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家村浩明のブログ一覧

2016年12月08日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《8》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《8》横浜・港南学園のオーナーである徳丸財団の徳丸理事長は、新橋の本社に三人の在校生がやって来たと受付からの報告が上がっても、彼らを追い返す気はまったくなかったようだ。指示通りに四階まで上がってきた三人に、秘書は「社長にはお伝えしてあります。無駄足になるかもしれませんが、それでもよければ、ここでお待ちください」とクールに告げるが、しかし彼女はその後に、待っている三人にお茶を振る舞っている。

会社の中、廊下にある椅子に並んで座っている三人の高校生。その前を、社員たちが忙しく通り過ぎる。その際に彼らが話していることが、観客に「1963年」とその世相を、それとなく示す。たとえば、上司と社員が「パンといえば木村屋だろう」「中村屋もイケますよ」と言いながら歩み去った。これは、当時の旨いアンパンを巡っての談義だったのではないか。

そして「それは、あたり前田のクラッカーよ!」とは、テレビ番組の真似というか引用である。スポンサーの製菓会社名(前田製菓)と台詞の「あたりまえ」を繋げたもので、フルバージョンは「俺がこんなに強いのも」の後に、「あたり前田の──」と続くもの。これは、その頃の大ヒット番組、「てなもんや三度笠」の名物シーンのひとつだった。

そんな待ち時間の後で、ついに社長室のドアが開いた。「キミたち、入りたまえ」。自ら招き入れた徳丸財団の理事長は、電話をしながら、三人には「そこに座って」と言い、「すまないが、ちょっと待ってくれ」と、社員の方を待たせる。

高校生と向き合った理事長は、まず、「キミたち、学校はどうしたのかね?」と訊いた。すかさず、風間俊が「エスケープしました!」と応える。それを聞いて、豪快に笑う理事長。「エスケープか、俺もよくやったなあ(笑)」

そして理事長は、すぐに本題に入った。「今日は、清涼荘の建て直しの件だね」。「理事長にカルチェラタンをひと目見ていただきたく、直訴に参りました。一度、いらしてください」と訴える風間と水沼。理事長は、もうひとりの女子生徒にも声をかける。

「キミは、何年生?」
「二年です。松崎海と申します。“週刊カルチェ”のガリ切りをやっています」
「キミはどうして、清涼荘を残したいの?」
「大好きだからです。みんなで一生懸命、お掃除もしました。ぜひ、見にいらしてください」
「お掃除か。お父さんのお仕事は?」
「船乗りでした。船長をしていて、朝鮮戦争の時に死にました」

ここで映画は、機雷に触れた(らしい)輸送船が爆発して炎上するシーンを映し出す。それに続いて、沢村雄一郎が親友三人と一緒に撮った記念写真。そして、松崎海の家族写真が映るが、その写真には父が欠けていた。

徳丸財団の理事長は、一瞬の間を置き、少しかすれた声で、短く訊いた。
「LST?」
「はい」
「そうか。お母さんはさぞご苦労をして、あなたを育てたんでしょう。いいお嬢さんになりましたね」

高校生と理事長の“質疑応答”は、そういえば、これだけだった。結論を出した理事長は、立ち上がりながら言う。「わーった、行こう!」。呆気にとられつつも、何とかお礼の言葉を述べる水沼と風間。「ありがとうございます」

理事長は電話で、明日の予定を確認し、いくつかの予定を変更する指示を出して、午後の時間を空けた。「よし、明日の午後に行きます」「校長さんとも話をつけて、正式に見学に行きます」

映画は、この後すぐに新橋駅前のシーンになる。飲み屋が並んでいるあたりを歩く三人の高校生。
水沼「いい大人って、いるんだな」
風間俊「まだ、わからないよ」
松崎海「でも、よかった!」

新橋の街には、坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が流れていた。地下鉄の入り口が見えてくると、水沼は気を効かせたつもりか、「俺、神田の叔父のところに寄って行くわ。じゃ、明日」と言って、ひとり地下鉄へと向かう。

さて、ここでまたひとつ、この映画の“ナゾ”が浮上した……かもしれない。何故、徳丸理事長は、三人と大した話をしていないのに、横浜まで“カルチェラタン”を見に行く約束をしたのか? 

