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家村浩明のブログ一覧

2014年12月13日 イイね!

第16章 「こいつら本気だ!」 その1

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

(オレたちは、いったいどこまでやればいいのか……)先が見えない不安と、仕事のレベルを他の部署に“いじられる”不満とが交錯していたのは、スカイライン・プロジェクトの中のボディ設計担当チームだった。時は1993年の後半である。栃木の実験部に、R33GT-Rの最初のプロトタイプを渡して以後、厚木の車両設計部の仕事は突然“見えなく”なってしまった。

クルマ作りには、さまざまな部署があり、たくさんの人が関わる。そのため、ひとつのプロジェクトを進行させるには、各部署の間でそれぞれが達成すべき目標値を定め、それを互いに出し合って、いわば相互の「契約」とともに業務を進める。だが、このくらいだろうとした車体設計のレベルが、あるひとつの部署によってどんどん上げられていくのだ。

(やつら、戦車でも作ろうってのか……?)厚木のボディ屋のエンジニアたちからは、こんな声さえ洩れていた。「やつら」──つまり栃木の実験部は、厚木のボディ設計陣によるプロトタイプにダメを出したばかりでなく、あろうことか、独自に「車体作り」まではじめてしまったようなのである。

R33のGT-Rを「やる」ことについては、車両設計部でももちろん合意しているし、スタッフも用意した。だが、彼らの作品であるボディは、実験部によれば、ものの役に立たないということらしい。栃木では、いったい何をやっていて、何をやろうとしているのか。これを、厚木の車両設計部としても知っておきたい。また、そのことは、川上慎吾や加藤博義らの実験部にとっても、例の「問題を技術者と共有する」ために必要なことであった。

実験部による北海道・陸別でのR33GT-Rのテストに呼ばれて、つまり厚木のボディ屋を代表して、栃木・実験部の仕事を体験しに行くために現地に飛んだのは、車体設計のエンジニア・田沼謹一である。

陸別のテストコースでは“栃木製”のGT-Rが田沼を待っていた。グリルは、加藤の好みで大きな口を開けるように既にモディファイされていたが、それだけでなく、トランク内をはじめとして、至るところに強化のためのバーが張りめぐらされていた。

(これは、ほとんどレースカーじゃないか!)ボディのエンジニアとして、クルマを一見した田沼は思った。レーシングカーのようにロールケージの格好にこそなっていないが、それはもう市販車の常識を超えているものだった。(これは生産には載らないな……)、こう田沼は直感し、同時に、何でそこまでやる必要があるんだとも思った。

実験部の川上が、田沼にクルマに乗るように合図した。シートベルトを締めていると、そのドライバー席に加藤が乗り込んできた。「じゃ、軽く行くから――」。テストコースに、加藤が作った新プロトタイプが入って行く。

田沼の目の前にコースが開け、加藤がアクセルを踏んだ。その瞬間、ものすごい加速の「G」で、田沼の背中がシートに張りついた。そしてコーナーがやって来る。ブレーキングの「G」と「横G」とが一体となって襲ってくる直前、チラッと田沼が見たスピードメーターの針は、190km/hオーバーを指していた。

こうやって走り、こうやって曲がっているのか! これが彼らにとっての「GT-R」なのか!

「G」は、前後左右、そして上下、さらに斜め方向まで、さまざまな角度からボディを揺すり、捻じっては、軋ませていた。『動性能』の中でのボディ剛性という問題を、田沼は、こうして実体験した。

この連中は世界一をめざしている。これは本気だ! これに比べると、車両設計の方には、これだけのモチベーションとテンションの高さが、これまではやや欠けていたかもしれない……。

加藤は、田沼と、もうひとりのボディ設計エンジニア今井英二の二人を交互に横に乗せて、陸別の複雑な「G」が車体にかかるテストコースを何度も何度も回った。これが「GT-R」だ、この走りができるクルマが要るんだ! それが加藤の、そして川上からの、厚木・車両設計部へのメッセージだった。エンジニア・田沼の中に、フツフツとたぎるものが湧いてきた。

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月12日 イイね!

