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家村浩明のブログ一覧

2016年11月30日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.04 サニー1200GX5

【 20世紀 J-Car select 】vol.04 サニー1200GX5近年こそ対決色がやや薄れた感はあるが、1966年以降の日本クルマ史で、最も激しいライバル・ストーリーを繰りひろげた組み合わせのひとつ。それが、ニッサンのサニーとトヨタのカローラだった。

1960年代半ば、「モータリゼーション」という風潮が一気に盛り上がり、そんな中で「大衆車」という言葉とともにデビューしたのがこの両車である。この時、人々はクルマというものが身近になったことを強く実感した。

そして、当時の“ビッグ2”であったトヨタとニッサンがコンパクト車=大衆車を作ったというインパクトもあった。この二台が登場したことで、一般カスタマーにも“クルマ世界”とその魅力が一気に浸透したはず。日本におけるクルマの大衆化と一般化において、この2モデルが果たした役割はとてつもなく大きいと見る。

そして、1970年代、この両モデルともに第2世代となった。初代でエンジン排気量に「100ccの差」があることを強調されて、カローラに遅れをとったサニーは、搭載エンジンを1200ccにスケールアップする。その後に、とくにレーシング・シーンで“名機”と呼ばれることになるA12型の登場だ。そしてスタイリングでも、初代の「直線主義」から脱して、やや丸みを帯びた“豊かさ”をアピールするものとした。

ただし、スタイリングとしてはマイルドなイメージになったものの、このサニーは、折りから第2世代からはじまったカローラとの“スポーツ度”競争では、激しいチャージを見せる。

デビュー後すぐに、サニーは、キャブレター(燃料供給装置のひとつ、当時はまだ「燃料噴射」は一般化していなかった)を強化した「GX」というスポーティ・グレードを、セダンとクーペの双方に加えた。これが、トータル・バランスにすぐれ、扱いやすく、かつ俊足のマシンとしてヒットした。トヨタからのリトル・モンスター、あのレビン/トレノは、このGXへの対抗策という意味が含まれていた。

さらにサニーは、1972年、そのレビン/トレノ登場とほぼ同時期に、今度は「GX5」を投入する。この「5」は、マニュアル5速ミッション搭載車であるを意味していたが、しかし、これは並みの5速ではなかった。

当時もまた今日でも、5速のシフトパターンは、1~4速をH型にして、そして5速を右上などの別立てに配置するのが普通だ。しかし、GX-5の5速シフトはそうではなかった。H型に配されていたのは2~5速で、別立てになっていたのが1速だったのである。

これは、いったん発進してしまったら、1速まで落とすことはまずない。それなら1速を発進専用として別に置き、2速から5速を使いやすいように配した方がいい。ドライバーは、クロスレシオにした各ギヤを駆使して走ってほしいというコンセプトとアピールで、そのシフト・パターンがレーシング・マシンと同じということでも、サニーのファンを喜ばせた。

トヨタのレビン/トレノが、いわばストリート・ファイター的な押し出しだったのに対して、サニーのスポーツ性とそのイメージは、サーキット・レースと結びついていた。そんな「レーシーな」スタンスとストーリーも、この「GX5」には似合っていた。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/11/30 11:25:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年11月27日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.03 カローラ・レビン/スプリンター・トレノ 1972年

【 20世紀 J-Car select 】vol.03 カローラ・レビン/スプリンター・トレノ 1972年これが初代の「カローラ・レビン/スプリンター・トレノ」(TE27系)で、今日でもゲンキに街や街道を走り回っている「ハチロク」(AE86系)の祖先にあたる。駆動方式はもちろんFR、全長4mに満たないコンパクトなボディに、1600ccのツインカムエンジン(2T-G)を搭載していた。

ここで「もちろんFR……」と記したのは、この「レビン/トレノ」がデビューした1972年という時点で、トヨタにFF車は存在しなかったからである。サイズ的に最小であったパブリカに至るまで、当時のトヨタ車は、そのラインナップのすべてがFRだった。エンジン縦置きによるFF方式のターセル/コルサが登場するのは1978年になる。

