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家村浩明のブログ一覧

2016年11月08日 イイね!

新「電動ノート」のシンプルさに一票!

新「電動ノート」のシンプルさに一票!一般の人々が日常的に使う「商品」の場合、それについての説明の言葉は、やっぱり短くて簡単な方がいいのではないか。その意味で、この11月にニッサン・ノートのラインナップに加わった新バージョン、「ノートe-POWER」の「シンプルさ」を積極評価したい。

この「ノートe-POWER」について、自動車業界の用語を使って、これは「シリーズ・ハイブリッド」方式で……と始めると、ハナシは逆に長くなってしまう。まあメカに詳しい人にとっては、そういうふうに言ってくれたらすぐにわかるよ……かもしれないが、ただ「シリーズ──」をわかってもらうには、一方で「パラレル──」っていうのがあって……ということからハナシを始めなければならない。

でも、この「ノートe-POWER」の場合、既に街を走っている「EV」や「電動車」と同じジャンルと言い切って、何ら問題がない。……というか、その通りにこれは「EV」なので、ただ、その取り扱いの部分が“ピュアEV”とは違っているだけ。

──「ノートe-POWER」ですか? これはEVです、モーターで走る電動車。既にご存じのリーフと同じです。ただし、リーフのように「充電」はしません。このクルマは「給電」ではなく、ガソリンスタンドで「給油」します。それでOKで、その後は、タンクのガソリンがなくなるまで走れます。普通のクルマというか、ガソリンエンジン車とまったく同じように使って下さい。

何故、給電しないのに電動車として使えるかといえば、それは、エンジンによって発電するシステムを車載しているから。そして、そのシステムを稼働させるために、ガソリンが要るということ。“車上の発電所”は一種のブラックボックスで、ドライバー&ユーザーは、それに関与することはできない。そして、エンジンは発電だけを行ない、車両の走行には関わらないという単純さである。

そうは言ってもギョーカイの分類では、この「新ノート」はやっぱり「ハイブリッド」のひとつになっているのだろう。ただメーカーは、この新バージョンについて、「シリーズ……」も含めて「ハイブリッド」という語を一切使っていない様子。でも、それでいい。説明し始めても長くなるだけだし(笑)。

むしろ、既にリーフを市販している“先進のEVメーカー”として、リーフとこのノートの違いを簡単に述べていく方が、はるかに建設的ではないか。開発担当者は「ガソリンで走るEV」と語っていたが、この言い方は大正解だと思う。

そしてニッサンが、こんな「シリーズ・ハイブリッド」方式のモデルを出したのも、既にリーフを持っていることでもわかるように、「モーター駆動車」や「電動のビークル」は、単に「時代性」ということではなく、そのドライバビリティも含めて、クルマとして“いいもの”だと、作り手として考えているからであろう。そんなEV的なドライバビリティとは、大トルクによる豪快な加速であったり、今回のモデルで選択できるようになったアクセル・オフ時のブレーキ感覚(ワンペダル・ドライビング)であったり……。

私は、いろいろな種類のビークル(クルマ)があっていいと考えているひとりなので、「原動機としてのモーター」が普通のレシプロ・エンジンとは異なるテイストを持ち得るということは、逆に、アピールすべき部分であると思う。

また、現状の、給電可能箇所よりもガソリンスタンドの方が圧倒的に数が多いというインフラを見れば、「EV」の日常的な使い勝手を良くする方策として、たとえば車上で発電するのは大いにアリである。その意味でも、この「ノートe-POWER」はおもしろい提案であり、(リーフ以上に)より現状に即した「EV」として、この新ビークルを拍手とともに迎えたいと思う。
Posted at 2016/11/08 11:17:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | New Car ジャーナル | 日記
2016年11月06日 イイね!

【60年代こぼれ話】トヨタS800は開発者の不満解消のために?

