2016年08月14日
11年前亡くなった父の手記。
昭和19年秋、私は第55師団歩兵百四十三聯隊(壮八四一六部隊)に配属された。
その聯隊は徳島編成で開戦初頭タイ国に上陸、ビルマに進攻して、4年にわたり悲壮な戦いを続け、その責務を全うした栄光の戦歴を有していた。
この聯隊の軍旗の下で力戦敢斗し傷つき散っていった将兵は残念ながら数多い。 戦没者四千百余名の悲しい記録については、感慨深く断腸の思いは今尚切々たるものがある。
我々がビルマの辺境で苦戦を続けたあの日から歳月が流れ、強烈な陣中体験も、生死をかけた戦斗場面も弾雨の中で敢斗した戦友の姿さえ忘却の闇に消え去りがちである。
昭和20年、戦運いよいよ苛烈になり、武訓輝く軍旗の下で将兵は勇戦奮斗したが戦いは落葉の裡に敗戦となり、八月二十六日シャン高原山中に於いて残存将兵400名足らずの見守る中で軍旗は奉焼されるのである。
今はかすかな印象しか残っていないが、青春の日、灼熱瘴癘のビルマの広野で戦ってきた往時を偲び、脳裏に残る記憶を辿りながら最後の作戦の一駒を振り返ってみたい。
終戦も近かった七月、ビルマは雨季で猛烈な雨が連日降り続いていた。重い装具と渡河用の太い二本の竹を背負った我々は、ペグー山系から脱出すべく西から東へと移動を始めていた。
時々手榴弾の炸裂音が聞こえる、精根尽きたのか或いは戦友に迷惑をかけまいとの心遣いなのか、人煙絶えたこの山中で苦悶しながら消えて行く兵士の自決の音である。
ついて行けない者は自らを始末していった悲しい音が、樹々に谺して先を急ぐ我々の心をかきむしる。
戦場がある限りいつかは自分の身にも宿命だとも思ったりもした。樹林の切れ間から遠望する
シッタン平野は一面湖沼地帯と化して遠々と続く。その中に点々と部落が浮かんで見える。
その先のかすんだ辺りに白く光って蛇行する一條の線がある。我々が生死を賭けるシッタン河である。
ペグー山系からの周囲はすでに英印軍四ヶ師団が、空と陸から二重三重に包囲し部落には反乱ビルマ軍やゲリラを配置して我々の脱出を待ち構えていた。斯様な最悪の状況下、この二ヶ月余り疲れた体に鞭打ちながら食糧の確保や遊撃戦に或いは捜索活動にと着々と突破の準備を進めていたのである。
七月二十日遂に運命の日がやって来た。ペグー山系内に見捨てられた第二十八軍(策集団)三萬二千余の将兵が英印軍の包囲を破り、マンダレー街道を突破して濁流渦巻くシッタン河を渡り、シャン高原に向かって戦場を離脱すべく行動を開始した。 『邁作戦』である。
欲も未練も打ち捨て、死中に活を求めたのである。
我々は振武兵団の右突破縦隊として七月二十六日夜半、マンダレー街道が指呼の間に見える地点に達した。音を抑え一団となって進む。 戦闘部隊が敵に発見された。照明弾が発射され猛烈な銃撃戦が展開、無数の砲弾が周囲に炸裂した。死傷者が続出し、このままでは全滅と判断した部隊は、いったん後退し南下して翌日強行突破を敢行した。聯隊副官はじめ多数の死傷者を出しながらついに成功したのである。
その後も苦難の戦斗を繰り返しながら七月三十日シッタン河に到達した。雨期のシッタン河は巾三百米位にも増水し濁流が水しぶきをあげていた。
これを渡るか否かが生死の分かれ目である。 ペグー山系から各自背負ってきた竹で筏を作り数名単位で渡河を強行したが、対岸に到達できた者は残念ながら多くはなかった。
その後も悲惨な行軍を続けながらシャン高原の山脚道にたどり着いたのである。時すでに終戦から一週間余を過ぎていたのであった。
ここにも亦目を覆うような悲劇が展開されていた。 死屍累々、現世の出来事とは思えない地獄絵そのものであり、生死の感覚が麻痺していた我々にも悲愴であり無残であった。真に痛恨の極みである。
思えば遥かなるビルマの戦野に心ならずも若くして散っていった同期の牛島中尉、大堂中尉をはじめ多くの戦友のご冥福を心から御祈り申し上げる。
Posted at 2016/08/15 00:06:00 | |
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