ただ、後年の「ハチロク」と初代の「レビン/トレノ」では、小さなボディ+ハイパワー、駆動方式はFRなど、共通項目は多いのだが、どうも“何か”が違っていた。「ハチロク」は、このいささかランボーだった(?)祖先と較べると、クルマとしてはるかに優等生であると思う。

何といっても1980年代生まれである「80系カローラ」は、クルマの全体が総合的なバランス感覚の中で企画・設計されていた。そのコンセプトは、駆動方式にFRを踏襲した「86系」も同じだった。しかし、1970年代前半という時代に生きたレビン/トレノには、そんな平衡感覚は乏しかった。あるいは、1960年代的な奇妙な“熱さ”を引きずっていた。

この「27系」レビン/トレノは、大衆車カローラのセダンに対するスペシャル版としてシリーズに加えられたクーペがその出発点になっている。そして、このクーペに、キャブ・チューンでエンジン出力を上げた「SR」が、まず追加された。この仕様でも既にけっこうスポーティであり、十分に《走り》も楽しめたのだが、しかしトヨタは、そこで立ち止まらることをしなかった。「もっとパワーを!」である。

そのテーマのもとに行なわれたモディファイとチューニングは、はからずも、1960年代に(プリンス時代の)スカイラインGTが行なった手法と同じだった。そう、上級車用エンジンの移植だ。小さなカローラのボディに、兄貴分がスポーツ車を作ろうとした際のエンジン、セリカ/カリーナのGT系が積んでいた「2T-G」を押し込んだ。その結果、エンジン出力は「SR」の95psに対して115psとなり、最高速も190km/hに達するというリトル・モンスターが出現することになった。

外観上では、何といっても「ビス留め」されたオーバー・フェンダーが渋かった! それまでの「SR」は性能は向上していても、ノーマルのクーペと外観上はあまり変わらなかったが、このクルマは違っていたのだ。

さらに室内に入ってみると、新設計のスポーツシートがドライバーを待っていた。そしてその目の前には、油圧ゲージや油温計、また電圧計といった“多眼”の光景が広がり、ステアリングを握る者のココロをときめかせた。この「27系レビン/トレノ」は、実質的にも相当な高性能車であったが、それだけではなく、安価ながら、こうした演出にも配慮があったコンパクト・スポーツだった。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/11/27 11:13:42 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年11月26日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《5》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《5》全学集会での白熱した討論の最中に、突然、生徒会長が歌を歌いだし、しかし何故か、それにみんなが素直に唱和した──。そんな生徒集会があった夜に、コクリコ荘の茶の間で、「空」がその様子を報告した時のことを思い出したい。下宿人のひとりで、港南学園の卒業生である北斗女史は少しも騒がず、「相変わらずねえ」と笑い飛ばした。

そういえばあの時、「海」や「空」はフシギそうな顔もせず、「白い花の咲く頃」を歌っていた。つまり、何らかの状況になれば、みんなで歌を歌う。これは集会参加者の共通の認識だったのだ。そこで歌われたのは、音楽の授業で教材になるような歌ではなく、NHKの「ラジオ歌謡」の曲だった。NHKの同番組でその曲「白い花が咲く頃」」がリリースされたのは、1950年のことであったという。

そんな古い曲を、いま風に言うなら13年も前の“Jポップ”を、リーダーがイントロ部分を歌っただけで、どうして、そこにいた生徒みんなが唱和できたか? これはつまり、“そういうこと”をするのが初めてではなかったからであろう。

この生徒集会、思えば彼らは手慣れていた。討論会場となったの講堂だと思われるが、その外にしっかり見張り番を立てていた。もともと生徒間で意見が対立しているのだから、討論が白熱するのは想定内。怒号が飛び交うだろうし、乱闘寸前という状況もあるかもしれない。

しかし、だからと言って、学校側がそれを理由に、生徒の“集会の自由”に立ち入ってくるなら、それは断固、阻止する。おそらくこの学校には、そうした「生徒の自治」をめぐる“抗争”の歴史があって、それを繰り返しているうちに、生徒側に、ひとつのアイデアが生まれたのだ。生徒集会・会場での“騒音”を聞きつけて、学校側が見回りの教師を派遣してきたら、その時は「合唱」をしていたことにする。──あ、音が聞こえました? 歌の練習ですよ、ほら、お聞きの通り……。

そうした「合唱」によって学校側の介入をやり過ごすという作戦は、昨日今日に思いついたものではなかったはずだ。「対学校」の交渉ごとや闘争の中で、この学校の生徒会がさまざまな戦術や作戦を行なってきたうちの一つがこれだったのだろう。そして、この「合唱」作戦は、既に1950年代に確立されていたもの。ゆえに、みんなで合唱する際の歌が「白い花の咲く頃」だったのだ。

“その時”に歌うことにした曲が、音楽授業での曲やスコットランド民謡などではなく、いかにも通俗的な「ラジオ歌謡」からの歌だったというのは、これまた、1950年代当時の生徒たちの反骨精神だったであろう。その夜のコクリコ荘で、卒業生の北斗女史が「相変わらずねえ」と笑ったのは、「まだ、同じ曲なのね!」という驚きも混じっていたと推察する。

こうした港南学園の校風は、北斗女史の送迎パーティにやって来た学園OBたちの会話からもうかがい知ることができる。彼らは語り合っていた、「校長はタヌキだからなあ」「孤立を怖れず。だけど、戦術には知恵が要るなあ……」「戦術? タカが知れてるぞ」……。

そんな北斗女史のための送迎パーティが始まる、その少し前。コクリコ荘へ続く坂道を、リヤビュー見せて、紺色のクルマが登っていくシーンがある。ルーフに表示灯らしきものがあるので、これはタクシーか。ファストバックのリヤ、そのエンジンフードには「スリット」が切られていて、クルマがリヤ・エンジン仕様であることを窺わせる。

このクルマは、フランスの「ルノー4CV」を日野自動車がノックダウン(KD)生産していた「日野ルノー」。当時のクルマとしては俊敏な走りをすることで定評があり、ドライバーにも人気があったと聞く。ただ当時は、一般ピープルが自分のクルマを所有するというのは、夢のまた夢だったので、この場合の運転者とは、主にタクシーのプロ・ドライバーを指す。

「日野ルノー」は、軽い車重と、それなりにパワーのあるエンジンがリヤに積まれていた。おそらく、けっこうテールヘビーなバランスであったはずで、その結果、このクルマはテールを「振り回して」曲がるという走りができたようだ。そんなことから、ルノーは運転者に、これは fun であるとして好まれた。その頃に非難も含めて、速くて動きが俊敏(乱暴?)な自動車のことを“神風タクシー”と呼んでいたが、こうした粗暴な動きをするクルマのほとんどは、車種でいうと、どうもこのルノーであったらしい。

当時、この「日野ルノー」は日本の街を元気に走り回っていたが、それを反映して、映画ではこの時の坂道シーンだけでなく、街を切り取ったほかの場面でも、ルノーがその姿を見せる。付け加えると、この映画は「日野ブランド」のクルマをけっこう重用していて、同社がルノーのKD以後に、自社オリジナルとして開発・生産した「コンテッサ」も、何度か画面に登場してくる。

初代のコンテッサ「900」は、この映画の時制である「1963年」より2年前の1961年のデビュー。そして、1960年の三菱500とマツダR360、1961年のトヨタ・パブリカなどが画面の中を走り、さらに、重要なキャストとしてトヨペット・クラウンの初代が登場するが、このクラウンについては稿を改めて採り上げたい。

なお、この映画は「歴史」をきちんと描きたいという意図からか、「耳をすませば」や「おもひでぽろぽろ」のように車種を露わにしない描写のスタイルではなく、登場するモデルは基本的に、バッジ類も含めてリアルに「絵」にされている。

(つづく)
Posted at 2016/11/26 07:09:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月24日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《4》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《4》さて、この映画の“ナゾ”ということなら、ヒロイン「松崎海」のニックネームやガリ切り/謄写版もさることながら、それら以上に、もっと根本的なところで大きな“ナゾ”がある。こうした意見はあるかもしれない。

