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家村浩明のブログ一覧

2016年06月22日 イイね!

「2016年ル・マン」のためのメモ その1

* 悪夢のような結末で、その衝撃と余韻がなかなか去らない。2016年の「ル・マン24時間」は、トヨタ・チームがほとんど掌中にしていた勝利を逃した。

* 長い24時間レースも、残り10分となった頃、首位のトヨタと同一周回で「2位」を走行していたポルシェの2号車がピットインした。給油とともに、四本のタイヤを交換。もちろん、首位のトヨタはコース上にいる。

* このポルシェのピットインで、サルテ・サーキットで取材していたほとんどすべての観戦記者は、首位トヨタの勝利を確信し、速報のための記事を書き始めたはずだ。トヨタ、ついにル・マンで初勝利、30年来の悲願を成就──。(実際にも、「トヨタ勝利」の記事をアップしてしまったwebサイトがあったという)

* この時の、ポルシェのピットインの意図は何だっただろう。タイヤをフレッシュにして、少しでも首位との差を縮め逆転を狙ったか? しかしこの時、レースの残り時間は10分だった。そして、サルテ・サーキットは一周するのに、どんなに速いクルマでも3分半はかかる。

* この時のポルシェ2号車は、首位のトヨタから約30秒遅れていた。そこから停止し、タイヤ交換作業の時間が加われば、その差はさらに拡がる。新タイヤで、仮に一周につき「5秒」縮めたとしても、「24時間」までに3周しかできなければ15秒しか縮まらない。

* ポルシェは、2016年のル・マンで「最速」であることを示したかった。このピットインについては、こういう意見がある。レース中の最速ラップは、ポルシェではなくトヨタの6号車(可夢偉!)が記録していた。もし、優勝できないのであれば、ファステストラップだけでも獲っておきたい。ポルシェ陣営は、こう考えたのだろうか。言い換えればこの時点で、ポルシェは2016年ル・マンの優勝を諦めたということだ。

* そのポルシェ2号車は、3位のトヨタ6号車に対しては「3周」のリードを持っていた。だから、ピット作業に数分を費やしても、2位の座が脅かされることはない。それならタイヤ交換も含んで、ピットでやれることはすべて行ない、クルマをフィニッシュへと向かわせる。「2位」を盤石なものとするための、そんなピットインだったのかもしれない。

* ふと気づけば、今年のル・マンでは、残り1時間となっても、同一周回数で2台のクルマが競い合うという緊迫したレースだった。そんな歴史的なデッドヒートの「2016ル・マン」だが、この2位ポルシェのピットインによって、その終幕がようやく見えてきた。

* 思えば、「ル・マン」をめざしたトヨタの“旅”は長かった。空白の期間も含んで、初挑戦から30年の時間が経ち、そしてその間、トヨタはル・マンで、何度「2位」になったことだろうか。そういえば終盤に、首位に迫って走行していてタイヤがバースト! しかし、それでもそのポジションをキープした“激しい2位”もあった。( → 1999年、この時のドライバーは片山右京)

* シルバー・コレクターとかブロンズ・コレクター。この種の言い方は、レースの世界ではあまりしないような気がするが、ル・マン24時間でのトヨタ・チームは、女子陸上のマリーン・オッティ選手も苦笑してその座を譲りそうな“銀メダル”の収集家だった。しかし、トヨタのそんな未勝利の歴史に、ついに、あと数周あと5~6分も走れば、終止符が打たれる。

* ……とすべての観客が思った時に、「ノーパワー、ノーパワー!」という悲痛な声が無線に載った。リミッターが効いたようになって、アクセルを踏んでも車速が上がらないようだ。報告したのは、首位にいたトヨタ5号車・中嶋一貴である。

* ここから先は、あっという間だった。それまでトヨタが積み上げてきた「23時間55分」の優位は、たった数分間で、非情なほどに呆気なく否定された。システムのどこかがおかしくなったのか、5号車はストレートに止まって動かない。その横を、2位だったポルシェの2号車が駆け抜けて行く。2016年ル・マンの首位は、もうトヨタではない。

* え? え? こんなことが? 目の前の事態が意外すぎて、声にもならない。レースは最後まで、何が起こるかわからない。そのフレーズは知っていても、でも“それ”が、いまここで起こっている? 

