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家村浩明のブログ一覧

2014年11月16日 イイね!

第1章 実験主担 その1

第1章 実験主担 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

自動車メーカーが市販車を作るというプロジェクトの中で、ニッサンの場合「実験主担」という名で呼ばれる極めて重要なポジションがある。

通常、あるクルマの開発担当者として人々に知られるのは、メーカーによってその呼び方は違うが、ニッサンの場合は「主管」である。そして、時にはその主管の名で「誰それの ※※ 」として世に認識されることもある。たとえばスカイライン「R32」は、現在はオーテックジャパンにその活動の場を移した「伊藤修令のスカイライン」であった。

この主管とは、そのプロジェクトの最終責任者であるが、ニッサンの場合、技術畑以外からその任に就くこともあるし、またそれも可能である。なぜなら、予算やマネージメント、さらには広報や広告展開までも含んでの総合管理がその業務だからだ。

しかし、実験主担はそうではない。エンジニア以外ではまず無理だろう。そもそもこのポジションは、その名で想像されるような、何か既にできあがったものの実験やテストを担当するというポジションではないからだ。他の世界でいうと、主管が映画における「プロデューサー」なら、実験主担は「監督」だろうか。

主管のコンセプトをハードウェアのかたちに“翻訳”して設計陣に指示し、達成すべき目標を設定して、試作車という具体的なかたちにする。厚木のNTC、つまりニッサン・テクニカルセンター内の試作部が作ったそのプロトタイプ(原型)をベースにデータを取り、さまざまなテストを続け、市販に向けてクルマを仕上げていく。それが終わると、生産工場に生産型の試作を発注。今度は、その工場で作った試作車が当初のコンセプトを充たしているかがチェックポイントとなる。

総合管理職の主管とは違って、コストや販売などの余計なことを考える必要はないし、またその暇もない。クルマ作りの現場の実戦部隊の長であり、現場と品質の責任者であり、見方によっては最もピュアにクルマそのものに関わりつづけて、無から有を生む「新型車作り」という作業に取り組む。これが、ニッサンにおける実験主担というポジションである。

その実験主担という仕事を、ちょっと図式化してみる。まず大きなところとして、パワートレーンと車両のそれぞれの設計部があり、このほかに各種部品の設計部がある。そして設計されたもののテスト部隊であるパワートレーン実験部と車両実験部があり、さらに総合的な商品実験部というセクションがある。以上の“機械っぽい部署”のほかに、もうひとつデザイン室というソフトな部署もここに加わってくる。

以上のすべての部署を仮にダンゴのように並べて、一本の串を通したとすると、この各種の多様な部署は一応つながることになる。その「串」の役目をしつつ、なおかつ関係するすべての部署による仕事の“あがり”具合とその品質に責任を持つ。これが実験主担という職務である。

そして、映画が最終的には「監督」のものであるなら、ひとつの新型車もまた、その実験主担の個性や人格が濃密に反映されたものとなる。クルマは“著作権”こそ主管に属するのであろうが、細部は実験主担のものなのだ。

1989年5月、8代目のスカイラインである「R32」が発表され、その3ヵ月後に「GT-R」がデビューした。主管、伊藤修令。そして、GT-Rを含むこのR32の実験主担を務めたのが、最新スカイライン「R33」の主管、渡邉衡三なのである。

このGT-Rは、伊藤と渡邉の二人にとっては単なる新型車ではなかった。それは『復活』だった。

とりわけ渡邉は、1967年にニッサンに入社しての最初の仕事が、あの桜井真一郎のもとでの初代GT-R(GC10)レース用サスペンションの開発だったのだ。渡邉はいまでも、自身を桜井真一郎直系の最後の弟子と認識している。機械工学科出身の新人社員・渡邉は、桜井にときにはスケールで叩かれながらも、懸命に設計図に線を引いた。さらに、つづく「GC110」、いわゆる“ケンメリGT-R”の「足」の基本計画にも参加した。

だが、こうして二世代に渡って作られたGT-Rは、これ以後16年間、人々の前から消える。スカイラインからそのキャリアをスタートさせたエンジニア・渡邉衡三もまた、スカイラインのプロジェクトからは離れた。ニッサンにとっても、またスタッフにとっても、そしてマーケットやカスタマーにとっても、さまざまな意味で『R』は、1989年のR32まで、いわば封印され続けたのである。

(つづく) ──文中敬称略

(タイトルフォトは「80 YEARS OF MOVING PEOPLE」より)
2014年11月15日 イイね!

