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家村浩明のブログ一覧

2016年01月19日 イイね!

ホンダF1 RA300 《1》

ホンダF1 RA300 《1》レースの勝敗や結果は、時にいくつかの「もし……」とともに語られることがある。1967年、F1イタリア・グランプリ。モンツァにおけるホンダの勝利を語る際の有名な「もし」は、やはりあの“オイル”であろう。

レースの終盤、テール・トゥ・ノーズで競り合いを続けたホンダとブラバムは、そのままの態勢でファイナルラップへと突入する。広いモンツァのコースを、ほとんど並走する二台のマシンは、あとコーナー二つを残すというところまで来ても、さらに差のないまま、歴史的な競り合いを続けた。満場、総立ち! ホンダかブラバムか?

そして迎えたコーナーのコース上には、一条のこぼれたオイルのラインがあった。そのオイルに乗って、わずかにヨレたブラバム。一方、セオリー通りにそのオイルの“川”を直角に横切って、乱れなかったサーティーズ/ホンダ。

リードしたホンダは、最終コーナーを4速で立ち上がり、高回転ユニットの長所を活かして、そのままシフトアップせず、5速に入れることなくスロットルを踏み切る。1位ホンダ、2位ブラバム。その差、0秒2。F1史上稀に見る僅差だった。

もし、オイルがこぼれていなかったら? もし、5速に上げていたら? そして、4速でのエンジン回転の伸びが十分でなかったら? 最もドラマチックなF1グランプリのひとつとして語り継がれてきた「67年モンツァ」は、これらの「もし」を超えて、ホンダの劇的な2勝目として、人々の記憶に長く残っている。

1965年メキシコGPでのホンダの初勝利。ドライバーはリッチー・ギンサー。そして、このモンツァ。勝ったのはフェラーリを追われた男、名手ジョン・サーティーズ。(1964年のF1チャンプ)1968年でいったんF1から撤退してしまうホンダの、第一期挑戦時代における金字塔として、この時の「RA300」による優勝は、日本自動車史上に残るリザルトでもある。

ただ、この「67年モンツァ」は英国サイドから見ると、また、別の「もし」があるようだ。このレース、実はポールシッターがパンクのためにピットイン。そのため、1周以上の遅れというハンディキャップを負いながら、なお、リザルトとして3位で終えているのである。

イタリアで、凄いレースをやった男がいる。英国ではそのように、この「モンツァ」は今日に至るまで語り継がれているという。その男の名はジム・クラーク、マシンはロータス。そしてエンジンは、1991年のいまに至るまで戦闘力を保ち続けている、あのフォードDFV。そう、1967年とは、この「DFV」のデビューの年なのだ。

1965年、1・5リッターF1最後の年の最終戦にホンダが勝利して後に、レギュレーションが変わった。エンジンは3000cc。66年からF1はこの規格となり、その時同時に「過給1・5リッター以下」も許された。F1とはターボなり……という“芽”は、この時にまでさかのぼるわけだが、実際はターボエンジンは80年代まで、F1で闘えるレベルになることはなかった。

ついでに言うと、ターボF1時代になって、そして2リッターのF2が消滅して、“余って”しまった(それだけ使われていた)3リッターのDFVエンジンを活かすためのカテゴリーとして生まれたのが、今日にまで至る「F3000」なのである。(現在ではDFVではちょっと勝ち目がないが)

「モンツァ」に話を戻せば、ホンダ vs ブラバムという闘いになる前、首位を走っていたのはジム・クラーク。ピットインした後には、僚友グラハム・ヒルをスリップストリームに入れて引っ張り、ヒルのリタイヤ後も快走を続けて、レース終盤には三番手にいたというわけだ。“フライング・スコット”(空飛ぶスコットランド人)の面目躍如である。

そして、そこまで行って、なおかつ、このレースに「勝たない」のがクラークだった。速すぎたロータス・DFVは、最終盤でガス欠状態となり、スローダウン。その後に、前述のようなホンダ・ブラバムの名勝負になるのだ。

