けておくのだ。そしてそこから、実験部は折りに触れて“定期”を引き出す。その“貯金”には、1年もの、3年ものなど、いくつもの種類がある。これが実験にとっての「先行開発」なのである。

ただ、何でも巧みに料理するのがその責務だといっても、素材によっては、実験部によって修整できる範囲を超えている場合もなくはない。クルマ作りにおいて、設計と実験の両部署は、このような意味での緊張関係を持つ。

たとえば、テストすべき“ブツ”を与えられた実験部が言うかもしれない──こんなものしか作れないのか、と。一方“作品”を任せた設計陣は、あの素材からこんなまとめ方になるのかと不満を持つかもしれない。それぞれの技術と能力をかけた、技術屋同士のバトルというべきであろうか。

(つづく) ──文中敬称略
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プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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