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家村浩明のブログ一覧

2016年11月22日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.01 いすゞ117クーペ

【 20世紀 J-Car select 】vol.01  いすゞ117クーペこのクルマの造形は、今日の感覚でもやっぱり「美しい」だろうか。それとも、微妙な“うねり”を多用しすぎていて、いまの眼で見れば、ややオーバー・デコレーション気味に映るのか。しかし、1960年代では、これは無条件に美しかった。そんな装飾的にすぎる“アート臭さ”さえも、1960年代という時代を飾った「華」のうちのひとつであった。

この“至上の美女”は、まず、1966年のジュネーブ・ショーに出現。すかさず、その夏、イタリアでの自動車エレガンス・コンクールで賞をゲットした。そして、秋の東京ショーに飛来し、来場したすべての観客を魅了した。

このクルマによって、人々は「カロッツェリア」というイタリア語を知り、また「ギア」というのがそのひとつであることを憶えた。そして、もうひとつ。決して憶えやすくはなかったが、ひとりのイタリア人の名前も記憶した。ジョルジエット・ジゥジアーロ。この「117クーペ」のデザイナーである。

ただ、モーターショーでの会場で魅せられたものの、このクルマを「買える」と思っていた観客は、当時、ひとりもいなかった。コードネーム「117」のクーペは車名も付いてなかったし、今日の言葉でいうコンセプト・モデルであると誰もが思っていた。そして当時は、まったく市販を前提としないカスタムカーが、華々しくショー(だけ)に展示されることは少なくなかった。

しかし、ショーでの好評に後押しされたか、「いすゞ」は1968年に、注文生産のようなかたちで、この“夢のクルマ”の発売に踏み切る。そしてこの時、人々はふたたび、このクルマは「買えない」という現実を知ることになった。月産を50台に限定するというこのクルマのプライスは、何と「172万円」であったからだ。

この価格がどのくらい“夢”的で、かつ、べらぼうなものであったかというと、たとえばトリプル・ウェーバーのキャブレターで武装した当時の最速マシン、セミ・レーシングカーともいうべきスカイライン2000GT-B(S54B)でも、その価格は、たったの(?)89.5万円(1965年)だったのである。

ただし、高価ではあったが、このクルマは単なるスタイリッシュ・カーではなかった。内容的にもけっこうなアスリートであり、装備も充実していた。当時はレアだった1600ccのDOHCエンジンは120psを発揮し、最高速は190km/hに達した。また4座のすべてにヘッドレストを備えていて、後席もリクライニングした。日本車初の電子式燃料噴射方式(ECGI)採用という歴史を作ったのも、このクルマである。

こうして世に出た「117クーペ」(結局名前は付けられず、コードネームがそのまま車名になった)だったが、その後、この“高嶺の花”は少しずつ、自分から「階段」を下り始める。

まずは、1973年に新たに「量産車」としてのスタートを切り、カスタムメイドという作り方から脱した。同時に通貨価値も変わり、諸物価は上がっていたが、継続生産車であるこのクルマは値上げをすることもできず、かつての“夢のクルマ”は、相対的に値下がりして行くことになる。

量産車となって以後の「117」は、本来の「117」ではないという意見はある。しかし、そうやって地上に降りてきても、やっぱり美女は美女だった。そして、その量産化によって、より多くの人に、このクルマが日常的に愛される(使われる)ことになったのも、また事実なのである。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)

(つづく)

Posted at 2016/11/22 12:46:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年11月21日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《3》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《3》文芸部の部室で、「週刊カルチェラタン」原稿の「ガリ切り」をしている松崎海。その部屋には風間俊がいて……と、二人の物語がこうして動き始めた。

ただ、この映画を見ていて、ちょっと気になることがある。それは、この「ガリ切り」もそうなのだが、こうした1950~1960年代的な「細部」が、たとえば2010年代にこの映画を見ようとする観客に、どのくらい「わかる」のだろうかということ。