この年(1967年)、グランプリで最も多く勝った男はジム・クラーク(4勝)。では、年間チャンピオンはと言うと、ブラバム/レプコのデニス・ハルム。これが、この年のもうひとつのリザルトである。

そして、この「RA300」をめぐる、もうひとつの大きな「もし」がある。「RA273」というマシンに、もし、十分な戦闘力があったら、この「300」が急遽誕生して、イタリアGPの直前にモンツァに運び込まれ、そして……というドラマもあり得なかった。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌1992年 コンペティションカー・シリーズ より)
Posted at 2016/01/19 20:29:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年01月18日 イイね!

プリウスに乗った 《3》

新型プリウスについてのメモを、もう少しだけ──。今回の最新モデル、その特徴を短く言うと、「許容範囲」が広いということになるのではないか。

プロトタイプの段階での公開・試乗はクローズドな場所で行なわれたが、その「場」には、いわゆるミニ・サーキットが含まれていた。もちろん「ミニ」なのでストレートも短く、最高速はそんなに出ない。小さいコーナーが連続する“ツイスティな”道で、さらには多少の起伏もあるコースだ。

そういう場で、さまざまなドライバーが乗れば、クルマが「曲がる」際にはいろんなタイプの「入力」が行なわれることは容易に想像できる。場合によってはドライバーが慌てて、いきなり不用意で乱暴な「入力」が行なわれてコーナーになだれ込む。そんなこともあるかもしれない。

しかし、ミニ・サーキット走行時にどんなことが行なわれようと破綻を来たすことはない。このクルマの「足」なら、何をされても受け止められる。そんな自信があったから、メーカーはそんな「場」を選んだはずだ。

そして、発表後の試乗会の場は、一転して市街地の真ん中である。私はミニ・サーキットのような場でプリウスがどんな感じか、だいたい把握したつもりだったので、街ではひたすら“遅く”走ることに専念した。そして、できるだけ、いろいろな路面(サーフェス)を探した。

クルマが平らな状態、ドライバーが何も「入力」しない状態で、このクルマはどう走るのか。また、その状態から、ほんのちょっと「入力」した際にはどんな動きなのか。こんなことを観察しながら、交通の流れとともに「街」を走った。そんな中で浮かんだ語が「許容範囲」だった。

ドライバーが何もしない時、また、ブレーキやステアリングなど何かの操作をした時、その操作がかすかな時、そして激しい時──。いろいろな操作、つまり「入力」に対してクルマが返してくるものが、いつも安定している。想定以上の、余計な反応を返さない。

もちろん、こういうクルマは独りプリウスだけでなく、世の中には多々あるわけだが、挙動のリニアリティというか、クルマの反応がイメージ通りというか、そうしたことを一瞬ごとに感じながら、さまざまなフェイズでクルマを走らせることができる。そんなシャシー性能になっているのが新型プリウスであった。

それと、着座位置(ヒップポイント)など「変わった」ことに目が行きがちだが、プリウスとして、代を重ねても変わっていないことがある。ひとつは初代から続くセンターメーターで、ヒップポイントが下がっても見やすいことでは同じ。フロントスクリーンと同じような位置に、それを見る同じ“視界”の中に情報を得るためのメーターがある。これは、センターメーターの先駆者としての、プリウスとしての継続である。

そして、もうひとつはパーキング・ブレーキ。相変わらずの「足踏み式」で、極めてアナログ的に(?)エイヤッと踏みつけて、そして、エイヤッと解除する。こんなブレーキ、この「電制時代」にボタンひとつで操作できるはず。そもそも“電制の極致”みたいにしてクルマを動かしているハイブリッド車だし、こんなパーキングも電制ブレーキにした方がずっと今日的だ……と思うのだが、この件、開発陣に確認する前に、自分で答えを見つけてしまった。

もし、何らかの理由で、クルマを動かすために隅々まで張り巡らした電制システムの「電源」が落ちたら? 何をしてもクルマが動かせない、そういう状況になってしまったら? そして、そうなった場所が、仮に坂道の途中であったら? 何はともあれ、いったんクルマを停めたい! そんな非常時に、デジタル制御は(それが働かなくなっているのだから)無力になる。

──あり得ないことかもしれませんが、そうした場合も考えますと、やはりパーキングブレーキだけは別回路と言いますか、独立して作動できるようにしておきたいのです。質問したわけではないが、もし、この件についての答えをトヨタ側に求めたら、このような返答があるのではないか。

ちなみに、最新どころか、ほとんど“未来車”というべきFCV車の「ミライ」においても、トヨタは、この足踏み式によるパーキングブレーキを変更していない。クルマに「電子」は有効だから積極的に採用するが、しかし、もとはと言えば、クルマは「機械」の組み合わせ。2015年の東京モーターショーに、あの奇っ怪な「 KIKAI 」を展示したのは、遊びでもジョークでもなく、メーカーの本気だったのだと、最新のハイブリッド車に乗って、あらためて気づいた。

(了)

Posted at 2016/01/18 09:02:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2016年01月16日 イイね!

プリウスに乗った 《2》

プリウスに乗った 《2》……うーん、いまにして思うと、じゃあ“EV感覚”って何だったのだろうかと、逆にちょっとフシギになってくる。無理やり思い出してみると、あの感覚は、おそらくは、ある種の過剰さだった。トルクにしても、アクセルペダルを踏んでいる(システムに指示している)ドライバーの感覚やイメージ以上に、「電動車」はチカラが出ていた。また、そのチカラの出方には、ブワッというような唐突感が含まれていた。そしてそれとも似た感覚だが、二次電池などの重いものを積んだ巨大な“マス”が、ようやく動き出す。そんな風情もEVにはあったと思う。

もちろん、ガソリンエンジンにおいても、トルクはペダルの“踏みしろ”に応じてリニアに発生するわけではない。ただし、高回転域では爆発的にチカラが出ても、低中速域では、パワーもトルクもその出方はおとなしい。

そして、それに馴れてしまうと、それが「自然だ」という感覚になって、その「自然さ」と異なるものには、人はしばしば「違和感」という言葉を投げつける。そうした“人心”の動き、また、人の感覚と心理における機微といったことを、トヨタは深いところまで分け入ってみたのではないか。

そして、モーターの持つトルク感を失うことなく、しかし“過剰さ”は抑える。そんなチューニングであれば、電動時の走り、そのトルクの出方において、多くの人が「リニア」と感ずるであろうフィールになる。そこまで探索が到達し、ついでに、ヒューンというモーターの回転音も室内に入らないようにした。こうすれば、多くの人が「自然」と感じるはずだ──。

今回のプリウスは、そこまでやっているクルマのように思う。結果として、2010年代の「電動車」とその走行フィールは、初期の“電動アピール”の時代を終え、新次元に入った。そして、われわれが知る(体感する)ことのできる、その最初の成果が今回のプリウス(とミライ)なのではないか。

もちろん一方では、あの“電動感覚”は21世紀を切り拓くクルマの新提案と、その象徴だったのにぃ……とか、せっかくハイブリッド車(異種混交)を買ったのに、パワーソースを二つ持つという“優越感”を味わえなくなってしまった……といった文句を、今回のプリウスに向けることはできる。

ただ、そうした電動車的な要素を強調することは、このプリウスのテーマではなかった。ハイブリッド車だからとか、そうした前提ナシに、無条件で他車と較べてほしい。同じ地平に、一度、ハイブリッド車プリウスを置いてみたい。これがおそらく、この4代目でやりたかったことで、「お客様には、とにかく、クルマに乗ってみてほしいんです」と開発陣が言うのは、そういう意味だと思う。

さて、搭載電池のタイプが異なることによる「走り」の違いはない(感じられない)と先に記したが、とはいえ、シリーズ全モデルの走行フィールが同じというわけではない。そう、装着タイヤによる差異である。新プリウスでは、各グレードの「ツーリングセレクション」に17インチタイヤ仕様が装着されている。この大径タイヤを付けた仕様の乗り心地が悪い(固い)とはいわないが、でも、私のパーソナルチョイスは断然、15インチタイヤの“普通仕様”の方である。

この普通のバージョンによる、路面を掴みつつ、同時にしなやかに動きながら走っていくという滑らかさ。その度合いが、17インチ仕様ではやはり低下する(消える、とは言わない)。もちろん、見た目ということはあるのだろうし、17インチタイヤとしては良好な乗り心地なのかもしれないが、市街地などでこんなにイイですよ……という、せっかくのプリウスのホスピタリティを、違う“靴”を履くことによって失いたくない。これが私の意見だ。

それに、そもそもプリウスは、そんなに「スポーティ」方向に振らなくても、多くのカスタマーにとって十分なのではないか。プリウスの商品性として、そうした要素が、そんなに必要なのか。私としてはそんなふうにも思うのだが、しかし、この点も(繰り返しにはなるが)、仮に「走り」のパートだけを抽出されて評価されても、そこで他車との比較に耐えるものにしたい。それが、今回のプリウスの狙いであり、野望であった。

それと、こうしてすぐに比較とかライバル車の想定といったことにハナシを持っていくのが、メディアとそれに関わる者特有の習性であるらしい。VWゴルフがライバルですよね?……と訊かれるので、それをあえて否定はしていない。これが開発陣の立場で、実は、対抗モデルというのは何も想定していないというのが本音であるようだ。「ライバルを問われるのは、実はいつも困っています」と、開発陣の一人は苦笑いとともに語った。

さらには、セダンとしてまとめることにこだわったプリウスである故に、たとえばヒップポイントにしても、対旧型比で59ミリほど下げている。しかし、今回で呈示した新プラットフォームから生まれるモデルは、べつにセダン系とは限らない。これは容易に想像できることで、たとえばSUV的なコンセプト&パッケージングのモデルが、いずれ、このラインから派生してくるのは確実。高いHPのクルマについては、「プリウス以後」に注目しつつ待つべし、ということであろう。

(つづく)
Posted at 2016/01/16 23:24:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2016年01月16日 イイね!

プリウスに乗った 《1》

プリウスに乗った 《1》「事前試乗」ではなく、正式に(?)発表されて以後の新型プリウスに乗る機会があった。もっとも、先にプロトタイプとして公開された仕様と、発表後のプリウスとの違いは、開発陣によれば、それは「皆無」だそうだ。言葉として「プロトタイプ」(原型)と称していたが、もう何も変更することはないという段階になったから、報道陣にも公開した。

ゆえに、プロトとしてクローズドな場で乗ったプリウスと、今回、市街地(公道)で乗ったプリウスで、印象として、何か大きな違いがあるかというと、それはない。プリウスのコンセプトやその歴史については、本ブログの「ちょっと寂しいプリウス『4代』の“旅”」を参照いただくとして、ここでは、市街地(公道)で乗った場合のプリウスの印象、そしてそこで聞いた開発陣からのコメントなどを中心に、少しだけメモしておく。

まず、ニッケル水素電池とリチウムイオン電池、この二種のバッテリーを、2015年登場の新型車に載せている問題だが、これは開発陣にとっては、そんなにフシギなことではないようだ。なぜなら、3代目のプリウスもニッケル水素電池を搭載していたから。つまり、このクルマはずっとその仕様で来ていて、そしてこの4代目で、リチウムイオン電池の仕様もラインナップに加えましたよ、ということ。

……なるほど、エンジンの歴史をちょっと思い出せばいいわけですね。SOHCエンジンでずっと来たけど、今回の最新型では、それにDOHC仕様も加えた。二つの仕様は、それぞれに特徴と価値あり。ずっと作って来たSOHCエンジンは、まだまだ十分に“戦力”だし、また能力的に将来性もある。従って、これからも使っていく。これと同じような共存関係が、ハイブリッド車のパワーソースの一環である電池においても存在するということなのだろう。

もちろん、同じ重量、同じ大きさで性能比較するという“レギュレーション”であれば、その場合はリチウムイオン電池が勝つ。たとえば携帯電話の電池であれば、それはニッケル水素タイプでは無理。しかし、クルマに搭載する電池は、サイズの問題にしても、もう少し余裕がある。二種の電池で同じ性能を出そうとすると、ニッケル水素の方が大きく、また重くなるが、言い換えれば、ただ、それだけのことなのだ。

ちなみに、プリウス・シリーズ搭載の二種の電池では、その重量差は15・8キロであるという。この軽くできた分を装備品を積むために当てると、その結果として、ベーシックな仕様はニッケル水素電池が積まれていることになる。また、乗り較べてみて、この二つの電池の差が体感できるかというと、ニブい私(笑)のセンサーでは、それは到底ムリ。……というか、もしそうであったなら、開発段階で、どちらか一つのタイプに収束していたことだろう。

そして、従来型よりも低められた、問題の着座位置(ヒップポイント=HP)だが、クルマに乗り込む際には、私はやっぱり(低いなあ……)とは感じる。ただ、シートに収まってしまえば、HPが低いことによるストレスやデメリットは、ほとんど感じない。たとえば前方視界にしても、アイポイントが低いことは気にならない。

新プラットフォームの採用による低重心化とクルマの低姿勢化は、このモデルの大きなテーマのひとつだが、しかし、そのテーマ達成のために何かを犠牲にしてはいない。ちょっとおもしろいハナシとしては、クルマのフロント部分に掲げられるトヨタの“地球マーク”だが、その位置の「低さ」においては、このプリウス、日常使用を重視のセダン系でありながら、あの「86」と一緒なのだそうだ。

そして、二つのパワーソースがあること、その片方──といってもエンジンだが、それが状況に応じてオン/オフもしていること。これを感じ取ることも、ほんとにむずかしい。エンジンが掛かった(回り始めた)こともわからないし、その種の“継ぎ目”を感じ取ることも不可能に近い。

このことは同時に、(あ、いまはモーターで走ってるな?)という“EV感覚”というか、「電動車」を動かしている感覚がないことを意味する。そういえば、燃料電池車とはいえ、駆動は電動であるはずの「ミライ」に乗った時に、モーターで走っているという感覚、つまり“EV感覚”がないことに驚いたが、このプリウスも同様である。

おそらくだが、トヨタは、こういう「挙動」だと“EVチック”になる……という要素をいったんピックアップして、そして、それを消すにはどうするか。そして、どういう「挙動」と感覚であれば、普通の自動車っぽくなるか。こうしたことを徹底して探究したのではないか。

(つづく)
Posted at 2016/01/16 12:06:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2016年01月11日 イイね!

映画「卒業」の赤いアルファ・スパイダー

先般、映画の「卒業」を(DVDで)見た。1960年代に製作されたこの映画だが、実を言うと、これが初見だった。もちろん、サイモンとガーファンクルは聴いていたし(ただし、レコードを買ったことはなかった)キャサリン・ロスも嫌いではなかったが、この映画はあまりにも「同時代」だったというか、当時のメジャー作で有名すぎたというか。とにかく、横目では気にしていたのだろうが映画を見ることはないまま、ほぼ半世紀が過ぎてしまった。

……あ、公開時にTVで、あの「エレーン!」「ベーン!」というシーンがあまりにも流れすぎて、それで、見なかったのか? 効果的にPRしすぎると、逆に映画館に行かなくなるヤツもいる。そんな余計なことを、映画会社各位にここで言いたい(笑)。

さて、そんな事情で、この映画を年令を重ねてから見るハメになったわけだが、その目線でいうなら、シーンもストーリーも、すべてが「ほろ苦い」というしかない。そして一方では、これは「コメディ」なのかという感じもヒシヒシとする。

でも、「青春」って(あえてこの言葉を使うが)当事者にとってはいろいろと切羽詰まった「どうにもならない」ものであっても、遠くから見れば、大したことではないもの。そして、笑ってやり過ごせば、それで済むようなことも多い。でも、それが見えてくるのは、やっぱり年を重ねた後のこと。ただ、そういうことがわかって、そして、それがきちんと描かれているということでは、やはりこれは優れた“青春映画”なのだろう。

そして、「赤のアルファロメオ」である。それもスパイダー、つまりオープンカー。主人公ベン(ダスティン・ホフマン)は、大学の卒業記念に両親からこれを買ってもらったという設定。でも、せっかく卒業したのに、彼は自分の将来を決めない。……というか、何も決めたくない。彼が何となく思っているのは、両親とその周りの人たちが属している「エスタブリッシュメント」には組み込まれたくないということかもしれない。

……そうか、こういう「ベン」みたいな青年が、あの『ウッドストック』には集まったのではないか。あまりにも人が集まりすぎて、結果的には無料(フリー)になってしまった、この伝説のロック・コンサート(1968年)は、原っぱに40万人もいた割りには、観客はみんな、かなりお行儀がよかったといわれている。そして、この記録映画を見て驚くのは、画面に映し出される人々(観客)が、ほぼ「白人」だけということ。このイベントには、そうした“統一”が何となくあったようだ。

さて、そんな未来に向けて「立ち止まった」ままのベンのところに、やっぱり「既存」からはちょっと外れてしまった年長のミセス・ロビンソンが近づいてくる。若者は、成熟した女性による誘惑を、当然ながら拒めない。しかし、その夫人の娘であるエレーンは、実はベンの意中の女性だった……という、けっこうドロドロな設定なのがこの映画だった。

……なるほどね! そして、そんな母との関係があったにもかかわらず、まったくメゲずに、その娘エレーンを追うというベン青年を、映画は基本的に肯定して描く。だが、「エスタブリッシュメント」側の締めつけも強力であり、エレーンは親の決めた相手と結婚させられそうになる。

その式場へ、赤のアルファロメオを駆って向かうのがベン。しかし準備が悪く、あるいは途中で的確に対応しなかったために(ガソリンスタンドには寄っていたのに)アルファ・スパイダーはガス欠でストップしてしまう。やむなく、そこから自分の足で走り、教会の二階から、あの叫びを行なう。「エレーン!」……

ここで花嫁が「もう遅いのよ」という様子をまったく見せずに、来てくれたのね、ベーン!……と呼応するのが、やっぱり“60年代”的。そして、そのへんにあった「十字架」を振り回してベンが追っ手に対応し、さらにはその宗教の象徴をカギ代わりに使ってドアを封印してしまう。これまた“60年代アメリカン・ニューシネマ”の真骨頂か。

そして二人は、一人は真っ白なウェディングドレスのまま、路線バスに逃げ込んで後部座席に収まる。しかし、乗客たちからは奇異の目で見られ、二人は思わず、複雑な表情になる……というのが、この映画のラストである。この「バスの中」とは、これから先に彼らが生きていくであろう「場」の象徴であり、そこでの彼らが順風満帆であるはずがないというのは、ひとつの解釈。

ただ一方で、観客としては、ここで「クルマ」のことを思い出す。もし、赤のアルファ・スパイダーがガス欠せずに、教会の前で待っていたら? ベンとエレーンはそれに飛び乗って、歓喜の叫びを上げただろう。そして、二人を乗せて疾走する赤いオープンカー!……なんていうシーンで終わったら、この映画の印象は相当違ったものになる。

しかし、赤のアルファロメオと、彼らはハグレてしまった。彼らはスパイダーを捨てた、もしくは、スパイダー(親のプレゼント)に捨てられた。そこまでの意味が盛られていたかどうかは定かではないが、彼らが単に最後に「バスに乗った」だけではなく、その前段階として、アルファとの“別れ”があった。こういう流れで見てみると、この映画のエンディングの興趣はさらに深くなるのではないか。そして同時に、この映画における「アルファロメオ・スパイダー」は、そのくらいに雄弁な存在だったとも思う。
Posted at 2016/01/11 15:57:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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