• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

sabo3のブログ一覧

2018年09月30日 イイね!

昭和の日本車の名前について

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
先月「オーリス」が新型「カローラ」として日本で発売となりまた欧州でも同様の変更が行われるというニュースを見たのに続き、「ヴィッツ」の名称が欧州向けの「ヤリス」に変更されるというので感想。

現時点で昭和から続いている車名と言えば、トヨタでは「カローラ」と「クラウン」くらい(「センチュリー」は別格として)で、ホンダなら「アコード」「レジェンド」、ニッサンなら「スカイライン」「フェアレディZ」、スバル、マツダ、ミツビシに至ってはもう一つも思い浮かばない、という状況である。また最近復活したものではトヨタ「カムリ」、ホンダ「シビック」がある。ちなみに軽トラ、軽バンはだいたい残っているように思うが、これらの名前はそのクルマ自体の市場価値を顕していると言えるだろう。
こうしてみるとなくなっている方がよっぽど多いし、残っているモノももはや風前の灯火という感じだ。フェアレディZ以外はいわゆるおじさんセダンで「超」保守的なユーザーがターゲットの商品ばかりである。またクラウンだけは国内メインだが、それ以外北米あるいは欧州市場メインのモデルを国内でも売っているという形である。

おっさんにとってはここ数年で急に昭和の車名が消えてしまったように感じるが、時期的にはやはり「失われた20年」による消費低迷、国内市場の縮小とグローバル化の進行に重なってくる。まさに時代が変わったことに伴いクルマの名前も変わったということになるのだろう。

クルマにとって名前は他の工業製品に比べ商品のイメージそのものと言ってもいいほど大きな影響があると思う。何せ庶民にとっては家、保険に次ぐ高額な買い物であり、商品として生産される「モノ」としては最も高額である。人間、高額な「モノ」には思い入れが強くなるもので、クルマ好きとしてはやはりクルマはつくづく特殊な商品であると感じる。もちろんフツーの消費者に対する販売戦略上も名前は大きな意味を持ち、それ故メーカーの考え方が如実に反映されていると言えるだろう。

最近「クラウン」「カローラ」「センチュリー」をほぼ同時期にモデルチェンジしたのは、やはりその販売力が最大の武器であるトヨタにとって「百年に一度の変革期」を迎えた今、トヨタを支えるディーラーに対するメッセージのようなものを感じる。販売チャンネルを堅持し続けるトヨタディーラーにとって車名はまさに「看板」であり唯一の「戦略」でもあるのだ。
逆に他のメーカーはもはや国内市場には注力しておらず、残っている車名もグローバル戦略の結果でしかない。名前にも、極端に言えばクルマそのものにも、既にあまり意味はないと言っても過言ではないだろう。

「カムリ」「シビック」が復活したのも、グローバル市場向けに注力した商品がそれなりの好評化を得たのを受けそれをそのまま国内に導入したというものである。
「シビック」に関しては、「これはシビックではない」という表面的な反応が多い反面クルマとしての評価は高いようで、それなりの対価を支払うことができるユーザーにとっては選択肢となり得たようである。これも時代が変わり、かつての名前とは全く無関係にクルマを評価する一部のユーザーに受け入れられたということになるのだろう。
おそらくこの事例は、メーカーとしては国内市場で注力する車種を極力減らし、それ以外はグローバルモデルで補うという形がある程度成功したということになり、今後は更にこのような流れが続くものと思われる。「ヴィッツ」が「ヤリス」になるのも考え方としては同じ流れによるものだろう。

そんな中一つの大きなニュースがトヨタ「スープラ」の復活である。
80年代から90年代に名を馳せたスポーツカーが復活するとあって多くのおっさんにとっては大注目だと思われるが、一体これにはどのような意図があるのだろうか。
クルマ自体はBMWとの共同開発だそうで、まさにグローバルスポーツカーでありそもそも国内向け「スープラ」として開発されたワケでは全くない。
現在レクサスブランド以外でトヨタのスポーツカーは「86」のみである。比較的安価で4人乗れて日常の足としても使える便利なスポーツカーとしてほぼ唯一の選択肢を意外にもトヨタ(スバルもではあるが)が提供していることになるが、販売台数としては当然低調である。スバルとの共同開発でありトヨタとしては開発コストはそれほどかかっていないのかも知れないが、かといって利益にも全く繋がっていないと思われる。当然ディーラーにとってもほとんど存在価値がないということになるだろう。
他メーカーの状況を見る限り、ホンダ「シビックタイプR」、ニッサン「フェアレディZ」クラスの高価格帯のスポーツカーには一定の存在価値が認められると思われ、そのようなモデルに対する国内ディーラーからの要望が今回の「スープラ」復活の最大の理由ではないかと、個人的には思っている。おそらく価格的には500万円から1000万円クラスのプレミアム帯となるのは間違いないだろう。まあ「シビック」同様このクルマをかつての「スープラ」として見るユーザーはほとんどいないだろうが、中間層をターゲットにして失敗した「86」よりむしろ売れるかも知れない。一台でも売れればそれなりの利益が出るとなれば、ディーラーも売ろうとするだろう。

