
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
自動車メーカーが市販車を作るというプロジェクトの中で、ニッサンの場合「実験主担」という名で呼ばれる極めて重要なポジションがある。
通常、あるクルマの開発担当者として人々に知られるのは、メーカーによってその呼び方は違うが、ニッサンの場合は「主管」である。そして、時にはその主管の名で「誰それの ※※ 」として世に認識されることもある。たとえばスカイライン「R32」は、現在はオーテックジャパンにその活動の場を移した「伊藤修令のスカイライン」であった。
この主管とは、そのプロジェクトの最終責任者であるが、ニッサンの場合、技術畑以外からその任に就くこともあるし、またそれも可能である。なぜなら、予算やマネージメント、さらには広報や広告展開までも含んでの総合管理がその業務だからだ。
しかし、実験主担はそうではない。エンジニア以外ではまず無理だろう。そもそもこのポジションは、その名で想像されるような、何か既にできあがったものの実験やテストを担当するというポジションではないからだ。他の世界でいうと、主管が映画における「プロデューサー」なら、実験主担は「監督」だろうか。
主管のコンセプトをハードウェアのかたちに“翻訳”して設計陣に指示し、達成すべき目標を設定して、試作車という具体的なかたちにする。厚木のNTC、つまりニッサン・テクニカルセンター内の試作部が作ったそのプロトタイプ(原型)をベースにデータを取り、さまざまなテストを続け、市販に向けてクルマを仕上げていく。それが終わると、生産工場に生産型の試作を発注。今度は、その工場で作った試作車が当初のコンセプトを充たしているかがチェックポイントとなる。
総合管理職の主管とは違って、コストや販売などの余計なことを考える必要はないし、またその暇もない。クルマ作りの現場の実戦部隊の長であり、現場と品質の責任者であり、見方によっては最もピュアにクルマそのものに関わりつづけて、無から有を生む「新型車作り」という作業に取り組む。これが、ニッサンにおける実験主担というポジションである。
その実験主担という仕事を、ちょっと図式化してみる。まず大きなところとして、パワートレーンと車両のそれぞれの設計部があり、このほかに各種部品の設計部がある。そして設計されたもののテスト部隊であるパワートレーン実験部と車両実験部があり、さらに総合的な商品実験部というセクションがある。以上の“機械っぽい部署”のほかに、もうひとつデザイン室というソフトな部署もここに加わってくる。
以上のすべての部署を仮にダンゴのように並べて、一本の串を通したとすると、この各種の多様な部署は一応つながることになる。その「串」の役目をしつつ、なおかつ関係するすべての部署による仕事の“あがり”具合とその品質に責任を持つ。これが実験主担という職務である。
そして、映画が最終的には「監督」のものであるなら、ひとつの新型車もまた、その実験主担の個性や人格が濃密に反映されたものとなる。クルマは“著作権”こそ主管に属するのであろうが、細部は実験主担のものなのだ。
1989年5月、8代目のスカイラインである「R32」が発表され、その3ヵ月後に「GT-R」がデビューした。主管、伊藤修令。そして、GT-Rを含むこのR32の実験主担を務めたのが、最新スカイライン「R33」の主管、渡邉衡三なのである。
このGT-Rは、伊藤と渡邉の二人にとっては単なる新型車ではなかった。それは『復活』だった。
とりわけ渡邉は、1967年にニッサンに入社しての最初の仕事が、あの桜井真一郎のもとでの初代GT-R(GC10)レース用サスペンションの開発だったのだ。渡邉はいまでも、自身を桜井真一郎直系の最後の弟子と認識している。機械工学科出身の新人社員・渡邉は、桜井にときにはスケールで叩かれながらも、懸命に設計図に線を引いた。さらに、つづく「GC110」、いわゆる“ケンメリGT-R”の「足」の基本計画にも参加した。
だが、こうして二世代に渡って作られたGT-Rは、これ以後16年間、人々の前から消える。スカイラインからそのキャリアをスタートさせたエンジニア・渡邉衡三もまた、スカイラインのプロジェクトからは離れた。ニッサンにとっても、またスタッフにとっても、そしてマーケットやカスタマーにとっても、さまざまな意味で『R』は、1989年のR32まで、いわば封印され続けたのである。
(つづく) ──文中敬称略
(タイトルフォトは「80 YEARS OF MOVING PEOPLE」より)
Posted at 2014/11/16 11:33:16 | |
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