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家村浩明のブログ一覧

2016年08月26日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《3》

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《3》寝台特急の車内に、少女のタエ子をはじめとする(幻の)「小学5年生」たちがいる。彼らを見ている27歳のタエ子。そして彼女に、あの頃の出来事がよみがえる。

岡島タエ子を「好きだ」という他クラスの少年がいたこと。それが知れ渡って「♪好きなんだけど 離れてるのさ」という『星のフラメンコ』(西郷輝彦)で、男子生徒たちがタエ子を冷やかしたこと。さらに、そのタエ子を好きな広田君は、野球ではピッチャーで、クラス対抗の試合でその本領を発揮したこと。

学校からの帰り道。図らずも街角で出会ってしまった広田少年とタエ子。いきなりタエ子と二人だけという状態で、何も喋れなくなった少年がようやく絞り出したのは、こんな質問だった。
「あ、雨の日と……」
「え?」
「くもりの日と晴れと、どれが一番好き?」

タエ子が「……く、くもり」と答え、ストライク!とボールがキャッチャー・ミットに収まるシーンになるのが愉しい。「あっ、おんなじだ」と応じた広田少年は、持っていたボールを高く投げ上げて、それをキャッチした。そして少女タエ子は、『ET』のように空を飛んだ。

寝台車のベッドで、タエ子が横になっている。
「私は今度の旅行に、『小学校5年生の私』を連れてくるつもりはなかった」
「でも、一度よみがえった『10歳の私』は、そう簡単に離れていってはくれないのだった」
電車の中を「5年生の子どもたち」が駆け回り、タエ子は自問する。
「でも、どうして、小学校5年生なんだろう?」

タエ子は、女子だけが体育館に集められて、保健の女の先生から「大切な授業」を受けた時のことを思い起こす。
「えー、みなさんはこれから小学校を卒業して、中学、高校へと進み、大きくなって赤ちゃんを産むんですけれども……」
これ以後のタエ子は、“それ”であると思われるのを恐れて、ひどい風邪をひいているのに、体育の授業を見学しないと言い張ったりした。

夜の鉄道、駅を通過していく寝台特急。タエ子のナレーションが続く。
「アオムシは、サナギにならなければ、蝶々にはなれない」
「サナギになんか、ちっともなりたいと思ってないのに……」
「あの頃をしきりに思い出すのは、私にサナギの季節がふたたび巡って来たからなのだろうか」
「『5年生の私』がつきまとうのは、自分を振り返って、もう一度はばたき直してごらん。そう私に教えるためなのだろうか」
「ともかく私は、残り少なくなった山形までの時間を眠ることにした」

駅に寝台特急が着いた。まだ、夜は明けていない。旅行ケースを手にしたタエ子が列車から降りる。駅では、ひとりの青年がタエ子を待っていた。
「あっ! 岡島タエ子さん……ですね」
「あっ、そうですが」
「あー、えがった」

「クルマ、こっちです」
「あ……。でも、すみませんが、どなたですか?」
「あっ、覚えてませんか。……覚えてるわけないですよね(笑)。俺、トシオです。あの、カズオさんの又従兄弟」

改札を出ると路面が濡れていたのか、タエ子が訊いた。
「雨だったんですか?」「うん。だけど、今日は晴れますよ」

青年トシオは、駅前の駐車スペースにタエ子を導く。そこには、二台のクルマが並んで駐まっていた。左側の一台は、おそらくランサーEX(1979年のデビュー)。そして、その右側に佇んでいるのは、何とスバルの「R-2」である。(このシーンに初めて触れた時には、思わず、おおー!と声が出てしまった)

この時、トシオはクルマについて、余計なことは言わない。「オヤジのクルマ、借りて来ればよかったんだけど」と言った後に、「俺、このクルマ、気に入ってるんです」と付け加えただけだ。スバルに乗り込んだトシオは、手にしていたタエ子の荷物を後席に置くと、車内から助手席側のドアを開け、タエ子に言った。「ちょっと狭いけど、どうぞ」

こうして(今日とはサイズが異なる)小さな軽自動車の中に、トシオとタエ子の二人が収まった。そしてここから、山形の「田舎」を舞台に「二人」と「過去」と「スバルR-2」が織りなす、繊細にしてハート・ウォーミングな物語が動きはじめる。

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「雨の日と……くもりの日と晴れと、どれが一番好き?」(広田)