まあ「ガリ切り」とか「ガリ版」とか、さらには「謄写版」とか。そして「カルチェラタン」でも、こうした単語であれば、いわゆる検索によって、とりあえず、その言葉の意味を探ることはできるのかもしれない。

しかし、たとえばこの映画の冒頭。朝に海が起きて布団をたたんだ際に、敷き布団の下から「紺色の布」が出現したという場面──。これって何?と思った時には、どうすればいいのか。

(……と思ったので、試しに「寝押し」で検索してみると、何と何と! 言葉の意味の説明にとどまらず、「コクリコ坂から」でそのシーンがありましたというネタまで盛り込んだwebページがあった。ウーム、ネット恐るべし! ただしこれは、「寝押し」という語を知っていたからできることではあるが)

ちなみに「寝押し」とは、畳にスカートやズボンを置いて、その上に布団を敷き、そこで一晩寝ること。つまり体重によって、アイロンなしで衣類にプレスができるというエコな(笑)方法であった。ただ、これは固い畳と、毎日の布団の上げ下げという条件が組み合わさって、初めてできることのはず。ベッド時代の昨今、こんな無電プランは果たして使えるのか。(ベッドでも「寝押し」は可能だという説はあるが)

また、前述したことではあるが、ガスコンロに自動点火装置が付いていないので、松崎海はガスにマッチで火を点けていた。これはつまり、台所でガスを使うたびにマッチを消費していくということ。そのため、当時の多くの家庭は、ガスコンロの横に「徳用マッチ」を置いておくのが常だった。この場合の「徳用」は大型のマッチ箱を意味し、並みサイズの(携帯しやすい)マッチ箱を多量に買うより、本数的にも、この大箱入りの方がお得。そこから「徳用」を名乗り始めたということらしい。(タイトルフォト)

見方を変えると、映画の「1963年」当時、マッチは「買うもの」だった。まあ数年後には、喫煙者のために超・安価なライターが供給されるようになり、そしてPR用として、街や店内でマッチが無料で配られ始める。マッチを「買う」という機会はこうして激減し、さらに人々が「炎」を必要とする機会も少なくなって、いまの街頭では、マッチではなくティッシュが配られているのだと思う。

また、「ガリ版/ガリ切り」にもここで言及すると、これは印刷の一種なのだが、「入力」というか描いた(ロウ紙を引っ掻いた)文字は何ら変換されることなく、そのままのカタチで「出力」(印刷)される。ゆえに、姉妹で訪問した文芸部で「ガリ」の話題になった時、松崎空は「私は字がちょっと……」と尻込みした。そして、風間俊が松崎海の「ガリ切り」のジョブに、「いい字だ、ありがとう」と言ったのは、何事にも几帳面な海が描いた文字がキレイで読みやすかったからだと推察できる。

さて、この映画でのこうした“ナゾ”は、まだある。チラッと出て来た洗濯機も、いまの目線では、何をしているのかがわからないのではないか。コクリコ荘を切り盛りしている松崎海は、下宿人と家族に朝食をサーブした後、登校するまでの間に洗濯をする。

その洗濯機の「脱水」が、ウーン、何と説明すればいいのか……(笑)。ともかく、今日行なわれているように、遠心力を利用して水気を取り去るのではなく、回転する二本の「円柱」の間に洗濯物を通して、布を挟みつつ絞っていくというコンセプト。こうして言葉にすると、さらにややこしくなるのだが(笑)、言ってみれば、手絞りをちょっとだけ機械化しましたという感じだろうか。業界用語では、「遠心脱水」に対して、これを「ローラー絞り」と分類しているようだ。この映画でも短時間だが、ローラーに挟まれて布類が絞られていく様子が映し出される。

また、炊飯器も登場しない……というか、少なくともコクリコ荘では使われていない。お米は大きな容器に入っていて、その米を四角い「マス」ですくい取り、盛り上がった部分を「切る」というやり方で、松崎海は計量する。その後、米を釜に移したり、それを研いだりするというシーンはなかったが、朝に起きてきた海は、すぐに釜を載せたガスコンロに点火していた。前の晩のうちに、炊飯のための準備をすべて整えておく。これが炊飯における海の流儀なのであろう。

ただ、家庭用の「電気釜」自体は、既に1950年代からあったらしい。しかし海は、業務として米を炊いている。電気を用いた釜は、そのための役には立たなかったということか。……あ、それより、十分に水を含ませた米を大きな釜で炊いて、炊きあがったらお櫃に移す。海がやっていたこうしたメソッドの方が、ご飯はずっと美味しく炊きあがるのかもしれない。

それにしても、この映画の時制(1963年)から半世紀ほどしか経っていないのに、この国の「生活」の「ディテール」は、ずいぶん変化したものだ。もしもバリバリの21世紀人が「1963年」にタイムスリップしたら、ご飯も炊けす、シャツも洗えないという事態になるのではないか。

そして炊飯や洗濯だけでなく、クルマ絡みでも、この種のことはいえそうだ。今日であれば、すばらしい電子制御燃料噴射システムによって、いついかなる場合でも、ボタンを押すだけでエンジンは回り始める。しかし、「1963年」のようなキャブレターの時代は、そうではなかった。とくに冷間時は、いくつかの儀式を執り行なわなければ、エンジンを始動させることは困難だった。

とにかく、映画やドラマが「時代劇」であれば、私たちは「違い」を前提に、物語に入っていく。しかし「現代劇」の場合、そんな準備はほとんどしない。この映画に、もし、ある種の「わかりにくさ」があるとするなら、原因のひとつは、「1963年」があまりにも忠実に再現されていることにあるのではないか。言い換えれば、私たちの「この50年」は、それと気づかないままに、けっこう激変の半世紀だったのだ。この映画を見ながら、ふと、そんなことを思った。

(つづく)
Posted at 2016/11/21 11:09:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月19日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《2》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《2》松崎海の妹・空は、風間俊が屋根から飛んだ時の写真を「30円」で買ったと姉に言った。「30円」というのは、この映画で桜木町駅にあった切符販売機と同じプライス。国電(当時)の最短切符と写真代が同じだったのであれば、“風間俊ファンクラブ”のブロマイドは、今日の感覚では一枚200円くらいということになるだろうか。

そして空は、買ったその写真に風間のサインをほしいと姉に言う。ただ、風間がいるであろう「週刊カルチェラタン」の編集部は、あの古くてコワい(?)建物の奥深くにある。とてもひとりでは行けないから一緒に来てと、姉にせがむ空。こうして、「海と俊」が初めて会う機会(ファースト・コンタクト)は、図らずも妹の空がお膳立てする格好になった。

文化部系の部室が並ぶ“魔窟”に分け入った、二人の少女。彼らが何とか三階の文芸部までたどり着くと、「ようこそ」と迎えたのは生徒会長の水沼だった。デスクから振り向いた風間俊に、サインを!……と空が写真を差し出す。「してやれよ、ヒーロー!」と、笑ってけしかける水沼。

この時、サインペンを持つ風間俊の右手が、包帯で包まれていることがわかる。空の付き添い役として、そこに松崎海がいることに気づいた風間が言った。「これ、あの時のじゃないぜ。猫にちょっと引っかかれただけだ」

──あの時、つまり風間俊が屋根からダイブした時に、松崎海はほとんど反射的に立ち上がった。目の前で起きたことに驚き、何より、自分のすぐ傍で起きていることに静観はできない。海は、そんな性分なのだろう。

さらにあの時に、海は、水から顔を出した俊を引き上げようと右手まで差し出した。すかさず、二人の“握手”シーンにカメラが向けられる。(え……?)気づいた海が手を振りほどいて、俊はふたたび水の中へ……。友人たちと一緒の席に戻った海は、吐き捨てるように「バカみたい!」と言った。

そんな海だったが、しかし、「俊の記憶」だけはしっかり残ったようだ。その夕方、掲揚柱から旗を降ろそうとした海は、降りてきた信号旗と、あの時に空から落ちてきた俊の姿が一瞬重なるように見えたことに驚く。

水沼はもちろん、そんなことは知るよしもない。ただ、これは想像ではあるが、水沼は風間から聞いていたのではないか。俺は「松崎海」に重大な関心がある。風間は水沼に、こう言っていたと思う。たとえば、風間が「週刊カルチェラタン」に載せた、「少女よ、何故、旗を……」という詩的な一文である。風間がタグボートから、毎朝掲揚される「航海の安全を祈る」という旗を見て興味を持ち、それに答礼していたとしても、旗を揚げているのが誰であるかは、ボートからはわからない。

海から見える丘の上 → 揚がる旗 → コクリコ荘 → 松崎海。……この“連想ライン”を風間俊に教えたのは、港南学園のことなら何でも知っている事情通の男、つまり水沼なのではないか。親友である二人は、これまでに何度も、「松崎海」について二人で話していたのだ。そういえば、屋根からのダイブの時でも、風間は、一度海と目を合わせてから飛んでいた。

そんな「松崎海」が、妹と一緒であるにせよ、いま自分たちの部室にいる。水沼は(いまこそ好機だ!)と見た。風間の包帯が話題になったところで、水沼はまず、「そうだ、俊の代わりに、ちょっとガリを切ってくれないか?」と探りを入れる。すると、これに妹・空が同調してくれた。「おねえちゃん、手伝ってあげたら? 私、字がヘタだし」

さらに水沼と風間は、海を“こっちの世界”へ取り込もうと、物理のテストの「ヤマ張り」を持ち出した。次回の「週刊カルチェラタン」は、それがメインのネタだったこともあるが、風間は、水沼が「ヤマ張り」の名手であり、その情報は「83%」の確率があると持ち上げる。すぐに水沼は、「残り17パーセントは、自分の運だけどね」とクールに笑ったが。

こうして、松崎海の“内堀と外堀”は埋められた。コトは成ったと見た水沼は、さらに気を効かせる。こんな“魔窟”の中を女生徒ひとりで歩かせられない、自分が出口までエスコートすると申し出て、部室から空を連れ出し、さり気なく「海と俊」を二人だけにするのだ。

……いや、妄想が過ぎるかもしれないが、しかし、この映画は「海=ラ・メール → メル」の説明もない、基本的に不親切なシナリオ(笑)で作られていることを思い出すべき。ゆえに、見る側で「補う」必要があり、また、そうして「補った」方が話としてもおもしろくなる。その意味では、この映画はお子様向きではない。ひとりのオトナの観客として、「描かれなかったシーン」に思いを巡らせながら物語を追うのがいいと思う。

(つづく)    (タイトルフォトは、スタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/11/19 23:40:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月18日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《1》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《1》朝、目覚めた少女は、庭にある柱に二枚の旗を掲揚した。すると海上では、それに呼応してか、制服を着た少年が、自身が乗って来たタグボート(引き船)に答礼と思われる信号旗を揚げた。映画『コクリコ坂から』は、旗によるこんなメッセージの交換で始まる。

旗を揚げると、少女は庭から台所に戻り、食事の支度に取りかかった。年少ではあるが、彼女はひとりで下宿屋を切り盛りしているのか。大きな釜の中には、既に研いだ米が準備されているようで、少女はマッチを使ってガスに点火した。炊飯の開始だ。マッチは“徳用マッチ”と呼ばれた大きな箱に入っている。付け加えれば、このガス・コンロは、何らかの方法で外から炎や火花を与えないと火がつかない。

一方タグボートの少年は、船が接岸すると自転車を降ろし、それに跨って走り出した。抜けようとした路地の脇には、軽三輪が駐まっている。(あ、マツダのK360か)と思う間もなく、大通りに出た少年の前を、初代コロナ(タイトルフォト)、車種不明のライトバン、外国車のセダン、そして小さな三菱500などが走っていく。さらに初代クラウンをやり過ごすと、少年は大通りを渡った。

下宿屋では、朝食をサーブするジョブと洗濯を終えた少女がセーラー服に着替えて、外に出た。そこに、オート三輪の助手席に乗った家政婦が出勤して来る。運転者は「乗ってくかい?」と声をかけるが、少女はそれは断わり、歩いて学校へ向かった。オート三輪に乗っていたのは米屋で、この時には車種はわからなかったが、後に「くろがね」のバッジが映し出される。「くろがね」はダイハツ、マツダと並んで、戦前からのオート三輪“御三家”メーカーのひとつだ。

そして、大通りは別として、少女が歩いて学校へ行く道は、まだ舗装されていない。また、ここまでに登場したクルマは、トヨタ車でいうなら、初代のクラウンと初代のコロナ。この二車種はそれぞれデビューが1955年と1957年で、また、車道を行くクルマ群の中にいたスバル360の登場は1958年、そして三菱500は発表が1960年だった。

まあ三菱500は、この映画のように「街」で姿を見かけるほどの販売台数には至らなかったはずだが、それはともかく、これらのクルマからも、この映画の「時制」がだいたい見えて来る。映画の中盤では、「1964 東京オリンピックを成功させよう」という掲示がある東京の街・新橋へ、主人公たちが出向いて行く挿話がある。

さらには、画面に映るバスが「いすゞ」のボンネット型で、スクーターはラビットやシルバーピジョンが走り、リヤビューを見せて日野ルノーが坂道を登って行くシーンなど。そのルノーの後継モデルだったコンテッサも、サイドビューを見せて走り去る。

TVのブラウン管の中では、巨人軍の長嶋茂雄が三振し、坂本九が「上を向いて歩こう」を歌っていて、「もうすぐ、舟木一夫が出るのよ!」というセリフがある。「上を向いて…」は1961年にリリースされた曲、そして舟木一夫が「高校三年生」でデビューするのは1963年だった。

……ということで、この物語の舞台となるのは、東京オリンピック開催の前年で、第二次大戦の終戦から20年近く経った「1963年」であった。そして、前述のように東京に“遠征”もしたが、主人公たちが暮らしているのは、1963年の横浜。少女が切り盛りする下宿屋・コクリコ荘、また彼女が通う私立高校の港南学園は、ともに横浜の“港が見える丘”に建っている。

そして、主人公の少年がタグボート(引き船)に乗っていたことは記したが、「横浜港」もまた、物語の重要な舞台である。山下公園には氷川丸が泊まっているし、そこに建つ「TOYOTA」の看板を付けたマリンタワーも画面に映る。神奈川はイメージ的にはニッサンの勢力圏なのに、そのマリンタワーにトヨタの文字が出現したとして、これはいっとき話題になったはずだ。そして映画のエンディングも、「横浜港と船」がそのステージになる。

映画は、二つの挿話を交錯させながら、物語を進めて行く。そのひとつは、主人公たち、つまり高二の少女「松崎海」と高三の少年「風間俊」のラブ・ストーリー。そしてもうひとつが、彼らが通う港南学園の一角にある文化部系の部室が集まる古い洋館、通称“カルチェラタン”の存続がどうなるか、である。学校側は、この古すぎる建物の改築……というより取り壊しを企図しており、そして港南学園の一部の生徒はそれに強く反対している。

さて、ヒロインである「松崎海」の名は「うみ」。三人姉弟の長女で、妹の「空」と弟の「陸」がいる。ただ、親しい人や級友たちは、彼女を「メル」と呼んでいる。何故「メル」なのかという説明のセリフは一切用意されていないが、ただ、文化部の面々がタムロする建物を“カルチェラタン”と呼んでいる学校であり、ここではフランス語が半ば“公用語”化しているとするなら、「ラ・メール」(=海)から無理やり付けたアダ名かもしれないという想像は一応できる。

そして、タグボートに乗っていた少年の名は「風間俊」。港南学園・文芸部の一員で、「週刊カルチェラタン」というビラ一枚の雑誌を発行している。松崎海が毎朝「旗」を揚げていることは、風間は知っていて、主宰する「週刊カルチェラタン」に「少女よ、なぜ、君は旗を揚げるのか」……で始まる小文も掲載していた。

「ねえねえ、これ、メルのことだよね?」と、松崎海が級友からそのビラを見せられた後の昼休み。友だちと一緒にお弁当を広げていた海の目の前で、事件は起きる。生徒会長・水沼の合図で、「カルチェラタンの取り壊しに反対!」という垂れ幕が掲げられると、抗議のためのパフォーマンスとして、建物の屋根から防火水槽に風間俊がジャンプしたのだ。

(つづく)
Posted at 2016/11/18 10:15:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年11月13日 イイね!

新ジャンル車としてのハイラックスとハイエース

新ジャンル車としてのハイラックスとハイエース書籍「トヨタをつくった技術者たち」(2001年刊行)から、今回は、1960~70年代、トラック系の主査として数々の製品を送り出し、商用車の分野で新境地を拓いた大塚隆之氏の談話を紹介する。

1970年代前半という時点、「RV」などという言葉はカゲもカタチもなかった頃に、既に「商用車」と分類されるジャンルに、大塚氏は「乗用車レベルの近代性」を持たせようとしていた。この証言には、やはりちょっと驚く。

○ハイラックス開発の経緯
「1トン積みのダットラが非常に羽振りを利かせていたので、(略)虎のシッポを踏むような正面衝突はしたくないということで、1トン積みトラックをプランニングし上程しても、何年も開発許可が下りなかった。ところが、ライト・スタウトとブリスカの二車種が生まれ変わり好評だったので、ボンネット型1トン積みトラック、ハイラックスの開発許可がやっと出た」

「ハイラックスの開発は、試作三号車まではトヨタ車体で作ったが、試作四号車から日野自工に切り換えた」

「ハイラックスは、トヨタが持っている乗用車を含めたあらゆる実績・経験に基づいて、新たな構想の下に基本設計からやり直し、生まれ変わった姿のトラックにした。トラックとしての資格は十分備えて、しかも乗用車レベルの近代性を持ったもの、使う人のことをよく考えた新たな正調1トン積みトラックだと思っている」

「ハイラックスという名前は、最初に販売部が辞書で『 HYRAX 』を選び、豊田英二さんも『それでいこう』と言われた。ウェブスターの大きい辞書で『 HYRAX 』を引いたら、昼間グーグー居眠りしていて夜ゴソゴソ歩くアメリカ産のヒグマと書いてあり、これではイメージが悪いから変えようと『 HIRAX 』にした。ラックスという石鹸があって心配したが、引っ掛からないという結果になって『 HIRAX 』が本物になった」

「ニッサンのダットラという牙城ができているところへ飛び込んでいくのは、構えている敵に攻め込むような難しさがあって、一番気を遣ったことは、ハイラックスを如何にして伸ばすかということ」

「特別に『王手』というようなことをしたわけではなく、オーソドックスにお客さんのニーズを掴み、それを反映したトラックを次々に提供していったということだと思っている」

「1969年に、アメリカ向けに3Rエンジン1900cc、1971年に12Rエンジン1600ccを搭載し、手頃なサイズと価格で輸出台数も順調に増加していった」

「内山田亀男さん(3代目クラウンの主査)に怒られたことがある。当時、エンジンキーをどっちから差し込んでも回せることが世界的な流行だった。ポケットから出して、どっち向きに差し込んでもドアが開き、エンジンが掛かる。うちの主担当員が『これをやりましょう』と言うので、『それはいいな』と採用した。ところが内山田さんに、『クラウンで最初にそういうことをしようと思ってアイデアを出したのに、先にやるのはけしからんじゃないか』と。申し訳ないことをしてしまった。

○ハイエースについて
「アメリカやヨーロッパでは、荷物運搬専用として代表されるデリバリー・バンがあって、このクルマが商売用のクルマとして使われていた。トラックのバン型化、屋根のあるトラックへの移行は世界的な流行だった。人間を尊重する乗用車的なムードを持ち、かつ積載もできる商用車が望まれるようになって来ていた。それまでは、標準トラックをベースに、多目的使用の変わり型ボデーを作っていたので、バン型としては構造的に使い難い面があった」

「こういう時代の変化を敏感にキャッチし、お手本があったわけではないが、家族で楽しみ喜ぶことができるバンにしていかなければと考え、バン型ボデーを標準型にして、ドアの開き方を前後方向の引き戸式にし、ヘッドランプを四つにしたものを開発した」

「人を乗せる機能と荷物を運ぶ機能を兼ね備えた、ほんとうの意味での貨客乗用車。全天候型の本格的な小型キャブオーバー商用車、デリバリー・バンは、トヨタが先鞭を付けた。その後、人員の輸送ということではコースター(マイクロバス)に発展していった」

「人間の常として当然の帰結なんでしょうけれど、これからのクルマは、ますます家族ともどもエンジョイするというものになっていくと思う」

○大豊工業へ転出
「たまたま跡継ぎが欲しいという話が出て、大豊工業へ行くことになった。野口正秋さんが、『大塚君はまだトヨタで使いたい。役員会の時に、“私は一年で帰ってきます”と言え』と言ってくれたけど、役員会で言えなかった。大豊工業へ行って、海外との技術提携などをやっていたら、一年のつもりが二十年になってしまった」

「お客様の本質的な要望が入っていなければ成功しない。お客様の要望、欲望というものを掴んで、原理的にこんなものができないかというユニークなことを先手を取って作り、『こんなもの、どうでしょうか』とお客様に呼びかけていけば、大半のお客様は信頼してついてきてくれる。抜け落ちているところがあれば、お客様とともに考えて、より良いものにしていけばよい」

「自動車の製品企画をしていた時にも、そういうことを大いに採り上げた。待っていては、お客様のニーズは滅多に入ってこない。上の方がマーケットに飛び込んで行って、お客様の声を聞き、何を望んでいるかを拾い上げて、先手を取って社内をそういう方向に向けていくようにしたつもりです」

「日本人には、みんなと打ち解けて、みんなと一緒に築いていくということが向いていると思う。妙にカリスマ性を出そうなんて思って、大それたことを言うと、よそよそしいことになってしまう」

○豊田少年少女発明クラブ理事長として
「自動車はまだまだ改良を続けなければならないものだから、『こういう自動車にしてほしい』という提言を子どもからも出してもらう。そのためには、子どもを啓発するテーマパークを、豊田市の鞍ヶ池を中心につくろうと提案している。一番いいのは、優秀な技術屋が考えるだけでなく、子どもを含めた国民とともに、もっと広い視野から自動車がどのようになっていけば良いのかを考えていくことだと思う」

◆大塚隆之
1915:東京都に生まれる。
1941:東京帝国大学工学部・機械工学科卒業。
卒業後、東大付属航空研究所でエンジンを研究。
1942:陸軍の航空廠に入り、朝鮮半島・平城に赴任。
陸軍では発動機工場と自動車教育隊の教育を担当。終戦後、ソ連領エラブカ収容所に抑留され、1947年に復員した。
1948:トヨタに入社。
1959:第1エンジン部で、アルミV8エンジン、3Rエンジンを開発。
1965:製品企画室・主査となる。
1967年から、トラック関係全車種の主査として、ブリスカ、ランドクルーザー、ハイエース、ハイラックスを担当。
1972:大豊工業社長。1983年に会長。
Posted at 2016/11/13 04:43:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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