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家村浩明のブログ一覧

2014年11月10日 イイね!

その“カジュアルさ”に脱帽、VWのEV「e-up!」

その“カジュアルさ”に脱帽、VWのEV「e-up!」EV(電気自動車)はそもそも原動機が違っていて、したがって性能的にも違いがある。ゆえに、これまでの自動車とは違っている方がいいのではないか、コンセプトにしてもカッコウにしても──。こんなことをボンヤリと思っていたのだが、そんな軟弱な(?)ことではいけない!……というメーカーが、やっぱり現われた。そう、フォルクスワーゲンである。彼らは「ゴルフ」と「アップ!」という自社の量販機種のラインナップ中に「EV」を送り込むという作戦を採った。既存の機種をそのままEV化する“正面突破作戦”を選んだのだ。

「 e-drive for everyone 」……つまり、電気自動車を特別なものにしない。これがVWの立場で、「価格や航続距離などの問題はあるものの、排気ガスを出さず、クリーンかつ静粛性に優れた電気自動車は、一定のお客様のニーズを満たし、新しいモビリティとして受け入れられる可能性があると判断した」と宣言する。

もっとも、これは「アップ!」や最新ゴルフ登場の際に、それとなく明らかになっていたことではあった。これらの新車種で採用されたプラットフォームは「モジュラー設計」(MOB)であり、内燃機関だけでなく、ハイブリッドや電気自動車、そして燃料電池まで含む広範囲のパワーソースに対応できると、VWは表明していたからだ。

さて、その“正面突破モデル”のひとつ、「アップ!」のEV版である「e-up!」が、この11月に日本上陸を果たした。(発売は2015年2月と予定されている)さっそく乗ってみたが、これが何とも普通というか、EVを感じさせないEVというか……。ともかく、とてもカジュアルな電気自動車として仕上がっていることに驚いた。VWが意図した“正面突破”は、少なくともこの「e-up!」では成功したと見る。また、基準車の「アップ!」より優れていると感じる部分も多いのが、この新EVでもあった。

そのスグレ・ポイントの第一は静粛性だ。これはほとんど無振動という要素も含むものであり、EVで車体関連だけを静粛化するとタイヤの走行ノイズが室内に入ってきたりすることがあるが、それもほぼカンペキに抑え込まれている。サイレント空間が、アクセルペダルの指示に応じて、ただただ静かに前に進む。「e-up!」はそんなクルマになっている。

スグレ・ポイントの二つ目は、全体のバランス感である。車重としては、やはりEVの根幹たるバッテリーが重く、内燃機関モデルとは200キロ以上重くなっているが、それと見合うパワー&トルクがあるせいか、走らせていて、クルマが重い(遅い)という感覚を持つことはほとんどない。

また、重いバッテリー(重量230㎏)を車体中央、床下部分に搭載しているため、このクルマは、FF車では時に感じることがある「フロントヘビー感」が非常に少ない。今回は試乗会場が市街地であり、ワインディング路などでの走りを試す機会はなかったが、この“前の軽さ”は、どこを走ったとしても好フィールで行けるであろうという想像ができた。

そして、走っているうちに、このクルマの「カジュアルさ」は何で生まれているのかということの答えが少し見えてきた。この「e-up!」は、回生ブレーキ(ブレーキング時のエネルギーで発電する)の効き具合を三段階に調節できる。ただし、そのためにはレバーを操作して、Dの「1~3」を選ばなくてはならない。

言い換えれば、単なるDレンジでドライブしている間は、その回生が行なわれないのだ。この時の(いい意味での)“空走感”が、内燃機関を搭載したクルマと似ている。多くのEVは、デフォルトで回生を行なうセッティングになっているが、この「e-up!」はそうではない……というか、そうでない仕様が選べる。ゆえに、Dレンジで走っていれば、普通のクルマとの違いをほとんど感じない。そして、この“回生なし”の感覚が、走りや挙動の軽快感も併せて生んでいると見る。

一方、この「回生の段階調節」は、エンジン・ブレーキの効きの程度を選択できるということでもある。アクセルをオフにしたら、どのくらいのエンブレが掛かるか。オンとオフで、クルマはどう動くか。これをドライバーが決められる。

つまり、このクルマは、EVでありながら、どんな《走り》をしたいのかが選択できるのだ。これはクルマとドライバーとの対話であり、ひとつのセッティングだけでなく、クルマから、ドライバーが複数の《走り》を引き出せるということでもある。この点も、これまでのEVとは違った「e-up!」の“味”になっている。