第15章 “モデルチェンジ” その2

第15章 “モデルチェンジ” その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

デザイナー西泉は、まず、R33GT-Rの性能がぐっと進化していることはわかった。そこから、それを「目に見える」ようにしなければならないというコンセプトを立てた。また、世の中が何となく期待している「GT-R像」もイメージした。ショー出品車は、その期待値に対して何か欠けるものがあったのだと思った。

しかし、当然ながら時間はなかった。また、新たにデザインするとはいえ、変更できるところは限られていた。ショー出品車と後に発表されたGT-Rとは、一見して、かなり違ったクルマであるように見える。だが西泉は苦笑してその実情を明かした。モデルチェンジとはいえ、「変えられるところって、実はフロントのバンパーとグリル、それとリヤスポイラーだけだったんですよ……」。

クルマの骨格は、もうできあがっていた。それを変えることはできない。モデルチェンジというより、その同じ骨格を使って、どれだけ違う印象のモデルを作れるか。これが西泉に課せられたテーマだった。そのため、すべてのカーデザインの第一歩である「絵を描く」(イメージスケッチ)ことは、白紙の上にではなく、ショーで発表されたプロトタイプの写真の上で行なわれた。

フロント部の開口面積については、これだけは必要だというエンジニア側からの要請があったので、その通りに大きな口を開けた。デザイン的にもそうしたかったから、これは西泉にとって何の問題もなかった。またリヤには巨大なスポイラーを付けて、西泉が考えるGT-Rらしいものとした。クルマのデザインは、まずはたくさんの絵を描くことからはじまるが、R33のGT-Rについて西泉が描いたスケッチは、ついに一枚だけだった。

しかし、このようにデザインできる範囲(業界ではデザイン代=しろと呼ぶ)が極端に少ないのに、何故、かなり違った感じのクルマができたのだろうか。「バンパーでは、低い部分のボリュームを増やしています。重心が低く、幅広く見えるように」「それから、アゴを外に、つまり前の方に出した」「いや、全長は伸ばしてない。それはむしろ短くなってます」「バンパーというデザインスペースの中で、何をどのくらいの寸法にしてどう配分するか。そういう“寸法取り”の問題なんです」(西泉)

そしてリヤのスポイラーは、西泉の描いた絵では、後に市販されるGT-Rよりも、もっと高くて大きな“激しい印象”のものが描かれていたという。スケッチが一枚だけで済んだということは、主管の渡邉は、西泉のデザイン的な提案をすべて受け入れたことになるが、この派手なスポイラーだけは、渡邉はニンマリ笑いながら拒絶した。「今度のGT-Rは、もう少し、洗練されてるつもりなんですけど……」

このスポイラーについては、別のセクションからの新たな注文が、主担の吉川を通して西泉のもとへ入ってきた。それは新しいR33GT-Rで「N1」レースを担当する、通称「追浜」のスポーツ車両開発センター、そこでのGT-R担当である山洞博司からのリクエストだった。「ウチ(追浜)で図面描くから」と、山洞は吉川に言った。彼は自身の「グループA」での経験から、翼の形状や角度を、レースをする者の立場としてデザイン室に要望してきた。

レース屋としての山洞は、リヤのダウンフォースがほしかった。R32にくらべて新R33では、エンジンは同じでクルマが大きくなる。これによって生じる(かもしれない)レーシングカーとしてのマイナス分を、コーナーでの立ち上がりを良くすることと、高速コーナーでのアンダーステアを減らすことで対処しようと考えたのだ。また、R33では空力のバランスを変えたかったし、空力でアンダーステアを消せるようなセッティングの自由度もほしいと思っていた。

そこから、山洞が求めてきたのが「可変」である。市販車の「18度固定」に対して、今回のR33GT-Rでは、カタログ・モデルのひとつとなる「N1」レース用ベース車で、0度から20度の間で4段階程度の角度調整ができるようにしたい。

この提案は、主担の吉川正敏にとっては、なかなかオイシイ話だった。リヤスポイラーをただ高くするだけじゃつまらないと思っていたし、商品性評価のドライバーからは、ダウンフォースはもう要らないと言われていた。この「可変スポイラー」は、ちょっとした新製品の目玉にもなるし、ダウンフォースの面でも、商品性とレース部門との積極的な妥協策になる。これ(可変)をやろうと、吉川は決定した。もちろん西泉にも異存はなかった。

新R33GT-Rの再デザインは、単に迫力がどうというだけでなく、冷却性能、空力とそのバランス、実戦(レース)での適用までも配慮に入れて、以上のような経緯で決定されたものであった。

ただ、西泉と主に実験部との間で、最後までモメたことがひとつあった。それは、「GT-R」のバッジの位置である。栃木の実験部は、このバッジをオフセットさせたいと言ってきた。初代のGC10、そして二代目のGC110と、かつてのGT-Rは、そういえば『R』のエンブレムはグリルの左わきに付いていた。彼らは実際にそのような仕様を自分たちで作ってきて、西泉に見せ、これでどうだという提案までしてきた。

