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家村浩明のブログ一覧

2014年12月26日 イイね!

第24章 銀のスプーン その2

第24章 銀のスプーン その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

ダーク・ショイスマンが、ふたたびコースインした。タイムアタックに入って5周目の走行である。それまでの4周と同じような時間が過ぎてゆく。三人が持っているデジタルウォッチの「分」のところが「7」になり、さらに「秒」が刻まれた。そしてスタッフの耳に、GT-Rのエキゾーストノートが響いた。

渡邉は止まった時計を見た。「7」は「7」のままだった。萩原と川上が、渡邉に時計を示した。三つのストップウォッチのすべてが表示していたのは「7分58秒台」の数字だった。……「切ったよね」「切れたね!」

市販の量産車としては、おそらく空前にして絶後(注1)であろう「8分以下」というタイムで、新しいR33のGT-Rは、いま「ニュル」を駆けた。

渡邉がまず思ったのは、(これで言い訳しないで済むな……)ということだった。タイムを約束させられたプロジェクトを、その予定通りにスタッフはクリアした。そして次の瞬間、渡邉は「よし、これで『銀のスプーン』だ!」と、みんなに聞こえるように言った。

幸せな子どもの誕生のことを、まるで銀のスプーンを咥えて生まれてきたようだと例えることがある。R33GT-Rという“新生児”に、このとき渡邉は、親として銀色に輝くスプーンをプレゼントできたと思ったのだ。

(おまえは明らかに、そしてはるかに、R32より速くて高性能だ)
(そのことを確実に示す、この「7分58秒台」と一緒に、おまえは世に出ていく)
(そしておまえはN1レースでデビューウィンして、さらに、ル・マン24時間レースにも出場するのだ)……

新GT-Rのテストは、5周で終わった。それ以上走る必要はなかった。この「ニュル・テスト」の目的はただひとつ、「タイム」だったからだ。

日本へ帰れば、新車発売前の三ヵ月に集中する、たくさんの主管としての仕事が待っている。そうだ、カタログは作り直させなければいけないし、広報資料のコピーについては全面的なチェックが要る。

何より、まだ村山工場での生産が生産試作の段階であり、最終的な「立ち上がり」の確認には至っていない。村山とのツメをやっている主担の吉川正敏からは、「ニュル」にいる渡邉を追っての電話連絡が入り、ちょっとやり合うような場面すらあったのだ。

「ニュル7分台」というのは渡邉にとって、R33GT-Rを作る仕事にとっての単なる通過点でしかない。そう気を引き締めていた渡邉が、ふと振り返ると、加藤が全速で渡邉に向かって走って来るのが見えた。(何だ、ヒロヨシ、どうしたんだ?)加藤の手には大きな瓶があった。それは、いつの間にか抜かれていたシャンパンだった。さらに川上も加わって、加藤と同じことをしようとしている。

「ニュル」のパドックを逃げ回るR33GT-Rの主管・渡邉衡三に、スタッフからのシャンペン・シャワーが浴びせられた。防寒服がシャンペンだらけになった渡邉の顔が、思いっきりクシャクシャになった。1994年の9月、ヨーロッパの秋は深く、空気の冷たさが肌を刺した。スカイラインR33GT-Rのデビュー前、“最後の秋”だった。

(もう、少しだ……)渡邉はこう自らに鞭打って、スタッフより一足早く、来た時と同じようにひとりで、日本への帰途についた。渡邉衡三が主管として全責任を負うスカイラインR33GT-Rが世に出るのは、1995年が明けたらすぐなのだ。

(第24章・了) ──文中敬称略

○注1:空前にして絶後
競争と競走を好むクルマ世界の辞書に、やはり“絶後”という語はなかった。R33GT-Rの“空前”のアタックから約20年後の今日、「8分以下」というのは「FF車」のターゲット・タイムになっている。その“ニュルFF選手権”では、ルノー・メガーヌRSが「7分54秒36」を記録して現時点での王座にいる。このタイムに、わが国からはホンダ(シビック)とニッサン(パルサー)が挑む準備をしているようだ。

一方、スカイラインという“くびき”が取れてV6エンジンとなった「ニッサンGT-R」は、2007年の登場以後、着実にその性能を上げ、「ニュル」のターゲット・タイムも「7分10秒を切る」というところにまで達している。そして2013年、ニスモ仕様のGT-Rは、ミハエル・クルム選手のドライブで「7分08秒679」というタイムを刻んだ。約20年という月日は、GT-Rとニュルブルクリンク・オールド(北)コースとのコンタクト時間を、およそ「50秒」短縮したことになる。
2014年12月26日 イイね!