理由のひとつは、松崎海が言った「お掃除」だったように思う。あの「清涼荘」を本気で清掃したら、いったいどんな状態になるものか。当事者の女子生徒が「大好きだからです」と言っていた“カルチェラタン”の現在の状況、それをちょっと見てみたい。理事長に、そんな好奇心が湧き起こった。

そしてもうひとつは、松崎海の父のことだっただろう。何気なく、その職業を尋ねた時に、少女は、こんな答を返した。(父は)「船乗りでした。船長をしていて、朝鮮戦争の時に死にました」。この後、理事長は短い言葉で松崎海に訊き、それに海が一語で答えた。「LST?」「はい」

(朝鮮戦争で亡くなった? この女生徒の父は米国人なのか? いや、外貌からはそうは見えない。すると、日本人なのに“あの戦争”で? しかし、戦後の日本には原則として“軍人”はいないはず。そして少女も「船乗り」という言葉を使っていた。すると、民間人としての日本人が“あの戦争”で亡くなった? ……あ! )

キーワードは、朝鮮戦争、日本人の死、そして「LST」だった。

(つづく)  (タイトルフォトは「松崎海」、スタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/12/08 18:07:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年12月07日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.06 フロンテ・クーペ

【 20世紀 J-Car select 】vol.06 フロンテ・クーペクルマの後部にあるフタやドアを開くと、そこはトランクだったり荷室だったりする――。これが今日の常識であるかもしれないが、しかし、1970年代以前はそうではなかった。というのは、リヤの“ボンネット”の下にエンジンが収まっているクルマは、決してレアではなかったからである。

さらに当時、その種のクルマは、数としてもマイナーではなかった。たとえば延々と生産された世界のベストセラー、カブト虫のVWはこのレイアウトだったし(このオリジナルVWのレイアウトを引き継いで今日に至っているのが、ポルシェの356~911系)、わが国でも日野自動車でノックダウン生産されたルノー4CV、そしてテントウ虫として親しまれたスバル360なども、みなリヤにエンジンを置いていた。「FR」というのは、フロントにエンジンを置いてリヤ(後輪)を駆動する方式だが、このレイアウトへの“対抗馬”は、かつては「RR」、つまり「リヤエンジン/リヤ(後輪)駆動」だったのだ。

この「RR」方式は、1959年に英国BMCから、FFの「ミニ」が出現して以後も、コンパクトカーのあるべきレイアウトのひとつとして生きつづけた。たとえばスバル=富士重工のジョブを見ても、テントウ虫はRRだったがスバル1000はFFだったというように、RRとFFの双方に、それぞれ存在理由があったことがわかる。

この点においては、スズキも同様であり、同社の最初の軽自動車であるスズライトは(本邦初の)FFレイアウトを採用していたが、それに続く軽自動車のフロンテではRRを選択した。軽自動車のような小さなクルマでは、FFがいいのか、それともRRなのか? そんなメカ・バトルの時代もあったのである。

さて、このフロンテ・クーペが登場したのは、1971年・秋のこと。RR方式となったフロンテが、1970年に2代目としてデビューしてから、約一年後という時だった。この“衝撃のクーペ”の全高は、わずかに1200ミリ。ただ、こんな数値で、そして、いまよりも「軽規格」そのものがずっと小さかったが、2シーターに割り切ったこのクルマの室内は、ドライバーにとっては余裕十分だった。

そして、そのドライバーの背中後方に、2ストロークの3気筒エンジンがあった。3気筒の好バランスと、4ストロークとは比べものにならない2ストローク・エンジンの太いトルクで(昨今のバイク用、高回転型でレーシーな2ストをイメージしないでほしい)、このクーペは扱いやすくて、同時に、速いモデルだった。カタログに記されている最高速の120km/hは、テスト路さえあれば、誰もが容易にマークすることができたはずだ。

また、そうした性能もさることながら、このクルマでは造形も話題になった。流麗かつ鮮烈な2シーターのクーペ・デザインはインパクトがいっぱいで、あのジゥジアーロによるデザインをもとに、生産車としてスズキがまとめたものだというのが定説になっているが、それは真実であろうと思う。(注1)