* 「でも、どうして、小学校5年生なんだろう?」(タエ子)

* 「アオムシは、サナギにならなければ、蝶々にはなれない」(タエ子)

* 「俺、このクルマ、気に入ってるんです」「ちょっと狭いけど、どうぞ」(トシオ)
Posted at 2016/08/26 14:35:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年08月26日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.06 ジェミニZZ

【 70's J-car selection 】vol.06 ジェミニZZ【 70's J-car selection 】vol.06 ジェミニZZ 

いすゞ ジェミニZZ PF60(1979)

1970年代、多くの日本メーカーにとって、「外資」はそんなに身近ではなかった。わずかに、いすゞとGM、そして1979年にフォード&マツダとの提携があったのみだ。しかし、そんないすゞとGMのカップリングから、注目作が生まれた。それは、KD(ノックダウン)といえば、まあその通りなのだが、基本コンセプトは欧州車(欧州GM=オペル)で、それを実際にカタチにするのは、勤勉にして実績のある日本メーカー。そういう成り立ちの、70年代の新・国際車であった。

これは要するに、「ヨーロッパ」と「日本」のそれぞれ得意なところを組み合わせた“いいとこ取り”商品ではないか! この点に当時の“事情通”が目を付け、さらに、そうした情報がハードウェアとともに、一般マーケットにもジワジワと浸透していった。それが、いすゞジェミニ=オペル・カデットである。

ジェミニは、1974年に日本での販売が開始され、そのラインナップにSOHCエンジンしかなかったにも拘わらず、けっこうスポーティな走りをするクルマだと、堅実な評価を得た。そして、「ZZ」というDOHCバージョンが登場したことで、その渋い人気は、若年層やアクティブ層にまで拡がることになる。ジェミニのDOHC仕様の登場は、かつてのカローラに、いきなり2T-Gユニット搭載のレビン/トレノが加わった時の衝撃に、ちょっと似ていたかもしれない。

「ダブルジー」と呼ばれたジェミニのハイパワー仕様は、70年代に流行りはじめていたFFではなく、コンベンショナルなFRであったことも逆に注目された。「ダブルジー」は当時のラリー・フィールドでも活躍し、レアものとしても評価されて、今日に至っている。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)(フォトは基準車)
Posted at 2016/08/26 05:36:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年08月25日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《2》

タエ子のナレーション。
「あの時、むろん姉さんたちは、熱海になんか行かなかった」。
おばあちゃんとタエ子だけが熱海に行ったが、しかし、祖母は一度風呂に入ると、マッサージを受けながら部屋で寝っ転がっているだけ。
「すっかり退屈してしまった私は、グリム風呂を手はじめに、人魚風呂、レモン風呂、三色スミレ風呂と、お風呂のハシゴをしたあげく、大きなローマ風呂にたどりついた時には、すっかりノボセていて……」

ここで、たった独りでラジオ体操をしているタエ子のシーンが挟まる。自分以外に誰もいないので、規定のラジオ体操のフリでなく、勝手なアドリブで身体を動かしているのが可笑しい。

場面は、熱海でのタエ子へ。風呂に入りっぱなしの少女は、大きな風呂の中で倒れてしまった。
「……あえなく、卒倒」「期待の一泊旅行は、あっけなく終わり、あとには、長い長い夏休みが待っていたのだった」
「この間、姉妹で集まった時、姉さんたちについ、この話をしてしまった。『そうそう、そんなことがあったっけ』と大笑いになり、あの頃の思い出話に花が咲いた」

そんな思い出話のひとつが、初めて食べたパイナップルのことだった。缶詰ではない果物のパイナップルで、末娘のタエ子が父にねだり、それに応じた父が銀座の千疋屋でわざわざ買ってきた。しかし、目の前にパイナップルがあっても、その食べ方がわからない。「これ、どうやって食べるのかな」「輪っかに切るのよ」「どうやって?」「知らない」……と姉たち。

その翌日か。情報を得てきたらしい長姉が勢いよく帰って来た。
「ただいまーっ、パイナップルの食べ方わかったわよ!」
中華包丁が取り出され、パイナップルが切り分けられていく。
「気をつけて切れよ」「出刃包丁の方がいいんじゃない?」

だが、せっかくのパイナップルだが、その一片を口にした家族の顔は揃って歪んだ。「硬い」「たいしたもんじゃないな」「あんまり甘くないのね」「缶詰と、ぜんぜん味が違うよ」
期待よりおいしくなかったので、賢明な(?)姉たちはすかさず、パイナップルをタエ子に押しつける。「タエ子にあげる」「あたしも」