しかしながら、この「e-up!」が「カジュアル」ではないという部分は、もちろんある。そのひとつは、ガソリンエンジンでいう“満タン”からの走行可能距離で、この「e-up!」では、それが185キロと発表されている。他社のEVに比べて短いとは言えないが、しかし、長いわけでもない。そして、もうひとつは価格だ。

つまりこの「e-up!」も、あくまで“現状のEV”という域を出ず、そうした問題から逃れているわけではない。しかし、技術はずっと停滞しているものではないし、部品における量産効果という要素もある。現状は現状として確認しつつ、2014年において、この「e-up!」の“カジュアルの主張”は貴重であると評価したい。EVにもいろんなEVがあるのだ──このことを示しただけでも、このクルマは価値があると思う。
Posted at 2014/11/10 16:30:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2014年11月08日 イイね!

スポーツ・セダンの快作! カリーナを積極評価する喜び

スポーツ・セダンの快作! カリーナを積極評価する喜び§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

トヨタ・カリーナというクルマの「欠点」をいくつか挙げるというのは、そう難しいことではない。たとえば、エンジンの微妙なコモリ音の存在とか、低速域でのアクセルのオン/オフに対してのかすかなギクシャク感とか、それらは自動車専門誌でも指摘されている。事実ではある。(とは言っても、みんな「小さな」とか「ほんの……」といった形容詞が付くけど)

さらには、ここまで来るともう好みの問題でもあるけど、ルーフが低いとか、シートがイマイチとかを「欠点」として加えてもいいかもしれない。いっとき、ジゥジアーロがコンパクトカー・クラスで多用した“ハイルーフ・セダン”に比べれば、キャビンは狭いし、一部のフランス車にあるような実用シートの極致の出来に対比させれば、カリーナのそれは、まだまだ改良の余地はあろう。

もっと言うなら、カリーナ1600Sリミテッドを試乗中は、たまたま雨にたたられたのだが、雨の中を発見した「欠点」だって、指摘してみてもいい。それは何か? 実は、ワイパーのキキュッという作動音がけっこう耳障りなことなのだが。

さて、ここまでに記したいくつかの「欠点」のうち(好みの部分は除こう)、なぜ、それらが欠点となり得るのか、指摘が可能なのかを考察してみることは決してムダではない。

なぜ、ぼくらは、カリーナのそれらの「欠点」に気づくか? それは、ワイパー音が際立つほどに、このクルマが静粛だからである。そのような「達成」が成されているからである。エンジンのマウント関係への異議にしたって、静粛性の「達成」がその発見をもたらした。そのように見ることもできよう。

これは、凄いことではないだろうか? ぼくは、凄いと思う。たれ流しのエンジン音、入りっぱなしのロードノイズ……。ともかく、何だかんだとガシャガシャと「音」を発しつづけて走る、たとえばヨーロッパの同級・他社モデル──。これらが、それでもなお素晴らしいサスペンションによって、感性に強力に訴えかけるという長所がもしあるとすれば、恐ろしいほどに静かなクルージングを可能にしたカリーナの魅力もまた、同じくらいのレベルの熱さで語られて然るべきで、だから、ぼくはそうする。

(多くの自動車雑誌は、静粛性を性能として認めないのかな?と思うと、欧州の高級/高価車の静かさにはカンドーしたりしてるから、俺はもう、よくワカランのだが)

このクルマは静かだ。そしてそれは、いくつかの「欠点」を払拭するほどのプラス・ポイントを持った性能だと思う。

パワーステアリングを全車に搭載することを前提にして可能となった、ちょっぴり速めのステアリング・ギヤレシオ(VWゴルフのGTI版はこの手口を使っている)。それも手伝っての、キビキビと、かつ自然なハンドリングの感覚も十分に楽しいもので、乗り心地も、同じコンポーネンツを使うコロナとはひと味違う引き締まったものを持っている。よくまとめ上げられたスポーティ・セダンである。

カリーナへの、そして日本車への“マイナス探し”は、1988年のいま、重要なこととは思われない。このようなクルマをきちんと作りあげたこと、その「達成」に目を向けてピックアップすることが、「自動車批評」に求められる今日的要請ではないか。