第24章 銀のスプーン その1

第24章 銀のスプーン その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

ニュルブルクリンクのオールドコースは、多くのサーキットのように、コース内のピットの前をクルマが全速で駆け抜けていく……というようには作られていない。まずゲートで一旦止まり、係員に走行フィーを払うと、コースを走行する権利を得られる。そこからコースインし一周して帰ってくると、クルマは一旦コース外へ出されてしまう。もし、もう一周したければ、ふたたびゲートを通って同じことを繰り返すことになる。

したがって、一周のラップタイムというのをどう設定するかという問題が生じる。まず、コースへの入り口を通り抜けて、いったん停止。そこからスタンディング・スタートでコースへ出ていく時に、ストップウォッチを押す。クルマがコースを一周し、ブリヂストンのガレージ付近まで戻って来て、その前に立っているポールを通過した時に、もう一度ストップウォッチを押す。「ニュル」のタイムを計るという時にニッサンが採っている方法は、このようなものである。

栃木・実験部による新GT-R「ニュル・テスト」に、主管の渡邉衡三が合流して、三日目の朝だった。コースを一周してスタッフの待つピットまで戻って来た加藤博義が「いけるんじゃないか」と言った。それは評価担当として、クルマを最終的に確認したことのほかに、コースの状況や路面などをチェックしての報告だった。一週間以上続いていた雨と霧が、この朝だけは消えていた。

「ニュル」を知り尽くしたレーシングドライバー、ダーク・ショイスマンがR33GT-Rの最終プロトタイプに乗り込んだ。厳密にいえば、これはまだ未発表のクルマだったが、この時は何のカムフラージュもしていなかった。ショイスマンのR33GT-Rは、いつもと同じように、入り口のゲートをグリーンフラッグ代わりにしてコース内へ姿を消した。

「8分2~3秒まで行けるのなら、8分だって切れるだろう。この3秒の違いが作るメッセージ性を考えてみろ」……。これが商品本部長・三坂泰彦の、GT-Rスタッフへの“贈る言葉”だった。このまったく非・エンジニアリング的な“翔んだ発想”は、渡邉衡三だけでなく、栃木・実験部の萩原裕をも驚かせたが、しかし反発のようなものは不思議になかった。なるほど(商品とは)そういうものかもしれないと萩原も思った。

ただこれは、旧型のR32GT-Rが記録したタイムと比べると、20秒以上をツメろということである。「ニュル」のコース長が約20km。……ということは「要するに、キロあたり1秒縮めろってことですよ」と、加藤博義はちょっと呆れ気味の表情とともに、テスト屋としての意見を語ったことがあった。そう、三坂のこの「オーダー」というのは、ひょっとしたらリアリティを欠いたものかもしれないのだ。

ブラッセルの欧州ニッサンのオフィスから運んであったスタッフ用の防寒服をありがたく借用しながら、渡邉はショイスマンが帰ってくるのを待った。6分、7分、7分30秒と時が過ぎていく。ピットのスタッフにとっては、この時はただ待つことだけが仕事となる。

「RB26DETT」のエキゾーストノートが聞こえてきて、それが少しずつ大きくなった。1周目、新GT-Rのタイムは「8分5秒」だった。

これは、スタッフの願望にはまだ届いていない。でも、まずは歴代スカイラインGT-Rとしての最速のタイムである。この時点で、すでにR32と比べて「15秒」速いことになる。スタッフが取り組んだ、R32からR33へのさまざまなディベロプメントの方向性の確かさと、その達成のほどは、ここに証明された。

R32のGT-Rより明らかに速い、新しいGT-Rが、いま「ニュル」を走っている……!

