
トランプナショナルゴルフクラブの続き。
Site of the First Japanese-American Farm on the Palos Verdes Peninsula
Marker on the Grounds of the Trump National Golf Club(トランプ ナショナル ゴルフクラブの敷地内にある)
日本では全く無名の日系アメリカ人一家の苦難の物語です。
日本人としてこれを見た以上、刻まれた一家の功績と苦難の歴史について日本語話者に伝えなければ、と思いました。日本語で検索しても出てこないので、人名の漢字は想像です。
要約すると1895年にアメリカのサンフランシスコに移住し、1906年に(恐らく)サンフランシスコ大震災で被災。ロサンゼルスを目指し、当時不毛の地、パロスベルデス一帯を開拓するも、第二次世界大戦では開拓地を奪われ、そして自身も、家族も日系人と言うだけで強制収容。さらに息子たちは日独伊の枢軸国と戦う為、地獄の442部隊に入隊。
こうした苦難に苦難を重ねた末、西海岸屈指のリゾート&高級住宅街を開拓した日系人一家の物語・・。ですかね。

この史跡は、1992年5月1日にサクラメント(カリフォルニア州の州都)で開かれた議会で、州の歴史的名所として指定された。
この地に初の農家を建てた日系アメリカ人、石橋粂吉さん(Kumekichi Ishibashi漢字不詳)の功績を称えるものである。
石橋さんは、日本で生まれ1895年にサンフランシスコにやってきた。
雑多な仕事をしながら、土地を借りれるだけの金貨を貯め、大変な困難を乗り越えて1906年(※恐らく1906年のサンフランシスコ大震災を受けて)にパロスベルデス半島にたどり着いた。
ポルトガル・ベンド(ポルトガルの曲がり角?)にたどり着いたとき、彼は、「完璧な土地を見つけたのだ」と感じた。しかし、実際、この土地はセージブラシと巨大な岩で覆われており、耕作にはまったく適していなかった。
石橋さんは、地主から「木を伐採し、耕せるだけ食物を植えていい」と言われていたが、電気も水もない過酷で悲惨な生活環境だった。さらに当時は干ばつで水を丘の向こうの牧場から運ばなければならない状態が3年もの間続いた。しかし、石橋さんは初めて「乾性農業」の技術を導入し、この困難を克服したのだ。
ほどなくして石橋さんは、若い花嫁タキさんをこの地に向かい入れた。この新天地に初めて到着した彼女は、「ああ、なぜ私は美しい日本の故郷を離れてこんな荒野に来たのだろう」と思った。花嫁がこう思うのも無理もない。見渡す限りの不毛の地だったのだから。
しかし、粂吉さんの勇気と先見の明が彼女を安心させ、夫婦は5人の子供をもうけた。息子はマサイチさん、ジョージさん、ケイさん、アキさんの4人と、ヤスコさんという名の娘である。
この地域は、インディアンからもカブリヨ(フアン・ロドリゲス・カブリヨ?)からも「煙の湾」と呼ばれており、当初は小さな木造小屋だけのスタートだった。
土地は最初セプルベダ家が所有し、後にジョサム・ビクスビー家が所有した。1910年、粂吉さんの弟の富蔵?(Tomizo)さん一家が農場に加わった。彼は梅之?(Umeno)さんと結婚していた。のちにK.尾崎さんとC.林さんという2人の労働者もやってきた。
ただし、後者の2人は短期間しか滞在しなかった。子供達は成長し、粂吉さんの長男である正一?(マス)さんは、父親の仕事の多くを徐々に引き継いでいき、そうして農地は60エーカーまで拡がっていった。(東京ドームは11エーカー)
ところが、第二次世界大戦が起こり、大戦中は土地の賃貸契約も破棄された上に、農地は取り壊された。そしてついに、ここを立ち退かせるよう命じらてしまったのだ。
1942年2月1日、石橋粂吉さんはノースダコタ州ビスマルクの日系人収容所に連行された。残りの家族はセントラル・カリフォルニアに移り、再び農業を始めることができたが、それはつかの間、1942年7月、マスさんと妻のミエさん、兄弟のジョージさんとアキさんはアリゾナ州ポストン収容所に収容された。1年余りで、粂吉さんはポストンの家族と再会することができたが・・。
その後、ユタ州に移り、戦争は続いていたがなんとか農場を営めるようになった。ただ、ジョージさんとケイさんは、日系人で編成されたアメリカ陸軍 第442連隊歩兵戦闘部隊に志願し戦場に行った。
この日系アメリカ人の部隊は、アメリカ軍のどの部隊よりも活躍し、多くの表彰を受けている。
※セイドル注 しかし、どの部隊よりも過酷な最戦線に送られ、人的損耗率もアメリカ軍随一であった。
戦後、一家はパロスベルデス半島に戻ることを決め、最終的に500エーカー(東京ドーム11エーカー)以上の農地を借りることができた。粂吉さんの妻、タキ・イシバシさんは1928年に他界。粂吉さん自身は1954年に人生の幕を閉じた。
粂吉さんの子供のマスさんは80歳を過ぎても、元の農地からほど近い数エーカーの土地で農業を営んでいた。
粂吉さんの弟の富蔵さんには6人の子がいた。: イチローさん、ジェームスさん、トムさん、ダニエルさんの4人の息子と、ユキコさんとナオミさんの2人の娘だ。ジェームスさんの農地は数マイル先にあった。ジェームスさんの妻はアニーさんで「アニーのスタンド」は40年にわたり、この地域に貢献してきた。トムさんはトーランス市営空港に隣接する市有地で農業を営んでいる。
マスさんは、父親の粂吉さんが貴重な水で主にインゲン豆、トマト、キュウリを栽培していたと回想する。
水は、人間が使う水、野菜を洗う水、そして耕作に使う2頭の馬の水として、何度も繰り返し使われたのだ、と。
粂吉さんが半島にたどり着くまでの苦難の物語もある。ある時、粂吉さんが疲れ果てて歩いていると、ひどい空腹に襲われた。その時トウゴマを見つけ、それが食べられると思って食べたが、極度の体調不良に陥ってしまった。それでも粂吉さんは、キュウリの中にひれ伏し必死な思いをしながら食べた。結果的にキュウリは彼の命を救ったのだ。
長男のマスさんは1937年に結婚した。妻のミエさんは長年、夫と二人三脚で新鮮な野菜や花を売っていた。マスさんは、なぜ父の跡を継いで農業をやっているのか?と聞かれて、こう答えた。
「農業は大変な仕事だが、それはとても清らかな生活でもある」と。
そして石橋家の家訓はこうだ。「人生に立ちはだかる障害は、ひたむきな努力と忍耐によって必ず克服できる」と言うものだ。
パロスベルデス半島全体が、この農業を生きがいとし、そして勇気と努力があった開拓者一家の決断によって、いまだに多大な恩恵を受けていることは明らかな事実である。
メアリー・ローダーマン協会会長・博物館創設者
Posted at 2024/04/10 20:16:57 | |
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