タエ子だけは意地を張って、硬い果物を食べ続けるが、姉たちはさっさと食卓から去って行った。「なーんだ、つまんないの」「バナナの方が、ずっとおいしいわね」「やっぱり果物の王様はバナナかしらね。バナナ食べよっと」
この時、茶の間のテレビからは、「♪どうせ私をだますなら 死ぬまで だましてほしかった」という「東京ブルース」(西田佐知子)が流れていた。

さて、場面は東京駅へ。改札に向かうタエ子は泉屋の袋を持っている。これは姉に頼まれた、本家の娘ナオコへの土産。泉屋のクッキーは定番の洋菓子だ。

タエ子のナレーション。
「ローマ風呂で卒倒し、初めてパイナップルを食べた、あの年。ビートルズの来日をきっかけに、グループサウンズが流行しはじめ、あっという間にエレキブームが到来した」
画面はワイルド・ワンズの『思い出の渚』、そして、ナナ子が電話で言っている。「そう、“ミッシェル”。ビートルズは歌詞がいいのよね」

物語の設定が、またひとつ明らかになった。タエ子が「あの年」と言っているのは「1966年」。そして、この年に小学生(10歳か)だったタエ子が27歳になっているので、この物語の「現在」は1983年頃ということになる。
ちなみに、“ミッシェル”や“ガール”を含むビートルズのLPレコード『ラバーソウル』が発売されたのは1965年の12月。1966年に“ミッシェル”の感想を語るナナ子は、ビートルズの最新版をいち早く聴いていた。

タエ子のナレーションが続く。
「美大の一年生だったナナ子姉さんは、いつも流行の最先端。ミニスカートも真っ先に穿いて、みんなとおんなじように、階段は紙袋でおシリを隠して上った」
「高二の秀才だったヤエ子姉さんは、それでも、宝塚の何とかさんに、すっかりお熱」
このシーンでヤエ子が持っていたブロマイド。そこに写っていた宝塚の男役は、当時のビッグスター“マル”こと「那智わたる」であろう(たぶん)。

さらに、タエ子は語る。
「姉さんたちの思い出話は、自分のアイドルやファッションのことが中心だった。昭和41年(=1966年)頃、姉さんたちには懐かしい青春の日々」
「でも、私は当時、小学校5年生。ファンになったジュリーのタイガースも、まだデビュー前で、学校と家を往復するだけの生活に、たいした思い出があるはずもなかった」

この物語は、主人公を含む家族の構成を押さえておいた方がいいかもしれない。岡島家は、父と母、祖母、そして女だけの三姉妹。全員が登場するシーンでわかるが、長姉と次姉は大学生と高二で、身体にしてもオトナ。ただ、小学生のタエ子だけが身体のサイズも頭の中もコドモで、ひとり未成熟なのだ。

オトナ(姉)たちはタエ子を子ども扱いし、子どものタエ子は、それを時には利用しつつも、オトナたちに反発する。そういう関係で、この家族ではタエ子だけがいつも疎外され意地悪されているという見方は、おそらくハズレである。

また、映画がタエ子にとってのいやな記憶だけを拾い集めている……のでもない。ただ、いやなことに較べれば、幸せだったことや時間は、コドモはあまり憶えていない。要するに、そういうことである。現にいまのタエ子は、長姉が嫁いだ先の家(山形)に、その姉に指示された通りの土産を持って、嬉々として農業体験に行こうとしている。仲の良くない姉妹はこういうことはしない。

東京駅のプラットフォーム。寝台特急にタエ子が乗り込んだ。被さるナレーション。
「あの晩、姉さんたちと別れて、ベッドに入ってからだった。5年生の時の、こんな思い出ともつかぬものが、突然、私の胸に次々とよみがえって来たのは──」
「飼っていたゴンという犬のこと、運動会のこと、楳図かずおのマンガに怯えたこと、電気鉛筆削りに憧れたこと」
「こうした、ほんの些細なことまでがありありと思い出され、それはまるで映画のように私の頭を占領し、現実の私を圧倒してしまった」

山形へ向かうタエ子の旅は、こうして、「小学5年生」の時の記憶と一緒に移動する、ちょっと厄介な時間になってしまった。

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「そう、“ミッシェル”。ビートルズは歌詞がいいのよね」(ナナ子)

* 「楳図かずおのマンガに怯えた」(タエ子)

* 「こうした、ほんの些細なことまでがありありと思い出され、それはまるで映画のように私の頭を占領し、現実の私を圧倒してしまった」(タエ子)
Posted at 2016/08/25 13:14:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年08月24日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《1》

クルマという「文化的存在」(と敢えて言う)がものすごく巧みに使われ、さらには作品としてのポイントも高めている映画を発見した(注1)。スタジオ・ジブリの制作、高畑勲監督による『おもひでぽろぽろ』である。

映画は、都内の、それも都心と思われるオフィスのシーンから始まる。高層ビルの中、社内のデスクにはキーボード、OA化が既に行なわれているフロアで、ひとりの女子社員(OL)が上司に休暇届を出している。
「十日も休暇を取るっていうから海外かと思ったら、山形へ行くんだって? 岡島君」
「はい」
「失恋でもしたの?」

いまであれば、ゲスの勘ぐり、このセクハラ・パワハラ、誰か止めてくれよ!……という状況かもしれないが、そういえば20世紀には、セクシャル・ハラスメントという言葉はまだ無かったのではないか。だから、この時の女子社員も、上司の言葉に何のリアクションもしない。いかにもありそうな男たちの反応として、想定内だったのか。ともかく、彼女は短く応える。
「田舎に憧れているんです」──

続いて、小学生たちが登場するシーンになる。一学期が終わったのか、成績のことを語り合い、夏休みには田舎へ行くんだという話題になって、女生徒のひとりが言った。
「うん、長野(へ行く)。タエ子ちゃんは?」
振られた少女は、ただ「わかんない」とだけ答える。
(ということで、この物語の主人公の名は「岡島タエ子」か)

さて、小学生のタエ子は、算数はどうも得意ではないらしい。一学期の通信簿、算数の成績は「3」のようである。それを母に指摘されると、少女は「でも、理科は4になったよ」と抗弁した。そして少女は、夏休みの旅行を母にねだる。
「ねえねえ、どっか連れてって」
しかし、母はクールだ。
「うちは田舎がないの。ないものねだり、しないでちょうだい」

ここでナレーションが入る。語るのはタエ子か。ただし、子どもの声ではない。
「私は、親の代から東京生まれの東京育ち。田舎を持ってる友だちが、うらやましかった」

この導入部で、映画は、岡島タエ子の現在と、そして、その小学生時代。さらに、主人公の「心の声」としてのナレーション。これらが交錯しながら進んでいくらしい……ことがわかる。

そして夏休みとなり、小学生のタエ子は朝のラジオ体操に出席していた。広場に響くラジオ体操の音源は、オープンリールのテープレコーダー。CDどころかカセットテープもないという時代か。体操に来ているのは、タエ子と年長らしい生徒の二人だけ。
「タエ子ちゃん、毎朝、ちゃんとラジオ体操に来てエラいわね。みんなは田舎へ行っちゃってるのよ。タエ子ちゃんはどこか行かないの?」
「行く! あたみ!」
「あたみ? 熱海に何しに行くの?」
「お風呂入りに行くの」

小学生のタエ子が家族にねだって、ようやくゲットした夏休みの旅行。それは熱海の温泉ホテル、そこにあるさまざまな種類の風呂に入りに行くことだった。

シーンが変わって、タエ子の現在。電話しているタエ子。受話器からは「もしもし、岡島ですが」という声が聞こえる。
「あ、ナナ子姉さん? 私、タエ子。今日、出発するけど、ミツオ義兄さんから、本家に言伝てないかと思って」
「うーん、とくにないみたい。……あっ、そうだ。ナオコちゃんにクッキーでも買ってってくれない?」

そして、話題が母のことになり、姉ナナ子は言った。
「お母さん、怒ってたわよ。あなた、お見合い断ったでしょう。27歳にもなって、あんな良いお話、もうないわよって」

これで、タエ子の年令が明らかになった。27歳、見合い話があるのだから、当然、独身か。対して、姉のナナ子には夫がいるようだ。電話の受け答えの際に彼女は「岡島姓」を名乗っていたから、カタチとしては岡島家が婿を取ったということか。そして義兄のミツオと姉ナナ子の夫婦は、おそらく都内にいる。