「ニュル」のパドックで、この時にストップウォッチを持っていたのは、渡邉衡三、萩原裕、そして川上慎吾の三人だった。ショイスマンが乗る新GT-Rの周回が終わるたびに、三人はそれぞれの数字を見せ合った。

2周目、3周目、R33GT-Rのタイムが少しずつ縮まっていく。「00」つまり「8分0秒」を挟んで、3人のストップウォッチのデジタル数字が接近しはじめた。「ひとりだけ、いつもちょっと速い(タイムを示す)のがいた。誰とは、言いませんけどね(笑)」。渡邉はこの時のことを、こう振り返る。

雨と霧、そしてガードレールの工事中。「ニュル」はいつもの「ニュル」ではなかった。そういう条件の中でも、今度のGT-Rは「8分の一桁台」の、それも前半で、確実に「ニュル」を周回できた。帰国して、こういう報告をすることになっても、それはそれでいいんじゃないか……。渡邉は一瞬、こんなことも考えたという。

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月25日 イイね!

第23章 最後の秋

第23章 最後の秋 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33GT-Rの主管・渡邉衡三は、ニュルブルクリンクに先発した実験部のクルーからは一週間以上遅れて、ひとりでドイツへ飛んだ。

新型車を発売する直前の半年間というのは、主管として、さまざまな業務やいろいろなことの決定事務に追われる。対村山工場の問題は、主として主担の吉川正敏に任せていたが、そのほか、カタログや広報資料などの制作の準備や、さらにはどのような形式で新型車を発表するのかまで、主管は、それらのいちいちに最終責任者としての判断を出すことが求められる。

「ニュル」での新GT-Rが、どのような“リザルト”を出せるのか気になりつつも、そこでの最終テストに赴いた実験部のスケジュールとフルに付き合うことは、この時の渡邉は時間的にも不可能だった。

フランクフルトへの直行便のシートに身を沈めながら、渡邉は現地でかなり苛ついているらしい実験部のボス、萩原裕からのファクスによる報告を思い出していた。天気が悪い、そしてコースには、何とガードレール交換の工事が入っているという。全開で回って来てちょうどオイシイというところで、アクセルをゆるめなければならないようなのだ。

渡邉はフランクフルトに着くと、そのままタクシーで、ニュルブルクリンクのドリント・ホテルに入った。街に着いてすぐ、渡邉は萩原の苛立ちの理由がわかった。ニュルブルクリンクは、しっとりと、深くて暗い雨と霧に覆われていたのだ。

ホテルで休む間もなく、クルーが拠点にしているガレージに向かうと、まず渡邉を迎えてくれたのは“コーゾー君”と名付けられたテルテル坊主だった。こんなことをするのは、あいつに決まっている。案の定、その名付け親は加藤博義だった。

ここ一週間以上、ニッサン栃木・実験部の萩原裕を中心とする6人のスタッフは、ただただ「晴れ」を待っていた。あまりにも雨が続くため、川上慎吾はありあわせの板で卓球台を作って、待ち時間対策にしていたほどだ。クルーに時間が余っていたのは、クルマの準備はもうできていたからである。スタッフがいて、態勢も整っていた。ただ、機会だけがなかった。

クルマは村山工場が組み上げた最終型の試作車で、市販時には「Vスペック」と呼ばれることになる仕様である。アテーサE-TSとアクティブLSD、そしてブレンボのブレーキを装備していた。ドライバーは、栃木からの加藤博義。そしてもうひとり、ダーク・ショイスマンがガレージで待機していた。彼もまた、渡邉を見つけると飛び出してきて手を差し出した。渡邉とショイスマンは旧知の仲である。

このショイスマンは、ヨーロッパでずっとレースをやってきたが、欧州のレース界ではうまくステップアップすることができず、結局、欧州ニッサン(NETC)の社員兼テストドライバーというポジションに収まっていた。

そしてレーシングドライバーとして、ここニュルブルクリンクでのR32GT-Rによる24時間レースの経験があった。また、英・独・仏語のほかに、オランダ語とベルギーのフラマン語までも操る“欧州人”で、ニッサンの欧州向け市販車の評価やテストをずっとやってきたのも彼だった。ニッサン車が「ニュル」を走る際は、これまでも常にこの男が現場にいたのだ。このショイスマンが、今回の“ニュル・アタック”でのエース・ドライバーである。