* サルテ・サーキットの時計が「24時間」が経過したことを告げた。その「後」で、最も長い距離を走行したクルマがコントロール・ラインを通過した時、それが「ル・マン」のフィニッシュである。そして、ポルシェの2号車がチェッカーフラッグが振られる中をレーシング・スピードで通過して、2016年のウイナーが決まった。

(つづく)
Posted at 2016/06/22 17:09:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2016年06月19日 イイね!

【F1】モナコからカナダへ 《1》

今年のモナコ・グランプリはおもしろかった。“常勝メルセデス”に対抗できる速いクルマが出現したからだ。そのレッドブルを駆るダニエル・リカルドは、木曜日のフリー走行から速く、土曜日の予選では2番手のメルセデス/ルイス・ハミルトンを「コンマ6秒」ちぎった。

ポールポジションから普通にスタートできれば、コースは「抜けないモナコ」であり、決勝では十分に勝機がある。レッドブルがそんな態勢を作ったグランプリ・ウイークになったが、ただ、そんな状況をスクランブルするかもしれない要素がひとつだけあった。天気予報では、決勝レースが行なわれる日曜日は激しい雷雨になるというのだ。ドライという条件下で着々と築かれてきたリカルド/レッドブルの優位は、雨とウェットタイヤという新条件では、果たしてどうなるのか?

しかし実際の日曜日では、ツキ(という言葉を使うが)はまだ、レッドブルとリカルドにあったようだ。予報通りにウェットのレースになったが、その雨がひどすぎたのである。そのため普通のスタートができず、レースはペースカー先導によるローリング・スタートになった。これで、スタート時の混乱や1コーナーでの渋滞といった可能性は大幅に減る。

そして、その通りに雨のモナコは“スムーズに”始まった。レッドブル/リカルドは、ウェット・タイヤでも速かった。危なげなく首位をキープし、そしてクルマは、ここではレッドブルが最速であることが既にわかっている。今年、メルセデスは「一敗」したが、それは二人のドライバーがスタート直後に絡み合ってコースから消えたからだった。しかし、このモナコでは、そんな事件は起きていない。今年初めて、メルセデス以外のクルマが、コース上でメルセデスを破ってグランプリに勝利する時が来た。

……と思ったのだが、やはりレースは何が起こるかわからない。レッドブル/リカルドはタイヤ交換時に10秒近くを失い、ピットインの回数も優勝者より多かった。そして一度他車に先行されてしまうと、モナコでは、いくらクルマが速くても抜き返すことはできない。

レッドブル・チームには確かにミスはあった。ただ、リカルドのモナコ初勝利を“強奪”すべく、虎視眈々と狙っていた男はいた。それがルイス・ハミルトンで、彼は雨が弱くなり、リカルドを含む他車がインターミディエイトに履き替えても、レイン・タイヤのままで走り続けた。そして、そこから最も柔らかいドライ・タイヤに交換。その後、もう一度ピットインするのではないかという予測を裏切って、そのタイヤをフィニッシュまで保たせた。たった一度のピットストップでレースを終えたハミルトン、対してリカルドはツーストップだった。

とはいえ、ルイスがこのモナコで「勝てる」という確信のもとにレースしたとは思えない。レッドブルの速さをよく知っていたのはどこよりもメルセデス・チームとルイスであり、だから彼らは“王道”ではないタイヤ戦略を採った。ピットインの回数を減らし、そして、柔らかいタイヤで延々とコースに留まる。言い換えると、ギャンブルの要素も含んだはずの、そんな捨て身の作戦で、ようやくメルセデスはレッドブルと対等に闘えたのだ。

        *

モナコがシャシー(車体のメカニカル・グリップ)の勝負だとすれば、カナダは“パワー・サーキット”だといわれる。そのカナダでは、本来のポテンシャルを見せつけるように、予選でメルセデスがフロントローを独占した。そしてここでは、メルセデスへのチャレンジャーとしてフェラーリが浮上し、ここでも速かったレッドブルの二台を挟んで、予選でフェラーリが3位と6位だった。上位の6台すべてを「3チーム」が占め、いま速いのはメルセデスとフェラーリとレッドブルだということが改めて知れたグランプリになった。

日曜日には雨も降ることはなく、決勝でルイス・ハミルトンがスタートで出遅れて、フェラーリのセブ(ベッテル)が先行した。しかしルイスは慌てず騒がず、路面温度が低いことを察知して、ウイリアムズのボッタスと二人だけ、タイヤにおける「ワンストップ」戦略を実行した。そしてスタンダードな「ツーストップ」を行なったセブ(ベッテル)をあっさりと退け、ボッタス、セブとともに表彰台に上がった。

ルイス、モナコに続いての連勝! そして彼のレース後のコメントの中に、“あのフレーズ”があった。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」──。

(つづく)
Posted at 2016/06/19 09:34:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2016年06月11日 イイね!

「ミニバン」と「SUV」 《2》

「ミニバン」と「SUV」 《2》もうひとつの「SUV」だが、これも手短かに説明するのはけっこうむずかしい。まず辞書的には、これは「スポーツ・ユーティリティ・ビークル」の略語であり、最初の「S」は「スペース」ではない。

モデルでいうと(2004年時点)、日本メーカーではホンダCR-V、スバルのフォレスター、またわが国でいうクロカン系(パジェロなど)もこれに含まれるはず。さらにややこしいことでは、近年はこのSUVにセダン(乗用車)の要素を加えた「クロスオーバーSUV」というジャンルが、アメリカでは出現している。たとえばトヨタのハリアー(日本名、海外ではレクサスRX300)は、もはや単なるSUVではなく、クロスオーバーであると位置づけられているようだ。

ではアメリカで、なぜ、このような用語が生まれたか。これにはアメリカ的なクルマの「分類」がその根底にある。アメリカ市場の場合、セダンやステーションワゴン、あるいはクーペといった「乗用車」系ではないタイプ。それらのクルマのすべてを、まずは「トラック」系として分類する……らしいのだ。

そして、そうした「トラック」系の中で、変化や進化が生まれる。たとえばチェロキーのような、普段の乗用ユースにも十分使えて、走りも鈍重ではないというタイプ。それらがミニバンと期を同じくして、アメリカのマーケットで注目され、そういった新タイプ車を日常的に使用する人々が増えた。

こうして1990年代の半ば頃から、大きな分類では「トラック」系に属するものの、その中で、乗用車としての十分な快適性や「ユーティリティ」を持つ新ジャンル・ビークルがマーケットの一角を占め始めた。そしてそれらは例外なく、トラックに較べるとはるかに「スポーティ」に走った。そこから、そうした軽快な“乗用トラック”を呼び慣わす名称として、以上の形容句を全部つないだ「スポーツ・ユーティリティ・ビークル」(=SUV)という用語が生まれた……というのが私の解釈である。

「トラック」系のはずなのに、しかし、異様にスポーツ・ライクに走れる! こうした米人ドライバーの驚きから、この“新種”は評価された。ゆえに「スポーツ・ユーティリティ……」ということなのだ。

アメリカ映画を見ていると、農家などで所有しているクルマはピックアップ車一台だといったシーンに出くわすことがある。こういう人々にとっては、乗り物(ビークル)とは「トラック系」を意味しているはず。その種のクルマだけを乗り継いできたユーザーが、チェロキーを動かしてみた。あれ、これは全然違うぜ!……ということ。人々の間にそうした感覚の共有があったから、「スポーツ・ユーティリティ・ビークル」という表現も浸透したのだろう。

対して、私たち日本人の場合は、「クルマ」といえば、まず最初に「乗用車系」を連想するのではないか。そして、そういう環境の中でチェロキーやハリアーを見れば、最近は「乗用車」が新展開して、オフにも行けそうな多用途車がいっぱい出て来たなと感じる。その時に、そんな“新種”をアメリカでは「SUV」と称している……と言われれば、「なるほど、スペース・ユーティリティってことだな?」と直感した。これはムリのない誤用であったな、とも思う。

さて、「歌は世につれ、世は歌につれ」は、音楽があまりにも細分化されてしまったためムカシ話になってしまったが、自動車とそのマーケットは、まだ「世につれて」さまざまな新種が登場する状況だ。「ミニバン」も「SUV」も、人とクルマの関係性と、人がクルマに求めるものが変わったことから生じた新ジャンルといえる。

ただ、歴史をさかのぼれば、これら二つのジャンルは、それぞれ「商用ワゴン」と「クロスカントリー車」をそのルーツとしているはず。そして1980年代あたりから、これらのジャンルのモデルが乗用車として「転用」され始め、1990年代に入ると、とくにアメリカと日本で、その「転用」がいっそう日常化した。マーケットとカスタマーは、メーカーの思惑や歴史とは無関係に、商用ワゴンやクロカン車を乗用車として使った。

そうなればメーカーとも、そんな「転用」を前提にしての、そして「その次」もニラんでのクルマ作りになる。そんなに「非・乗用車」系の乗り物がほしいなら、そしてそれを日常的に使うなら、そのための新車を作ってあげましょうということ。クルマ世界の20世紀が「セダンとクーペ」の時代であったとすれば、その21世紀は「バンとSUV」の時代──。この大雑把な分類と解析は、たぶんハズレではない。

(了)

(2004年5月、web「Poplar Beach」掲載文より加筆修整)
Posted at 2016/06/11 09:40:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年06月09日 イイね!

「ミニバン」と「SUV」 《1》

「ミニバン」と「SUV」 《1》私は「ウインドウズ95」でようやくコンピュータに接した、遅れたパソコン・ユーザーだった。そしてデジタル方面の素養がまったくなかったために、コンピュータを使いはじめてはみたもののワケわからず、やむなく救いを求めて雑誌を買いに行ったら、さらにナゾは深まるばかりだった……という、あまり笑えない記憶がある。

──そう、雑誌や書籍などを読んでも、そこで使われている用語がわからない。したがって、何とか活字を追ってはみるが、「パソコン」というそもそも知らないことについて、それまでに聞いたことがない用語で説明されている。そんな悪夢のような循環に陥ったのだ。

ただ、このとき反省もした。私はモーター・ジャーナリズムという世界の片隅で、主に雑誌作りや文章書きに携わってきたが、このジャーナリズムがやってることって、業界用語や専門用語が飛び交うという点においては、コンピュータ雑誌がやってることとあまり変わらない。われわれは、誰にも通じないような表現と物言いで、したり顔で雑誌などを作りつづけてきたのではないか。そのことに、ナゾだらけのコンピュータ雑誌を「眺める」ことで気づかされた。

もちろん、それぞれのジャンルに特有の専門用語が存在することは、まあ、やむを得ないと思う。問題は、それについてジャーナリズムとしてどうするか。そして、大ざっぱな言い方になるが、「専門性」と「一般性」をどうやってつなぐか。

自動車もコンピュータも、いまや、ある特定の人々だけが使うという製品/商品ではない。しかし、それを作ったり報じたりしている人々は、やっぱり専門家であろう。彼らが、またわれわれジャーナリズムが、その「説明責任」を放棄しているわけではないはずなのだが、ただ、では専門用語抜きに何かを解説することができるかというと、これもなかなかむずかしいことであったりする。

さて、そんなクルマ関連の業界用語で難解なものといえば、それはもう無数にあるだろうが、近年に登場してなかば定着したもののうち、最もわかりにくく、またイメージしにくいものを探すと、それは「ミニバン」と「SUV」ではないだろうか。

そのわかりにくさの理由を先に種明かしすれば、この二つはともに「米語」そのままであること。そして、これらが生まれる背景にはアメリカ独自の事情があり、その事情とこれらの用語がべったり“貼りついて”いることだ。

そして、そんな「純・米語」が日本に入ってきて、なぜ、それなりに流通してしまったかというと、われわれ日本人もけっこう「困っていた」からだった。むしろ、渡りに舟という感じで、メディアも含むニッポンのクルマ業界は、これらの新しい用語に飛びついたのである。

まず「ミニバン」だが、これはご承知の通りに、ハコ型というかワゴン・タイプの、室内の容量がたっぷりある「多用途車」(マルチ・パーパス車)のことをいう。とはいえ、ここで日本人にわかりにくいのは、たとえばアルファードやエルグランドなど、私たちにとって“小山のように大きい”クルマであっても、なお、それらが「ミニ」と呼ばれている現実。そして一方では、「ミニバン・タイプの軽自動車」というような言い方もあるらしい?……ことである。

ここでの「ミニ」には、サイズの概念がないのか? 日本マーケットにおいては、その通りである。日本での「ミニバン」はボディの形状を示す用語でしかなく、そのボディの「大きさ」には各種がある。これが現状であると思う。

ただし、この用語を輸出してきた本家のアメリカでは、「ミニ」とはもちろん、そのサイズを示すものだった。というのは、アメリカで「バン」といった場合は、われわれが“小山”と感ずるより、さらにもうワンランク大きい、巨大なハコ型車のことをいうからだ。

したがって、1990年代の半ばに米国マーケットに出現した、たとえばクライスラーのボイジャー(この初代は1983年に登場)やトヨタのエスティマ(初代)など。これらは、カタチとしては同じように「バン」であっても、そのサイズやキャパは「バン」よりもずっと小さい“おチビさん”だった。ゆえに彼らは、おそらく自然発生的に、そうしたコンパクトなニュータイプのハコ型車を「ミニバン」と呼んだ。

そして、その新語としての「ミニバン」が情報として、また現地のニュース用語として、日本に伝わりはじめる。それまで、日本では(いまでもだが)ワゴンとバンとの区別がなく、そして、ハコ型の自動車を「RV」として総称しようとしても、これにクロスカントリー風のモデルが含まれるのかどうかという論議があったりで、エスティマのようなモデルをうまく位置づけることができなかった。そこへ、比較的覚えやすい用語としての「ミニバン」が、アメリカからやってきたのだ。

こうして、まずはラージ・クラスのハコ型について、アメリカ並みに「ミニバン」という分類用語が与えられ、それと同時に、サイズの概念(ミニの意味)が消えた。そして新たに、日本的なサイズとジャンルの区別が生まれてくる。

折しも、この手のモデルが日本での人気車種として拡販を果たし、その種類も増えてきていた。そこでエスティマ・クラスを日本での「ラージ」として、以下、ミディアム、スモール……というように、この用語の解釈を広げていったというのが、日本マーケットでの流れではなかったか。

(3列目のシートを持つ多人数乗車可能なモデルに限定して「ミニバン」と呼ぶ。こういう作り手としての、また、そういうメーカーにジャーナリズムとして倣った。こうした分類とスタンスもある)

(つづく)

(2004年5月、web「Poplar Beach」掲載文より加筆修整)
Posted at 2016/06/09 15:12:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年06月06日 イイね!

“その後”について ~ 1987年以降の日本のクルマ 《3》

“その後”について ~ 1987年以降の日本のクルマ 《3》「これから先の何年か、出て来るニューモデルは、すべて、この三つのクルマが作った流れのうちのどれかに属すると予測する」という1987年のコラム。そこでピックアップされた三台目のモデルは、セドリック/グロリア(7代目Y31型)でした。

なぜ、ここで“高級車”が突然に登場したのか。まあ二台だけだと収まりがよくないので、もう一台はイキオイで書いてしまった(笑)。そんな感はなきにしもあらずですが、でも、このモデルに触れた時には大いに驚き、そしていくつかの発見もしていました。

このセドリックは、VIPカーという言葉をここでは使いますが、そういうポジションながらも、果敢に《走り》を主張しました。ブルーバードとこのクルマが同じメーカー製であったことはおそらく偶然ではなく、このビッグ・セダンもまた、ブルーバードが呈示した「シャシーの時代」という流れに乗っていたと思います。

今日の感覚ではちょっと意外かもしれませんが、1987年以前のニッポンの高級車は、「フットワーク」よりも、豪華さと快適性を重視して作られていました。街なかと真っ直ぐな道で、イメージ的に、また実際のパフォーマンスとしても、そこで他車を圧倒できればそれでいい。そういうコンセプトです。