【60年代こぼれ話】トヨタS800は開発者の不満解消のために?「トヨタをつくった技術者たち」から、もうひとつ、歴史トリビア風のエピソードを紹介する。後にカローラ初代の主査となる長谷川龍雄氏が、パブリカの開発を担当していた頃の回顧で、派生機種である「スポーツ800」(トヨタS800=“ヨタハチ”)は如何にして生まれたのかという秘話だ。

長谷川龍雄氏は、初代クラウンを開発した中村健也氏とともに、トヨタが1950~60年代に「乗用車」を開発し始めた頃の“伝説の主査”のひとりである。(「主査」って何?……というのは短い説明は困難なので、いずれ改めて書きたい)その長谷川氏は、中村主査と一緒にやっていた初代クラウンの開発が一段落した後、既に開発がある程度進んでいた「パブリカ」を市販に向けてまとめるという新たな仕事に就いた。

その際に、当時の日本の道路事情、また技術的・時間的な制限と限界などを考えた結果、パブリカを「まとめる」には、当初の案だったFFでは不可能という判断をする。そして、同車をFR方式に変更し、トヨタ最小の“シンプル・カー”として、パブリカを1961年に発売した。

しかし、開発を始めた頃と、実際にクルマを売り始めた時とでは、マーケットやカスタマーの事情が変わっていたようだ。この点について長谷川氏は、「世の中に贅沢さが生まれていて」、パブリカは「『チャチなクルマ』と言われて売れない」と解析している。そして、そういう状況が見えていたから、長谷川氏はパブリカに代わるべき新しいコンパクト車を自身で企画していた。そして、そのクルマ(後のカローラ)の開発・市販を社内で訴えていたのだが、しかし、会社の上層部は、その提言になかなか反応しなかった。

そんな社内に苛立ちつつ、長谷川氏はパブリカの拡販対策も、もちろん行なっていた。まず、デラックスとバン、ピックアップを用意して、バリエーションを増やすこと。二つ目は、海外市場を狙い、東南アジアでテスト走行をする。これは当時の日本には、高速で走れる道もテストコースもなかったことが理由である。そして三つ目が、エンジンをツインキャブで強化したスポーティ車を追加することだった。

そしてトヨタは、1962年の第9回自動車ショーで、「スポーツ800」のショーモデルを展示した。それは好評を博し、来場したファンからも市販してほしいという要望が寄せられた。さらに、ツインキャブにチューンした2Uエンジン搭載車のレーシング・パブリカが、鈴鹿の日本グランプリでワンツースリー・フィニッシュしたことも、市販化への後押しとなる。

「このツインキャブのエンジンを使えば、売れるかもしれない。売れ行き不振のパブリカ店にインパクトを与えることができるかもしれないと思い、ドア付きにして、排気量800ccのスポーツ800を作った」と、長谷川氏は語る。「ドアを付けた」とは、自動車ショーに展示したショー・カーは、車室とルーフが一体で後方に移動するという方式だったため、それを変更したということ。そして、「トヨタとしては、初めてドアガラスも丸みのあるものにした」(長谷川氏)。

市販化に際してのデザインは、「トヨタでは工数の余裕がなかったので、関東自動車工業に依頼した」。デザインを決める際には、長谷川氏はずいぶん「ちょっかいを出した」と言うが、それはこのクルマを「飛行機イメージにしようと思っていた」からだった。シルエットの「力点もベルトラインにあるのがよい形だ。レーシングカーとは違う」というのが氏の考え方だ。ちなみに長谷川氏は、東京帝国大学の航空学科を1939年に卒業した“飛行機屋”である。

さて、こうして好評のうちに受け入れられた「スポーツ800」だったが、その開発に長谷川エンジニアが注力したその理由がなかなか豪快だ。まあ、これはジョークもまじえてということで、「……(笑)」というように表記すべき談話だったかもしれないのだが、ともかくこの書で、長谷川氏は次のように言う。

「本音は、当時カローラの開発提案を認めてもらえず、溜まっていた欲求不満を解消するという気持ちで、スポーツ800を開発した」「パブリカ店にインパクトをという気持ちが10パーセントで、欲求不満が90パーセント。多少は、スポーツ800をモーターショーだけで終わらせではおもしろくないという気持ちもあったけどね」

……おお! では歴史の「イフ」ではあるが、もし「初代カローラ」の企画・開発に素早くゴーサインが出ていたら、「パブリカ・スポーツ」はショーカーのままで、世に出ることなく終わっていたということになるのか。

さらに長谷川氏は、海外でのこのクルマの評価にも触れる。アメリカにファンクラブがあるが、スポーツ800は輸出したのかとインタビュアーに問われると、「輸出せよとトヨタ自販が言った」が「私は絶対反対」で、役員に何といわれようとも「私は頑として許可できないと突っぱねた」と証言する。

長谷川氏が輸出に断固反対だったのは、初代のクラウンをアメリカに出してみたことがあり、その時、クラウンでアメリカのハイウェーを実走するテストを行なったのが長谷川氏自身だったからだ。その走行テストの結果、当時のトヨタ車には、まだアメリカへの輸出ができるだけの技術も体力もないことを、長谷川氏は自身の体験として持っていた。

ただし、トヨタ自販は「こっそりとサンプルカーを三十台くらい米国へ輸出した」(長谷川氏)。ファンクラブは、その三十台と、進駐軍が沖縄あたりで買って本国に持ち帰ったものでできたのであろうということ。そして、「スポーツ800」がアメリカで何も問題になっていないのは、「クラシックカーのような扱いで割り切っているから」で、もし普通に輸出して、乗るのが「一般大衆だったら、とてもじゃないけど、問題が起きていた」と長谷川氏は言う。

このインタビューの最後で、「乱世、変化の時代には侍が欲しい」に続けて、会社の「トップは、常日頃から侍が出てくることが可能になる土壌を作って」おく責任があると、長谷川氏は語っている。ただ、この「パブリカ・スポーツ」や「カローラ初代」の誕生などを見ていると、何より長谷川氏自身が“強烈な侍精神”の持ち主であったと思わざるを得ない。ともかく、「中村健也」と「長谷川龍雄」は、主査として1950~60年代のトヨタ乗用車を作った(開発した)だけでなく、「トヨタ車の作り方」も同時に創った、そんな伝説の二人なのであった。
Posted at 2016/11/06 19:00:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
2016年11月04日 イイね!

【70年代こぼれ話】レビン/トレノ、その最初の名前は……?

【70年代こぼれ話】レビン/トレノ、その最初の名前は……?「トヨタをつくった技術者たち」という書は、トヨタで仕事をしてきたエンジニアがインタビューに答えて、社内での自分のキャリアを、時に個人史も交えながら語るという構成だ。インタビューをしているのは“後輩”に当たるトヨタのエンジニア諸氏で、そのため、専門用語や社内用語が説明されないままに飛び交うという特徴(欠点か?)はあるが、言い換えれば、登場する諸氏が率直な物言いに終始しているということでもある。また、トークによる社内史を作ろうという意図もあったはずで、歴史書としてもなかなか興味深い内容になっている。

今日はそんな中から、「カローラ・レビン/スプリンター・トレノ」の誕生と、そのネーミングをめぐるこぼれ話を紹介したい。語っているのは、本ブログにも既に登場いただいたカローラとターセルの主査、佐々木紫郎氏。初代カローラの主査・長谷川龍雄氏が役員に昇格したため、開発途中の二代目カローラの主査に佐々木氏が就任したのが1967年7月のことだが、このクルマを開発している時に浮上した企画が「レビン/トレノ」だった。