加藤は、「評価ドライバー」と「レーシング・ドライバー」の違いを語ったことがあった。クルマを壊すかもしれないという可能性があっても、他車より前に行くため、またタイムを出すためには、時にはそれを辞さない。そうやって走るのがレーシングドライバー。対して、必ずスタッフの前に無事に帰ってくることを前提に、あくまでも評価のためにコースを攻めるのが評価ドライバーだという。

加藤博義は、鶴見(エンジン)の松村基宏と組んで、3年間の「N1」レース参戦の経験を持つが、はじめのうちはスタート直後の1コーナーでは、「おおっと!……危ないなあ、先へ行かそう」という“レース”をやっていたと、苦笑いしながら明かした。

さて北海道・陸別で、加藤が「これでニュルへ行ける」という結論を出した時、ハードウェアとしてのR33GT-Rはほぼ完成していた。この「ニュル」では、もう「評価」は要らない。必要なのはただひとつ、「8分以下」のタイムだった。

発表前のニッサンのクルマを託せて、しかも「ニュル」をよく知っていて、さらに「タイム」を出せるドライバー。このすべての条件に見合う男は、渡邉衡三の知る限りでは、このショイスマン以外にいなかった。

だが、「ニュル」に渡邉が合流してからも、雨と霧は続いた。全長20kmに及ぶニュルブルクリンクのオールド・コースは、標高差があり、また半分は森の中で、コース内の一部だけが気象が違うということもザラである。そして二日目も、同じような天候のままに暮れた。

「ニュル」でのハード走行は、「インダストリアル・ランニング」という専有時間内に行なわれる。本来このサーキットは、誰もが然るべき料金を払えば走れるというオープンなコースだが、この時間だけはプロフェッショナルのドライバーに限られて、ツーリスト・ドライバーは締め出される。

そして、自動車メーカーとタイヤメーカーだけが、この種の専有時間を取れるというルールになっていた。ニッサンはこの時、ブリヂストン・タイヤの専有によるテスト期間に合わせて、R33GT-Rの「ニュル・アタック」を準備していた。

ちなみに、R33GT-Rに装着するタイヤだが、これはBSのワンメイク(2ブランド)に限定した。開発期間に制約があり、複数のメーカーを導入するとテストしきれないという開発チームの判断からだった。そして単にグリップだけでなく、ウェットや耐久性という要素も入れてBSと共同開発を進めてきたタイヤは、「ニュル」をハードに走行しても最低20ラップは保つというライフ性能も有していた。

渡邉がスタッフに合流して、三日目の朝が来た。実験部は、朝の8時から走れるようにというと、7時前から準備して万全の態勢を取り、ドライバーを待つ。渡邉は二日目と同じようにホテルでひとり朝食を済ませ、ガレージへと向かった。

9月の欧州は、もう冬である。明るくなって、路面が淡い陽光で乾いたこの時間がタイムアタックにはベストだと、栃木のGT-Rスタッフは考えていた。加藤博義がコースを一周して、ガレージに戻ってきた。ガードレールの工事は相変わらず入っている。でも、「いけるんじゃないか」と加藤は言った。

(第23章・了) ──文中敬称略
2014年12月24日 イイね!

左ハンドル信奉という植民地主義を、VWこそが打ち破るべし!

左ハンドル信奉という植民地主義を、VWこそが打ち破るべし!§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

1984年が現行型のデビューの年であったから、今年で5年目に入ることになる「89VW」は、ようやく、なかなか買いやすいシリーズになった。その最大のポイントは、パワーステアリング装着モデルの拡大である。もはや、高価なGT系や「L仕様」にこだわる必要はない。最も安価な「CI」を購入しても、ステアリングにパワーアシストが付くというのは、日本のカスタマーにとって大きな幸福だ。

輸入車として初めて、3万台の大台を越えての、年間3万2500台という販売計画も、あながち強気とはいえないかもしれない。(ただし、ディーゼル・モデルには、以上の改良は成されていない)

投入あるいは導入の5年目にして、フォルクスワーゲン・ゴルフ/ジェッタは、ようやく「ニッポンの大衆車」という資格を有したのである……と言いたいところだが、いや、もうひとつ、VWはわれわれ「大衆」に越えるべきカベを設けている。われわれに「選良」(?)であることを求めている。