日本のユーザーにとって選択肢は減る一方ではあるが、時代が変わりゆく中たとえこのような形であってもメーカーが選択肢を提供していることを良しとしなければならないのだろう。もちろんそれはそれなりの対価を支払えるものだけに与えられるものではあるが。
終わりに向かい縮小する世界を見るのは楽しいものではないが、時代というのはそういうものである。
そう考えるともはやクルマそのものの存在自体が大きく変わろうとしているのであって、名前がどうのこうのなどということは単なるおっさんの郷愁でしかないのだろう。
Posted at 2018/09/30 22:30:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年08月29日 イイね!

新型カローラ(スポーツ)の情報をネットで見た感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
新型カローラが発売となったので感想。
TVでCMがバンバン流れているという感じでもなく世の中的には全くどうでもいいことだが、今回のモデルチェンジに関しては多くのおっさん達にとって多少思うところはあるだろう。

「カローラ」と言えば昭和の「大衆車」の代名詞であり、「日本で最も売れていた」クルマである。が、時代は変わり既にその名声は過去のものとなって久しい。そこでメーカーとしては今回のモデルチェンジで若者をターゲットに、とまでは行かなくても少しでもユーザーの若返りを図りたいということのようであり、そのために「スポーツ」というサブタイトルを付けているようだ。
が、もしホントにそういう意図だとしたら明らかに戦略としては間違いである。「スポーツ」という単語に食いつくのはそもそもおっさんであり、若者ではない。またおっさんを相手に「スポーツ」を名乗ってしまってはムダにハードルを上げてしまう危険性もある。
そして見事に食いついたおっさんから言わせてもらえば、今回のカローラは外見、内装とも「スポーツ」の雰囲気は醸し出しており、ハッチバックというスタイルもマニュアルを設定していることもとりあえず「スポーツ」合格と言っていいだろう。走りに関してもネットで見る限り専門家の評価は悪くなさそうだ。
結局どっから見てもおっさん向けであり、50代60代でコンパクトカーが欲しい層に対しマツダ「デミオ」に対抗するようなカテゴリーのクルマ、というのが個人的な印象である。だとしたら「カローラ」の名前は全く必要ないし、「カローラ」じゃなかったらわざわざ「スポーツ」を付ける必要もない。おっさんの大半はこのクルマが「カローラスポーツ」という名前じゃなかったらもっと良かったと思っていることだろう。

そもそも「カローラ」はあくまで「大衆車」の代名詞でありいわゆる「ブランド」とは違うのだから名前にこだわる必要は全くないと思うのだが、メーカーの意図はいったいどのようなことなのだろうか。

というかこの新しいクルマはそもそも新型「オーリス」であり、今回国内向けにこれを新型「カローラ」にしたということになる。外見はどっから見ても「オーリス」である。これまで国内向け「カローラ」と欧州向け「オーリス」共に国内で販売していたが、世界共通のラインナップとするため、つまりコストカットのため事実上ついに国内専用モデルの「カローラ」は終了したということになる。
ネットを見てもマスコミはこのことにはほとんど触れないようにしているとしか思えないが、これはおそらくメーカーの意向だろう。世界的に見れば「日本のカローラ」がなくなったということになるが、そのような見方がネガティブな印象を与えるのを避けるため国内的には「オーリスがカローラに統合された」という言い方をしているのである。とはいえ実際コストカットと高収益化、そしてグローバル化の中では当然のことであり、国内専用車種はとりあえずバンバン売れているミニバンくらいのもので、それもおそらく10年後にはなくなっているだろう。最近モデルチェンジした「クラウン」が「国内専用」を大々的にアピールしているがおそらく例外ではないハズだ。
ただ今回はあくまでハッチバックというそもそもカローラとしては非主流派のジャンルであり、本流であるハズのセダンが今後登場するのかも知れない。だとすれば初めから今回のカローラスポーツは「カローラ」ではないのかもしれない。ただ真の「カローラ」であるセダンが登場するにしてもおそらく専用設計ではなく、例えばあまり売れていない現行「プリウス」を「カローラ」にして少しでも売ろうという感じになるのではないかと思う。