(でもトヨタは、そして日本メーカーは、きっと「次」には、必ずやヤリ玉に挙がった小さな欠点をツブして来るね。そう、日本のクルマは、そうして作られるのである)

(1988/09/13)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
カリーナ1600Sリミテッド(88年5月~  )
◆日本のクルマはマーケットによって作られる。マーケットの動向に左右されすぎる。これは“日本車嫌い”の人々がよく指摘するところであり、ハズレとは思わないが、しかし、カスタマーの要望にまるで無頓着な“アーティスト・メーカー”“哲学者メーカー”というのも困りものだとぼくは思う。クルマは、周辺や時代から、決して「自立」し得ない。これがぼくの判断で、そしてそれ故に、クルマとは観察に値する商品なのだと思っている。だから、おもしろいのだ。

○2014年のための注釈的メモ
1984年後半から「週刊漫画アクション」誌とともに、国内外の新型車を試乗するということを始めましたが、そこでひとつ気づいたことがありました。それは、わが国の“自動車ジャーナリズム”におけるクルマ評価の方法が「ダブル・スタンダード」になっているのではないかということです。あるクルマについて、プラス査定で見ていくか、それともマイナス探しでチェックしていくか。

そして多くの場合、欧州車についてはプラス査定が行なわれ、そのクルマのイイトコだけが書かれる。対して日本車──ジャーナリズム上では差別的に(?)国産車と呼ばれていましたが、日本車については、未熟な部分や、まだ足らないというところばかりがピックアップされ、それが活字になる。

このコラムは、当時のそんな「二重基準」という傾向について、カリーナというクルマをひとつの例として書かれたものです。このカリーナが史上最良のクルマであるというより、その頃の「良くなった日本車」全般をカリーナが象徴しているというようにお読みいただければ幸いです。
Posted at 2014/11/08 05:12:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年11月04日 イイね!

成熟時代の積極サービス、セフィーロは「ソフト商品」の究極

成熟時代の積極サービス、セフィーロは「ソフト商品」の究極§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

クルマ、何に乗ってるの? この問いに対して、たとえばA車だという答えがなされる。フーンということになり、その感想を口に出すか出さないかはともかくとして、お互い、何かを了解する。あるいは、双方で勝手に幻想を持ち合う。どうも、そのような時代が来てしまった……。

これは自動車マニア同士の手札の見せ合いのことを言っているのではなく、また、所有車の自慢ということでもない。何というか、「朝メシにコーンフレークを食うか?」とか、「東急ハンズは好きか?」とか、「WAVEに行ったことあるか?」とか(例が東京ローカルですみませんけど)、そういった類いの問いのひとつとして、「クルマ」の件もある、と。

あるいは、クルマの選び方として、「似合う/似合わない」とか「来てる/来てない」とか、そういった“基準”が導入された時代──それが今日である、と。こういう見方も可能であるかのようである。

これらの傾向を総じて、クルマのファッション化として嘆く諸兄もいないことはないのだが、でもそういうヒトも、自身ではしたたかに欧州車を選択したりしているので、やっぱし、この傾向(=トレンド)と無縁でいるわけではない。それっていわば“裏・ファッション”であるだけなのよ、な。

あるいは、ファッションという語がマズければ、それだけクルマがほんとうの意味で日常化していて、誰でも持っているし、物心ついた時からそばにあったし、“神器”なんかではまったくない。持ってるか持ってないかには、最早ニュース性はないわけで、然るが故に、「何に乗ってるの?」ということになる。クルマ選びは、いまやおカネの問題ではないとは、そういう意味で正しい。

──クルマは経済力によってではなく、いわんや「階級」によってではなく、さらには「性能」によってでもなく、しかし《何か》によって選ばれる。ヒット作も生まれる、たとえば先代プレリュードのような。そういうフクザツ極まる現代ニッポンへのミートを志した、勇気あるクルマ。それがニッサン・セフィーロだと思う。

セフィーロは、まず、歴史を背負ってない。日本モータリゼーションは以上に述べたような未曾有の地平に達しているのであり、それに対応するには、まったくのブランニューでなければ無理だろう。ローレルが、あるいはスカイラインが、「今回はこうなりました」ではダメ。名前からして未知のものでなければならぬ。だから、セフィーロ、と。

また、このクルマは、嫌われることを欲している。それが言い過ぎなら、ある種の人々には無視されてもいいという断念がある。多様化の時代への適切なリアクションであり、したがって、媚びがない。だから、あの「陽水」(注1)なのであろうし、ティーザー・キャンペーンでのたっぷりなイヤ味も、意識してのものであったろう。

ただし、ひとたび注目してくれた人々に対しては、今度は徹底してサービスする。その現われの象徴が、エンジンと足まわりとシート表皮のフリー・セレクションである。しかも、その選択の喜びを、決して“外部化”させないという細やかなるワザも用いている。エンジンや足は外からは見えないし、シートにしても、ドアを開けたインナーの者にのみ、それが知らされるという仕組みだ。

雑誌で言うなら、総合誌からクラス・マガジンへという流れにも、それは似るかもしれない。ある何かを選んだ者同士の、特有のボキャブラリーによる濃密なお喋り……。このフリー・セレクションは、そうした“内部性”を思い出させる。「クルマ、何に乗ってるの?」は、ひとたびセフィーロを買った人々同士では、エンジンを、また足をどうしたのかという、細やかなレベルでのコミュニケーションとなるであろう。

いま、クルマを選ぶための《何か》とは、趣味というほど固まっていず、思想というほど強くなく、ライフスタイル(生き方!)というほど明らかではない。しかしクルマは選ばれ、また、必要とされる。《何か》は確実に存在する。セフィーロというクルマが売れた時、そのナゾの一端がひとつ明らかになる……のではないか。

プレ90年代のニッポンにおけるクルマとは、かくもデリケートな商品なのだと、いまは取りあえず述べておこう。

(1988/10/04)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
セフィーロ(88年9月~  )
◆88年以降デビューのニッサン車は、ほとんど意図的に、大胆な「切り捨て」を試みている。よく見えない「多数」に向けてクルマを作るのではなく、「ある層」に決め撃ちするという方法で、つまりは「プラスを売る」という作戦だとも言い換えられよう。そのためのアイテム(車種)の増加と、各アイテムごとの差異の強調。このようなニッサンとしてトータルな作戦でもあって、そのうちで、最もアバンギャルドな展開を見せたのが、このセフィーロ。4ドア・クーペ的な造型も斬新だった。

○注1
あの「陽水」:セフィーロのCMに起用されたのは、歌手の井上陽水だった。今日では、クルマの「内容」を何も語らないCMは珍しくもないが、80年代では新鮮で、衝撃でもあった。そのCMは、まず「くう ねる あそぶ」という前振りがあり、その後に、走るセフィーロにカメラが近づいていく。すると助手席のウインドーが降りて、乗っていた陽水が顔を見せ、歌う時と同じ、あの声で言うのだ。「みなさーん、お元気ですか?」──。そして目礼しつつ、「失礼します」と締める。ちなみに、この時点では彼は無免許。ゆえに、助手席から語ることになったといわれる。
Posted at 2014/11/04 22:54:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年11月03日 イイね!

ブティックから出された「外車」は、街の風に耐えられるか──ポンティアック&シボレー

ブティックから出された「外車」は、街の風に耐えられるか──ポンティアック&シボレー§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

スズキがなかなか刺激的なクルマの売り方を始めた。いま全国的に掲げつつある看板は「S」のスズキのマークを中心に、左右に、プジョーのライオンとGMのロゴを一体化したもので、要するに「いままでカルタス売ってたところでは、これからはGMもプジョーも買えるってことですよ」(広報)というわけ。……いいねえ、これ! 「外車」が変わるね! 

これまで、非関税障壁とまで向こうは言ってたけど、でも「外車」って言葉で証明されるように、輸入車もここニッポンではイメージとしてたっぷりと保護されていた。まあ言ってみりゃ、いままでは“ブティック売り”だったからね。限られた場所、意識的な顧客、つまり、特定少数。

そういうところへ、そういう客が買いに来てるんだから、クルマの評価にしたって、当然のようにプラス査定になる。良いところ、気に入り部分をピックアップしてもらえる。

でも、これからは違うのだ。日本車と同じショールームに並べられ、同じセールスマンが(たぶん)商談をするのだ。並列比較ができるのだ。スズキは大きいのを作ってないから、同じショールームにはカルタスしかないかもしれないけど、そのGM車を置いてるスズキの隣はトヨペット店かもしれないし、向かいにはナントカ日産もあることだろう。