それは「左ハンドル」だ。これは、乗ってるうちに馴れますよ……というようなレベルの問題ではないし、また、本国仕様はやっぱりよいですよ……などというものでもない。

要するに、ハナシは簡単なのだ。この日本という国は、英国や英連邦諸国、あるいはタイ国や香港などと同じように、クルマは左側を走る。その際には、ハンドルは右側に──つまり道路に対してセンター側に設ける。これは、それこそ自動車の先達である欧州が、われわれに教えてくれた「セオリー」である。

その基本なるものは、この国でも正しく適用してもらいたい。それに尽きるのである。他の右側通行諸国に左ハンドル車を投入しているように、ここ日本には、右ハンドル車を持ってきてほしいのだ。

たとえばだが、VWの母国である西ドイツのマーケットに、日本のあるメーカーが本国仕様と称して、あるいは、これしかないからとして、右ハンドル車を持ち込み、拡販すらしたいと宣言したら? これは物笑いであり、排斥ものでもあろう。そんな“反対側”にハンドルが付いている乗り物は、日常使用のためのギアとしては不適切だからだ。

「なにゆえ、われわれは貴社の製造した“クルマのようなもの”に、あえて、特別な準備や練習をしなければならないのであるか?」……。西ドイツのオーディナリー・ピープルは、このような疑義を発し、そして、その右ハンドル車には見向きもしないであろう。クルマにおけるハンドルの「右」と「左」は、このくらいに違うものである。(そうではありませんか?)

VW側は述べるであろう、その通りに、われわれは右ハンドル・モデルも、きちんと日本市場に導入している、と。いや、ぼくが言いたいのはそうではない。右ハンドル車のみがこの国では売られるべきであり、一部の追加車種に限っては、時に例外として、また過渡期の措置としては、左ハンドル車があってもいいかなということなのだ。

たとえば、GTというバージョンを本国でシリーズに追加した。何とか早く、日本の市場にも、その新しさを伝えたい。サンプル用にやむなく、本国仕様のままの左ハンドル車を入れるが、それはそのための措置であって、待ってさえくれれば、ふつうのハンドルのものを提供する。……と、以上のようであってほしいと思う。しかし、VWの現状はこうではない。むしろ「右」の方がスペシャルだというのが、そのラインナップには窺える。

じゃあ訊くが、日本市場は年間、いったい何台のVW車を買っているのか。われわれの生産数に較べて、ごくごく少数ではないか。……というのがVW側の反論であろうけれど、これには、さらに言いたい。英国と英連邦諸国のマーケットはVWにとって、絶対に、少なくない数の消費地であるはずだ、と。そこでは、すべてのVWが「右」のはずだ、と。

ハナシがここまで来ると、VWサイドには、また「外車」屋には、ひとつの奥の手がある。原則や原理はともかくとしてのこの国の現状というやつで、これにはぼくも反論できない。「だって、日本人は『左』の方が好きじゃないか!」

……その通りである。そのような“好事家”が、けっこうな数で存在する。それがこの国の「外車マーケット」の実状で、そこのいくばくかのカタい数というのを捨てることもない。そのように外国メーカーが考えても、それは仕方ないことかもしれない。とはいえ、それはあくまでも趣味の世界の、倒錯や特殊例もアリだという世界でのハナシである。

折からカレンダーの季節だが、左ハンドル愛好者というのは、ナショナル・ホリデーが日本とは違っている外国のカレンダーを飾り立てて、それを「味」や「文化」と称し、日常生活のためには、周囲の人々が持っている和製の手帳を開かせる。そのような存在にも思える。

東名高速の料金所で、大型外車が来るたびにブースから出て、サイドウインドーに身を屈めて身体を突っ込み、料金収受のサービスしてくれる係員の姿がある。そこで“君臨”する左ハンドルの各車がある。切ない光景である。

──VWゴルフ/ジェッタは、こと「走り」に関しては、乗ってすぐにわかるというくらいに良いクルマであり(たとえば、その挙動のナチュラルさは見事だ)、またVWは、敬意とともにこの言葉を使うけれど、すぐれた「大衆車メーカー」であると思う。さらには、この日本において、少数限定マーケットにおける覇者であることに甘んじていたくはない、そうした意欲ある“輸出屋”であるとも思う。ベーシック・バージョンであるCIにおけるパワー・ステアリング導入も、その一例のはずだ。

だからこそ、そういうメーカーであるからこそ、次は「ハンドル」! 日本で売るフォルクスワーゲンの、すべての仕様を「右」に。VWに提言する。

(1989/01/24)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
フォルクスワーゲン・ゴルフ/ジェッタ(89年~  )
◆本国仕様というやつを愛でる。こういう奇妙な習慣が「外車界」にはあって、これがよくわからない。排ガス対策の有無などでパワーが違ってたりすることもあるらしいが、しかし、国内・地域内の法規は守ってほしいとまずは思う。どうしてそのように「欧州」を、また欧州製をそのまま押し戴くのか? 一方では、日本仕様をきちんと作ること。これが海外の作り手の、われわれへの礼儀であるとも思う。「右ハンドル」は、そのような姿勢のベース中のベースである。

○2014年のための注釈的メモ
1989年当時、「輸入車」はこんな一文を書きたくなるような状況でした。まだ、海外メーカーが日本法人をつくる前のことです。そして、タイトルに「植民地」といった生硬な言葉があるのは、87~88年頃に英国で見た光景がその因であったと思います。それはF1グランプリが行なわれるシルバーストン・サーキットの駐車場でのこと。そこに駐まっていたランボルギーニ・カウンタックは「右ハンドル」だったのです。

……そうか、英国人はクルマはこうやって使うんだ! 思わず、誇りとか気概とか、そんな言葉も浮かびました。英国で走らせる際は英国仕様で乗る、それが原理であり原則である。イタリア製のスーパー・スポーツであっても例外とはならない。頑固にして爽やかなブリティッシュ・スピリットがそこにありました。忘れがたいその記憶が、このコラムのタイトルを付ける際に甦っていたようです。
Posted at 2014/12/24 20:44:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年12月23日 イイね!

第22章 これはただの『3秒』じゃない

第22章 これはただの『3秒』じゃない ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

ついに「ニュル」へ! R33GT-Rの準備が整った。

ほぼ完成したそのプロトタイプは、その最終的な性能確認のために、この世界のカー・メーカーが高性能車のテストフィールドとしているコースを走るのだ。R32でGT-Rを復活させた張本人で、当時は実験主担であった渡邉衡三は、そのクルマがこのサーキットを「8分20秒」で駆けたことを知っている。いまふたたび、R33GT-Rでは、今度は総責任者である主管として、この1年半余りの間育ててきたプロトタイプを「ニュル」というステージに送る時が来た。

今度のスカイラインでは、GT-Rを作るのはむずかしいだろうという声もあった。車体が大きくなった、ホイールベースが伸びた、車重も増えた。でもエンジンの最高出力は、もう「280ps」で上げようがない。いったいR32より速いクルマなんて作れるのか? 浴びせられたあらゆるネガティブな見方とイメージを、R33GT-Rの開発チームは越えてきた。いや、越えてきたはずだった。

そして、その事実を最終的に証明するのが「ニュル」なのだ。新しいR33のGT-Rは、旧型であるR32のそれとは明らかに違っている。この事実を内外に示すことができるのが「ニュル」のラップタイムなのだ。

北海道・陸別でのテストを終え、生産についての村山工場とのツメも大詰めを迎えていた1994年の夏。渡邉衡三は、「ニュル」でのテストという段階になったことの報告を兼ねて、ドイツでのテストの予算や目的などを記した上申書を携え、商品本部長の三坂泰彦を訪ねていた。

R33でのGT-R作りについて、「やれるよな?」と、渡邉をその“ハード・ジョブ”に導いたのが三坂である。そして、もちろん冗談であろうが、三坂は渡邉に、もしGT-Rができなかったら、会社にカネを「家屋敷を売っても返せよな(笑)」とまで言ったのだ。その仕事が、ついにものになった。そのことを、ようやくここで三坂に報告できる。

渡邉が作った「ニュル行き」の上申書に目を通しながら、三坂は渡邉に問いかけた。
「それで、何秒くらいで走れるんだ?」
渡邉は答える。
「8分の一桁、8分2~3秒までは行けると思います」