おっさんにしてみれば、「欧州向けコンパクト」オーリスの方が「国内向け大衆車」カローラよりよほど高い質感をイメージさせる。それなのにわざわざ国内向け大衆車として扱うのは少々残念な気もするのだが、メーカーの意図はあくまでコストカットであり、また結果として「国内向け大衆車は既に欧州標準の性能と質感なのである」というアピールも可能になる。そう考えると確かにそのとおりであり、おっさんの方が昔の感覚を引きずっているということになるのかもしれない。ただそうなるとやはりそのような認識を持っている世代がターゲットということに事実上なってくる。メーカーが本当に若者にクルマを売りたいのなら、売りたいのは当然「クルマ」であって「カローラ」ではないハズだ。が、価格設定を見ても本気で若者にクルマを売るつもりなど無いとしか思えない。

だとしたら誰がそんなに「カローラ」を欲しがっているのだろうかということなるのだが、おそらくそれは「ディーラー」しかないだろう。

トヨタといえばその販売力が最大の武器であり、それを担ってきたのはディーラーである。メーカーからクルマを買い消費者にクルマを売るのがディーラーであり、販売チャンネル方式を導入、徹底してきたトヨタはこのシステムを最大限有効利用してきたと言えるだろう。このシステムはかつての日本の大衆、そして現在でも特に保守的なユーザー層に対しては非常に有効であり、このようなトヨタ式ビジネスモデルは昭和から現在に至るまで全く変わっていない。
ただこの販売チャンネルというシステム上、商品はその範囲を超えるような変化をすることは許されずそのポジションを維持し続けなければならない。このためディーラーにとっては「カローラ」の名前こそが最大の販売戦略になっているといっても過言ではなく、「オーリス」または他のクルマと比較して1台でも多く売れる限り「カローラ」がなくなっては困るのである。ディーラー的にはできれば「オーリス」も売りたいがメーカーはコストカットのためどちらか一つにしたい、結果として「オーリス」が「カローラ」になったということである。国内他メーカーが販売チャンネルを廃止せざるを得なくなって久しい中この方式を支えてきたのはディーラーであり、結果としてメーカーの商品開発に対する影響力も小さくないということになるだろう。ただあと10年もすればこれまでの国内の販売システムも大きく変化し、メーカーと共に歩んできた多くのトヨタ系ディーラーも消えることになるのではないかと、個人的には思っている。

もう一つ、日本の「大衆車」としてのカローラはどうなってしまったのだろうか。
大衆車はまず高度成長期、クルマを所有するという大衆の夢を実現に導くことから始まった。当時は子供が生まれお父さんとなった世代の人生最初の一台という性格のものであり、「大衆車」=「ファミリーカー」だった。そして80年代、女性や若者がクルマを購入するのが当たり前になり大きな需要を生み出した日本車全盛期には、その新しいターゲットに対し低価格でおしゃれな「コンパクトカー」が数多く登場することになる。これらのクルマはそれまでのファミリーカーに対し「パーソナルカー」といえるものであり、以降それらが大衆車としてのポジションの一部を引き継いでいくことになる。結果販売される車種も格段に多くなり、メーカーごとに一つの車種がその役割を担っていた「大衆車」は徐々に姿を消していった。これは市場の発展、成長段階において当然の現象であり、実際「サニー」「ファミリア」「レオーネ」「シビック」などほとんどが消えていったのである。
「大衆車」は少なくとも一時期そのメーカーの顔とも言える存在であったため、できればその販売数を維持し続けたいと考えるのはメーカーとしては当然である。ただ市場が変化するなかこれを維持するには付加価値を高め続けていくしかなく、「シビック」「レガシー」「ゴルフ」などは高級化・大型化していくことで生き残りを図っていくこととなったが、これらは全て日本では存在意義を失うこととなった。その中で、「カローラ」だけはここまで生き残ってきたのである。
販売チャンネルに厳格なトヨタそしてカローラには高級化という選択が「できなかった」とも言えるのだが、にも関わらずそのカローラ「だけ」がここまで生き残ってこられたのは、むしろ販売チャンネルを堅持し続けてきたからこそということになるのだろう。これはやはり「売る」ということに関してトヨタがいかにスゴいかということであり、まずは売ること、そしてその上で初めてモノまたは技術があるという営利企業としての哲学が正解だったということになるだろう。
ただそのカローラですら時代に逆らうことは出来ずかつての存在感が失われていったのは他のメーカーと同じだった。そこでトヨタは再びその哲学によって「大衆車」の新たな時代を切り開いていったのである。それを実現したのは「プリウス」そして「アクア」という「ハイブリッド」の大成功であり、この歴史的とも言える出来事が現在のトヨタを支えているといっても過言ではない。そしてトヨタの販売力がなければ現在の日本の自動車産業全体を支えるハイブリッド時代は到来しなかったとも言えるだろう。これもまさにどんな「技術」もまず「売る」ことが重要だというトヨタ式哲学の最たるものであり、最新技術を大衆車に普及させた点においてトヨタにとって唯一で最大の事例と言えるかも知れない。

ついでに「大衆車」についてもう一つ言えば、最も基本的な条件である価格の点で現在は軽自動車がかなり多くの部分を担っているということである。25年前のワゴンRの登場に始まり現在のN-BOXに至る軽自動車の進化と躍進がそれを顕していると言えるだろう。ただトヨタについては軽自動車は生産しておらず、やはり「プリウス」「アクア」が大衆車としての役目を背負っているということになる。メーカーにとってもディーラーにとっても利益率が高くない軽自動車に頼らないトヨタは、やはり相当商売上手であると言えるだろう。もちろん軽自動車の高収益化も進められてはいるハズだが、N-BOXにフィットが喰われてしまうという状況のホンダとは対照的である。
そう考えるとこれほどグローバル化の中にあってもトヨタはやはり国内ディーラーとの共生に徹する姿勢が伺える。ただその分目前に迫った国内市場崩壊の衝撃を大きく受けることになるだろう。逆にホンダは今後真っ先にディーラーが減少し直営店を増やすなどの変革に迫られるだろうが、いずれ来るその時に備え早めに国内市場に見切りをつける戦略なのかもしれない。

「カローラ」がいくら長年に渡ってトヨタという企業の凄さを示してきたモデルだとはいえ、時代が変化する中さすがにもう既にその役目は終えていると言ってもいいだろう。かつて一世を風靡したマークツーもコロナもカリーナもとっくに消えているし、「86」でもカローラレビンの名前が消えたことを考えると、もしかしたらこれが最後のカローラになるかも知れない。が、やはりトヨタがトヨタであるが故に、かつてトヨタの顔だったカローラはもう少しの間その役目を負うことになるのだろう。

・・・というところまでほぼ書き終えていた今日、「欧州でオーリスの名称を廃止、カローラに統一」というニュースをネットで見てしまい、アレ?と思っているところである。なのでこれはこのままにして、この続きを改めてゆっくり考えることにしたいと思う。
Posted at 2018/08/29 21:55:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年07月26日 イイね!

新型フリードハイブリッドの試乗車を運転した感想

新型フリードハイブリッドの試乗車を運転した感想全体的にはスパイク、そしてガソリン車と比べても走りに関してはそれほど大きな違いは感じない。スパイクの不満である電動パワステの感覚とハンドリングは大きくは変わっていないように感じる。とはいえ乗り心地の良さについてはその違いはかなり大きく、ガソリン車と比べても価格なりの価値はあると言ってもいいかも知れない。ただ全体的な演出やイメージ的にあくまで「フツーのクルマ」という感じでしかなく、個人的には内装の質感やロードノイズ、乗車人数と積載性、バッテリーによる足元の狭さなどを総合するとやはりどうしても割高感は拭えないところである。
が、これだけ売れているのだから当然メーカーとしては正解ということになるのだろう。「モビリオ」から始まった新しいコンセプトは自ら市場を切り開いてきたのである。そう考えると、開発陣の姿勢は評価に値すると思う。
しかしここまで売れるということは新しいコンセプトが評価されたと考えるより、まさに「フツーのクルマ」として万人に受け入れられたという考え方の方が自然だろう。価格についてもこれが適正なのだということに当然なるのである。この「フツーのクルマ」に対し価格がどうだの走りがどうだのという事自体、もはや無意味だろう。走りがいいのが希望ならそのようなモデルはちゃんと用意されているのであり、その対価を払って「ModuloX」を買えばいい、それがメーカーの答えである。
Posted at 2018/07/26 21:24:19 | コメント(0) | クルマレビュー
2018年06月28日 イイね!

日本の「ロボット」技術の現状について

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

現在の自動運転の流れでは各種センサーとAIにより完全に自律することを最終目標にしているが、そう考えると自動運転車は「ロボット」であると言ってもいいハズだ。
「ロボット」と言えば80年代に世界を驚かせた日本の自動車生産技術の最たるものであったと記憶している。アメリカとの貿易摩擦のニュースで、ロボットアームが自動車の溶接や塗装を行っている映像をテレビでよく見たものである。つまり30年前日本はロボット先進国だったハズであり、その文化的背景として鉄腕アトムやマジンガーZの話が取り上げられていたこともなんとなく憶えている。90年代から2000年代以降にあっても、ホンダは技術力の象徴として「ASIMO」の開発を続けていたし、またトヨタもその企業力を世界に魅せつけるために開催した国際博覧会で、環境技術と並んでロボットを展示の中心にしていたように記憶している。

現在はどうだろう。
少なくともホンダやトヨタがそれらをアピールするということは全く無いように思う。本来中心となるべき電子産業においても、かつて一世を風靡したソニーの「AIBO」やその他のメーカーにも目立った動きは全く見られない。
現在思い当たるのはソフトバンクの「ペッパー」くらいであり、IT業界がAI技術を目に見える形で大衆にアピールするためのモノとなっているだけである。
東日本大震災でメルトダウンした原発内部をロボットで調査しようという試みも、思ったような成果を上げていないという報道だったように思う。
ちょっと前に日本でヒット商品となったロボット型掃除機が日本のメーカーのものではないというのを知ったときは少し驚いたものだが、同時にようやく現実を知ったという感覚だった。

日本のメーカーがロボット、ひいてはAIの開発をやめてしまった理由はなんだろうか。
アメリカの軍事ロボットは既に「ターミネーター」を地で行く凄さでありその映像を見た時はまさに恐怖を覚えたが、さすがにそれは別にして民生分野では単純に海外勢が技術的に大きく進んだようにもあまり思えず、例えばロボット掃除機などは技術的に驚くようなものにはとうてい見えない。だとすれば一体何が問題なのだろうか。

よくよく考えれば、産業機械としてのロボットと一般向けロボットは技術的にはある程度近くても商業的には全く別物だと言うことになるのだろう。というか技術的にも今のAIブームからくるロボットとはかなり違いがあるのかもしれない。確かに日本が誇る産業用ロボットには、そこまでAI技術は必要なさそうである。
現在家庭用としての市場があるのはロボット掃除機くらいのものだが、やはり日本の家屋に適しているとは思えず単なる流行という感じである。他の家電においても一定程度自動化されておりそれらの機能は既に飽和状態だろう。需要があるとすればスマートハウス、スマートスピーカー、スマートなになにといったまさにAIを持った家電という感じであり、もちろんこれもある種のロボットではあるがかつての日本型ロボットとは少しイメージが違う。そう考えると日本の家庭にはやはり市場としての価値はほとんどなさそうである(それでもなんとか新しい物を世に送り出そうとするアメリカメーカーに比べて日本メーカーは何もしていないようにしか見えないのはどうしたものだろう)。