そのキッカケとなったのは、その頃シャシー設計担当で、後に初代セリカの主査になる久保地理介技師のひと言。彼はラリー・マニアで、山岳路を走るのが好きだったが、ある日佐々木主査に、「セリカ用に開発した2T-Gをカローラに載せませんか?」という「入れ知恵をしてくれた」(佐々木氏)のだ。「これはおもしろいぞ」と、佐々木主査は話に乗り、ハイパワー・カローラの企画がスタートする。

その車名を決める段になり、佐々木氏は取締役の長谷川氏に、「体育の日までに決めてください」と要請。これに対して程なくリプライがあり、長谷川氏から佐々木主査に一枚のメモが渡された。そこに書かれていた車名は、「カローラ鷲/スプリンター鷹」──。名付け親は、豊田英二社長(当時)。佐々木氏は、その頃「英二さんは『自動車の名前が英語ばかりでおもしろくない。日本語の名前を付けたい』という気持ちを持っていたようで」と語っている。

しかしこの時、佐々木氏は、内心「ウエッと思った」と告白する。上司の長谷川氏は、「体育の日までと言うから、決めてもらった。この車名が気にくわなければ、佐々木君が文句を言って来なさい」と言う。何といっても社長直々のジョブであり、「困ったなと思ったけど、決めてくれたものを『嫌です』とは言えない」(佐々木氏)。

とりあえず、クルマの販売を担当する「自販」側と相談するが、案の定、「日本語の名前では、まだ商売をしにくい、困る」という反応だった。しかし、そんな理由では断われないぞと話し合いつつ、まずは名前の登録ができるかどうかを特許部に調べてもらうことにする。

その結果、幸いにも(?)大阪の自転車屋が「ホーク」を登録していたことが判明。そこから、ホークは鷹に通ずる、「自転車も自動車も乗り物のジャンルだから駄目」という判断を下し、その後に、みんなで智恵を絞って考え出したのが「レビン」(雷の光り)と「トレノ」(雷の音)という二つの名前だった。このオリジナルの段階では「カローラ・トレノ、スプリンター・レビン」であったという。

後日、佐々木氏は、そのメモをポケットに入れて、恐る恐る社長のところへ行く。ちなみに、この時が英二社長との初対面だった。特許部の見解では「鷲と鷹」は登録がむずかしいと報告すると、「そうか、どうするんだ」と社長。佐々木主査は車名を書いてきたメモを提出。すると社長はそれを机の上に置き、さらに窓際で行ったり来たりしながら、しばらく考えていた。

そして、英二社長は椅子に座ると、名前を入れ替え、カローラ・レビン、スプリンター・トレノと書いて、「これに決めたとサインをしてくれた」(佐々木氏)。名前を入れ替えた理由として、「レビンは光りで、音よりも速い。速い方は兄貴分のカローラにやれ。スプリンターの方はトレノ」と英二社長は言った。

なるほど、クルマに日本語の名前……。さすが進取の精神、他社と違ったことをやろうという姿勢には注目だが、でも自販側が言ったように、1960~70年代の時点では、やはり和風の名前は時期尚早だったのではないか。「鷲/鷹」では、レビン/トレノほどには売れなかったと思う。まあ当時も「すばる」という日本語の車種名は、既にあったのだが。そういえば、いすゞがミッド・セダンに「アスカ」(飛鳥)という名を与えたのは1980年代だったか。また、カムリの語源は「冠」だといわれている

そして二輪の方の日本語名では、極めつけと“勘弁してくれ”のどっちの選手権も、私見ではスズキが持っている。卓抜な方では、やっぱり「カタナ」! そして一方、彼らは1950年代に、バイクならこれだ!という「コレダ」を二輪車の名前にしていた。さらに1990年代の「ワゴンであーる → ワゴンR」という展開も、スズキ的な傑作ネーミングのひとつであろうか。
Posted at 2016/11/04 17:19:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ史探索file | 日記
2016年11月01日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.30 アルト

【 70's J-car selection 】vol.30 アルトアルト初代 SS30V(1979)

新しい「軽」は、いつもスズキから――。こんなフレーズを思わず書きたくなるくらいに、このメーカーは1950年代からずっと、その主戦商品である軽自動車に何か「新しさ」を盛り込もう、可能性を広げようという奮励努力をし続けて来た。

不整地走行に強いジープ・タイプのクルマを「軽規格」でまとめたジムニーはその一例だし、「FFの軽」というのも、実はこのメーカーが日本最初に作ったものだ(1958年・スズライト)。その後に、一転してRR方式とした軽乗用車フロンテでは、後輪駆動という特質を活かして、スポーツカーと呼んでもいい運動性と流麗なスタイリングのフロンテ・クーペを送り出した。

そんな歴史を持つ軽メーカー・スズキが、またしても1970年代の末、当時やや沈滞の気配もあった軽自動車マーケットを覚醒させるような新ジャンル・カーを生み出した。それがアルトである。

この頃、つまり1970年代後半のコンパクト車事情について、「SUZUKI STORY」(1992年・三樹書房刊)は、セカンドカー需要を狙って、リッター・カーが多く輩出されたと、まず解析。そしてそんな新傾向に、軽の専業メーカーとして対抗する必要があり、ベーシックと低価格に着目した新ジャンル・カーの開発に向かったと記す。

さらに同書によれば、その企画は、まず開発部門から上がってきたものだという。それが、「物品税が安く、価格が安くできる商用車でありながら、乗用車スタイルのクルマ」という提案だった。そこには、軽自動車って何人乗って動いているのか。実はひとり+アルファではないのかという市場観察からのデータも入っていた。

これに対して社内の営業サイドからは、商用車と乗用車ではそもそもユーザーが異なるし、受注時の混乱も予想されるとの反論があった。しかし開発スタッフ側は、そんな区分は法律と統計上のものでしかなく、一般カスタマーには関係がないこと。何より、作る側としてそんな“旧習”は打破しなければ、新しいタイプやジャンルの新型は生まれないと主張した。

重要なのは、軽の専業メーカーとして「軽自動車界を活性化させなければならない」(同書)ということ。その一端としての、リアル・ベーシックと低価格への着目。そうした軽自動車の原点を直視しての「商用車」カテゴリー、それを利用したパセンジャー・カー作りというアイデアであった。

さらにそこには、同社の上層部から、具体的な数字が開発陣に下りて来た。それは新型の軽自動車は、「目標価格45万円以下」にするというオーダーだった。当時の同社の軽乗用車は、フロンテが約55万円、セルボは70万円近かったから、この価格は破天荒な“社長命令”でもあった。

これについての結果を先に書くと、「45万円」ではどうしても利益が出ないことがわかり、アルトは結局「47万円」でデビューすることになる。ともあれ、この価格でアルトが登場した時には、ジャーナリズムもマーケットも驚きを隠せなかったが。

このアルトのデビュー時には、ひとつアイデアが盛り込まれた。それは、2ドアのハッチバック車はアルト(商用車)のみにして、4ドア車は乗用車ジャンルのフロンテだけとするというラインナップ設定だ。これによって、「アルト」といえば2ドアのバージョンしかないということで、カスタマー側の混乱も避けられた。そして予想通りに一般カスタマーは、そのクルマ(アルト)のカテゴリーが「商用車」なのか「乗用車」なのかということなど、まったく気にしなかった。

こうして、日本の“スーパー(マーケット)カー”アルトは、1979年に誕生。「こんな手軽な軽もあるんだ」ということで大ヒットし、軽自動車の世界を拡大するとともに、その商品としての可能性を広げた。

そして、このアルトは1980年代。安価+軽量という属性を逆に活かして、これにハイパワーのターボ・ユニットを組み合わせた、その名も「ワークス」をデビューさせ、“速い軽”という新ジャンルを提案することになる。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)

◆この【 70's J-car selection 】シリーズは、今回をもって終了と致します。お読みいただき、ありがとうございます。
Posted at 2016/11/01 15:45:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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