そして、タエ子の山形行きの目的も明らかになる。姉のナナ子が言う。
「それに、あなたも物好きねえ。去年は、野良仕事まで手伝ったんだって?」
「そうよ、稲刈り。今年はね、紅花、摘むの」
「ベニバナ?」
「そう。せっかくナナ子姉さんのおかげで、田舎が持てたんだもの。しっかり、田舎の気分ば、味わってくるっす! フフフ(笑)」
ナナ子「フフフ(笑)よしなさいよ。たまの休みなんだから。あんな古い家に泊まらずに……」

──オシャレなペンションにでも泊まればいいのに、と言う姉。しかし、それでは熱海旅行と同じになってしまうと、タエ子は応じている。この熱海行きについては、最近、姉妹で話をしたことがあったようだ。「あーあーあー! この前聞いた、あれね」と笑い飛ばす姉。
「あなた、まだ、あんなことにこだわってるの。あなたって、大変な過去を背負って生きてんのねえ、ハハハ(笑)」

何気ない姉ナナ子のセリフだが、これはけっこう重要かもしれない。この物語を見ていくうえでキーになる言葉が詰まっているようだ。「こだわり」「過去」、そして「背負って生きてる」など。

映画はこれ以後、これらのキーフレーズを底流に、ストーリーが進んで行くことになる。

○注1:いま頃ジブリ映画を「発見」したとはどういうことか!とファンに怒られそうだが、実は私、子どもの頃に見たディズニーものを除いて、これまで「アニメーション映画」をほとんど見なかった。
……あ、評判の映画ということで『千と千尋の神隠し』にチャレンジしたことはあったが、その時、まるで意味わからず(爆)、また『もののけ姫』も「?」だったので、以後“ジブリ”もアニメもまとめて、敬して遠ざけていた。しかし今年の夏、ふと『風の谷のナウシカ』に触れてようやく「!」となり、以後“ジブリもの”をいくつか見て行くうちに、この『おもひでぽろぽろ』に出会った次第。
いまは、自分なりにひとつ決めたことがあって、それは映画を実写とアニメで「区別」するのは止めようということ。(私にとって)おもしろいか、そうでないか。映画の種類はこの二つしかない、たぶん……。

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「田舎に憧れているんです」(タエ子)

* 「あなたって、大変な過去を背負って生きてんのねえ、ハハハ(笑)」(ナナ子)
Posted at 2016/08/24 17:04:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年08月24日 イイね!

【スポーツ column 】ベースボールは「国際化」しない… 《2》

ベースボール=野球の起源を探っていくと、遠く中世ヨーロッパで行なわれていた球技にまで行き着くらしい。何かを丸めて小さなボール状にしたものを投げ合う。さらには、それを打って飛ばすというのは、誰かが言い出したから始まったというようなものではなく、人の「遊戯欲」の根源的な部分とどこかで繋がっているのかもしれない。

この「遊戯欲」ということでは、人は「重力」を利用して滑ったり落ちたり、また「重力」に逆らって飛んでみたりと、「G」を絡めての遊戯がとても好きである。20世紀という百年間に、世界中でクルマが急速に普及して一般化したのも、この「G」(重力)をコントロールしたい、「G」と戯れたい!……という、多くの人々が抱えている秘かな欲求と関連があると私は考えている。

さて、それはともかく、このベースボールという競技もしくは遊戯(エンターテインメント)が非常に好まれて発展したのがアメリカであるということについては、誰も異議はないはず。そして、そのアメリカでのベースボールの発展と楽しみ方で、つくづく(おもしろいなあ……!)と思うのは、これを行なう競技場(球場)の規格について、彼らがまったく無頓着なことである。

ベースボール=野球とは基本的に、対戦するそれぞれのチームが獲得した得点を競うゲームで、初期には21点先取でゲームセットとしていた時期もあったという。(あまりに時間が掛かりすぎたので「回数」を定めることになった)

そして「ホームラン」というショットが出ると、それだけで1点の獲得が認められるというルールもある。そういうことであるなら、その「ホームラン」の定義は厳格であっていいと思うのだが、これがどうもそうではない。打球がどのくらいの距離を飛んだらホームランにするといった決まりは別にないようで、この件は言ってみれば“その場任せ”になっている。

この球技では(ランニング・ホームランを例外として)多くの場合、向こうに見えてる「あの塀」を越えたら本塁打にしようね!……といった決めごとがあるだけのようだ。その「塀」にしても、ホームベースからの距離やその高さは「不定」で、さらに球場の左翼側と右翼側では「塀」までの距離が異なるという場合も少なくない。そうした競技場の形状の「左右非対称」ぶりは、とくに米メジャー・リーグで顕著であるという。

そういえば、この「ホームラン」だが、これはプレーしているボールが「競技範囲」の外に出てしまった、もう誰もプレーができないよ……ということであろう。そうであるのだがベースボールの場合、それを「アウト」とか「OB」(アウト・オブ・バウンズ)といったペナルティにはせずに、ヒットの中でも最上級のものとして賞賛する。これもまた、この球技の特異なところだと思う。

まあゴルフでも、ティーショットの飛距離は長ければ長いほどいいじゃないかと言われるかもしれないが、ただご承知の通り、ゴルフには、飛ばしすぎは絶対不可のショートホールがある。また、その“飛ぶと嬉しい”ティーショットにしても、打ってよろしいというその範囲はきわめて狭く、ベースボールのように「広角」(90度)で許容されているわけではない。

さて、ベースボールが「範囲外」や「場外」を、むしろ歓迎すること。そして、ベースボールを行なう競技場の規格について頓着しない。これは何故なのだろうか? ベースボール大国のアメリカで、この“遊び”が始まった頃を想像しながら、ちょっと考えてみる。

ベースボール(の原型)は、アメリカ各地のタウンというかシティというか、そうした「街」の中の広場や空き地で、おそらく自然発生的に始まったと思う。一説では、オフィスやショップなどで仕事をするために「街」に集まってきた社員や職員の昼休みの娯楽として、このボールを使うゲームが始まったとされる。そう言われてみると、ベースボールをプレーする際の、妙にダブダブしていて、そして“日常的”な「競技ウェア」のナゾも、少し解けるような気もする。

このウェアについて想像を巡らせると、「街」の仕事場に社員がニッカボッカ姿で来ていれば、昼休みにはそのままプレーした。そして普通のズボンであれば、その裾をソックスの中に入れて、あるいはもう一枚のソックスを履いてまとめ、“足さばき”を良くした。このどちらの格好にしても、目立つのは膝から下のストッキングの部分で、それが下半身だったとすれば、上半身はジャケットや襟のあるシャツは脱ぎ捨て、Tシャツ一枚、もしくはその種の襟のないウェアを重ね着して、昼休みにプレーしたのではないか。

アメリカ最初のベースボール・チーム(アマチュア)の名前は「ニッカボッカーズ」だったそうで、そして、プロフェッショナルなベースボール・チームは、1869年、シンシナティでの球団創立に始まるという。この時のチーム名が「シンシナティ・レッド・ストッキングズ」だった。

こうしたネーミングからも、ベースボールをプレーする際の「靴下姿」が、遊ぶ人々とそれを見る人々の双方に、非常に印象的だったことが想像できる。ゆえに今日でも、メジャー・リーグにはホワイトソックスやレッドソックスといったチーム名が残り、長い伝統を持つ球団であることを、その名によって誇示しているのではないか。

ちなみに、レッド・ストッキングズが創立された「1869年」とは、アメリカでは南北戦争が終わって3年後。日本では「幕末」期に当たり、前年の1868年には江戸城が無血開城されている。そして、この年には幕末期の戦いの最後であった函館戦争が終わり、元・新撰組の土方歳三が五稜郭で戦死した。そしてアメリカでは、レッドストッキングズ誕生の7年後(1876年)に、最初のプロ野球リーグとしてナショナル・リーグが興っている。

さらに、ちなみに/その2だが、シンシナティなど北部や東部で人々がベースボールのプロ・リーグを楽しんでいても、アメリカの西部や南部はそうではなかった。そこでは、新大陸にヨーロッパからやって来た人々が「開拓」という名の“侵略”的な行動を起こしたのに対し、それに反発するネイティブ・アメリカン諸部族が武力によって抵抗していた。歴史では、アパッチ族のジェロニモが降伏した時に、ネイティブ・アメリカンによる軍事的な抵抗が終わったとされているが、それは1886年のことであった。

つまり、ようやくアメリカの西・南部が「平定」(という言葉を一応使っておくが)された年より10年も前に、米メジャーのナショナル・リーグは創立されていて、東部の人々はベースボールの勝敗に一喜一憂していたということ。アメリカという国の広さと複雑さを示すエピソードとして、これ、個人的にはちょっと好きである。

(つづく)
Posted at 2016/08/24 02:46:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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