• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2016年01月22日 イイね!

ニッサンR381 《2》

ニッサンR381 《2》そして、結果もともかく、それ以上に見る者を魅了したのは、「R381」による“翼のダンス”だった。このウイングは「動いた」のである。しかも、左右が別々に! たとえば「富士」のヘアピン。ここに現われた「R381」の羽根は、左コーナーに合わせて、中央で分割された左半分だけが「立った」。そして、クリッピングポイントから加速状態に入るとウイングは元に戻り、ふたたび一枚の羽根となって、クルマはコーナー出口に向けて立ち上がっていく。「鳥のようだ……」と誰かが言ったが、その通りだった。

「R381」は“羽ばたくレーサー”だったのだ。自動的に、各コーナーごとに、そのウイングはカタチを変えた。目的はもちろん、コーナリング時のダウンフォース(地表へ車体を押しつける空気の力)を高めるため。ヘアピンカーブのような速度の遅いコーナーでは、とくに効果はないかもしれないが、当時の富士スピードウェイにはバンクもあり、高速(150 ㎞/h 以上)コーナーだらけのサーキットであった。

コーナリングでクルマの外側に荷重が移る時、内側のタイヤに下向きのチカラを与える。そのための、左右二分割だった。そして、その作動は、クルマのロールを検出して行なったといわれる。ロールで油圧を発生させ、ロールした側とは反対側のウイングを動かした。これは画期的だった。そして、世界唯一だった。

1966年にアメリカのレース・シーンに登場して以後、ウイングはすぐにその効果を発揮した。「シャパラル」というレーシングカーが、その“怪鳥マシン”の最初だった。そしてスポーツカー・レースだけでなく、F1マシンにも波及したが、羽根はすべて固定されていた。(シャパラルは「可動」を試みたことがある)

1968年という時点で、レース界の最先端テクノロジーであった「ウイング」を、いち早く採り入れた「R381」。そして、ただ羽根を付けるだけでなく可動方式に挑み、さらに分割して別々に動かそうとしたマシンは、この「R381」だけだった。F1シーンでの最初のウイング付きマシンは、1968年8月のベルギーGPに使われたフェラーリだったが、「R381」はこれよりも早く実戦に使われ、そして勝利したことになる。

ただ、圧勝したかに見える1968年「日本グランプリ」だが、そのニッサンの勝利はタイトロープを渡るようなものだった。実績のあるエンジンということで確保したシボレーV8は実はトラブル続きであり、耐久性も懸念されていた。またテストも十分にできず、本番の二日前でも、チームはまだ「富士」に入ることができなかった。「ニッサンは出ないのか?」──こんな声さえ、関係者の間では出ていたほどだ。

3台の「R381」のレースは1台が残って勝利したものの、2台はマシントラブルでリタイヤした。ウイニングマシンのカーナンバー20も、レース終了後のチェックで、クランクシャフトにクラックが発生していたことが発見されている。

また、“羽ばたくウイング”も、もしトラブっていたら大変だった。可動状態でコーナリング・フォースを高めてくれているものが、もし、急に消えたら? これは即ちアクシデントである。早くレースが終わってくれ……と製作サイドが祈っていたというのは実感であっただろう。

さらにこのウイングは、ブレーキとも連動させてあり、ブレーキング時には「立てて」エアブレーキの機能も持たせてあったのだが、これまた、トラブルが出なくて幸いだったというところ。「R381」によるニッサンのグランプリ奪取作戦は、さまざまな意味でリスキーだったということが、いまにして見えてくる。(それを一番知っていたのがニッサンで、だからこそ、同じレースに3台も出場させたのだろう)

だが、確実にいえることがある。1968年の「日本グランプリ」に対して、ニッサン・ワークスはとにかく「攻めた!」ということだ。より新しく、より速く、よりチャレンジングに! この「攻め」の姿勢がウイナーの座をニッサンにもたらした。運もよかったとはいえるが、しかし、幸運は奪い取るものでもある。

富士スピードウェイ一周6㎞(当時)を80ラップ。480キロをひとりのドライバーが走り、途中の給油もありで、しかも種々の排気量やカテゴリーのマシンが一緒に走る。「日本グランプリ」の1968年の闘いは、こうして終わった。

レーシングカーの「ウイング」は1969年に禁止された。そして、1970年6月8日。ニッサンは「日本グランプリ」への出場中止という声明を発表した。

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/22 18:21:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月22日 イイね!