たとえば、主人公の「海」は、16歳の高校二年生なのに、なぜ、下宿屋の女将さんみたいなことをしているのか。また、港南学園の生徒は、どうして古ぼけた建物である“カルチェラタン”にこだわって、その存続運動までするのか。さらには、そもそも「カルチェラタン」って何? どういう意味で、何でこんな名前なのか、など。

……もちろん作者ではないので、こうした疑問にすべて答えることはできないのだが、まず、「松崎海」が16歳で果敢にも下宿屋をやっているのは、ひとつは、彼女が長女だからだと思う。家系や家族の中での役割行動というか、妹や弟がいる立場だからというか。ともかく、長女として求められる当然のことをしている。これが「海」のスタンスなのではないか。

そして、もうひとつの理由は、もう中学は出たから。つまり、半分以上はオトナだからという「海」の自覚だ。ある統計によれば、わが国の「1960年」時点での高校進学率は、男女を合わせた全体で57・7パーセントだった。つまり、6割に達していない。少し時間が経っての「1965年」では、これが70・7パーセントになるのだが、1960年代前半の中学生、10人のうちの3人は、学校を出たらすぐ職に就いて社会人になった。

(高校進学率は1970年になると急伸して、82パーセント超となる。また、この年には男女が逆転して女の進学率の方が高くなり、この傾向はその後も変わらない。そして1975年以降、高校への進学率は男女ともに9割を超えて今日に至っている)

……というわけで、周りがそうした状況なのであり、カシコくて気配りのできる「海」であれば、母の不在時に女将さん役をこなそうとするのは、むしろ当然であったかもしれない。この点では、実は妹の「空」も同様であり、劇中、今日の夕食は「空」に任せたので、私は早く帰宅しなくてもいいと「海」が言うシーンがある。アメリカ留学中の母も、「もう高校生なんだから、みなさんの面倒を見ることはできるわよね」……くらいのことを言って、サッソウと米国へ旅立ったのではないか。

そんな勉強といえば、「耳をすませば」の中学生・月島雫のお母さんもまた、家事そっちのけで(?)大学で講義を受けていたことを思い出す。スタジオ・ジブリ~宮崎駿というラインは、「学問する母」という姿と設定がとても好きなようだ。

そして、何より“働く少女”ということであれば、「紅の豚」のフィオ・ピッコロは、弱冠17歳で、ポルコの飛行艇を設計していた。このことを思い出せば、日本の女子高生「海」が下宿屋を取り仕切るのは何のフシギもない。

さて、もうひとつの「カルチェラタン」だが、これは「ラテン人の地区」とか「ラテン語の人々がいるエリア」というのが、とりあえずの直訳になるはず。ラテン語の人々(ラテン語を識っている人)とは、日本で例えるなら、漢文や外国語に堪能な人たちという感じだろうか。教養語であるラテン語を駆使して、学問に勤しむ。そんな“ラテンな”学生たちが集まっている一帯。それをパリ人が「カルチェラタン」と呼んだ。

こうした“学生の街”宣言というのは、学生自身が誇りとともに自称したのか。それとも、あの地域にいる連中はスゴいよね~と、周りの方から、それとなく言い始めたのか。そのあたりは定かではない。そして、ここから先は私見が交じるが、この「カルチェラタン」という言葉には、学問中の身でございますという謙虚さと同時に、それと同じくらいの度合いで、自分たちは“並み”とは違うという強烈な選良意識が含まれていると見る。

横浜の“丘の上”にある、男女共学の港南学園。その文化部系の部室が集まっている建物で、“本名”は清涼荘。それがどうして“カルチェラタン”と呼ばれるようになったのかは、映画の中では描かれない。ただ、この学校は多くの生徒がフランス語を学んでいて、パリの街についての情報も広く共有されていると察する。

ヒロイン「松崎海」のアダ名が「メル」であることも、ここで思い出すべき。そして、そもそもアダ名というのは、最初に誰かがその名を言った時に、(そうだ、そうだ)(それはピッタリ!)といった賛同者が一定数以上いることで、初めて成立するものだ。

つまり港南学園とは、そうした“おフランスで、カルチェラタンな”(笑)学校で、そしてこの映画は、そういう場に集うエリートたちの物語。このあたりにイヤミを感じる方々には、この映画は向いてないので、他の映画をご覧になることを強く薦める。

そして、ヨーロッパの大学は、その創建時から、王権や領主からの「自治」を掲げるのが常であり、そうしたスピリットもまた、この「丘の上」の誇り高い学園には“輸入”され、伝統として受け継がれていた。この映画のもうひとつの“ナゾ”とされる(?)全学討論集会での「合唱」事件は、港南学園がそんな“カルチェラタンな学校”であることと深く絡んでいる。 ( → この件については次回に)

(つづく)  (タイトルフォトはスタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/11/24 21:50:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月23日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.02 コスモ・スポーツ

【 20世紀 J-Car select 】vol.02  コスモ・スポーツ夢のエンジンには、夢のスタイリングを! 初代コスモ・スポーツを、もし、ひと言でいうなら、こういうことになる。キーワードは「ドリーム」だ。

コスモのこのスタイリングは、当時の「ドリーム・カー」や「未来車」の造形の集積というか、その頃の《夢》= Dream の要素を一身に集めたようなデザイン。誰が見ても、どこから見ても、そして、クルマのどこを切り取っても「未来的」だ。そんな思いに囚われる造形で、その意味では見事だった。

ところで、この「ドリーム・カー」だが、この言葉を今日に説明するのは、結構むずかしいことに気づく。まあ無理やり現代語にホンヤクすれば、「コンセプト・カー」ということになるかもしれないが、ただ「参考出品車」の場合は、いずれは市販されることがあるのに対して、1960年代当時の「ドリーム・カー」は、文字通りに“夢のクルマ”であり、具体性は求められていなかった。

言い換えれば、「クルマ」は当時、まだまだ発展途上の商品で、何をしても許された代わりに、よくわからないところが多い分、その限界も見えていなかったということではなかったか。こんなこともできるはず、こんなクルマにしてみたいと、誰もが「クルマ」を材料に夢を見ていた。

そんな1960年代の初頭、エンジンでいうなら、《夢》はロータリーにあり、だった。既存のレシプロ・エンジンのように、ピストンの往復運動を回転運動に交換して後、ようやくクルマを動かすためのチカラとする……のではなく、はじめから「回転する」エンジンがあるというのだ。こうした「回転するピストン」の《夢》は、人類は16世紀から追い求めていたそうで、それが20世紀の中葉に、ついに実現しそうになっていたのである。

そんな《夢》のエンジンの発明者はフェリックス・ヴァンケル(1902~1988)。その名を取って「ヴァンケル・エンジン」とも呼ばれたこのエンジンが、メーカー(NSU)との共同研究に入ったのは1951年だった。そして、そのライセンスを日本の東洋工業(現・マツダ)が獲得したのが1961年のこと。東洋工業はライセンスの獲得後、1963年に、試作のロータリー・エンジンをモーターショーで初めて公開した。

その同じ頃、この“はじめから回転するエンジン”のライセンスを取得したメーカーやエンジン製造者の数は、世界中で「28」にのぼったといわれる。このエンジンが自動車業界に与えたインパクトの強さを示す数字である。

しかし、その“回転エンジン”を、実際の路上での使用に耐えるまでに作り上げることができたのは、ひとり東洋工業だけだった。ライセンス取得後の苦節数年を経て、東洋工業=マツダは、《夢》のエンジンを《夢》のような“包装紙”でくるんだスタイリッシュな「市販車」を発表した。それが、この「コスモ・スポーツ」であった。(1967年)……また、1970年代の前半。世界をオイル・ショックが襲った時に、すべての他メーカーは“回転するエンジン”の開発と研究を放棄した。しかし、マツダだけはそれを行なわなかった。

このクルマ「コスモ・スポーツ」は、たとえば世界初のロータリー搭載車(これはNSUがその“権利”を持つ)であるといった栄誉を担うものではない。しかし、21世紀の「RX8」にまでつながる、往復運動しないエンジンの具体化とその実用化という「マツダ史」の《夢》の原点として、そして、自動車史全般という視点からも絶対に外すことができない、地上に舞い降りた“リアル・ドリームカー”だった。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/11/23 13:40:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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