R32のGT-Rが「8分20秒」、R32のボディにR33の技術要素を盛り込んで走った時のタイムが「8分13秒」である。シャシーとボディを新しいR33に換え、R33のGT-Rとして開発を進めてきた新型が、旧型R32+新技術というクルマが残したタイム(8分13秒)から「10秒」を削り取ることは可能だ。技術屋としての渡邉は、こういう展望を持っていた。

もちろんそれは、絶対に確実な……というものではない。シミュレーションも、ややラフである。しかし、極秘に走った筑波サーキットでのテストタイム、パワーウェイトレシオからの計算、他社のクルマがどのくらいでニュルを回っているか、そして北海道・陸別での旧型や基準車との比較などから、新しいGT-Rの「ニュル」でのこのタイムは、エンジニアとして一応の根拠があるものだった。

だが三坂は、ちょっと首を振りながら微笑んで、渡邉に言った。
「この『3秒』は、ただの3秒じゃないな」

時の商品本部長・三坂泰彦は、営業本部から商品本部に転じ、主管として、あのグランツーリスモを含むセドリック/グロリアを世に出した男として知られる。それは“三坂セドリック”と呼ばれたほどに、社内的にも、そしてマーケット的にも大反響を巻き起こした。「グラツー」は、営業畑出身という自身の資質を十分に生かしての主管・三坂のヒット作であり、くすみかけていたセドリック/グロリア・シリーズを再生させた。そういう男だった。

その極めつけの営業屋が、エンジニアである渡邉に、さとすように続ける。
「この『3秒』は、何とかならんのか」
「は……?」
「8分2秒と7分59秒とでは、たった3秒しか違わない。でも、この『3秒』の違いは途轍もなく大きい」

渡邉は、この発想に虚をつかれる思いだった。エンジニアとしては、どこまでならやれるだろうという読みがあり、それをツメていって、ようやくひとつの技術的成果を確約するまでに至る。だが三坂は、いったい何が「外」に対して有効なのかをまず考えているのだ。

エンジニアのものの考え方が「積み上げ型」であるとするなら、三坂の場合は、始めにインパクトありきだった。そしてそのためには、いったい何が要るのかということを、まずイメージしている。渡邉は、自分とまったく違う“種族”を目の前にして、その発想にむしろ感心していた。その渡邉に、三坂は言った。「この『3秒』の違いが作るメッセージ性を考えてみろ。わかるだろ?」

商品本部長としての三坂は、「8分3秒」まで行ったのなら「7分台」にすることもできるだろうと渡邉に言っていた。技術は積み上げであり、ジャンプはできないのだというエンジニア的な常識はハナからなかった。三坂の真骨頂だった。

もし渡邉が“純・エンジニア”の頃だったら、こんな技術的に理不尽な要求には反発を覚えたかもしれない。しかしこのとき渡邉は、まったくそうだと思った。いい勉強をしたとも思った。すでに渡邉もまた、一エンジニアという立場から、主管という総合職の発想になっていた。

「ニュル・テスト」のための準備がはじまった。厚木のNTC=ニッサン・テクニカルセンターと、ブラッセルにあるヨーロッパの技術センター、NETCが合同で、このプロジェクトを組んだ。時は1994年の9月だった。

まず、ブラッセルにクルマを搬入する。そして、ライセンス・ナンバーを取得し、ヨーロッパの公道を走れるようにする。そこからドイツに入り、ニュルブルクリンクの街のホテルに拠点を設ける。これがニッサンのいつもの「ニュル・テスト」の方法だった。そして今回の“ニュル・アタック”には、1ヵ月の時間が充てられることになっていた。

だが、このGT-Rの場合、それまでの「ニュル・テスト」と違っていたことが二つあった。ひとつは、時間の制限である。本格的に冬が来たら、雪が舞うニュルでのハードな走行はできなくなる。フル・アタックは無理で、速いタイムも出せない。R33GT-Rの発売時期を考えると、これは“最後の秋”だった。

そしてもうひとつは、記録しなければならないラップタイムが決められていたことである。目標はニュル・オールドコースでの「7分台」──。94年秋の「ニュル・テスト」は、ニッサン史上でも例を見ない、タイムを約束させられたプロジェクトであった。

(第22章・了) ──文中敬称略
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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