ニッサンR381 《1》

ニッサンR381 《1》レーシングカーの歴史の中ではほんの一瞬だが、しかし、鮮やかな記憶を残す「翼の時代」がある。時は、1960年代の後半だった。ボディとは別体の巨大なウイング(羽根)が、マシンのテールに高々とそびえた。クルマのスピードが上がり、ついに空気(エア)が「壁」として立ちふさがったのだ。その「壁」をどうすり抜けるか。また、それを「壁」とせず、利用する方策はあるのか。

その答えのひとつが「ウイング」であり、これは今日にまで続くエアロダイナミクスの登場と、そこでの闘いが始まった瞬間でもあった。独立した「羽根」が許されたのはは短い時間だけで、すぐに禁止された。しかしそれ以後、車体のどこかに「ウイング」を持たないレーシングカーは存在しなくなったし、車体そのものを“ウイング化”するところまで話は進んだ。

その短い「翼の時代」に、その先端性をすかさず採り入れ、そこに独自の新しいアイデアを盛り込み、日本レース史に輝けるリザルトを残したマシンがある。それが、ニッサン「R381」、1968年・日本グランプリの優勝車だ。

当時の「日本グランプリ」は年に一度だけの、極めてヒートアップした祭典だった。F1による今日の「鈴鹿日本GP」だって年に一度じゃないかと思われるかもしれないが、F1は各地で十数戦闘ったマシンとドライバーが、今度は目の前で走るという祭りだ。

だが、「日本グランプリ」はそうではなかった。たとえば、誰がどんなマシンで出場するのか。そのクルマはどれほどのチカラがありそうなのか。このへんのところから、もうニュースであり、未知や“神秘”がいっぱいあった。あらゆる意味で草創期であり、だからこそ人々は熱狂した。

現在の日本で、もし、これに似ているイベントを探すとすれば、二輪の「鈴鹿8耐」、それもその初期の状況がそれに当たるのではないだろうか。ワークスはどうする? ヨシムラは出るのか? スター・ライダーは何に乗る? このような事前情報も含んで祭りは盛り上がり、年に一度だけの本戦へと突入していく。

ただ、「鈴鹿8耐」と決定的に違うところは、「レース」という闘いそのものが当時はレアだったことだ。四輪のレースを、みんながあまり見たことがない。そういう状況下での、クルマ(四輪)関連の最大にして唯一のビッグ・ショー。それが「日本グランプリ」だった。

また、このイベントは、当時のメーカーの技術と意欲を世に問うという意味では、事実として“走るモーターショー”でもあった。程度の差こそあれ、各社はこのイベントのためだけのクルマを作って5月の富士スピードウェイに集まった。そのうち、最もアグレッシブなチームは、やはりニッサン・ワークスだった。

もうひとつ、当時のグランプリで人々を熱狂させた要素がある。それは、今日に至るも、なぜか日本人を熱くさせるファクターなのだが、先進の外国製マシンに日本製のハードウェアがどう挑むのかというテーマだった。

「日本グランプリ」は、その第三回(1966年)から富士スピードウェイにその闘いの場を移したが、それ以後のウイニングマシンは、1966年=プリンスR380、1967年=ポルシェ・カレラ6となっている。そういう経緯の後に、この「R381」の1968年がやって来たのだ。当時は、タキ・レーシングというリッチなプライベート・チームがあり、外国製のマシンによって、日本のワークス・チームと同等以上のバトルを演じて、グランプリを盛り上げていた。

さて、1968年の「日本グランプリ」である。レース結果だけを見るなら、それはニッサン・ワークスの完勝だった。3台の「R381」は予選で1/2/8位を占め、スタート後も一度も他社マシンに首位を譲ることなく、80周を走りきった。ポールポジションは高橋国光。ウイナーは北野元だった。

5・5リッターV8の「R381」にとって、3リッター・エンジンのトヨタは敵ではなく、そしてニッサンのビッグマシン戦略(R380は2リッター・エンジンだった)を知って、タキ・レーシングが用意したローラT70よりも「R381」は速かった。リザルトでの2位は、ポルシェ・カレラ10(2リッター)。これを一周遅れにしてのニッサンの勝利だった。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/22 14:45:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月21日 イイね!