輸入車の価値が、おネダンという根本的な部分も含めて、大衆的に(!)問われ始める。これを刺激的と言わずに、何と言おうか。このような販売提携は、GM/スズキのみならず、メルセデス/三菱、オペル/いすゞ、ボルボ/スバルと、続々と発表されているのだ。

もうひとつ、GM車というのはスズキ側によれば、契約さえすれば、誰が何を売ってもいいのだそうで、たとえば「対ヤナセ」(注1)というのは、まったくノー・プロブレムなのだそうだ。そうすると、どの機種をどう売るかという、売り手同士の抗争が勃発する可能性もある。並行輸入業界の対応ぶりにも、何かがありそうである。

そういうバックグラウンドでの展開も秘めつつ、ともかく、ポンティアック・グランダムSE、シボレー・コルシカ、同ベレッタの3車が、鈴木自動車工業とスズキ・インポートカーセールス(株)によって販売が開始された。

とくにグランダムSEというのは、キシまぬボディに沈まぬサスの逞しき“ハードボイルド”カーで、いわゆるアメ車フィーリングをカンペキにぶち破ったGMの新作である。

でも、そのようなハードウェア的変貌よりも、スズキ・インポートセールスが広報資料に謳う、「いま、日本に新しい外国車の時代が始まります」というマニフェストの方が、はるかにラディカルであることにわれわれは注目する。輸入車は確実に「新時代」に入る。ここに、予言します。

(1988/07/12)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
ポンティアック・グランダムSE(写真)/シボレー・コルシカ&ベレッタ(88年~  )
◆輸入車の“民主化”が果たして輸入車にとって幸福であるのかどうか、ぼくは疑っている。たとえば、カルタスとプジョー205が並んでいて、その200万円近い価格差を、売る側はどう説明するのだろうか?(GM車は、比較の軸が見つけにくい分、まだマシであろうが)要するに、それでも良いものであれば買われると、こう言うしかないのだろう。外国車を日本車の販売網に乗せるのはアイデアではあるが、ずいぶんとシビアでリスキーな戦略であると思う。

○注1「対ヤナセ」:この頃は「GM車」といえば「ヤナセ」というイメージがあり、実際にも当時のヤナセは、単に外国車を販売しているだけでなくインポーターでもあった。したがってヤナセ以外がGMのクルマを売るのに意外な感じがあったのだが、その輸入権には、実は「独占権」は付いていなかったということ。

○2014年のための注釈的コラム
80年代までは、最大手のヤナセを始めとするインポーター&ディーラーが、日本市場で外国車を販売していた。90年代になると、まずはドイツの三社(BMW、メルセデス、VW)が日本での現地法人を作り、自社の管理下でこの国のマーケットを拓いていくという動きを始める。そしてヤナセは、00年代にそれまで持っていたすべての輸入権を放棄。逆に“自由”になった分、どんなメーカーのクルマでも売る総合ディーラーとなって、今日に至っている。GM車も、いまヤナセで買える。ちなみに「Cadillac」を「キャデラック」と表記するのは、ヤナセが創った商習慣である。
Posted at 2014/11/03 06:01:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年11月02日 イイね!

草の上で“遊戯”したマドモアゼルは、黒いシトロエンで去った 《3》

草の上で“遊戯”したマドモアゼルは、黒いシトロエンで去った 《3》 ~ 映画『マドモアゼル』その凄絶と静寂

村を出た“マドモアゼル”が、森に続く道をゆっくりと歩いている。そして、あるところで彼女が立ち止まると、口笛が聞こえた。誰かが近くにいるのか。すると道に、大柄なイタリア人(名はマヌー)が出て来た。男と遭遇しても、女はそのまま立っている。マヌーが近づいて少しだけ後ずさりはしたが、逃げることはしない。

遠景の中の二人──。二人は言葉を交わしている? マヌーは、森に戻ろうとする? 男は、女の方に振り向いて、何か言っている?

