
トヨタがカローラを日本の「大衆車」として、この国に、さらには世界に氾濫させたため、日本のクルマは、たとえばエクィップメント偏重といった奇妙な方向へ“成熟”してしまった……という、もっともらしい説がある。本当だろうか?
このカローラ(初代・1966年)に先立つこと数年、トヨタはパブリカというコンパクト車を、同社が考える国民車として世に呈示していた。当時の官製の「国民車構想」ではエンジンは500ccとなっていたが、それに敢然と反旗を翻しての、実際にクルマを作る側からの現実的な大衆車の提案だった。(パブリカは空冷2気筒の700ccエンジン。軽量かつ安価というこのクルマのコンセプトは、後に「トヨタS800」としてスポーツカーに活きることになる)
しかし、このメカ的にも庶民的な、また、ゲタ的ともいえるクルマのパブリカを、日本の「大衆」は決して歓迎しなかった。作り手としては、小型の大衆的なモデルだからこそ……というメカニズムの選択で、それがたとえば空冷2気筒のエンジンだったのだが、そうした大衆のために「別仕立て」にしたようなクルマを、現実の大衆は望まなかったのだ。60年代当時の大衆が渇望したのは、それまでに存在していたフツーのクルマ、そのサイズ的な、そして価格的な「大衆仕様」だった。
1966年という同じ年に、トヨタからカローラ、そしてニッサンからはサニーがデビューする。この年が実質的な日本の「大衆車・元年」であり、この時にトヨタとカローラが掲げた伝説的な広告コピーが「隣のクルマが小さく見えます」であった。さらに事実としてエンジンは、サニーの1000ccに対してカローラは1100ccであったため、「プラス100ccの余裕」という勝利宣言的なコピーも生まれた。
サニー1000は、なぜカローラ1100に敗れたか? それはサニーもまた、パブリカと同じ轍を踏んでしまったからではないか。大衆や庶民は、「大衆」であるが故に「大衆車」を欲しがらない! この逆説に気づかなかった。初めて、そして、ようやく買うクルマだからこそ、ずっと憧れて眺めてきた上級車や“普通のクルマ”と同じもの、その縮小版が欲しい。この庶民の切実な夢と願望を、ニッサン&サニーは見抜けなかった。(サニーは、メカ的には上級車と同じFRだったが、装備は簡素であり、見栄えや内装もチープだった)
一方、パブリカという簡潔なクルマで一度“失敗”していたトヨタは、大衆の、そんな切なくて秘かな夢を肌で知っていた。軽自動車(むろん当時もあった)にちょっと何かをプラスしたようなコンセプトではなく、そして価格としては安価なクルマ。求められているのは、そんなモデルではないか。これがカローラのテーマであり、ニッサン初の大衆車サニーとの差異がここにあった。
とはいえ、この「大衆車を、大衆車らしく作らないでくれ……」(!)というニッポン庶民の願望は、誰にも責められないと思う。よくヨーロッパの小型車が引き合いに出されるが、あれは大衆車というより「階級車」なのではないか。クルマに夢など託さない(託せない)ロワー・レベルの人々の、その生活に必要な、そして庶民が自身で行動するための移動用具。それ故のコンパクト車で、それが彼の地における小型車や大衆車なのではないか。
東洋から距離をおいて見た場合に、そうしたクルマが機能主義的に映ったとしても、虚飾を求めず機能を追ってああいう小型車が出現した……のではないと思う。販価を考えれば、走る機能以外のものはクルマに盛り込めないのだ。だから、欧州の小型車はシンプルで、余計な装備が付いていない。
一方で、カローラとサニーが登場した1966年のわが国は、「戦後」ということでは既に20年が経っていた。その間ずっと、表面的には“階級なき年月”を過ごしてきた戦後日本の庶民が、初めて「クルマ」というものを買おうとしている。それが60年代の中葉から後半である。
その時に、もう、ふたたび戦前のような「階級」には出会いたくない。上級車とはメカニズムが違うクルマ、安価さを追求して「大衆」のためだけに作りましたよ……というようなモデルを、わざわざ買いたくもない。こうした無意識の感覚が、当時の大衆や庶民にあったように思う。故に、60年代前半にいくつか生まれた「大衆的」で小さなクルマたちには、庶民はさしたる反応を示さなかった。
もちろん、たとえば大卒初任給で見れば、1966年は60年に対して2倍(2・5万円)になっていた。64年には東京オリンピックも行なわれ、東海道新幹線も走り始めた。そんな背景もあっただろう。“昂揚の70年代”に向けての助走が始まっていた、そんな時代だったからこそ、人々は、ようやく登場した「大衆的」ではない小さなクルマ(カローラ)に喝采した。
ともかくカローラは、販売戦争でサニーに勝つ。そして、その勝因のひとつはカローラの“非・大衆性”だった。カローラは、欧州的な意味での大衆車ではなかったのだ。あるサイズに限定された「小さなトヨタ車」であり、故に人々(大衆)の支持を得た。このように考えると、カローラと、その後の日本クルマ史の謎も解けてくるのではないか。
そして、マーケットとカスタマーがそのようであったが故に、クルマの作り手もまた、カローラに「大衆車」としての限定をしなかった。クルマ作りにおいて、大衆車だから……と諦めることもなかった。カローラの全モデルが4バルブでインジェクション仕様になった(1987年)としても、この国では、それはむしろ必然であったのだ。
世界のクルマ史にカローラが与えた衝撃は少なくないが、そのひとつが、クルマ作りにおけるこのような“限定解除”だったのではないか。そしてその影響か、コンパクト・カーにも最新の技術を惜しげもなく注ぎ込むことを、いまやヨーロッパのメーカーがやっている。彼の地の「階級車」は、日本の大衆車によって、その概念は打ち砕かれた。これが「大衆車・元年」(1966年)から30年を経た、クルマ世界の現在であろう。
○タイトルフォトは初代カローラ。トヨタ博物館にて。
(「ドライバー」誌 1996年)
Posted at 2015/03/28 08:25:33 | |
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