だが、この点について西泉は、バッジはグリル中央という原案を最後まで譲らなかった。世の中すべて、強い主張を持った自信のあるクルマは、こういうものは必ず堂々と真ん中に付いている。これがその理由だった。そして、このグリルの真ん中というのは、実は一番風が通らないところ。走りに必要なグリルやバンパーの開口面積など、あくまでも性能を出発点にしてデザインしたこのGT-Rの“らしさ”を出すためにも、西泉は、この一点だけは妥協したくなかったのだ。

(第15章・了) ──文中敬称略
2014年12月11日 イイね!

第15章 “モデルチェンジ” その1

第15章 “モデルチェンジ” その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

1993年11月の東京モーターショーに参考出品されたR33GT-Rのプロトタイプは、信じられないほどの酷評を浴びた。しかもデザインについて語るのならともかく、「走り」にまで踏み込んだ“評価”があったのは不思議極まることだった。

まだ、社外の誰も触れても走ってもいないR33GT-Rについて、どうして「ダメ」とか「走らない」とか言えるのか? そうしたあまりにも理不尽な評には、主管の渡邉衡三も怒りを抑えることができなかった。とはいえ、一部に不当な評はあれ、少なくともあまり好評ではなかったことはたしかであり、渡邉もその現実は厳粛に受け止めた。

(このクルマは、やはり簡単にできるクルマじゃないな)……こう改めて思ったのはGT-Rの専任主担・吉川正敏だった。ショーに出したR33ベースのプロトタイプの出来がどうだからというのではなく、やはり「GT-R」とは安易なプロジェクトじゃないのだと思い直した。さらに、これで、もし「走り」が悪かったら、このクルマは世に出せないなと認識し、こと「走り」に関しては、いま以上に磨く必要があるとも思った。

ただ吉川には、ちょっとせいせいした気分もあった。自分でやってきたことを自分で否定するというのは、実はなかなかむずかしい場合がある。外からの不評で徹底的に否定される方が、スタッフ側としての仕切り直しは、むしろしやすいのではないか。吉川は、モーターショーでの大不評のおかげで、気分的にも「R33GT-Rプロジェクト」の新たなスタートが切れたと思った。

ただし、そこから予定外の仕事も出現する。主管の渡邉は、モーターショーが終わるとすぐに、厚木のデザイン室、松井孝晏プロデューサーに要請した。渡邉はひと言、松井に、「変えろよな!」と言った。R33GT-Rの最終デザインに向けて、デザイン室でふたたび新しいプロジェクトが組まれ、担当デザイナーに西泉秀俊が指名された。

この西泉は、R30スカイラインのマイナーチェンジでエクステリアを担当し、あの“鉄仮面”を生んだ男である。また、続くR31でも、彼の原案をベースに2ドアクーペが作られていた。しかしR33には関わっていず、ローレルやサニー/パルサーなどの担当を経て、93年の夏にスカイライン・グループに戻っていたところだった。

ここで挙げた彼の作品を見ると、西泉は、こと凄味や迫力をモチーフにクルマをデザインさせると、その感性と力量を発揮するタイプのように見える。R33GT-Rのリ・デザインという仕事に彼が任命されたのは、その意味では当然であったかもしれない。ただ、少なくともその夏までは、GT-Rのスタイリングを変更するという社内の動きはなかったと、西泉は言う。やはりモーターショー以後、事態は急転したのだ。

R33の基準車、さらにはモーターショーでのプロトタイプGT-R。これらを見ての西泉の感想は「ちょっと、おとなしいな」というもので、それを渡邉に、何かの機会に言ったこともあった。

ただ、その「おとなしさ」には理由があった。スカイラインR33は、若向きというべきR32やS13シルビアなどが発表された後にデザインされたものだ。そうしたホットなモデルを発表した直後であり、当時のニッサンのデザイン・セクションには、一種の反動としての“オトナ志向”が生まれていたという。速さ、あるいは性能を、表面的にギンギンに主張するよりも、それを内に秘めたようなアダルトな感じにできないか。そういう試作を各チームが競って行なっていた時期であった。

さらにR33の造型には、もうひとつ、担当デザイナーのひそかな願望と熱意が盛られていた。それは「欧州」である。もちろん、スカイラインが輸出車でないことはわかっている。でも、仮にヨーロッパという地に置いてみても評価されるようなデザインでありたい。そして、そうすることが、新スカイラインの評価を日本でも高めることになる。そういう企図であった。

しかし、基準車はともかくとしても、少なくとも「GT-R」については、そのようなオトナ路線や国際路線は似つかわしくなかったのかもしれない。渡邉もそれを認め、R33のGT-Rはプロトタイプ公表後に、異例の“モデルチェンジ”を受けることになったのだ。

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月11日 イイね!

静かでなめらかで速くて……マークⅡのニッポン制覇に理由あり

静かでなめらかで速くて……マークⅡのニッポン制覇に理由あり§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

乗っているうちに、ジワジワーっと良くなってくる……。これが今回のニュー・マークⅡ/クレスタ/チェイサーではないか。今回のフルチェンジにはセンセーションというものがあまりないから、試乗なども、いわばクールに始まってしまうのだが、走りはじめると、少しずつクルマに説得される。

まずは、低・中速域での乗り心地が恐ろしくしなやかなこと。とくに、路面の細かい粗さを室内に侵入させない、ゴツゴツ、ゴロゴロ感を完全に追放した静粛性は見事で、この現実だけで、街乗りが主であるユーザーを納得させるに十分な仕上がりと思える。

またこれには、ホイールが動きつつ、そしてサスもしっかり働いている──そうした確かな「接地感覚」も伴うものであって、あくまでも四つのタイヤの上に乗っているという実感を消していない。何を言いたいのかというと、静かなのはいいけれど、四つの車輪で走っているクルマ的感覚に乏しいようなサイレント・カプセルではないということ。

これは日本人が好む「静かなクルマ作り」が、そのファースト・ステップの段階を明らかに越えたことを意味すると思う。いい感じの走りを、その挙動を、ドライバーに感じさせつつ、なお、ノイズレスなのだ。単に、余分な音を排除して遮断すればよろしいというレベルではないのだった。

さらに走り込むと、たとえばGTと名付けられたツインターボ版では、クルマの足腰が並みのマークⅡシリーズよりも、もうワンランク締め上げてあることがわかる。コーナリングなどでも、5ナンバー・フルサイズの車体をしたたかに支えきり、パワーステアリングの感触もしっとりとして、しかし軽すぎず、ノーマル系に比べてもずっとナチュラルになる。(もっともパワーステアリングの“自然化”は、87~88年デビューのいくつかの新型車に共通の好ましい傾向であって、マークⅡ系のみのポイントではないが)

また、このGT版のパフォーマンスも大したもので、ドカンと来るターボ感はさほどないものの、そういうのは体感上でのパワー感で過去のものであるとでも言いたげに、このターボ車はジワーッと速い。ドカンとは来ないが、しかし、ちょっとしたオープンロードで試せば、このツインターボは“ひと踏み、ピンポン!”である。速度警告音が鳴る領域への加速はこのように瞬時で、それは思わず苦笑してしまうほどだ。そしてここでも、あくまでも際立たせることなく、しかし、やる時はやる!という、このクルマの姿勢が窺える。

スタイリングに関しては、新・マークⅡ系は、昨今のトヨタ・ファミリーの内に見事に埋没したとか、50メートル離れれば、クラウンもマークⅡも、カムリ/ビスタも区別できないじゃないかといった評は、もちろん可能ではある。

しかし、50メートルじゃなく50センチ、さらには10センチの距離で、もっと言うなら撫で回してみるというような接触レベルでのスタイリングでは、マークⅡ系の今回のそれはひどく凝ったものであり、三兄弟の造型もそれぞれ巧みに異なっている。これはTV・CFのように「白」を表に出さずに、もっとダークなカラーで光と影に“芸”をさせれば、より明確になるとも思うが、このへんはCF上よりも、ショールームでの“接触距離”で、かつマン・ツー・マンでアピールすればいいという判断であろうか。

難なくまとめた。保守本流の極致。一転して、サイドウインドー・ワイパーや、せり出してくる空調コントロールのパネルなどのサービス装備をからかわれたり……。そうした割りと冷たい批評に取り囲まれそうな新マークⅡ系のモデルチェンジだが、走りの中身は濃いものがある。

とりわけ、GTツインターボは“羊”ならぬ小市民の殻を被った、侮りがたい“狼”である。それは乗り手を市民のココロに保ったまま、つまり無用な昂ぶりを誘うことなく、したたかに、やわらかく速い。

そして、ごく普通の人々の日常的な消費水準や持ち物、服装などの小ギレイ度がひどく高い国。誰でも“リッチ”というニッポンの今日をも、このマークⅡは象徴しているだろう。さまざまな意味で頷くしかないニューモデル、それが新マークⅡ系だった。

(1988/10/18)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
マークⅡ/クレスタ/チェイサー(88年8月~  )
◆マークⅡ「次女」説というのを掲げたことがある。トヨタ家の「長女」とは、もちろんクラウン。そして、そんな最上級&最高価値車を買ってるんじゃありませんよ、ちゃんと控えめな選択ですよ……というエクスキューズ付きがマークⅡ。これがこのシリーズの人気の因だという説だ。そして「長女」を超えるセルシオ登場以後の90年代、この図式はさらに有効性を増しマークⅡ系は買いやすくなって、もう一度“大衆化”する。つまり、もっと売れる……という展望なのだが、さて?

○2014年のための注釈的メモ
「低・中速域での乗り心地」とは、具体的には時速50キロとそれ以下のこと。コーナリング時のようにサスペンション系が「働いている」のではなく、「足」が動き出す前といった状態で、ドライバーはもちろん何もしていない(何の「入力」もしていない)。その時にクルマがどうであるか。ここでのクルマの動き、つまり乗員にとっての「乗り心地」をつくるのがトヨタ車は──とりわけクラウンやマークⅡは巧かった。日本というエリアでクルマがどう使われているか。そのターゲット設定がしっかりしていて、それに真っ正面から向き合う。そして80年代時点で、トヨタは既に高水準の答えを引き出していた……と顧みることができる。
Posted at 2014/12/11 07:15:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年12月10日 イイね!

第14章 苦闘

第14章 苦闘 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

ニュルブルクリンク・オールドコースにおける、R33GT-Rプロトタイプの初テスト。そこで要改良点とされたステアリング・インフォメーションについて、主担の吉川正敏は次のように語る。

「これは、サス型式が何であるかにはまったく関係ない。どんな素材でも、これの『ある/なし』は生じる」、「まあ手っ取り早く効くのはタイヤですけど、タイヤというのも実は単なる接触面であるだけなんで。その地表の情報をきちんと伝えるには、そこから上までの総合的な剛性のバランスが要りますね」。仮にタイヤだけを敏感なものにしても、操舵系のどこかに一点でも“緩い”パーツがあれば、インフォメーションは寸断される。そしてその場合、むしろその伝達の「位相遅れ」だけが大きくなるという。

──まず、ある程度まとまったクルマ(ボディ)を作って、最初にタイヤを決めてしまう。そして、そのタイヤの仕様と性能に合わせて、サスを強化する。その後に、E-TSやアクティブLSDなどの「電制もの」のチューニングに入っていく。吉川は、新GT-Rを作っていくベクトルをこうイメージしていた。

この基本線の中で、今回のようにテスト・ドライバーがいっそうの「情報性」を求めてきた場合は、ステアリング系のパーツの精度をさらに高めるという作業が入ってくる。結果的にR33GT-Rの場合、その精度は普通のクルマの四倍以上になった。

余談になるが、このR33GT-Rの走りを創ったドライビングの名手・加藤博義は、ゲームセンターなどにあるドライビングのシミュレーションゲームは、「あ、あれはぼく、全然できない」と言う。何故かというと、コンピュータ・ゲームの場合、ステアリング・インフォメーションというものがまったくないからである。

そして、それらのあらゆるパーツをくっつけるもとになるのが車体であり、その基本仕様を、この「ニュル」で何とか決定したい。それがテストスタッフの意図だった。そのボディの剛性は、北海道でかなりの強化対策をやった仕様を持ち込んだものの、「ニュル」を実際に走ってみると、「案の定、もうちょっとだった」(吉川)ということになった。ただし、これは予想されていたことでもあり、「ニュル」のコースサイドは予定通りに、ニッサン・クルーの臨時のボディ製作工場となった。

このテストに際しては、ブラッセルにある欧州ニッサン・テクニカルセンター(NETC)によって、あらかじめ板金細工ができる準備と、その拠点としてのガレージをコースのすぐそばに借りる用意がしてあった。そこにはリフト設備まであり、必要ならエンジンの積み換え作業もできるミニ・ファクトリーになっていた。

