
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
ニュルブルクリンク・オールドコースにおける、R33GT-Rプロトタイプの初テスト。そこで要改良点とされたステアリング・インフォメーションについて、主担の吉川正敏は次のように語る。
「これは、サス型式が何であるかにはまったく関係ない。どんな素材でも、これの『ある/なし』は生じる」、「まあ手っ取り早く効くのはタイヤですけど、タイヤというのも実は単なる接触面であるだけなんで。その地表の情報をきちんと伝えるには、そこから上までの総合的な剛性のバランスが要りますね」。仮にタイヤだけを敏感なものにしても、操舵系のどこかに一点でも“緩い”パーツがあれば、インフォメーションは寸断される。そしてその場合、むしろその伝達の「位相遅れ」だけが大きくなるという。
──まず、ある程度まとまったクルマ(ボディ)を作って、最初にタイヤを決めてしまう。そして、そのタイヤの仕様と性能に合わせて、サスを強化する。その後に、E-TSやアクティブLSDなどの「電制もの」のチューニングに入っていく。吉川は、新GT-Rを作っていくベクトルをこうイメージしていた。
この基本線の中で、今回のようにテスト・ドライバーがいっそうの「情報性」を求めてきた場合は、ステアリング系のパーツの精度をさらに高めるという作業が入ってくる。結果的にR33GT-Rの場合、その精度は普通のクルマの四倍以上になった。
余談になるが、このR33GT-Rの走りを創ったドライビングの名手・加藤博義は、ゲームセンターなどにあるドライビングのシミュレーションゲームは、「あ、あれはぼく、全然できない」と言う。何故かというと、コンピュータ・ゲームの場合、ステアリング・インフォメーションというものがまったくないからである。
そして、それらのあらゆるパーツをくっつけるもとになるのが車体であり、その基本仕様を、この「ニュル」で何とか決定したい。それがテストスタッフの意図だった。そのボディの剛性は、北海道でかなりの強化対策をやった仕様を持ち込んだものの、「ニュル」を実際に走ってみると、「案の定、もうちょっとだった」(吉川)ということになった。ただし、これは予想されていたことでもあり、「ニュル」のコースサイドは予定通りに、ニッサン・クルーの臨時のボディ製作工場となった。
このテストに際しては、ブラッセルにある欧州ニッサン・テクニカルセンター(NETC)によって、あらかじめ板金細工ができる準備と、その拠点としてのガレージをコースのすぐそばに借りる用意がしてあった。そこにはリフト設備まであり、必要ならエンジンの積み換え作業もできるミニ・ファクトリーになっていた。
ここを拠点に、ドライバー兼車体コンストラクターの加藤は、コースを走っては車体でやるべきことを見つけ出し、溶接までも含むボディの補強作業を繰り返した。どことどこをつなぐかという加藤の発想の自由さは吉川を驚かせたが、その考え方はレーシングカーのロールケージが根本にあるもので、市販車であるから、クルマのウエストラインより上には補強材を付けたくないし、見せたくない。その分が床下に回っているんだなと、吉川はその加藤の作業を見ながら分析していた。
だが、そうやってクルマを直していくと――というより、新ボディを作っていくと言った方が事実に近いが、「ニュル」の走行タイムはどんどん上がっていく。加藤の能力に舌を巻いた吉川だったが、一方では自身の商品主担としての立場を考えて、ちょっと複雑な心境にもなっていた。
それは何故か? GT-Rとは、かなり特殊なクルマであるとはいえ、あくまでも市販車であり、しかも量産車である。レーシングカーのように、数台のプロトタイプを作ればそれでいいというものではない。加藤が懸命のチューニングを続けて、素材として持ち込んだクルマを「GT-R」としてあり得べき姿にモディファイしている。そしてそれは、確実に良い方向に向かっている。それはいい。しかし、このプロジェクトの最終の目的は「量産」なのである。
「ニュル」でのR33のテスト車は、そのうち、誰が呼んだか“猫殺し”というアダ名が付いた。もしクルマの下に潜った猫がいるとしたら、それは生きては出られないだろうという意味だ。しかし実際のところは、そもそも猫すら潜れないという方が正しかった。そのくらいに車高は下げられ、そして複雑な補強のための「棒」がクルマのあちこちを貫通していた。(こんなクルマ、果して量産車として成り立つのか……?)吉川正敏はそのことを考えていたのだ。
一方、こうして「ニュル」での最初のテストが行なわれたその秋に、2年に一度の東京モーターショーの季節がやってきた。R33スカイラインの主管・渡邉衡三は、ここを新GT-R「発表」の場に選んだ。もちろん、クルマはまだ完成型には至っていない。実験部を中心とする精力的なテストが繰り返されている最中である。ただ、R33でもGT-Rは作る、ニッサンは「R33GT-R」を準備している。このことを、このショーで宣言したかったのだ。
この東京モーターショーの会場に、GT-Rのスタッフで「電制もの」のスペシャリストであるシャシー屋の佐々木博樹は、初日を選んで足を運んでいた。ショーがオープンとなり、ゲートが開くと、人の波がドドッという感じで押し寄せて来た。そして、その波は展示されているプロトタイプGT-Rに向かって行く。佐々木はそれを見て、驚くというよりも茫然とした。(このクルマ、こんなにも期待値が高いんだ!)
しかし、参考出品車として展示されているプロトタイプR33GT-Rの脇にいた佐々木が聞き取ったファンの反応は、このようにその期待値が高かったせいだろうか、極めつけにシビアなものだった。「これ、このまま出るのかなあ……」「なに、これ~!」「デカいだけじゃねーか、このクルマ」「こんなの、オレ買わねーよ」……
モーターショー以後のジャーナリズムも、なぜかこれと同じムードの中にあった。主管の渡邉衡三はこの時期、何冊もの雑誌を終わりまで読み通すことなく、丸めてゴミ箱に叩き捨てた。誌上でネタにされていたのは、ショーに出した参考出品車。書かれているのは次期GT-Rについての“批評”と展望なのだが、しかし、記事の基調だけは何故かみな共通していたのだ。「今度のR33GT-Rはダメだ」「これは走らないし、曲がらない」「大きくて重く、ホイールベースも長い」「やはりR32は傑作車だった」……。
渡邉は、自分の頬が紅潮していくのがわかった。
(R33は走らない? いったい誰がどこで、R33のGT-Rに乗ったんだ!)
(ボディのサイズやホイールベースは、クルマにおいて、また走りにおいて、何かを決定してしまうような要素じゃないぞ!)
もうひとつ、彼を憤激させた論調があった。ここで急に持ち上げられる格好になったR32GT-Rだが、果してこれまで、それは「傑作車」とされていただろうか? 何人もの評者が、とくにサーキット走行などにおけるクラッチやブレーキ、そしてその冷却性能の不足などを指摘していたのではなかったか。だいたい、そんなにR32がよかったのなら、どうしてみんな、足らない足らないと、たとえばブレーキやタイヤのチューニングに走ったりしたのか? 渡邉はゴミ箱を蹴っ飛ばしながら、ふたたび、声に出さずに叫んだ。
(走らない? 曲がらない? ……ようし、見てろよ!)
(第14章・了) ──文中敬称略