シティ1300に見る、日本的マイナーチェンジの方向

シティ1300に見る、日本的マイナーチェンジの方向§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

ホンダ・シティのエンジンが一回り“太く”なった。ボディ造りがタイトになった。シートが豊かになった。

1.3リッターへのスケールアップ。お得意のコンピュータによるプログラムド・フューエル・インジェクション(PGM-FI)による武装は、1.2リッター時代の、よく吹けるけれども「下」のトルクが細いというエンジンから、オールラウンドな性格のパワーユニットに変わった。試乗車はマニュアル・シフト車であったけれど、さぞやオートマチックとよくマッチングするであろうと思われるエンジンになっている。

ボディはロードノイズをよく遮断し、ドアの閉まり音もがっしりと、確実にワンランク以上の向上を果たして、小さいが充実したクルマとなった。シートも、形状などには文句の付けようはあるけれど、まずは全体に大きくなり、色彩感覚や表皮の素材の印象も“コドモ”でなくなり、センス的にも大幅にグレードアップした。

……と、まことにおめでたい限りで、コングラチュレーション!でもあるのだが、ウーン、この(大きな)マイナーチェンジには、若干の感慨をなしとしない。

まずは「1.3リッター」なのだが、これはシティの場合は、べつにモータースポーツ・フィールドからの要請ではないだろうし、つまりは、他車並みにということでしかないだろうと思う。

「これ、いくつ? 1200? そうか、1200かぁ……」と、同クラス同サイズ他車のエンジン・キャパシティが思い出されて、そして中には1.3リッターにターボまで付いているのもあるのが現状だからして、それだけで既に“負けて”しまう。……という意見を洩らしたのは、実はホンダ・サイドであって、ぼくではない。

敢然と1カム。ツインカム駆動ではない16バルブ。ボディと最もマッチしたパワーと排気量。エンジンは一種だけ。ターボなどは出さない、「零戦」のバランスだとしたホンダ・シティの「哲学」は、他車並みでないというひと言で、あっけなく吹っ飛ばされてしまった。あるいは「スカートの丈を揃えなさい」風の声の前に、あえなく屈してしまった。

そして、もうひとつ。エンジンと足さえ良ければ、それは十分にクルマとして良いのだという在り方も、ニッポン市場は葬り去ったのだ。ほとんどスポーツカーと呼んでもいいほどに走りまくったとしても(シティのことである)それでも、ダメ……。装備や豪華さへの志向が、このようなベーシック・サイズのクルマにおいても、やっぱり必要なのだった。

たしかに、1.2リッター時代のシティの、たとえばシートはプアであり要改良点だったけれど、でも、それに代わるものとしての「走り」の性能は、やっぱり商品力とはならなかった。そして、以上の点は、HONDAというブランドにおいても超えられなかった。このこともまた、もうひとつの感慨である。

シティが「良く」なって、小さな充実車としてお奨めさえしてしまうけれど、なぜか、とってもフクザツな心境で、その「成長」を見つめてしまう、今日この頃……。きっと、機能(ファンクション)の時代が、ほんとうに終わったということなのでしょうな。

(1988/11/29)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
シティ1300(88年10月~  )
◆かつてエンジンの排気量1000cc=1リットルから「リッター・カー」と呼ばれた小型車は、現在、多くが1300ccを普通とするようになった(マーチを例外として)。軽自動車界からの突き上げも急で、このクラスとしての違いを明確にする必要もあったのだろう。また、あるメーカーによれば、この国のマーケットは1500ccという税制の境には敏感だが、1000cc以下での数千円の差額については、ほとんど無頓着なのだそうだ。軽の新規格が市場に出て来て後の、このクラスの対応もこれからの注目点になる。

○2014年のための注釈的メモ
トールボーイとあだ名された初代のシティから、二代目へフルチェンジ。この時に聞いた開発担当者の熱気溢れるコメントは忘れがたい。報道陣に向けての新型車プレゼンという場で、「えー、先代は“イヌっころ走り”だったので、今回はすばしっこい“ネコ”にしました」と言ったのだ。前モデルは前モデルでしかなく、継承はせずに、その都度ゼロ・スタートする。80年代ホンダは、こんなスピリットと社内風土の中で、新型車開発に臨んでいたと思える。「零戦のバランスだ」というキャッチーなフレーズも、この二代目の開発陣が発したものである。
Posted at 2014/11/15 09:53:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年11月14日 イイね!