1990年代、ビートやカプチーノといった軽自動車規格のスポーツ車がいくつか登場したが、しかし1970年代という時点で、こんなにもスタイリッシュで、そして内容的にも強烈な軽自動車があったというのは、記憶しておいていいことだ。とくにインテリアの充実とそのデザインには、今日でも十分に通用する機能美と華麗さがあった。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)

○注1:「SUZUKI STORY」(小関和夫著 三樹書房・刊 1992年)によれば、スズキの依頼を受けて、1960年代のスズキ・キャリイ40系のデザインを行なったのがジゥジアーロ。そして後に、彼が、原寸大の木製モックアップをスズキに送ってきた。それが2ドア+リヤハッチの、一種“バン&ワゴン”的な、フィアット・ウーノやパンダとも通じるような造形だった。そのモックアップのラジエター・グリル、フロント・ウインドーの傾斜角29度、そしてサイドのプレス・ラインなどを活かしつつ、スズキ社内でクーペ型に向けてデザインを進め、最終的に「フロンテ・クーペ」としてまとめたのがこれであったと記されている。
Posted at 2016/12/07 11:28:57 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月06日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.05 シビック 1972年

【 20世紀 J-Car select 】vol.05 シビック 1972年このクルマは、他の初期ホンダ車のように“過剰なほどのオリジナリティ”を抱えたものではなかった……かもしれないし、また、世界初やわが国初といったものが満載というホンダ車でもないだろう。しかし、国内で二番目というポジションに成長した「今日のホンダ」の原点を探るなら、モデルとしては、1972年登場のこのクルマに行き着くのではないか。このシビックの成功が、汎用エンジンも含む、総合自動車メーカーとしてのホンダの基盤となったのだ。

歴史に「if」はあまり意味はないが、しかし、もし1970年代の本田技研に、この「シビック」がなかったら? ……ホンダはレーシング会社として「フェラーリ」的な製造者になったかもしれないが、ただフェラーリは、フィアットというスポンサーなしには成立し得なかった“メーカー”とも言える。やはり、この1972年のシビック。そして、その2年後のアコードの成功が、独立独歩を好み、「レースもやるが、市販車も作る」というホンダ独自のスタンスと歴史を支えたのである。

この初代シビック、その基本アイデアのベースとなっているのは、1959年の「ミニ」に始まる欧州のコンパクトFF車であろう。そしてホンダとしては、既に1960年代に、軽自動車規格でN360を製作し、その後も、ほとんど「社是」としてFF車を作っていた。その意味では、シビックがホンダで生まれたのは、一種の必然であったのかもしれない。

ただ、シビックではひとつ、それまでのホンダとは違う画期的なクルマ作りが行なわれた。それはたとえば、搭載エンジンの選択にも現われ、シビックの場合、案件に上って、実際にも(短いコースではあったが)テスト走行するという中から、最も排気量が大きいエンジン(1200cc)が選択された。「回転」で走るのではない、クルマは「トルク」で“動く”のだという主張と姿勢である。

これによってドライバーは、「回して乗る!」という(それまでの)ホンダ車的な使い方をしなくてもよくなった。また、2ペダルのオートマチック車で走らせても、十分に俊敏なクルマになる。そんなニュー・エイジのホンダ車としてまとめられたのが、シビックであり、このコンパクト車が“トルクで走る”ホンダ車の元祖ともなった。

そして、もうひとつのニュースが「3ドア」の採用である。欧州ではアタリマエだったユーティリティかもしれないが、当時の日本では、クルマはまだまだ後生大事に乗るものであり、華やかさや日常使用での至便性以外の要素が求められていた。そんな1970年代前半、ここまでカジュアル(日常性)に、そしてユーティリティ(実用性)に振ったクルマ作りは、どのメーカーも行なっていなかった。

しかし、ホンダだけが「ライトバン」と言われることを怖れず(?)このシビックで、テールゲートが大きく開くコンパクト車を作った。後に日本マーケットで花開く“ハッチバック文化”は、このシビックが祖先と見るべきであろう。

ただ、「実用性」が強調され、また、スペック的には見るべきものがないという印象があるかもしれないシビックだが、しかし、軽量車体とトルクのあるエンジンの組み合わせ、そして、ラジアルタイヤとディスクブレーキの標準装着。さらに、ややハードに過ぎて、快適性では問題があったものの、そのサスペンションは「走り」を重視した設定になっており、見た目こそジミだったが、実際は俊敏で、速さも楽しめる「fun」なクルマとして仕上がっていた。

そんなシビックの「走り」の性能は、後年の「RS」というバージョンによって、さらに磨かれることになる。これはもちろん「レーシング・スポーツ」のことなのだが、1970年代、折りからのオイルショックや社会状況によってそれを名乗れず、これは「ロード・セイリング」でして……と言い訳したのは、いまや歴史の笑い話のひとつになっている。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/06 08:50:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月04日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《7》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《7》この映画は、二つの物語が併行して進行する構成である。そのひとつは、古い建物の“カルチェラタン”が取り壊しの危機にさらされているのだが、それがどうなるかということ。もうひとつは、松崎海と風間俊が「父の写真」として持っているものが同じである。つまり、二人はともに「沢村雄一郎」の子であるかもしれないという問題だ。

その“カルチェラタン”だが、松崎海の提案で始まった大掃除は、ビジュアル的に愉しめるシーンがいっぱいだ。まずは、隊列を組んでターゲットに突入する女子生徒の軍団が微笑ましい。そして、そこで先頭に立つ「海」は、下宿屋の女将としての勝負服なのか、他の生徒のようにエプロン姿ではなく、ただひとり割烹着を着ている。その女生徒たちに感謝の言葉として、水沼生徒会長が「ヴォランティーア」と大仰に発音するのも笑いどころか。

ただ、着々と「お掃除」が進み、“カルチェラタン”という場で毎日顔を合わせている松崎海と風間俊なのだが、どうも俊の行動がおかしい。メルと一緒の場にいることをさり気なく避けているようであり、また、メルには下校時の挨拶をしなかったりもする。「何かあったのか?」、繊細な水沼が気づいて親友を問いただすが、俊は何も言わない。

風間俊の様子がおかしいことに気づいた松崎海は、ついに行動した。意を決して雨の中、校門のところで待っている松崎海。自転車で通りかかった風間俊は、もうこの問題から避けられないと思ったか、メルと一緒に歩き始めた。二人の脇をクルマが通り過ぎて行く。このサイドビューはコンテッサであろう。

“意志的”な少女・松崎海は、正面突破で風間俊に問う。「嫌いになったのなら、ハッキリそう言って」。言われた俊は、胸ポケットから、写真を取り出した。「沢村雄一郎、俺の本当の親父」。言われて立ち止まる松崎海。

「まるで安っぽいメロドラマだ」「どういうこと?」「市役所に、戸籍も調べに行った。確認した」「じゃあ……」「俺たちは、兄妹(きょうだい)ってことだ」「……どうすればいいの?」「どうしようもないさ。知らん顔をするしかない」

そして、「いままで通り、ただの友だちだ」と言い残して、風間俊は自転車で去って行った。雨の中、立ちすくむしかない松崎海──。その晩、松崎海は寝込んでしまった。「空ちゃん、学校で何かあったの?」、心配するコクリコ荘の人々。布団の中で「海」は、アメリカに行っている母、いまは亡き父に、夢の中で会っていた。

パジャマ姿で階下へ降りた「海」、台所からは炊事の音が聞こえ、ご飯と味噌汁ができている。振り向いた母が、優しく言った。「よく眠れた?」。そして父は「海!」と呼び、航海の無事を祈るあの二枚の旗を持って両手を広げる。そんな父の胸に飛び込む「海」の耳に、父の声が聞こえた。「大きくなったなあ!」

……というのは、すべて夢だった。涙を拭いて「海」は起き上がり、着替えて、階下の台所へ。お釜には、既に米が入っている。マッチでガスに火を点け、花の水を取り替えた。そして旗を持って掲揚柱へ行き、いつもの旗を揚げる。

傘をさして、学校へ向かって歩く「海」を、スクーターが追い越して行く。これはシルバーピジョンだ。そして、風間俊と松崎海の間はモヤモヤしていても、“カルチェラタン”の清掃は着々と進んでいる。時計台も復活し、鐘の音が鳴り響いて、生徒たちが拍手した。