ここを拠点に、ドライバー兼車体コンストラクターの加藤は、コースを走っては車体でやるべきことを見つけ出し、溶接までも含むボディの補強作業を繰り返した。どことどこをつなぐかという加藤の発想の自由さは吉川を驚かせたが、その考え方はレーシングカーのロールケージが根本にあるもので、市販車であるから、クルマのウエストラインより上には補強材を付けたくないし、見せたくない。その分が床下に回っているんだなと、吉川はその加藤の作業を見ながら分析していた。

だが、そうやってクルマを直していくと――というより、新ボディを作っていくと言った方が事実に近いが、「ニュル」の走行タイムはどんどん上がっていく。加藤の能力に舌を巻いた吉川だったが、一方では自身の商品主担としての立場を考えて、ちょっと複雑な心境にもなっていた。

それは何故か? GT-Rとは、かなり特殊なクルマであるとはいえ、あくまでも市販車であり、しかも量産車である。レーシングカーのように、数台のプロトタイプを作ればそれでいいというものではない。加藤が懸命のチューニングを続けて、素材として持ち込んだクルマを「GT-R」としてあり得べき姿にモディファイしている。そしてそれは、確実に良い方向に向かっている。それはいい。しかし、このプロジェクトの最終の目的は「量産」なのである。

「ニュル」でのR33のテスト車は、そのうち、誰が呼んだか“猫殺し”というアダ名が付いた。もしクルマの下に潜った猫がいるとしたら、それは生きては出られないだろうという意味だ。しかし実際のところは、そもそも猫すら潜れないという方が正しかった。そのくらいに車高は下げられ、そして複雑な補強のための「棒」がクルマのあちこちを貫通していた。(こんなクルマ、果して量産車として成り立つのか……?)吉川正敏はそのことを考えていたのだ。

一方、こうして「ニュル」での最初のテストが行なわれたその秋に、2年に一度の東京モーターショーの季節がやってきた。R33スカイラインの主管・渡邉衡三は、ここを新GT-R「発表」の場に選んだ。もちろん、クルマはまだ完成型には至っていない。実験部を中心とする精力的なテストが繰り返されている最中である。ただ、R33でもGT-Rは作る、ニッサンは「R33GT-R」を準備している。このことを、このショーで宣言したかったのだ。

この東京モーターショーの会場に、GT-Rのスタッフで「電制もの」のスペシャリストであるシャシー屋の佐々木博樹は、初日を選んで足を運んでいた。ショーがオープンとなり、ゲートが開くと、人の波がドドッという感じで押し寄せて来た。そして、その波は展示されているプロトタイプGT-Rに向かって行く。佐々木はそれを見て、驚くというよりも茫然とした。(このクルマ、こんなにも期待値が高いんだ!)

しかし、参考出品車として展示されているプロトタイプR33GT-Rの脇にいた佐々木が聞き取ったファンの反応は、このようにその期待値が高かったせいだろうか、極めつけにシビアなものだった。「これ、このまま出るのかなあ……」「なに、これ~!」「デカいだけじゃねーか、このクルマ」「こんなの、オレ買わねーよ」……

モーターショー以後のジャーナリズムも、なぜかこれと同じムードの中にあった。主管の渡邉衡三はこの時期、何冊もの雑誌を終わりまで読み通すことなく、丸めてゴミ箱に叩き捨てた。誌上でネタにされていたのは、ショーに出した参考出品車。書かれているのは次期GT-Rについての“批評”と展望なのだが、しかし、記事の基調だけは何故かみな共通していたのだ。「今度のR33GT-Rはダメだ」「これは走らないし、曲がらない」「大きくて重く、ホイールベースも長い」「やはりR32は傑作車だった」……。

渡邉は、自分の頬が紅潮していくのがわかった。
(R33は走らない? いったい誰がどこで、R33のGT-Rに乗ったんだ!)
(ボディのサイズやホイールベースは、クルマにおいて、また走りにおいて、何かを決定してしまうような要素じゃないぞ!)

もうひとつ、彼を憤激させた論調があった。ここで急に持ち上げられる格好になったR32GT-Rだが、果してこれまで、それは「傑作車」とされていただろうか? 何人もの評者が、とくにサーキット走行などにおけるクラッチやブレーキ、そしてその冷却性能の不足などを指摘していたのではなかったか。だいたい、そんなにR32がよかったのなら、どうしてみんな、足らない足らないと、たとえばブレーキやタイヤのチューニングに走ったりしたのか? 渡邉はゴミ箱を蹴っ飛ばしながら、ふたたび、声に出さずに叫んだ。
(走らない? 曲がらない? ……ようし、見てろよ!)

(第14章・了) ──文中敬称略
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プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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