プロローグ ~ スカGからGT-Rへ その2

プロローグ ~ スカGからGT-Rへ その2 ~ 1996年・刊『最速GT-R物語』(双葉社)より

だが、1973年に登場した2代目の「GT-R」は、ついにサーキットにはその姿を現わすことなく、また市販モデルとしても、百数十台を生産するだけに終わった。オイル・ショック、排ガス対策……。クルマがもう一度、その基本キャラクターのひとつであるコンペティティブな性質や猛々しさを取り戻すには、日本自動車界は80年代いっぱいまでの時間を必要とした。

ニッサンはこの間、どんなにスポーティな、また戦闘的なスカイラインを作っても、それに「GT-R」という名を与えていない。

一方では日本のモータリゼーションも成熟し、スカイラインもマーケット内で「上級セダン」としての役割を課せられるようになる。1981年の6代目スカイラインは「R30」と呼ばれ、これ以後のスカイラインは、その車型名として、Rの後に数字を付けるという方式を採るようになるが、それと同調するかのように、80年代のスカイラインはアッパー・セダンとしての性質を強めていった。

いつの間にか、あの「スカG」という語も、遠く60年代の記憶になろうとしていた1989年、マーケットに衝撃が走る。小さな小さなスカイライン! 「R32」が出現したのだ。それは、かつて「GC10」や「GC110」に関わった人々が中心になって、「運動性」を最重視して作り上げた新生スカイラインであった。

そして、その基準車の発表に遅れること3ヵ月。ついに、消えていたあの名前が立ち現われる。『GT-R』である。

時は1989年の8月だった。すぐにこの「R32GT-R」は、最強の市販車を決めるというべき市販車・改のツーリングカー・レース(グループA)に参戦。90年3月のデビューレースを1~2フィニッシュで飾った。新型車発表とレーシング・シーンを連動させるという方法は、GC10デビューの時と同じである。

そして、どれが勝つかという興味ではなく、このGT-Rが勝つレース、GT-Rが走るレースを見たいとして観客が殺到。「グループA」は一躍、日本で最高の集客能力を持つレースイベントに成長する。そんなファンの期待通りに、「R32GT-R・改」はサーキットで連勝を重ね、その勝ち星は最終的には「62」にまで達した。このレースでの強さと並行して、R32GT-Rは最速の市販車として君臨。高価であるにもかかわらず、マーケットで根強い人気車となった。

90年代、「スカG」はたしかに死語になっていた。だが代わって、『GT-R』が速さと強さと憧れの記号になったのだ。スカイラインを“スポーツカー”にするという野望は、こうして成功したかに見えた。またGT-Rによって、それまでスカイラインに見向きもしなかった若いカスタマーを獲得することもできた。

だが一方で、「小さなR32」が失った、大人の、あるいは家族持ちの、長年のスカイライン・ユーザーの数も、また少なくなかった。量販をめざす上級車としてのR32は、歴代のスカイラインの中でも、トータルな販売台数として見るなら決して成功車とはいえなかったのだ。

90年代前半、マーケットとカスタマーにとっての「スカイライン」と「GT-R」とは、まったく顧客層や購入の目的が違うという意味で、もはや別の機種と呼ぶべき状況になっていたのかもしれない。

だが、新車開発はつづく。R32につづく新型スカイラインのコードネームは「R33」となった。そして、そのR33でもGT-Rを作ることが、ある日決定される。その社命を受けて、R32GT-Rというちょっと異様な熱気に支えられた人気モデルの後に、新たにふたたび『GT-R』を作ることになった男たちがいる。

この物語は、そのようなエンジニアたちが、一台の新型車を生み出すためにどのようなジョブを成したのかを語ってみようという試みである。スカイライン「R33GT-R」というモデルは、何をめざし、何と闘い、どのようにしてデビューに至ったのか。

そして、これは「GT-R」というやや特殊なクルマの開発ストーリーではあるが、併せて、今日の新車開発という仕事がどのようになされているのかを語る物語でもありたいというのが、筆者のもうひとつのひそかな企図である。

(プロローグ・了)
2014年11月13日 イイね!