しかし、そこにニュースが! 生徒会長の水沼が報告する。「緊急集会だ。理事会が夏休み中に(カルチェラタンを)取り壊すと決定した」。

急遽、対応策を協議する生徒たち。風間俊は、港南学園の校長なんかは飛び越えて、「理事長に、直談判したらどうかな」と提案する。「徳丸財団の理事長だぞ。会うのはむずかしい」と言う水沼。しかし、生徒たちの後押しを受けて、風間俊が言った、「行こう、水沼。東京へ」。それに応えた水沼は、松崎海を指名した。「行くか! “海”も来てくれ、三人で行こう」──

こうして翌日、三人の高校生がJRの……ではない「国電」の京浜東北線、その桜木町駅に集合するが、ここは「クルマ」も含んで、いろいろと愉しめるシーンになっている。

まず、駅前の広い通りを、市電やバスと並んでクルマが行き交う様子が描かれる。トヨタのパブリカが行き、続く小型のセダンはヒルマンの旧型(“ダルマ”と呼ばれたマークⅣ、PH10型)だろうか。そして、マツダの大型オート三輪が行き、それに続く赤い小さなクルマはR360クーペのようだ。

駅には、風間と水沼が先に来ていて、そこに松崎海が合流した。駅構内には広告の看板が並び、パイロット万年筆、赤玉ポートワイン、そして山猫軒のシュウマイといった文字が見える。横浜のシュウマイと言えば有名な老舗があるが、パイロットや赤玉が実在のものであるのに対して、ここで「山猫軒」とフィクションになっているのは、何か理由があったのか?

また、集合した三人の背景として、切符売り場と「30円区間」の自動販売機が映る。「1963年」当時の最短区間の切符は30円で、そしてこの切符だけは、無人による自動販売が行なわれていたようだ。チラッと映った路線図から、彼らが横浜駅ではなく、桜木町駅に集合したことも、それとなくわかる。

そして、彼らを乗せた栗色の京浜東北線が東京へ向かうと、やがて画面は、東京の市街の「絵」になる。桜木町駅前以上に多くのクルマが走っており、その中で目立つ青いコンパクト車はフォードのアングリアだろうか。そして初代のクラウン、そのマイナーチェンジ版のサイドビューが、目の前を過ぎていく。

新橋に着いた彼ら三人は、アポなしで、徳丸ビルに突入した。受付で四階に行くように指示されると、そこに秘書がやって来る。「社長は忙しいんです、予約なしで来ても、会えないかもしれませんよ」。言われて、水沼が応えた。「申し訳ありません、あらかじめお願いしてはお会いしていただけないと思い、押しかけました」

(つづく)  (タイトルフォトはパブリカ初代、トヨタ博物館にて)
Posted at 2016/12/04 18:16:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年12月02日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《6》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《6》「白い花の咲く頃」をみんなで歌った討論集会が終わった後で、松崎海と風間俊は夕暮れの坂道を一緒に歩いた。そこで「海」が提案する。
「あのね、お掃除したらどうかしら?」
「古いけれど、とってもいい建物だもの。キレイにして女子を招待したら、みんな素敵な建物だって思うわ」
この後の別れ際、俊が「ありがとう、メル」と、初めてアダ名で呼びかけ、二人の距離がまたひとつ縮まった。

夜のコクリコ荘では、討論集会の様子を聞いた北斗女史が「相変わらずねえ」と笑い、そこにウイスキーが登場。ツマミにチーズが切られ、ゴキゲンになったのか北斗女史が、自分のために開かれる送別パーティに、港南学園の「男の子たちも呼ぼうよ!」と言い出した。後日、風間と水沼の二人がコクリコ荘にやって来るのは、こういう経緯からだ。

この夜にコクリコ荘で持ち出されたウイスキーは、ジョニーウォーカーの黒、通称「ジョニ黒」だった。また、コクリコ荘での送別パーティで合唱される曲が「赤い河の谷間」。そして、もう少し後のシーンになるが、アメリカから帰国した「海」の母が配ったお土産がビーフ・ジャーキー。

この頃、つまり「1963年」頃は、ウイスキーといえばスコッチで、「舶来」ならジョニー・ウォーカーだった。そして赤よりも黒ラベルで、“ジョニ黒”の方がプレミアム。カントリー・ミュージックの「レッド・リバー・バレー」は、これをビートに乗せたインスト曲「レッド・リバー・ロック」の方が、多くの人に記憶されているかもしれない。そしてビーフ・ジャーキーは、この頃では珍しかった外来の食べ物のひとつだった。

その北斗女史の送別パーティの日。初めてコクリコ荘に来た風間俊に、古い建物の中を案内しながら、松崎海は自身について語っていく。

父は「船に乗ってたわ」「こんな家でしょ、お父さんとの結婚に、お爺ちゃんたちは猛反対」「だからお母さんは家を出て、駆け落ちしちゃったの」
(信号旗は)「私が子どもの頃ね。旗を出しておけば、お父さんが迷子にならずに帰ってくると教わって」「物干し台に旗を出して、お父さんの帰りを待っていたわ。毎日、毎日……」

「でも、朝鮮戦争の時、父の船が沈んで、それっきり」
「それでも毎日、旗を出してた」「あの旗竿は、この家に来た時、旗を揚げられないって私が泣くもんだから、お爺ちゃんが建ててくれたの」

そして、いまはアメリカに行っている母の書斎へ行く。壁に貼られた古い写真を見る二人。「それはお爺ちゃん。父はこっち。ハンサムでしょ」。話題が父のことになったので、「海」は、「私、この写真が好きなの」と三人が並んで撮った写真を取り出して、俊に見せた。

しかし、その写真と、そこに記された署名を見た俊の様子がおかしくなる。「沢村雄一郎……」

パーティが終わり、運河沿いの家に、帰宅した風間俊。父は晩酌をしながら、茶の間で野球中継を見ていた。テレビからは、「長嶋、三振!」というアナウンスが聞こえている。

当時、テレビの野球中継といえば、日本テレビの巨人戦だった。そして、その巨人軍の四番打者が長嶋茂雄。記録よりも「記憶」に残る選手として、いまもなお、日本の野球史で語り継がれているスーパースターだ。帽子が飛んでしまう豪快な空振りとともに三振するのも、彼の愛されるパフォーマンスのひとつであった。

そんな父を横目に、二階に上がった俊は、戸棚からアルバムを出して、自室でそれを開いた。そこにあるのは、沢村雄一郎ら三人で撮った写真。何と、松崎海と風間俊は、それぞれ「父の写真」として秘蔵していたフォトがまったく同じものだった。

その翌朝。風間父子を乗せたタグボートが行く。息子の俊が、船を操縦している父に言った。「父さん、聞きたいことがあるんだ」

「沢村雄一郎って人が、俺の本当の父親なんだよね」
「そのことは、前に話したろう。……お前は、俺の息子だ」

そして、“養父”は“息子”に語っていく。「あの日は、風の強い日だった。沢村が、赤ん坊のお前と戸籍謄本を持って、俺の家に来た」「俺たちは、子どもを亡くしたばかり」「母さんが、お前を奪い取るように抱いて、乳を含ませた」

「沢村は、いい船乗りだった。朝鮮戦争で、機雷にやられちまってな」
「ミルク代を、ずっと送ってくれていた」
「近頃、あいつによく似てきたな」「お前は、俺たちの息子だ」

風間父子のタグボートが、コクリコ荘の前を通り過ぎようとしている。しかし今日の俊は、答礼の旗を出す気配がない。一方、“丘の上”では旗が揚がり、その様子が海から見えた。

コクリコ荘で、いつものように旗を掲揚した「海」は、下宿の二階、広小路の部屋に駆け上がった。メルが訊く、「広さん、来ました?」
窓から、港を見る広小路。「今日は、通らないみたいね」

実はコクリコ荘では、メルが旗を掲揚するところからは、海=港の海面が見えなかった。しかし、二階の広小路の部屋からは港が見えるので、画学生の彼女は「答礼するタグボート」をテーマに、港の絵を描いていた。それを知ったメルが、一度、そのボートが掲げる旗を見たいと、広小路に頼んでいたのだったが……。

この日、メルと広小路の前を、答礼旗を掲げたタグボートが通ることはなかった。

(つづく)  (タイトルフォトはスタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/12/02 13:43:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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