トヨタ・セリカGT-FOURラリー 《2》

トヨタ・セリカGT-FOURラリー 《2》その後、「マタドール」(闘牛士)とアダ名される、このスパニッシュ・ファイターはWRCで3勝を挙げ、1987年から続いていたランチア・ドライバーによるWRCチャンピオン独占にストップをかけた。

この「3勝」のうちには、スカンジナビア人しか勝てないといわれていたフィンランド「1000湖ラリー」での勝利が含まれる。極めてハイスピードで、しばしばクルマが宙を飛ぶ。サファリとは別の意味のタフさと、ドライバーとクルマの両方に「速さ」が求められるこのラリーでの勝利は、新しいチャンピオンとしてのサインツのその実力の証明であろう。

そしてサファリと「1000湖」、その両方に勝ったマシンはセリカだ。日本製セリカのボディを用いて、ドイツにその本拠を置くTTEがラリー車に仕立てる。その組織を仕切るのがスウェーデン人のオブ・アンダーソンで、エンジンのチューニングを担当するのが日本のTRD。もちろん、そこに注ぎ込まれるノウハウにはトヨタの研究所の成果が注入され、つまりは、ワークス・チューン。そういうクルマと組み合わされるタイヤは、イタリアに本拠があるピレリーで、そしてステアリングを握るのが、スペイン人のカルロス・サインツ。

ギャランの場合は、これが、三菱・岡崎/オーストラリア人A・コーワン率いる英国ラリーアート/フランスのミシュラン・タイヤという組み合わせになるのだが、ともかく、ハードにせよソフトにせよ、世界トップの人材や集団、そのノウハウを組み合わせて、ラリーを闘う軍団が作られる。

これが今日のWRCの、もうひとつの側面である。これらの、文字通りに国際的な「コマ」は一つでも欠けてはならず、たとえば、1990年のサインツ/セリカの勝利(チャンプ獲得)には、ピレリー・タイヤの大躍進が大きく貢献した。「89年までは(タイヤがピレリーでは)ノー・チャンスだった」とは、ほかならぬアンダーソン代表の言葉である。

スペシャル・ステージ「1km」あたりのタイム差が、コンマ数秒……。これがいまのWRCのレベルで、だからこそ、タイヤも重要なファクターになる。仮に10kmのSSがあったとして、せいぜい1~2秒の差しかつかない。ズルズルのダートをクルマがドリフトしての結果である。このバトルの水準もまた、驚異的というしかない。

WRCのひとつのイベントでSSの距離を合計すると、約500kmになるとする。この時、首位と2位に1分ほどの差がついていると、そのラリーはもう「大差で」決まったといわれてしまう。事実そうであり、最終日のみを残しての1分差では、まず逆転は不可能だ。だが、ちょっと考えてみてほしい。500キロといえば東京~鈴鹿間よりまだ長い。それだけの距離を走って、なおラリーの闘いは「秒単位」の世界にあるというのだ。

カルロス・サインツは言った。「たしかに、サーキット・レースのようなコーナーでの競り合いのシーンはない。でも、ぼくらは『時計』と闘っている。あるスペシャルステージが終われば、誰が何秒だったかはすぐにわかる」

「これは立派なコンペティション(競争)だし、(ラリーには)競り合いがないなんて、まったく思わない。フラストレーション? そんなもの、あるわけがない。それに、ぼくらがやってるバトルには、“セナ/プロスト事件”みたいなことは決して起こらないしね(笑)」

……常勝ランチアに、ハチの“一刺し”だけではない闘いをトヨタが仕掛けた。“マタドール”サインツもいる。そういえば、ニッサンもパルサーで打って出るという。1991年のWRCシーンは、さらにおもしろくなる!

(了)

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/21 08:37:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月21日 イイね!

トヨタ・セリカGT-FOURラリー 《1》

トヨタ・セリカGT-FOURラリー 《1》「サーキットを走るのに較べて? それは、ラリーの方がずっとおもしろいよ。単純だよね、サーキットは」「ラリーは違うぜ! 時々、ビッグ・サプライズもあるし(笑)。路面もいろいろ、天候も変わる」
「そういう刻々と変わっていく条件の中で、インプロビゼーション(即興的対応)でドライビングしていくんだ。このおもしろさは、レースの比じゃないよ」

スペイン生まれの若きラリースト、カルロス・サインツは、こう言ってニッコリした。このカルロスを自チームに引っ張り、シーズン2年目にしてチャンピオン・ドライバーに仕立てたトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)の代表で、自らも優れたラリー・ドライバーであったオベ・アンダーソンは、次のように付け加えた。

「レースは、ある程度『学ぶ』ことができる。練習で、どうにかなるという要素がある。しかし、ラリーは違う。ドライビングに天性のものが必要だ」

そのような天才たちが、合図とともにSS(スペシャルステージ)という名の“戦場”に飛び出していく。土煙や雪の中でのタイムバトル。完璧なドリフト・コントロールと、ほとんど動物的なドライビング・センスが要求される。クルマは、こんなふうにも動くことができる! 人はクルマを、このようにも操ることができる! それが「WRC」である。

ただ、「走り」の面だけを見るなら、このような“動物的天才”たちの祭典ということになるラリーだが、その「走り」を支えるバックアップ態勢というのは、いやになるほど大仕掛けだ。まず、飛行機が舞っている。スペシャルステージ(SS)の上空を旋回するそれは「サテライト」であり、ここをステーションとして、チームの全車が連絡を取り合う。そしてサービスカーは、ほとんどクルマ一台分のパーツを積んで、SSからSSまでを全開で駆け巡る。

タイヤの話が、また凄い。何と、各SSの状態に合わせて、すべて違うものがラリー車に装着されるのだ。……ということは、SSのスタート前に、どこかでタイヤを履き替えておかねばならない。そのためには、タイヤの確実なデリバリーが必要。そのこと以前に、どのSSではどのタイヤを履くかという選択がなされているわけで、そういうテストも事前にやった。また、そうしてタイヤを選ぶ(決める)ためには、競技タイヤという現物が各ラリーの前にできあがっていなければならない。

一日の競技時間内に10ヵ所を超えるSSがあり、以上のようなかたちでその闘いを行なうために、スタッフやハード&ソフトのサービスをどのように動かすか。そのことだけをプランニングする役(ラリー・コーディネーターという)がチームにいるのは、まったくフシギではないし、また、それは必須でもある。4日間にわたる競技期間のどれかのSSで、何か一つが欠けても勝負にならないのだから──。

そして、以上が主としてサポートとソフト面だとすると、ラリー車というマシンもまた“停滞”していてはならない。WRCの各戦は、それぞれに、闘う環境や性格が異なっている。それらに対応して、いちいちクルマ(シャシー)とエンジン、そしてタイヤは、ベストマッチを求めて作り直していく。

したがって、ご覧のトヨタ・セリカ「GT-FOURラリー」は、あくまでも、“サファリ・スペシャル”である。欧州スタイル(前述)のSS主体のタイム競争というよりも、4000キロ以上の悪路を、ともかくタフに走りきること。そしてストレートでは、時速200キロ以上で走れること。この両立が必要となるクルマで、またナイト・ランなどでは動物との衝突への対応も非常に重要だ。

そのため、ほとんど超高速の装甲車という雰囲気になってしまうのが“サファリ仕様”なのだが、その一方で、泥道を走り続けることを考慮して、水圧ポンプでラジエターを洗うシステム(オーバーヒート対策)装着という小ワザも盛り込まれている。

1990年WRC第4戦の「サファリ」で、このセリカは、B・ワルデガルドのドライブでウイナーとなった。そしてこの時、サファリ初体験で4位となったのがカルロス・サインツである。

(つづく)

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/21 00:53:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月20日 イイね!