まあ、ワインディング路でコーナリングをキメて「横G」出まくり……(笑)。そんな走り方をしたら、後席に鎮座するVIPが怒り出すでしょう。つまり「 '87 セドリック」以前の日本の高級車は、後席こそが主役であり、そこに乗るVIPをゆったりと運ぶ、そういう用途のためのクルマであったのです。“カネモチ、ケンカせず”ってこういう時に使うのかなとか、私などは余計なことを考えていましたが(笑)。

そして、そうしたVIPカーは「1987年」の時点でも、当然、必要とされていました。しかし、このセドリックは、そんな和風のビッグカー・コンセプトを捨て、“よく曲がるセダン”という高級車の新たな姿を示したのです。

どうして、ニッサンとセドリックは、そんなクルマを作ったか、また、作れたのか? この時彼らは、プレスティージ・クラスのクルマでも例外なく俊足である「欧州」を見ていた? あるいは、1980年代後半、日本・高級車マーケットの変化を感じ取っていた? はてまた、どうせ「数」(販売台数)でクラウンに勝てないのであれば、違うキャラの、作っていても“おもしろい”クルマにしてしまえ!……だったのか。このあたりの「なぜ」について私は確答することはできませんが、ともかく1987年の新・セドリックは新鮮であり、そして、とても勇敢に見えました。

プレスティージ・クラスでも、いや、そういうポジショニングだからこそ「足」が良くなくてはならない。「1987セドリック」が拓いたそんな潮流は、その数年後、ワールド・プレスティージ市場をめざして世界デビューするインフィニティとセルシオにつながっていきます。1987年にセドリックに触れた時点では、日本メーカーがそんな準備をしていることなど、まったく知りませんでしたが。

これは単なる偶然でしかありませんが、「これから先の何年か、出て来るニューモデル」は、これら3モデルが作った流れの中にある……という三台目。日本のラージ・クラスが変貌するということでは、あのコラムの予言は、そんなに外れてはいなかったかもしれません。

一方で、多数の「クラウンのお客様」を抱え、日本市場を大切にしてきたトヨタのクラウンは、1990年代に入って、国際性と“国内性”との折り合いをどう付けるのかで悩み始めます。(1995年の10代目クラウンについては、その開発について、スタッフに詳しい話を聞いたことがありますので、機会がありましたら、このブログでもご紹介します)

……ただ、こうして「1987年での予言」を思い出してみると、その後の1990年代、そしてそれ以降の(日本の)クルマ状況については、何の展望もできていなかったことがよくわかります。1990年代に入ってからのクロカン志向──いまの言葉で言えばSUVですね。そして、ミニバン志向。さらには、これらの影響を受けて、セダン系まで変化していく。そんな劇的なドラマが展開されるとは、1987年の時点では(少なくとも私は)予想すらしていませんでした。

その後の展開で意外だったことで、とくに強烈に記憶に残るのは、やっぱり「ワゴンR」です。1993年にこのクルマに初めて乗った時、これが「乗用車」として使われるようになるとは、まったく思いませんでした。スタイリングでの「縦長」で「短い」というところには新しさを見ましたが、でも、ワインディング路に持ち出せばフラフラしていて、コーナリングは愉しめなかったし……。(この点は代を重ねるごとに改良されていきますが)

ただ、クルマって、コーナリング性能の良し悪しだけじゃないんですよね。1993年の時点では、私はそのことに気づいていませんでした。日本のような混雑した状況で、そして、そうした“低速モータリゼーション”の中では、どんな格好で、どういうキャラクターのクルマが好適なのか。この点については、一般の(という言葉を使いますが)カスタマーの方々の方がずっと敏感で、ジャーナリズムよりも先を見越していたと考えます。

ワゴンRは、そんなジャーナリズムの予想を超えたヒットとなり、デビュー後20年以上が経っても、その人気は変わることがありません。何よりすごいのは、軽自動車を生産するすべてのメーカーが、ワゴンRのレイアウトとパッケージングを後追いして「同型車」を作ったことです。二輪のスーパーカブは「世界の街の景色を変えた」と評されることがありますが、日本の街の景色を変える契機となったのは、1993年登場のワゴンRなのでした。

(了)
Posted at 2016/06/06 10:34:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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