プロローグ ~ スカGからGT-Rへ その1

プロローグ ~ スカGからGT-Rへ その1 ~ 1996年・刊『最速GT-R物語』(双葉社)より

クルマがほんとうに「大衆化」する以前に、また、誰もが時速100キロで走れる高速道路が出現するよりも前に、わが国にはサーキットという競走の場ができた。1963年、その鈴鹿サーキットで行なわれた「第一回日本グランプリ」に参加した国内メーカーは、そこで、モータースポーツは格好のパブリシティの場だということを知る。

それを踏まえての「第二回日本グランプリ」は、各社が手探りだった第一回よりはるかにヒートアップした。中でも“熱かった”メーカーのひとつがプリンス自動車であり、1.5リッター級で4気筒エンジンを積むセダン「スカイライン」(S50)のエンジンルームに、上級車「グロリア」用の6気筒エンジンを押し込むという作戦で、第二回のグランプリ・レースに臨んだ。当然、そのままではボディにエンジンは収まらず、そのクルマは全体のプロポーションを損なうほどに、ボンネット部分が異様に長かった。

そのコードネーム、「S54」。基準車スカイラインS50の70馬力に対し、このロングノーズ“GT仕様”はOHC2000cc、105馬力。100台限定として世に出た“モンスター・スカイライン”は、「第二回日本グランプリ」というステージで、ポルシェ・カレラ904と激闘を展開することになる。

──結果は2位だった。だが、純レーシング・スポーツで地を這うような格好のカレラを追い回した“速いハコ”……。この絵柄は鮮烈な印象を日本マーケットに残し、これ以後、ロングノーズのスカイラインは、誰言うとなく「スカG」と呼ばれるようになった。

その翌年、今度は限定ではなく、エンジンはトリプル・ウェーバー3連キャブで120馬力となった「スカイライン2000GT」がデビュー。これが後に「GT-B」と呼ばれるS54-Bで、今日にまで至る「速いスカイライン」のルーツとなる。

スカイラインというモデルは、こうして、その初期から、モータースポーツのフィールドに深くコミットした。そのスピリットとエンジンは「R380」に始まるプロトタイプ・レーシングカーへ発展しただけでなく、ほぼ市販車の格好で闘うツーリングカー・レースでも、スカイラインは主役を張り続けた。1966年にプリンス自動車工業がニッサンと合併して後も、その活動は弛むことなく、その後のニッサンのスポーツ活動での旗手というべき役割りを与えられたのがスカイラインでもあった。

そして1969年。初めて「GT-R」という名を冠したスカイラインが、基準車から半年ほど遅れてデビューする。それは3代目スカイライン(C10)に、プロトタイプ・レーシングカー「R380」のDOHC/S20エンジンを移植するという大胆極まる手法のクルマだった。車体の基本は市販スカイラインでありながら、メカニズム、とくにエンジンは、その素性から明らかに違うのだ。そしてこの初代GT-R「PGC10」は、まだ4ドア・ボディだった。

このような「乗用車・改」でありながら、しかし実は超・高性能車であるというスカイラインGT、あるいはそのGT-Rが、その後のこの国のスポーツカーや高性能車の歴史に残した痕跡は決して小さくない。スポーツカーよりハコの方が速い国──。この日本独自のクルマ世界のマップを創ったのは、スカイラインとそのGT、そしてGT-Rだったであろう。そしてこの図式は、今日に至るまで変わることなくキープされている。

(これを象徴するような出来事が、1995年のル・マンで起こった。この年、伝統のル・マン24時間レースに、その最新の“速いハコ”である「R33GT-R」がレーシングカーにチューンされて出場したのだ。いわゆるスポーツカーではなく、何故、このような格好のクルマがサルテ・サーキットを走るのか。この不思議さは、「スカGと日本人」という関係と歴史を知らない欧州人には、ついに理解し得ないことではなかったか……)

ただ、“速いハコ”とはいえ、さすがに運動性や重量などの点ではセダン・ボディは有利なことばかりではなく、1969年の秋、2ドア・ハードトップという車型の2000GT-R(KPGC10)が登場する。2ドア・ボディに超高性能エンジンという今日の「GT-R」にまでつづく“道”の、これが起源である。この「GC10・GT-R」は、国内レースにおいて、49連勝を含む通算58勝を挙げ、1973年に後継車のGC110型にその座を譲るまで、最速・最強の名をほしいままにした。

また、格好はほぼ市販車でも、エンジンなどのメカニズムはまったく別物というGT-Rの「文法」を作ったのも、このGC10だった。何といってもこの初代GT-Rには、ストリート・ユース用にデチューンされていたものの、「日本グランプリ」を制したレーシング・エンジンがそのまま載っていたのだ。日本のクルマが“若かった”時代とはいえ、これはなかなか凄いエピソードである。

(つづく)

(タイトルフォトは「80 YEARS OF MOVING PEOPLE」より)
2014年11月12日 イイね!

これからクルマはこうして作られる!? プローブ、日本上陸

これからクルマはこうして作られる!? プローブ、日本上陸§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

国名を冠して「※※車」と呼ぶ慣わしの有効性が、もう少しで消失しようとしている。いつまでだろう、あと3年、あるいは、あと10年? いや、この種の「国際化」のスピードは、恐ろしく速いのではないか。必要度はさらに増大し、ソンする者(資本)はなく、テクノロジーには国境などにとらわれないフットワークがあるからだ。

どこの国の工場でフィニッシュ・ラインを越えたか? これは物理的な意味では、たしかに、※※国製、※※車ではあろうが、しかしこの論法はノックダウンには適用し難いものがあるし、安価な労働力を求めての(単なる)組み立て工場設立による生産にも、なじまない言い方だろう。

たとえば、南ア工場製BMWは「西独車」であるのか、ないのか。パーツの現地化比率が何パーセントなら、下請け工場ではなくなるのか。KD(ノックダウン)そのものではなく、それをベースに、その工場独自の新型モデルを創り出したら、その機種はどう呼ぶのか。また、メーカーA社が国外に設立した子会社の製品は、どう考えるのか、etc、etc……。

ホンダ・アコード・クーペ、三菱マグナ・ワゴン、ローバー・スターリング、ニッサン・セントラ、フォード・フェスティバ、ニッサン製のサンタナ……。それぞれについて正しく正義せよ、なんて、まるで落とすことを目的にした入試問題みたいになってしまう。

──と、そんな状況の中での新発売が、フォード・プローブである。これは、コンセプト・ワークが米国フォードであり、マツダ・カペラのコンポーネンツを用い、組み立ての工場はマツダがデトロイトに作ったMMMCで、しかし同社にフォード本社が生産を委託しているゆえに“戸籍上”はフォードの生産車となり、日本の輸入元はマツダで、そしてクルマはフォード車として税関を越える。ついでに言えば、プローブをデザインしたチーフは、フォードに二十数年勤務している日本人のデザイナー……と、こういう、まさに国際車なのだった。

まあ、この場合は、マツダが開発に協力したフォードのニューモデルと考えるのが妥当なところであろう。“ネオ・アメ車”として一応定義しておくが、この種の成り立ちのクルマは、今後、増えることはあっても減ることはないのではないか。とは言っても、※※車という単純な呼び方ができなくなることへの感傷は、別にない。「純粋志向」はサベツのもとだし……。

要は実車の出来次第ということで、そのプローブだが、これは近年盛んに“引き締まったクルマ”を生み出しはじめたアメリカ車というものを代表する一台であろう。プロポーション、デザイン・ワーク、乗り心地などが、きちんとタイトで明快だ。

日本製の日本車(!)もなかなか高価になってきた昨今、このクルマはニッポン市場でもかなりの競争力を持てると思う。1ドル=130円時代が生んだ、ニューエイジの輸入車を、まずは歓迎したい。

(1988/10/11)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
フォード・プローブ(88年~  )
◆アメリカ現地に日本のメーカーが進出して、クルマを生産する。この「現地化」は周辺のパーツ・メーカーにも及んで、米国各地に日本ブランドの工場が建ったが、このうちマツダのみは敢然とデトロイト近郊にMMMCを設立し、UAW(全米自動車労組)とも折り合っての稼働をしている。他の日本メーカーは南部や中西部あたりを選んで進出し、巧みに(?)UAWの影響を避けたようだが。ともかく、プローブやアコード・クーペなどの“帰国子女”は、これからも増えていく。

○2014年のための注釈的メモ
いわゆる「逆輸入車」、つまり日本メーカーによる海外生産車が他ならぬ本国(日本)に、輸入車として戻ってくる。その第一号としてアコード・クーペが“帰還”したのがこの1988年(4月)だった。国産車はどこまで来ているか……風の議論が国内で行なわれていた80年代だったが、ふと周りを見渡せば、この頃“世界”は既に日本車の価値を認めていた。還ってきたアコード・クーペはその象徴だったのだが、そのことに世界で唯一気づかなかったのが当時の日本であったかもしれない。
Posted at 2014/11/12 08:39:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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