小さな斧が木に打ち込まれる。木こりの仕事道具である斧が、しばらくは使わないというように放置された。

──鋭い鳴き声を発して、鳥が飛んだ。“マドモアゼル”が大きな男マヌーに抱き締められた。じっと目を閉じている女。その唇には、かすかな笑み。草原での抱擁、さらに男女の絡み合いへ。

そして草の上で、二人は、ある“遊戯”を始めた。鳴き声と仕草を真似て、女が“それ”を仕掛ける。そんな女の意図に気づいて、哄笑しながらも“それ”を受けてやるイタリア人の男。それは、女が「犬」になって、この草原で主人とじゃれ合うという遊びだった。

……夜が明けた。雨も上がっていた。二人は草原から、村へ続く道の方に向かって歩いている。ここで、男が女に言った。
「明日、村を出る。息子とね」
このひと言が、女にとって何かのトリガーとなったのか──。

女教師が村に一人で戻ってきた。その時の彼女の衣装は、草原で寝っ転がって遊んでいたので、草と泥にまみれている。また雨にも降られたので、ひどい状態だ。そんな女教師に、村の女たちが駆け寄った。
「マドモアゼル! どうしたの?」
「あいつに“された”の?」

路上では問いかけに答えず、自室の前まで、“マドモアゼル”は無言で歩きつづけた。そしてドアの前で、彼女は振り向く。発した言葉はひとつだった。
「そうよ!」(ウイ!)

この「ウイ!」と彼女が言う時の表情は、やや大袈裟に言うなら映画史に残るものではないかと思う。また観客としては、つい先刻まで、草原であんなに嬉しげに戯れていたのに、ここで一変するのかという驚きもある。さらには、仮にも女優がここまで「美しくない顔」をよく撮らせたものだ……という下世話な感慨まで浮かぶ。とにかく、ここでジャンヌ・モローの「女優パワー」は全開を超えて、ほとんど“爆発”するのだ。

そして、もうひとつの恐さ……。それは、このひと言、つまり「ウイ」(イエス)がもたらすものだ。それによって引き起こされるであろうことを、聡明な、そして村人からリスペクトされていた“マドモアゼル”は十分に知っていたはず。そうでありながら、彼女はこの言葉を選んでいた。

果たせるかな、その「ウイ」を契機に、村では“もうひとつの事件”が起きる。ただ村の警察はついに、この最後の事件は把握できなかったようだ(いや、そもそも捜査をしなかったかもしれない)。そして、村は静かになった。もう、この村で“何か”が起こることはない。

……自室で、“マドモアゼル”は荷造りする。「あの時」に使った黒いメッシュの手袋は、火のある暖炉に投げ込まれた。

“マドモアゼル”がタクシーの後席に収まった場所の近くに、この村を出て行く支度をしたイタリア人の息子もいた。父の行方は知れず、警察は捜査を打ち切ることになり、父の同僚は少年に「幹線道路まで歩こう、たった2キロだ。仕事は見つかるさ」と告げていた。少年が持っているカバンの中には、父の持ち物と亡き母の写真が入っているはずだ。

黒いシトロエンの中から、満面の笑みを村人たちに向けていた女教師。その女と、少年の目が合った。少年は、車内の女に向かって唾を吐いた。もちろん、それが女に届くことはないのだが。

学校の教室から、生徒たちの声が聞こえる。既に新しい教師が来ていて、算数(九九)の授業が始まっているようだ。

女教師を乗せた黒いタクシーが村を去った。クルマを取り巻いていた人々は三々五々散り始める。人がいなくなった道の脇に、カバンを持った少年だけが残された。少年は、タクシーが向かったのとは逆の方向に、ひとり、歩き始める……。

ここで、エンドマーク。それに絡んで、ココロを刺すようなテーマ音楽が流れて……と書きたいところだが、そうはならない。この映画、実は音楽というものが一切ないのだ。「音響」として何度か観客が聴いたのは、鳥のさえずりだけ。さまざまな意味で“凄かった”映画は、こうして無音のうちに終わる。

……いつかまた、見ようと思う。でもそれは、明日や明後日じゃないな。しかし、二度と見たくない映画でもない。ジャンヌ・モローには、月並みだが、存在価値という言葉を捧げたい。

そういえば、黒いシトロエンで去った“マドモアゼル”は、パリに戻ったのか。それとも、また、どこかの小さな村を、その赴任先とするのか。そして不条理に耐えて(少年は少なくとも放火犯が誰であるかは知っていた)、この村から、ひとり去った少年……。2キロ先にあるという幹線道路で(長じて「詩人ジャン・ジュネ」になったであろう)少年と、彼の父の友人は、二人をどこかへ運んでくれるものを何か見つけられただろうか。

(了)

(タイトルフォトは、トヨタ博物館にて撮影)
Posted at 2014/11/02 13:29:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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