ホンダF1 RA300 《2》

ホンダF1 RA300 《2》1967年、3リッターF1の2年目。66年にレギュレーションだけは変わったが、3リッター・エンジンはすぐには揃わず、ホンダも1966年の秋まで、F1参戦を中断している。1・5リッター時代にRA271、RA272と続いたホンダF1は、3リッター規格には1966年のイタリアGPでデビューを果たす。コードネーム、RA273。このデビュー戦は予選7位。決勝は一時2位にまで上がったものの、タイヤのバーストでレースを終えた。

1967年シーズンのホンダは、ドライバーにジョン・サーティーズを迎えて、ホンダにとっては期するものがある年となっていた。当時のF1は、ナショナル・カラーにマシンが塗られていた頃で、個性豊かなチームが多く、また今日に較べると、はるかに牧歌的でもあったようだ。たとえば、一戦のみのスポット参加というのも許されており、ニュルブルクリンクなどの長いコースではF2との混走ということもあった。

さて、3リッター・エンジンで各チームが揃った1967年シーズンは、どう展開しただろうか。まず、速いのはロータスだった。3戦目にDFVが登場すると、そこでデビュー・ウイン。以後、リザルトはともかく、ポールポジションはロータスというシリーズとなった。ドライバーはクラークとヒル。

一方、カタいのはブラバムだった。登場したばかりのDFVに信頼性で勝るレプコ・エンジンを載せ、ドライバーはジャック・ブラバムとデニス・ハルム。この二人は、それぞれ2勝を挙げたほかに、着実に表彰台をゲットした。

では、ホンダRA273は? 1967年の初戦こそ3位だったものの、続く3戦は連続リタイヤ。ついに第5戦は不出場という経過となった。第6戦から、タイヤをグッドイヤーからファイアストーンにスイッチ(当時はこれもアリだった)。このイギリスGPは6位で、首位からは2周遅れである。

続く第7戦ドイツGPは、予選6位、決勝4位という結果を残したが、この時はF2との混走レース。驚異の新人ジャッキー・イクスの駆る1・6リッターF2は多くのF1より速かったが、その“遅いF1”の中にRA273もいた。第8戦のカナダGPは、ポールがクラーク、ウイナーがブラバムという1967年の典型のようなGPだったが、このレースにはホンダは出場していない。

そして、この時、現場サイドでくだされた英断が「モンツァ」のドラマを作るのである。現行のマシンの熟成より、思いきってニューマシンを! とにかく他チームより100キロ近く重いマシンを、何とかすべし。これがこの時のテーマとなった。

「ドイツGPが終わるや否や、マシンを急遽イギリスに輸送。次回のイタリアGPに間に合わせるべく、ボディの改造が進められた。ただし、イタリアGPまで4週間しかなく、本体を東京に持ち帰って設計・製作していたのでは間に合わない。ローラ社の設備を利用し、現地で調達できるものはすべて入手。同時に、東京でしか作れない特殊部品を発注するなど、夜に日を継いでの作業が続けられた」……とは、イタリアGP勝利を伝える当時のホンダ社内報の一節である。

こうして製作された「RA300」がモンツァに到着したのは、何とプラクティスの前日。ほとんどシェイクダウンが公式予選だったということになる。その予選で9位のグリッドを得たというのは、むしろ十分以上の手応えだっただろう。

そして、決勝のスタート。レーシングスピードでの連続走行は初めて(!)というレーサーが採った作戦は、前車のスリップストリームに入らないことだった。空気が十分に当たらず、エンジンの冷却が悪くなるかもしれないからだ(そのテストさえ、していなかった)。

ちなみに、「モンツァ」での歴史的勝利を生んだこのマシンは、ローラにとっても忘れがたいものらしく、同社のヒストリーには「ローラT130」として、このF1での勝利車が記録されているという。

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズ より)
Posted at 2016/01/20 06:34:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2016/1 >>

      12
3 45 6 789
10 1112131415 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 2627 28 29 30
31      

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation