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家村浩明のブログ一覧

2016年06月28日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.02 セリカ1600GT

【 70's J-car selection 】vol.02 セリカ1600GT○セリカ1600GT TA22(1970)

日本のスペシャリティカーの原点というべきモデルが、このセリカだ。企画の手本はアメリカで、当時、フォードのマスタングが“ポニーカー”としてヒットしていたこと。(マスタングのデビューは1964年)。スポーツカーとかGTカーといった“本格もの”ではなく、高性能だが、もっとカジュアルで乗りやすいパーソナルカーとして仕立てられ、それが「スペシャルティカー」と呼ばれて新ジャンルを形成していた。トヨタはそのトレンドにいち早く目をつけ、このような、スタイリッシュなクーペを送り出してきたというわけ。

シリーズの中でもGTは当時はレアだったツインカム(DOHC)の強力なエンジンを搭載し、モータースポーツにも進出。国際ラリーでは、このセリカが主戦機種となって、これ以後のトヨタのラリー活動を支えることになる。当時のトヨタには、ガタイが小さめで、それにパワフルなエンジン搭載という組み合わせが、実はこれしかなかったという事情もあったが。

このセリカは「スペシャリティカー」=特別なモデルを名乗るに相応しく、仕様や装備品を購入者が自由にフルチョイスできるという販売方式で登場したが、これはさすがに時期尚早であったようだ。当時はマーケット&カスタマーの方がその「買い方」に上手く対応できず、次第に、従来通りにメーカーによって決められた仕様での販売という他車並みのかたちに収束していった。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/06/28 00:11:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年06月27日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.01 サニー・クーペ1200GX

【 70's J-car selection 】vol.01 サニー・クーペ1200GXサニー・クーペ1200GX B110(1970)

1970年代のニッサン・サニーは、今日のイメージよりもずっと“熱い”モデルだった。それにこの頃は、FFであることはむしろニュースで、サニーのような小さいクルマであっても、駆動方式はFRがほとんどであり、またATもまだマイナーだった。

そしてMTということでは、このGX-5のミッションは異色だった。このクルマのシフトパターンは2速から5速までがH型で、1速はHパターンの外側に置かれていたのだ。1速は発進時しか使わず、走り出したら「2~5」までのギヤを駆使するというレーシングカーによくある方式が採用されていた。今日でいうなら、このGXは、おそらくインテグラの「タイプR」に相当するポジションにいた。

そして後年、ミッションだけでなく、小型・軽量で後輪駆動といったこのクルマの属性にレース界が着目し、サニーはサーキットで大活躍する。多くのチューナーが参入し、エンジンは140馬力にまでパワーアップされたレーシング・サニーが競う「マイナー・ツーリング」カテゴリーは、前座ながらも、富士スピードウェイでの最もエキサイティングなレース(接近バトル!)として観客に愛された。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/06/27 07:05:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年06月25日 イイね!

【F1】モナコからカナダへ 《2》

「蝶のように舞い……」という言葉に触れて、フッと“遠い目”になっていることに気づく。当時の言葉や映像、それらの断片が跳び回り始め、ココロの収拾がつかなくなっている。

まず、この言葉で思い浮かべたのは「カシアス・クレイ」という名だった。モハメド・アリの死去の際に多くの追悼記事が出たが、そのほとんどが「クレイ」に触れていなかったのは意外だった。偉大なるモハメド・アリは、その名になる前はカシアス・クレイだった。そして「蝶のように……」と言ったのもクレイ時代だったはずだ。

1964年、カシアス・クレイはヘビー級のタイトルを賭けて、ソニー・リストンと闘った。その時に、自身のファイティング・スタイルを「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と描写した。……そう、それはまさに“描写”で、自分自身のことをこれほど的確に表現できる人がいるのだと、そのことにも驚いた。

重量級のボクシング史に詳しいわけではないが、「クレイ以前」のヘビー級の闘いは、要するに二人が足を止めての「殴り合い」だった。そして、どっちのパンチが強いか、どっちがタフなのかで勝負を決めていた。でも、俺のボクシングはそうじゃないと、カシアス・クレイは言ったのだ。

当時は、今日のように映像(動画)が氾濫する時代ではなく、言葉と静止画が「情報」の主役だった。もちろん“動く絵”は散発的にはあったが、何であっても、まずは「言葉」をベースに想像を逞しくするしかなかった。しかし、一瞬でもカシアス・クレイに関する動画を目にしたなら、彼の言っていることはすぐにわかった。リング上の彼は、たしかに「蝶」だったからだ。

クレイがタイトルを賭けて最初に闘った相手は、最強のパンチャーといわれたソニー・リストンだ。しかし試合が始まると、そのパンチはクレイのフットワークに翻弄されて、ほとんど当たらなかった。6ラウンドに渡って「蝶」に眩惑され、そして「蜂」によってビシビシと刺され続けたリストンは、7ラウンドが始まっても自コーナーの椅子から立ち上がらない。クレイとリストンの初戦(1964年)は、こういう結末だった。

「有言」して、さらに「実行」する。ホラを吹くのだが、しかし、それはそのまま現実になる。こうしたカシアス・クレイの「物語性」に、人々はシビレた。フィクション(ウソ)みたいなことを、ホントにしてしまう。そしてクレイは、その「物語」の製作・監督・主演を独りでやっていた。

史実では、クレイはリストン戦に勝ってチャンピオンになった際に、リングネームを「モハメド・アリ」に変える宣言をしていたらしい。しかし、メディア上ではどうだっただろうか。1965年にもう一度リストンと闘った際でも、報道では「クレイ対リストン」だったような気がするのだが。

そして、アマチュアとしてローマ・オリンピックで金メダルを取り、プロとしてヘビー級のチャンピオンになったカシアス・クレイは、ある日、その栄光の(アメリカ人的な)名をあっさりと捨てる。彼は「モハメド・アリ」になり、同時にムスリム(イスラム教徒)になっていた。(後にはリングネームだけでなく、本名もモハメド・アリに改名する)

ここから先、「モハメド・アリ」になって以降の彼の「闘い」は、あまりにも波瀾万丈に過ぎるので、ここでもう止めにする。ただ、1960年代に徴兵を拒否し、アメリカにとっての“非国民”だったであろうアリ氏が、アトランタ五輪(1996年)の開会式に登場した際にはちょっとした感慨があった。アメリカは彼の名誉回復を行ない、さらにはリスペクトもしているのだと思った。ただ、最後の聖火ランナーとしての彼の姿は、パーキンソン病と闘っていて痛々しく、「蝶」でも「蜂」でもないクレイ=アリを見るのは、とても辛く悲しかったが。

さて、F1/カナダに話を戻す。2016年のここでのレースは、ルイス・ハミルトンにとって会心のものだったのだろう。走りたいように走れて、そのフィールにクルマもついて来た。だからルイスは、そんなレースだったことを示すため、カシアス・クレイ=モハメド・アリの“あの言葉”を選んだ。

ふと気づけば、この「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とは、クルマの世界、それもレースやコンペティションを語るのに、けっこうピッタリではないか。「意のままに」とは、メーカー内で「運動性」を担当する人々が好んで使うフレーズだが、これを少し“芸術方向”に振ると「蝶のように……」となるはず。また、コーナーなどで狙ったライン通りにクルマが行ってくれれば、それは「蜂のように」刺したということになろう。

でも、これまでクルマについて何かを語る際に、このカシアス・クレイの言葉が持ち込まれた例は(私の知る限り)これまでには無かった。ルイス・ハミルトンが自身のレースを振り返って「蝶のように……」と語ったのは、ルイスの才覚の現われか、それとも教養か。あるいは、クレイ=アリと共通する、彼の肌の色がそうさせたのか。とにかくルイス・ハミルトンは、カナダでの勝利後、カシアス・クレイ=モハメド・アリという20世紀最高のアスリートのひとり、その名とその言葉を甦らせて、多くの人々の記憶と感情を揺さぶった。

そして彼自身も、モナコ、カナダと二連勝して、チャンピオンシップ・ポイントでも首位のニコ・ロズベルクに肉迫した。その後に、市街地で行なわれたヨーロッパ・グランプリでは張り切りすぎたか(笑)予選でクラッシュ。決勝では上位からスタートできずに、グランプリで三連勝することはできなかったが。

さて、モナコではレッドブルに「クルマ的」に敗れたメルセデスだったが、カナダとバクー(ヨーロッパGP)ではやはり速く、他車よりは上位にいた。ただ、メルセデスとライバル二チーム、つまりフェラーリ、レッドブルとの差は縮まっている。三つ巴とまではいえないにしても、予選でも決勝でも、予断を許さないという状況になってきた。シーズンも中盤に来て、F1が少しおもしろくなってきている。

(了)
Posted at 2016/06/25 10:32:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2016年06月23日 イイね!

「2016ル・マン」のためのメモ その2

* 勝者はトヨタではないという結末の後に、メインストレートに止まっていた5号車はノロノロと動き出した。停止していたのはコントロール・ラインを過ぎた場所だったので、チェッカーを受けるには、サルテ・サーキットをもう一周して来なければならない。ドライバーの中嶋一貴はシステムから何とかパワーを捻りだしたのか、コース上で5号車をゆっくり動かしている。

* だが、結果を先に言ってしまうと、一貴の努力は徒労に終わった。5号車は何とか一周して(あるいはどこかでショートカットして?)フィニッシュラインに達し、チェッカーフラッグを振ってもらったが、それは“遅刻”と判断された。出場車は最終周回を「6分以内」で走らなければならない。そういう規定があるようで、トヨタの5号車はそれをクリアできなかった。

* ル・マン24時間レースの結果表、その「45番目」にトヨタ5号車の名がある。しかし、44番目までのクルマにはそれぞれ周回した回数が書かれているのに(首位に対してマイナスxx周というように)5号車についてはその記述がない。結果はない、もしくは記録なし、つまりは失格か? ちなみに「45番目」というのは、リタイヤしてフィニッシュできなかったエントラント・リストのうちの最上位だ。

* ……そうか、「ル・マン」というレースは、そのクルマが「24時間」経過後に、コースのどこで、何をしているか。それを問う競技なのだろう。だから、最終周回についても、そのクルマがどういう走りをしていたかという規定(6分以内)があるのだ。

* 極端な話だが、たとえばクルマが不調でちゃんと走れないが、でも完走という記録は残したいとする。それならと、残り1時間からフィニッシュライン手前にクルマを止めて待機。そして「24時間」が過ぎたら、何らかの方法でラインまでクルマを動かし、チェッカーを振ってもらう。しかし、そういうゴールの方策は認めないということだ。

* エントラントには、最後まで「レーシングカー」であることを求める。それがル・マンの精神なのだ。イマイチ意味不明だったポルシェ2号車、残り10分でのピットインも、この規定を思い出すと納得もできる。

* 最後まで、レーシング・スピードで走り続けよ! 「ル・マン」のこのスピリットに対する、出場者としての敬意。それがあの最後の給油とタイヤ交換だったのではないか。そして、その通りにラストまで「レーサー」であり続けたポルシェに、レースの神様は最後に静かに微笑んだ。

* レースの神様、あるいはル・マンの女神、彼らへのリスペクト。こんなことを、ふと思ってみる。そして、いきなり後出しジャンケンみたいな言い草になるが、今年のトヨタが掲げた「トヨタよ、敗者のままでいいのか」というコピーは、神々へのリスペクトという点では果たしてどうなのか。

* 私は、このコピーと記事をweb上で見つけた時、どこかの意地悪なメディアが、トヨタとそのル・マンへの挑戦をあざ笑うためのサイトを、わざわざ作ったのかと思った。でも、そうではなく、これはトヨタ側がこのコピーとともにル・マン情報を発信しているものであったらしい。(何かを嘲笑している記事やページは好みではないので、このサイトには行かなかった)

* 「トヨタよ、敗者のままでいいのか?」……これはなかなか“強い”コピーだ。しかし、強力で雄弁である分、あまり上品ではない。このコピーがなぜ品格に欠けるのかというと、これは言葉による一種の“傷害罪”だからだ。

* こういう強い言葉を投げつけあっても問題がないのは、身内に限られる。家族とか社内とか、これはそうした「内向き」専用のコピー。そうであるにも関わらず、また、そのことに気づかず、この言葉がwebという公的な場で使われた。だから、収まりが悪いのである。

* ただし、この言葉がすごくマジメな局面で生まれたものであることは、容易に想像できる。たとえば、エンジニア同士で、また社内のスタッフが連れ立って、飲み屋にでも行った。そこで酒が回り、誰かが(上司かな)「おい、俺たちは“負け”のままでいいのか?」と問題提起した。それに対してスタッフ(部下)が、「何言ってるんですか、部長。イイわけないでしょう!」とやり合った。

* そして、その次の日から、朝、各スタッフのコンピュータ画面に、あるメッセージが出るようになった。それが「トヨタよ、敗者のままで……」というやつでしたねえと、レース後にでも、スタッフのひとりが外(メディア)に向けてバラす。そういうツールとしてなら、このコピーは有効だし効果もあると思う。

* そもそも「敗者」というのは、何かへの挑戦が終わった後に、もうそれはやらないのだという段階で、そして一度の勝利もなく、そのチャレンジを終えることになった時に、「負けました……」として使う言葉ではないのか。挑戦を続けている限り「敗者」ではなく、(競馬用語を使えば)単なる“未勝利馬”であるに過ぎない。

* また、そんな言い方をすれば、ル・マンの女神だって頬をふくらませて不機嫌になるのではないか。「あーら、いつ私があなたを“敗者”と言ったのよ?」と。ル・マンの女神は、トヨタのことは挑戦者として、それも、きわめて勤勉なチャレンジャーであると毎年思っているはずだ。

* そして、トヨタ側が「ル・マンに勝つためには、いったい何が足らないんでしょうか?」という質問を、もし、したなら、今年こそ女神はそれに答えてくれるのではないか。「あと必要なもの? それは《運》ね」と──。

* ……いや、いきなり《運》が出て来てオカルト風になってしまったが(笑)、しかし、いまやトヨタはクルマも戦略も何の問題もないはず。今年のトヨタは、ポルシェより速かったし、燃費でもライバル二社より優れていた。そういう“地平”に達した時に、そこから先の展開として「幸運」を求めてもいい。それがレースで、その段階になって、「運も実力のうち」と女神が結果を決めてくれるのではないか。

* さて、こうして筆が躍っているついでに(笑)言ってしまうけれど、2017年の「ル・マン」はトヨタが勝つと思う。今年だって、「ル・マン23時間55分」レースならトヨタの勝利だった。

* ポルシェとは来年も、いい勝負ができる。そして、気をつけなければいけないのはアウディではないか。今年のアウディは速くなかったが、ただ問題はあのスタイリング。あんな奇妙なレーシングカーを作ったということは、彼らは他社が見ていないものを何か見つけたとも考えられる。その発見と今年の失敗が組み合わされた時、ひょっとしたら“大化け”があるかもしれない。

* でも、それで言うなら、トヨタにしても「今年」に留まってはいないはずだ。そして、敗北からではなく、今年の「ル・マン23時間55分」レースでの勝利。そこから得たことは、計り知れないレベルのものであるはず。いまのトヨタは、これまでとは違ったステップに立っている。

* ……あ、でも「敗者」としてル・マンに行くのは、来年は、もうやめましょうね(笑)。何か闘うためのコピーを掲げるにしても、もっとポジティブなものを! それに、勝者と敗者を決めるのは、それこそが「女神」の権限で、そこに人は立ち入れないものです。

(了)
Posted at 2016/06/23 00:24:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2016年06月22日 イイね!

「2016年ル・マン」のためのメモ その1

* 悪夢のような結末で、その衝撃と余韻がなかなか去らない。2016年の「ル・マン24時間」は、トヨタ・チームがほとんど掌中にしていた勝利を逃した。

* 長い24時間レースも、残り10分となった頃、首位のトヨタと同一周回で「2位」を走行していたポルシェの2号車がピットインした。給油とともに、四本のタイヤを交換。もちろん、首位のトヨタはコース上にいる。

* このポルシェのピットインで、サルテ・サーキットで取材していたほとんどすべての観戦記者は、首位トヨタの勝利を確信し、速報のための記事を書き始めたはずだ。トヨタ、ついにル・マンで初勝利、30年来の悲願を成就──。(実際にも、「トヨタ勝利」の記事をアップしてしまったwebサイトがあったという)

* この時の、ポルシェのピットインの意図は何だっただろう。タイヤをフレッシュにして、少しでも首位との差を縮め逆転を狙ったか? しかしこの時、レースの残り時間は10分だった。そして、サルテ・サーキットは一周するのに、どんなに速いクルマでも3分半はかかる。

* この時のポルシェ2号車は、首位のトヨタから約30秒遅れていた。そこから停止し、タイヤ交換作業の時間が加われば、その差はさらに拡がる。新タイヤで、仮に一周につき「5秒」縮めたとしても、「24時間」までに3周しかできなければ15秒しか縮まらない。

* ポルシェは、2016年のル・マンで「最速」であることを示したかった。このピットインについては、こういう意見がある。レース中の最速ラップは、ポルシェではなくトヨタの6号車(可夢偉!)が記録していた。もし、優勝できないのであれば、ファステストラップだけでも獲っておきたい。ポルシェ陣営は、こう考えたのだろうか。言い換えればこの時点で、ポルシェは2016年ル・マンの優勝を諦めたということだ。

* そのポルシェ2号車は、3位のトヨタ6号車に対しては「3周」のリードを持っていた。だから、ピット作業に数分を費やしても、2位の座が脅かされることはない。それならタイヤ交換も含んで、ピットでやれることはすべて行ない、クルマをフィニッシュへと向かわせる。「2位」を盤石なものとするための、そんなピットインだったのかもしれない。

* ふと気づけば、今年のル・マンでは、残り1時間となっても、同一周回数で2台のクルマが競い合うという緊迫したレースだった。そんな歴史的なデッドヒートの「2016ル・マン」だが、この2位ポルシェのピットインによって、その終幕がようやく見えてきた。

* 思えば、「ル・マン」をめざしたトヨタの“旅”は長かった。空白の期間も含んで、初挑戦から30年の時間が経ち、そしてその間、トヨタはル・マンで、何度「2位」になったことだろうか。そういえば終盤に、首位に迫って走行していてタイヤがバースト! しかし、それでもそのポジションをキープした“激しい2位”もあった。( → 1999年、この時のドライバーは片山右京)

* シルバー・コレクターとかブロンズ・コレクター。この種の言い方は、レースの世界ではあまりしないような気がするが、ル・マン24時間でのトヨタ・チームは、女子陸上のマリーン・オッティ選手も苦笑してその座を譲りそうな“銀メダル”の収集家だった。しかし、トヨタのそんな未勝利の歴史に、ついに、あと数周あと5~6分も走れば、終止符が打たれる。

* ……とすべての観客が思った時に、「ノーパワー、ノーパワー!」という悲痛な声が無線に載った。リミッターが効いたようになって、アクセルを踏んでも車速が上がらないようだ。報告したのは、首位にいたトヨタ5号車・中嶋一貴である。

* ここから先は、あっという間だった。それまでトヨタが積み上げてきた「23時間55分」の優位は、たった数分間で、非情なほどに呆気なく否定された。システムのどこかがおかしくなったのか、5号車はストレートに止まって動かない。その横を、2位だったポルシェの2号車が駆け抜けて行く。2016年ル・マンの首位は、もうトヨタではない。

* え? え? こんなことが? 目の前の事態が意外すぎて、声にもならない。レースは最後まで、何が起こるかわからない。そのフレーズは知っていても、でも“それ”が、いまここで起こっている? 

* サルテ・サーキットの時計が「24時間」が経過したことを告げた。その「後」で、最も長い距離を走行したクルマがコントロール・ラインを通過した時、それが「ル・マン」のフィニッシュである。そして、ポルシェの2号車がチェッカーフラッグが振られる中をレーシング・スピードで通過して、2016年のウイナーが決まった。

(つづく)
Posted at 2016/06/22 17:09:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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