産業機器としてはようやく最近製造業以外の分野への進出が始まっているようで、中でも最も可能性があるのは農業であり、また介護分野も最近よく言われているところである。80年代から少子高齢化という要因はフツーに認識されており、それは農業や介護用ロボットを開発する理由として存在していたハズだが、それなのに技術開発が進まなかった理由はもはや一つしか考えられない。言うまでもなくそれは経済的な理由である。
バブル崩壊やリーマン・ショックという不況の波、そしてグローバル化という新たな時代の流れがマイナスに作用していたことは明らかであり、実際日本の電子産業は衰退し、自動車産業はコストカットと高収益化がその最大の使命となっていった。選択と集中という言葉が声高に叫ばれていたこのような状況では、新しい技術分野への進出など行われるハズもないだろう。
結局たまたま失われた20年という時代を通過してきたせいなのかも知れないが、もし80年代からの流れそのままに技術開発が進んでいれば、30年後の今の自動運転の流れの中でも主導権を握ることが出来たかも知れないと思うのは単純過ぎるだろうか。現在の自動運転の流れは完全にIT企業中心であり、そこまでのAI技術が自動車メーカーに求められるということではないにしろ、それらの元になる技術があったハズなのにと考えると残念ではある。
とは言え、こと日本の自動車業界においては失われた20年の中にあってこそグローバル化を成功させ収益を伸ばし続けてきたのであり、ということはそもそもロボットなど新たな分野に進出する必要性は全く無かったのである。彼らの戦略が資本主義において正解だったことは証明されているのであり、そして彼らが生き残るために国内の現場を切り捨てた結果、日本のモノづくりの現場がかなり深刻な状況にあると言われていることもまた当然の結果だろう。

しかし自動車産業よりも更に大きな原因は、やはり完全に敗北した日本の電子産業にあると言っていいだろう。かつての隆盛からこれほどまでに衰退した理由など知る由もないが、おそらく自動車産業より何倍も早いスピードでイノベーションの波に晒され続ける世界で戦い続ける力が日本人になかったということではないだろうか。前述のロボット掃除機メーカーの代表者が「日本人はこういうの得意なハズじゃなかったのか?」と語っていたのをテレビで見た記憶があるが、日本人自身もそう思い込んでいたのは単なる思い上がりだったということがもはやハッキリしてしまったのである。
30数年前、少しずつ日本の技術力が世界に認められ始めた頃クルマも電気製品も「日本人がやるのは猿真似で、安くていいモノは作れても新しいモノは作れない」と揶揄されているという話があったのを憶えている。それでも日本の技術力と経済力は比例するように成長し続け、日本人は感覚的にも世界をリードしているという自信を持ち始めたということだったように思われる。が、30年後の今となっては技術力で経済力を手にしてきたのではなく、それは単に資本主義の時代の流れの中、経済力とセットで技術力も認められるようになっただけ、あるいはバブル景気という勘違いの中で更に日本の技術は優秀であるという勘違いをしていただけ、と言わざるを得ないのだろう。
やはり「イノベーション」「新しい技術」という分野は日本人には難しいということがハッキリしたということであり、大半の日本人が「やっぱりそうだろうな」と思っているハズである。
日本にとってロボットはクルマに代わる新しい産業となることは間違いないと思われていたハズだが、実際はそうではなかったということになるようである。AIだけがロボットの技術ではないハズであり、産業用ロボットで日本がリードしてきた様々なセンサーやメカ的技術も当然重要な要素だと思うのだが、今のところそのような流れは日本からはとても生まれそうにない。
成熟した資本主義では、大手企業が取り組まない分野こそ中小企業が取り組みそして時代の潮目が変わる時その頭角を現すという、昭和の成長期には当然働いていた経済的な作用が成立しない、ということもあるのかも知れない。これもある意味「産業の空洞化」と言えると思うのだが、成熟、衰退期の社会ではそれが自然の法則だとすれば、やはり誰にもどうすることも出来ないのだろう。一つの技術が忘れ去られるということに特別な理由など必要ないということなのかもしれない。

昭和的なエピソードなどをついつい真に受けてしまうおっさんとしては、技術というのは本来もっと人間主体の、ある意味精神的な文化であると思っている。ましてロボットや人工知能と言えば近代以降、鉄腕アトムの世界観やASIMOの名前の由来のとおり哲学的なテーマであったハズだ。が、残念ながら現在の日本の現場において夢や理想や哲学を形にしようという技術者はほとんどいないようである。
「ロボコン」的イベントは今も続いてるようだし、日本の女子高校生がロボットの世界大会で優勝したというニュースもあり、社会に必要とされる優秀な若い技術者はきっと数多く育っているのだろう。が、自らの信念と技術をもって社会に立ち向かうような昭和気質の技術者など今の社会からは生まれるハズもなく、仮にいたとしてもすぐに排除され、消えていくのである。
個人的には10数年前から、ホンダはもう日本でクルマで商売する気はない、それは残念だがおそらく次はロボットだろう、それはそれで面白いことになるかも知れない、と思っていたのだが、それもどうやら違ったようである。
ASIMOもAIBOも、単に宣伝用のオモチャだったということなのだろう(AIBOは元々オモチャか)。

・・・というところまでほぼ書き終えていた今朝、「実はASIMOの開発が中止されていた」というニュースをネットで見てしまい、これはいいオチになったと思っていたら夕方には「・・・研究を継続しています」というホンダの発表があった。
このような状況をかの女子高校生技術者たちは果たしてどう受け止めるだろうか。もし彼女たち自身からそういうことが積極的に発信されるようになれば、日本の技術者もまた少しずつ変わり始めるだろう。そうなればそれがまた新しい時代の技術の哲学に繋がっていくかも知れない。
技術者にとって最も必要なことは、技術力でもヒット商品でも社会のニーズでもなく「自分が何をしたいのか」ということなのである。
Posted at 2018/06/28 21:30:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年05月31日 イイね!

自工会会長選任と業界の動きについて

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

自工会会長選任のニュースを見たので感想。
新会長は異例の二回目の就任ということだが、当然それには理由があるハズだ。もちろん、予てから「百年に一度の大変革」と言われる今後の自動車業界に強い危機感を表してきていた本人の意向もあるだろうが、今まさに業界団体としての活動、つまり政治行政への圧力が最大限必要であるという国内メーカーの総意でもあるだろう。
また国内市場の衰退から必死でグローバル競争力の向上を図ってきた業界だが、ここに来ていよいよ業界全体としての危機感を国民全体に訴えていく必要があるということでもあるかもしれない。

では自工会として何をする必要があるのだろうか。
まずは国内市場である。縮小するのみで既にその価値を失っていたといっても過言ではないが、それでも少しでも利益を上げる必要があるというのは営利企業として当然であり、そのための方策の一つとして税制改革を訴えている。
税とは取れるところから取るのが基本中の基本であり、クルマから多重の税が取られているということはクルマが売れている(いた)からである。もちろん税を負担するのは消費者側でありそれが受け入れられている限り業界としては何ら問題はなく、日本経済を牽引する主要産業としてそれを許容してきたワケだが、ついにそうも言っていられなくなったということである。
クルマが売れなくなった時クルマの税負担は軽くなりクルマの価格も下がる、これは消費者としてはむしろ歓迎すべきことである。ただ税制というのは政治力による自動車業界と他の国内産業のとの戦いでありこれまでもその結果としてそうなっているのであって、結局トータルで大衆側にとって歓迎すべき結果になるということでは絶対にない。
自工会の調査によると若者の大半が自動車を所有する意志がないということのようであり、現状それは当然の結果だろう。国内販売が激減するのが目前に迫っている今、国内業界としては次善の対応を行っていくだけということにしかならない状況であり、EVシフトや自動運転以前の問題なのである。
そして次に来るのは大規模リストラであることは間違いなく、今後はその対応も重要な政治課題となるのかもしれない。

次にグローバル市場である。主戦場は当然こちらであり真の脅威もやはりこちらだろう。
EVシフトについては欧州や中国が政治的戦略を持って揺さぶりをかけてきたのに対し、結果的には既に流れに逆らえない状況でありこの時点で日本メーカーは後手後手だったようにしか見えない。EVシフトが本当に今後の世界の自動車開発の本流なのかどうかは未だに不確定だと思うし、その意味での自信、余裕、あるいは現実的な対応の顕れだったようにも思うが、ここに来て危機感を訴えるという時点でそうでもなかったということになるのかもしれない。
ただ欧州勢としても既存の自動車業界にとっては参入障壁を下げると言われるEVシフトは歓迎できるものではないハズだ。それでもあえてそれを進めるのは自動車業界としてそこまで目前の脅威ではないという認識がおそらくあるのだろう。EVシフトの進行速度とその影響をある程度予測できており、他業界との戦いにおける自動車業界の優位性については自信を持っているというのが欧、米、日の既存の自動車業界共通の認識ではないだろうか。おそらく欧州の政治主導EVシフトは今後どうにでも変わっていくことになるだろう。
やはり最大のポイントは国内業界の勢力バランスに関係なくEVシフトを全力で進めることが可能な中国の戦略に対し、欧州勢は素早くその流れに乗ったということにあるだろう。たとえ政治主導であっても当面の最大の需要に逆らうことは当然不利であり、戦略としてはある意味判りやすいハズだ。結局日本メーカーは現実的な対応にこだわり過ぎた結果、中国市場ひいては世界に対するアピールに出遅れたということになるのだろうと思う。

EVシフト、自動運転、シェアリングなどどれをとっても日本は遅れているようにしか見えないが、仮にこれらが本当に現在言わていれるスピードで流れているとすれば、自動車業界だけなく全ての日本の産業、オールジャパンでも勝機は薄いと見るのが自然だろう。
となれば穿った見方かも知れないが、グローバル市場で敗北した時に備えてまたは逆に遅れを回復するまでの時間稼ぎという意味で、国内市場の価値が再浮上してきたということもあるのかも知れない。モーターで走る、ということだけを持ってクルマの商品価値が上がるということではないと思われ、仮にガソリン・ディーゼル車を規制してもクルマの需要喚起には効果はないハズだ。ヘタをすればクルマ離れを更に助長する可能性すらあるかもしれない。車両本体の明らかな低価格化に繋がれば新たな需要ともなり得るだろうが、業界的にはそれでは意味がないだろう。価格を下げずにEV化で需要を喚起するには国策によって電気代を下げるという方法もあるかも知れないが、結局EVシフトの本質であるエネルギー問題にぶち当たるワケでフツーに考えればあり得ない。やはりEVシフトに完全に舵を切るタイミングは未だに見えてはいないと言っていいハズであり、国内的には政治主導の「逆EVシフト」が必要となってくるのかもしれないとすら思う。
全く逆に、日本の自動車業界として完全に世界の流れに乗る方向に舵を切るという決断をしたとすればどうなるだろうか。オールジャパンでも勝機は薄いとなれば当然日本に留まっているワケにはいかないということになるハズである。EVシフトにおけるバッテリーメーカーにしても、自動運転におけるITベンターにしても、当然世界をパートナーとして選ぶことになるハズであり、そのような動きは水面下では当然既に始まっているだろう。トヨタがテスラを買収するというハナシも真偽は別にして誰にでも想像できることではあるし、Googleとトヨタによる自動運転車がデビューするのも時間の問題かもしれない。となればアメリカとの政治的な交渉、駆け引きなどが重要な課題となるだろうし、そのタイミングでの為替相場などへの対策というのもあるのかもしれない。もしかしたら自工会の言う「オールジャパン」というのはこの辺りを指しているのではないかとも思う。
ただ巨額な企業買収などということはおそらくトヨタにしか出来ないことであり、日仏連合やホンダはそれに対抗する立場でもある。逆にマツダやスバルなどは買収される側となる可能性もあるかもしれない。また対アメリカ的には現時点で様々な政治的不確定要素がありその部分での対応の必要性もあるのかもしれない。いずれにせよ国際的な企業買収などへの対応の重要性が更に増すというのはおそらくどのメーカーにも共通することであり、トヨタを筆頭にその具体策を確立していく必要があるということになるのではないだろうか。もしかしたら実際それらの行動が目前なのかもしれない。
そう考えると2020年東京オリンピックというキーワードも、これに繋がってくるようにも見える。

クルマ好きとしては別に日本メーカーが好きなわけではなくクルマが好きなだけだが、やはり日本メーカーが日本市場、そして世界から消えるのはちょっと寂しいことではある。とはいえ国内業界も戦後さまざまなメーカーが技術を競いそして淘汰の波に飲み込まれてきたのであり、それが世界規模になるというだけのことだ。それは自然の法則であり、クルマの世界もいよいよ成熟から衰退に向かっているということになるのかもしれない。だとすれば「百年に一度の大変革」こそがクルマが再び面白くなることに繋がっていくハズだ、とクルマ好きとしてはいい方に捉えることもできるかもしれない。
とはいえ団塊ジュニア世代の一日本国民としては、そんなことよりも日本の将来と自分の老後の方がよほど深刻な問題ではある。クルマが面白くないだの価格が高いだのということはもうどうでもいいから、自動車業界には産業として日本を支えてもらいたい、と言ったらこれもまた色んな意味で矛盾するが。
Posted at 2018/05/31 22:45:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

プロフィール

sabo3です。よろしくお願いします。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     1 2
34567 89
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

愛車一覧

ホンダ フリードスパイク ホンダ フリードスパイク
ホンダ フリードスパイクに乗っています。

過去のブログ

2025年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2020年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation