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2018年06月28日 イイね!

日本の「ロボット」技術の現状について

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

現在の自動運転の流れでは各種センサーとAIにより完全に自律することを最終目標にしているが、そう考えると自動運転車は「ロボット」であると言ってもいいハズだ。
「ロボット」と言えば80年代に世界を驚かせた日本の自動車生産技術の最たるものであったと記憶している。アメリカとの貿易摩擦のニュースで、ロボットアームが自動車の溶接や塗装を行っている映像をテレビでよく見たものである。つまり30年前日本はロボット先進国だったハズであり、その文化的背景として鉄腕アトムやマジンガーZの話が取り上げられていたこともなんとなく憶えている。90年代から2000年代以降にあっても、ホンダは技術力の象徴として「ASIMO」の開発を続けていたし、またトヨタもその企業力を世界に魅せつけるために開催した国際博覧会で、環境技術と並んでロボットを展示の中心にしていたように記憶している。

現在はどうだろう。
少なくともホンダやトヨタがそれらをアピールするということは全く無いように思う。本来中心となるべき電子産業においても、かつて一世を風靡したソニーの「AIBO」やその他のメーカーにも目立った動きは全く見られない。
現在思い当たるのはソフトバンクの「ペッパー」くらいであり、IT業界がAI技術を目に見える形で大衆にアピールするためのモノとなっているだけである。
東日本大震災でメルトダウンした原発内部をロボットで調査しようという試みも、思ったような成果を上げていないという報道だったように思う。
ちょっと前に日本でヒット商品となったロボット型掃除機が日本のメーカーのものではないというのを知ったときは少し驚いたものだが、同時にようやく現実を知ったという感覚だった。

日本のメーカーがロボット、ひいてはAIの開発をやめてしまった理由はなんだろうか。
アメリカの軍事ロボットは既に「ターミネーター」を地で行く凄さでありその映像を見た時はまさに恐怖を覚えたが、さすがにそれは別にして民生分野では単純に海外勢が技術的に大きく進んだようにもあまり思えず、例えばロボット掃除機などは技術的に驚くようなものにはとうてい見えない。だとすれば一体何が問題なのだろうか。

よくよく考えれば、産業機械としてのロボットと一般向けロボットは技術的にはある程度近くても商業的には全く別物だと言うことになるのだろう。というか技術的にも今のAIブームからくるロボットとはかなり違いがあるのかもしれない。確かに日本が誇る産業用ロボットには、そこまでAI技術は必要なさそうである。
現在家庭用としての市場があるのはロボット掃除機くらいのものだが、やはり日本の家屋に適しているとは思えず単なる流行という感じである。他の家電においても一定程度自動化されておりそれらの機能は既に飽和状態だろう。需要があるとすればスマートハウス、スマートスピーカー、スマートなになにといったまさにAIを持った家電という感じであり、もちろんこれもある種のロボットではあるがかつての日本型ロボットとは少しイメージが違う。そう考えると日本の家庭にはやはり市場としての価値はほとんどなさそうである(それでもなんとか新しい物を世に送り出そうとするアメリカメーカーに比べて日本メーカーは何もしていないようにしか見えないのはどうしたものだろう)。

産業機器としてはようやく最近製造業以外の分野への進出が始まっているようで、中でも最も可能性があるのは農業であり、また介護分野も最近よく言われているところである。80年代から少子高齢化という要因はフツーに認識されており、それは農業や介護用ロボットを開発する理由として存在していたハズだが、それなのに技術開発が進まなかった理由はもはや一つしか考えられない。言うまでもなくそれは経済的な理由である。
バブル崩壊やリーマン・ショックという不況の波、そしてグローバル化という新たな時代の流れがマイナスに作用していたことは明らかであり、実際日本の電子産業は衰退し、自動車産業はコストカットと高収益化がその最大の使命となっていった。選択と集中という言葉が声高に叫ばれていたこのような状況では、新しい技術分野への進出など行われるハズもないだろう。
結局たまたま失われた20年という時代を通過してきたせいなのかも知れないが、もし80年代からの流れそのままに技術開発が進んでいれば、30年後の今の自動運転の流れの中でも主導権を握ることが出来たかも知れないと思うのは単純過ぎるだろうか。現在の自動運転の流れは完全にIT企業中心であり、そこまでのAI技術が自動車メーカーに求められるということではないにしろ、それらの元になる技術があったハズなのにと考えると残念ではある。
とは言え、こと日本の自動車業界においては失われた20年の中にあってこそグローバル化を成功させ収益を伸ばし続けてきたのであり、ということはそもそもロボットなど新たな分野に進出する必要性は全く無かったのである。彼らの戦略が資本主義において正解だったことは証明されているのであり、そして彼らが生き残るために国内の現場を切り捨てた結果、日本のモノづくりの現場がかなり深刻な状況にあると言われていることもまた当然の結果だろう。

しかし自動車産業よりも更に大きな原因は、やはり完全に敗北した日本の電子産業にあると言っていいだろう。かつての隆盛からこれほどまでに衰退した理由など知る由もないが、おそらく自動車産業より何倍も早いスピードでイノベーションの波に晒され続ける世界で戦い続ける力が日本人になかったということではないだろうか。前述のロボット掃除機メーカーの代表者が「日本人はこういうの得意なハズじゃなかったのか?」と語っていたのをテレビで見た記憶があるが、日本人自身もそう思い込んでいたのは単なる思い上がりだったということがもはやハッキリしてしまったのである。
30数年前、少しずつ日本の技術力が世界に認められ始めた頃クルマも電気製品も「日本人がやるのは猿真似で、安くていいモノは作れても新しいモノは作れない」と揶揄されているという話があったのを憶えている。それでも日本の技術力と経済力は比例するように成長し続け、日本人は感覚的にも世界をリードしているという自信を持ち始めたということだったように思われる。が、30年後の今となっては技術力で経済力を手にしてきたのではなく、それは単に資本主義の時代の流れの中、経済力とセットで技術力も認められるようになっただけ、あるいはバブル景気という勘違いの中で更に日本の技術は優秀であるという勘違いをしていただけ、と言わざるを得ないのだろう。
やはり「イノベーション」「新しい技術」という分野は日本人には難しいということがハッキリしたということであり、大半の日本人が「やっぱりそうだろうな」と思っているハズである。
日本にとってロボットはクルマに代わる新しい産業となることは間違いないと思われていたハズだが、実際はそうではなかったということになるようである。AIだけがロボットの技術ではないハズであり、産業用ロボットで日本がリードしてきた様々なセンサーやメカ的技術も当然重要な要素だと思うのだが、今のところそのような流れは日本からはとても生まれそうにない。
成熟した資本主義では、大手企業が取り組まない分野こそ中小企業が取り組みそして時代の潮目が変わる時その頭角を現すという、昭和の成長期には当然働いていた経済的な作用が成立しない、ということもあるのかも知れない。これもある意味「産業の空洞化」と言えると思うのだが、成熟、衰退期の社会ではそれが自然の法則だとすれば、やはり誰にもどうすることも出来ないのだろう。一つの技術が忘れ去られるということに特別な理由など必要ないということなのかもしれない。

昭和的なエピソードなどをついつい真に受けてしまうおっさんとしては、技術というのは本来もっと人間主体の、ある意味精神的な文化であると思っている。ましてロボットや人工知能と言えば近代以降、鉄腕アトムの世界観やASIMOの名前の由来のとおり哲学的なテーマであったハズだ。が、残念ながら現在の日本の現場において夢や理想や哲学を形にしようという技術者はほとんどいないようである。
「ロボコン」的イベントは今も続いてるようだし、日本の女子高校生がロボットの世界大会で優勝したというニュースもあり、社会に必要とされる優秀な若い技術者はきっと数多く育っているのだろう。が、自らの信念と技術をもって社会に立ち向かうような昭和気質の技術者など今の社会からは生まれるハズもなく、仮にいたとしてもすぐに排除され、消えていくのである。
個人的には10数年前から、ホンダはもう日本でクルマで商売する気はない、それは残念だがおそらく次はロボットだろう、それはそれで面白いことになるかも知れない、と思っていたのだが、それもどうやら違ったようである。
ASIMOもAIBOも、単に宣伝用のオモチャだったということなのだろう(AIBOは元々オモチャか)。

・・・というところまでほぼ書き終えていた今朝、「実はASIMOの開発が中止されていた」というニュースをネットで見てしまい、これはいいオチになったと思っていたら夕方には「・・・研究を継続しています」というホンダの発表があった。
このような状況をかの女子高校生技術者たちは果たしてどう受け止めるだろうか。もし彼女たち自身からそういうことが積極的に発信されるようになれば、日本の技術者もまた少しずつ変わり始めるだろう。そうなればそれがまた新しい時代の技術の哲学に繋がっていくかも知れない。
技術者にとって最も必要なことは、技術力でもヒット商品でも社会のニーズでもなく「自分が何をしたいのか」ということなのである。
Posted at 2018/06/28 21:30:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年05月31日 イイね!

自工会会長選任と業界の動きについて

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

自工会会長選任のニュースを見たので感想。
新会長は異例の二回目の就任ということだが、当然それには理由があるハズだ。もちろん、予てから「百年に一度の大変革」と言われる今後の自動車業界に強い危機感を表してきていた本人の意向もあるだろうが、今まさに業界団体としての活動、つまり政治行政への圧力が最大限必要であるという国内メーカーの総意でもあるだろう。
また国内市場の衰退から必死でグローバル競争力の向上を図ってきた業界だが、ここに来ていよいよ業界全体としての危機感を国民全体に訴えていく必要があるということでもあるかもしれない。

では自工会として何をする必要があるのだろうか。
まずは国内市場である。縮小するのみで既にその価値を失っていたといっても過言ではないが、それでも少しでも利益を上げる必要があるというのは営利企業として当然であり、そのための方策の一つとして税制改革を訴えている。
税とは取れるところから取るのが基本中の基本であり、クルマから多重の税が取られているということはクルマが売れている(いた)からである。もちろん税を負担するのは消費者側でありそれが受け入れられている限り業界としては何ら問題はなく、日本経済を牽引する主要産業としてそれを許容してきたワケだが、ついにそうも言っていられなくなったということである。
クルマが売れなくなった時クルマの税負担は軽くなりクルマの価格も下がる、これは消費者としてはむしろ歓迎すべきことである。ただ税制というのは政治力による自動車業界と他の国内産業のとの戦いでありこれまでもその結果としてそうなっているのであって、結局トータルで大衆側にとって歓迎すべき結果になるということでは絶対にない。
自工会の調査によると若者の大半が自動車を所有する意志がないということのようであり、現状それは当然の結果だろう。国内販売が激減するのが目前に迫っている今、国内業界としては次善の対応を行っていくだけということにしかならない状況であり、EVシフトや自動運転以前の問題なのである。
そして次に来るのは大規模リストラであることは間違いなく、今後はその対応も重要な政治課題となるのかもしれない。

次にグローバル市場である。主戦場は当然こちらであり真の脅威もやはりこちらだろう。
EVシフトについては欧州や中国が政治的戦略を持って揺さぶりをかけてきたのに対し、結果的には既に流れに逆らえない状況でありこの時点で日本メーカーは後手後手だったようにしか見えない。EVシフトが本当に今後の世界の自動車開発の本流なのかどうかは未だに不確定だと思うし、その意味での自信、余裕、あるいは現実的な対応の顕れだったようにも思うが、ここに来て危機感を訴えるという時点でそうでもなかったということになるのかもしれない。
ただ欧州勢としても既存の自動車業界にとっては参入障壁を下げると言われるEVシフトは歓迎できるものではないハズだ。それでもあえてそれを進めるのは自動車業界としてそこまで目前の脅威ではないという認識がおそらくあるのだろう。EVシフトの進行速度とその影響をある程度予測できており、他業界との戦いにおける自動車業界の優位性については自信を持っているというのが欧、米、日の既存の自動車業界共通の認識ではないだろうか。おそらく欧州の政治主導EVシフトは今後どうにでも変わっていくことになるだろう。
やはり最大のポイントは国内業界の勢力バランスに関係なくEVシフトを全力で進めることが可能な中国の戦略に対し、欧州勢は素早くその流れに乗ったということにあるだろう。たとえ政治主導であっても当面の最大の需要に逆らうことは当然不利であり、戦略としてはある意味判りやすいハズだ。結局日本メーカーは現実的な対応にこだわり過ぎた結果、中国市場ひいては世界に対するアピールに出遅れたということになるのだろうと思う。

EVシフト、自動運転、シェアリングなどどれをとっても日本は遅れているようにしか見えないが、仮にこれらが本当に現在言わていれるスピードで流れているとすれば、自動車業界だけなく全ての日本の産業、オールジャパンでも勝機は薄いと見るのが自然だろう。
となれば穿った見方かも知れないが、グローバル市場で敗北した時に備えてまたは逆に遅れを回復するまでの時間稼ぎという意味で、国内市場の価値が再浮上してきたということもあるのかも知れない。モーターで走る、ということだけを持ってクルマの商品価値が上がるということではないと思われ、仮にガソリン・ディーゼル車を規制してもクルマの需要喚起には効果はないハズだ。ヘタをすればクルマ離れを更に助長する可能性すらあるかもしれない。車両本体の明らかな低価格化に繋がれば新たな需要ともなり得るだろうが、業界的にはそれでは意味がないだろう。価格を下げずにEV化で需要を喚起するには国策によって電気代を下げるという方法もあるかも知れないが、結局EVシフトの本質であるエネルギー問題にぶち当たるワケでフツーに考えればあり得ない。やはりEVシフトに完全に舵を切るタイミングは未だに見えてはいないと言っていいハズであり、国内的には政治主導の「逆EVシフト」が必要となってくるのかもしれないとすら思う。
全く逆に、日本の自動車業界として完全に世界の流れに乗る方向に舵を切るという決断をしたとすればどうなるだろうか。オールジャパンでも勝機は薄いとなれば当然日本に留まっているワケにはいかないということになるハズである。EVシフトにおけるバッテリーメーカーにしても、自動運転におけるITベンターにしても、当然世界をパートナーとして選ぶことになるハズであり、そのような動きは水面下では当然既に始まっているだろう。トヨタがテスラを買収するというハナシも真偽は別にして誰にでも想像できることではあるし、Googleとトヨタによる自動運転車がデビューするのも時間の問題かもしれない。となればアメリカとの政治的な交渉、駆け引きなどが重要な課題となるだろうし、そのタイミングでの為替相場などへの対策というのもあるのかもしれない。もしかしたら自工会の言う「オールジャパン」というのはこの辺りを指しているのではないかとも思う。
ただ巨額な企業買収などということはおそらくトヨタにしか出来ないことであり、日仏連合やホンダはそれに対抗する立場でもある。逆にマツダやスバルなどは買収される側となる可能性もあるかもしれない。また対アメリカ的には現時点で様々な政治的不確定要素がありその部分での対応の必要性もあるのかもしれない。いずれにせよ国際的な企業買収などへの対応の重要性が更に増すというのはおそらくどのメーカーにも共通することであり、トヨタを筆頭にその具体策を確立していく必要があるということになるのではないだろうか。もしかしたら実際それらの行動が目前なのかもしれない。
そう考えると2020年東京オリンピックというキーワードも、これに繋がってくるようにも見える。

クルマ好きとしては別に日本メーカーが好きなわけではなくクルマが好きなだけだが、やはり日本メーカーが日本市場、そして世界から消えるのはちょっと寂しいことではある。とはいえ国内業界も戦後さまざまなメーカーが技術を競いそして淘汰の波に飲み込まれてきたのであり、それが世界規模になるというだけのことだ。それは自然の法則であり、クルマの世界もいよいよ成熟から衰退に向かっているということになるのかもしれない。だとすれば「百年に一度の大変革」こそがクルマが再び面白くなることに繋がっていくハズだ、とクルマ好きとしてはいい方に捉えることもできるかもしれない。
とはいえ団塊ジュニア世代の一日本国民としては、そんなことよりも日本の将来と自分の老後の方がよほど深刻な問題ではある。クルマが面白くないだの価格が高いだのということはもうどうでもいいから、自動車業界には産業として日本を支えてもらいたい、と言ったらこれもまた色んな意味で矛盾するが。
Posted at 2018/05/31 22:45:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年04月15日 イイね!

自動運転の過渡期の問題について

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

アメリカで自動運転に関係する死亡事故が立て続けにあったというニュースを見たので感想。
一つはメーカーが実験中に人をはねたというものだが、これについてはいわゆる「飛び出し」に近い状況で人間が運転していても避けられたかどうか判らない、ということのようである。もうひとつは自動運転中の市販車が中央分離帯に衝突したというもので、明らかに自動運転を過信したもの、ということのようである。この2つの事故は一見自動運転の問題のように見えるが、それよりも根本的な人間の欠陥とクルマの運転における危険性の問題なのである。

前述の事故のうち後者については「レベル2」の話だそうで、当然メーカー的にも責任が運転者にあるということは主張しているようである。日本でも現在あくまで「運転支援技術」であって「自動運転」ではないしメーカーもそれを強調している。その中で日産が「プロパイロット」という微妙な表現していることには疑問も感じるが、ちなみに日産のレベル2と国内他社のレベル1の違いは「全車速」か否かという点だけのようであり中身的にはそれほど大きな違いはないように思われる。

市販されているもののうち「HondaSENSING」には試乗したことがあるのでまずはそのときの感想。
速度を一定に保ち更に前車に追従して加減速する、言わばブレーキとアクセルの支援機能である「ACC」については、初めは必要性すら疑問だったが実際使ってみると運転の負担軽減を実感することができたし、実用的という意味で「自動運転」としてもある程度のレベルにあると感じた。
これに対しステアリングの支援機能である「LKAS」については、勝手にステアリングが動くということには確かに初めは驚かされたが、実用性という意味ではハッキリ言って使えない、まして自動運転などというものには程遠いというのが正直な感想だった。
LKASを機能させるにはまず運転者がそれを使うことを選択し、そのうえで車速が65km/h以上となることが条件である。この車速制限により一般道では機能しないというタテマエになり「レベル1」ということになる。
実際どうかというと、機能しているときはステアリングが勝手に動いてカーブでも直線でも車線内を維持し、白線を認識できない場合などはそれを告げる警告音が鳴り即座に機能が解除されるのだが、一般道はさておきいわゆる高規格道路でもかなり頻繁に機能は解除された。というのも積雪寒冷地域では冬期間積雪により白線が見えないだけでなく、厳しい気候や除雪作業による白線の損傷が著しく夏季であってもそれらが完全な状態で維持されるのは難しい状況にある。このような状況では頻繁に解除と復帰が繰り替えされ、現実的にはほとんど意味がないと言えるレベルであった。これについてはあくまで白線という道路状況のせいではあるが、現時点では(おそらく将来的にも)白線が完璧に維持されるのが当然ということでは決してなく、その中でそれらに依存するという時点で全体から見ればごく一部の状況でしか正常に機能しないということになり、整備の行き届いた高速道路を相当利用するユーザーでなければこれを「使える」と捉えることはできないだろう。
また個人的にはそもそも自分が普通に運転している時にステアリング操作自体に負担を感じたことは正直全くなく、それどころか自分の感覚で何ら問題なくステアリングを操作している時に必要のない「アシスト」が介入してくるのはむしろ鬱陶しいものであり、これを「運転がラクになった」と捉えることは全く出来なかった。確かに自分はクルマ好きで運転自体が苦にならないという部分はあるかも知れないが、それでもACCについてはラクだと感じるし、おそらく多くの人にとってアクセルやブレーキに比べステアリングはそれほど負担ではないだろう。ただ白線が完璧な高速道路を何時間も走行するような状況で、普段から車線の維持というステアリング操作に負担を感じている人にとってはラクなのかもしれないし、このあたりは個人の感覚によって評価は大きく変わるところかもしれない(ただどちらにしても利用できる状況はかなり限られてはいる)。
とは言え運転がそれほど苦でない自分でもステアリング操作に相当気を使うということも実際ないわけではない。例えば著しい強風の高速道路では車線を維持するだけでも精神的な負担となるし、車線変更のときなど追越車線と走行車線をスムーズに移動するようにクルマが動いてくれればラクかもしれない。脇見ではなくとも道路上の何かに注意を払わなければならないときもあるし、そのようなときはついつい車線をはみ出しそうになることも、誰にでもあることかもしれない。このような場合は「アシスト」が負担軽減となることはあるだろうとは思う(単に負担軽減という意味では騒音や振動、自然なハンドリングや安定性、視認性やシートの作りなど自動運転以前のクルマとしての基本的な事のほうがよほど重要なハズだが)。

結局試乗ではLKASについては「頼れない」という結論に至ったが、一つ気づいたのは自分にとってはどこまで「頼れるか」ということが最も重要だということである。
ACCとLKASは、現時点では通常の運転を補助する、負担を軽減するというものでありそれまでの異常事態を検知し事故を未然に回避するという機能とは明らかな違いがある。これらは将来的な完全自動運転には当然必要な技術だが、現時点では発展途上であるためあくまで「支援」「補助」という位置付けになっている。
が、これはこれで問題をはらんでおり、仮に「頼れる」ということになれば人間はそれを頼るのが当然であり、「アシスト」されることを前提としてしまうのである。これは人間の本質的なものであり、それをしないという事自体ムリがあるハズだ。
仮にLKASが「頼れる」ものである場合(現状でそう判断する人もいるだろう)、脇見や速度の出しすぎなどの運転者の不作為を助長してしまう恐れもあるのではないだろうか。例えば強風の高速道路ではまず速度を落とすのが基本中の基本だろうが、LKASを過信して速度を落とさない人も出てきてしまうかも知れない。となれば、強風+高速=不安定+危険→減速+ステアリング支援、というところまでクルマが判断、実行しなければより中途半端に危険な状況を作り出してしまいかねないのではないだろうか。この辺りは「VSC」や「路外逸脱防止機能」などとも関係するかも知れないが、現実的にそのような状況でクルマがどのような挙動をするかということと、それを受けて人間がどのように行動するかなどといったことにまで及ぶ問題であり、結果としてどの辺りに着地点が来るのか、それをどうコントロールするのかなどということはこれまでとは違う判断基準が必要となってくるかも知れない。これらは自動車メーカーにとっておそらくかなり難しい問題になってくるだろうし、社会全体がどう判断するのかということになるのかも知れない。とはいえ「全て運転者の責任」という今までどおりの考え方だけで全てを解決しようとするのは、そもそも自動運転とは何なのかということにもなるのではないだろうか。「機械がどうあれ全て運転者の責任」から「運転者には頼らず全て機械化」という全く逆の考え方に移行しようとしているのであり、その途中のプロセスには責任問題という最大の難関が存在するのである。これは完全自動化=全てクルマの責任ということになり、「全て運転者の責任」という認識を社会に植え付けることで成立してきた自動車メーカーにとっては決して受け入れられるものではないだろう。

また現在のLKASは言うなれば常に二人でステアリングを操作しているようなものであり、このような考え方は他の自動化システムではほとんどありえないと言ってもいいハズである。
例えば大型飛行機は既にかなりの部分が自動化されているそうである(自分は飛行機のことは全くわからないが)。操縦には現在一般的に常に二人の人間が必要とされているそうで、言ってみれば自動化システムと二人の人間の計「三人」が操縦しているということになるだろう。自動化システムが発達する以前はもっと多くの人間が必要だったそうで、現在のシステムは二人、三人の人間に置き換えられるということになるかもしれない。が、これらの多くの人間が皆同時に操縦桿を握っていたわけでは当然ないハズだ。必要な作業がそれだけ多くありそれを分担して行うために多くの人間が必要だったのであり、現在も通常時は作業を分担し、どちらか一方の「主」の人間が操縦できない異常事態の時に「副」が操縦する事になるハズである。もちろん二重チェックの意味合いもあるハズだが、それらは必要とされるものに限定、明確化されているだろう。大型の作業機械や工業用プラントなどでも、危険を伴う機械の操作を同時に二人の人間が行うということはおそらくないハズである。むしろ安全のためには一人の人間が作業を実行することで責任を明確化し、万が一の異常時には他者がそれを引き継ぐというのが一般的だろう。
また自動化という意味ではごくごく一般的な事務システムにおいても、例えば株取引のシステムが行った事務処理を全て人間が同じようにチェックするなどというのはそもそもシステムとして成立していないことを意味するハズだ。導入前に相当のテストを重ねたうえ、機能に問題が発覚すれば機能を100パーセントにするよう改修されるのが当然であり、技術的に自動化が難しいものや二重チェックが必要な箇所を限定しそこだけ人間が行うのがフツーである。クルマの自動運転は、人間はミスをするという前提のもと完全自動化が唯一の目標であり、飛行機よりも事務システムに近いのかもしれない。そう考えると、システムは人間を明らかに上回る処理能力と信頼性を有していなければならないハズである。LKASについては現状では人間は常にステアリングを握り、いつなん時起こるかわからない突然機能しなくなった瞬間にそれを引き継ぐのが前提ということになるが、これは自動化が実用レベルに達していないということであり、テスト段階のものを責任を運転者に課して市販化しているようなものだといっても過言ではないかも知れない。それを前提として受け入れるかどうかは個人と社会の判断かもしれないが、大多数の人が本当の意味でそれを受け入れているのかというと大いに疑問である。クルマは常に周りに多くの人やクルマが存在する状況であり、飛行機のように高度何千メートルで周囲に何もないということは一瞬足りともない。高速道路はそれに近いのかも知れないが、それにしても上空とは比べ物にならないほど障害物や危険要因があるハズだ。それだけ自動化のハードルは高いハズである。

結局、中途半端なものでも頼ろうとしてしまうのが人間である。自動ブレーキの登場当初PRイベントで壁に激突した事故がマスコミに大きく取り上げられたが、実際自動ブレーキの過信による事故も起こっているようであり(あまりマスコミは取り上げなくなったが)、前述のアメリカでの事故もこういうことだったと言えるのかも知れない。運転者は死亡したが、他人を巻き込まなかったのは単に運が良かったとしか言いようがない。
もちろん何事にも長短があり、デメリットを上回るメリットがあればそれは実用化されるべきであるとは思うし、仮に一つの危険性が助長されたとしてもそれを上回る安全性が得られるのであればその方向に進むべきだとも思うが、少なくとも現時点ではそうはなっていないと思う。やはり完全自動化以前の中途半端な支援は危険を助長する可能性が高く、強いてメリットがあるとすればやはり運転者の能力が明らかに低下したときそれを補完する、あるいは明らかな危険が差し迫ったときにそれを避ける、ということに限定されるべきなのではないかと思う。

最後にもう一つ、これは多分に感覚的なものであり、個人の資質の問題でもあるが、ACCがあるだけでも運転に対する集中力は低下する、それは実感した。
Posted at 2018/04/15 22:00:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年03月24日 イイね!

団塊ジュニアの老後

社会も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

子供の頃は日本の歴史上最も物質的に豊かな生活を送ることができたが、社会に出てからは全てが悪くなる一方という、少し哀れな世代が団塊ジュニアである。そして彼らにとって最も悲しい現実は、人生の最期に待っている。もちろんそれは時代のせいであって誰のせいでもないのだが。

20年後、団塊ジュニア世代が65歳以上となり現在で言う定年退職の年齢となるが、その頃には日本のサラリーマンにとって「老後」という概念の根幹である「退職金」と「年金」は100%崩壊するといって間違いないだろう。そもそもそれ以前にこれだけ多くの非正規雇用が生み出されたなか定年も退職金もへったくれもないというハナシにはなるのだが、いずれにせよその頃には正規非正規に関わらずこれまでの「老後」の概念自体が崩壊するのである。

退職金についてはあくまで企業が運営するものであり、単純に「払うカネがないから払えない」という理由だけで充分だろうし、可能性についても議論の余地はゼロである。
言うまでもなく問題は年金の方だ。これは日本の社会全体に相当の影響を与えるハズである。
本来ならこの話をする前にまず「崩壊」「破綻」という「言葉」の定義と、なぜ崩壊するのかという「理屈」「根拠」が必要なのだが、後者についてはここではあえて割愛する。
ネット上では破綻「する」か「しない」かのハナシばかりだが、問題なのはある時点と比較して要件あるいは水準がどう変化するのかということであり、それを「破綻」と呼ぶか呼ばないかということは全くもってどうでもいいことである。
自分の中ではまず支給金額だけでこの50年間の平均的な年金生活者と同等の生活ができなくなった時点で「破綻」となる。
そしてもう一つ、支給開始年齢が常識的かどうかということであり、それが70歳となった時点で自分の中では「破綻」となる。
言うまでもなく国家がこのような定義をすることは絶対にない。まず結果としての全体の水準ありきということ以外なり得ず、それについて国民に対しもっともらしい理屈を付けて、100年後も存続すると言い張るしかないのである。

20年後、支給開始年齢が70歳となるのは確定的である。10年以内に定年が65歳となり、更に70歳とすることができるか、もしくは逆に定年の概念自体がなくなるかどうかというところである。どのみち70歳定年というのは企業側からの反発が大きいハズでありとりあえず65歳ということになれば、支給開始の70歳までの5年間はいわゆる再雇用制度やアルバイトなどで食いつなぐしかないということになる。仮にそれが可能だとした場合、最終的にカネを払うのは企業であり、形としては企業が年金を肩代わりすることになると言ってもいいだろう。もちろん労働の対価としての賃金という形にはなり、企業が必要として雇用するなら何も問題はないが、例えば一定数以上雇用しなければならないなどと法律上定められることになる可能性はある。これはどう考えても企業にとって相当のリスクと言わざるを得ないだろう。もちろんその金額については労働者一人あたりで言えば僅かなものとなるのは間違いない。再雇用では給料をどれだけ減らされても労働者は文句を言えないという判例は既にちゃんと出ているのだ。これは既にそのような考え方で世の中が動き始めているということでもあり、当然大企業などは少しでも負担を減らすための対策を検討していることだろう。
しかしそれ以前に根本的な問題となるのは、そもそも最低限の雇用、労働需要が存在するだけの経済状況と産業構造にあることがこの考え方の大前提だということである。仮に経済自体が現在より相当縮小するような事になれば、年金がなければ働くしかないという形を取ることすら不可能である。もちろんそれは全般論として現在の年金であっても同じことではあるが、雇用という形を取る以上企業側にとっては経済状況を理由に「できない」とすることは当然だろう。そうなるともはや年金の代わりとなるものは生活保護しかないということになり、国家としてはかなり苦しい状況となるハズである(ベーシックインカムなどという考え方はこの辺から来るのだろう。実現することはまずないだろうが)。ただ労働需要という意味では、少子化による人手不足が深刻化するというハナシもあり、既にその方向に誘導するような情報が流されているということを考えると、この辺りはそれなりのバランスが保たれることにはなるのかも知れない。

労働者としては、そもそも70歳まで「働ける」ということがホントに当たり前なのだろうかという疑問は拭えない。こればかりは老化という自然の法則であり、いくら医療が進歩した現在でも、それが当たり前というのはさすがにムリがあるだろう。
実際自分の場合は70歳まで今の仕事をすることは能力的に難しいと思うし、まして就職してから50年間近く同じ場所で働くなど、感情的には考えたくもない。
ここまで考えるとそもそも65歳に達する前に、「働く」という選択をすること自体バカバカしくなってくるのは果たして自分だけだろうか。またその頃にはそもそも働きたくても働けないという人も相当な数に昇るだろう。そうなればそのような人たちは生活保護に向かうことになるハズである。その方が70歳まで働いたうえで年金をもらうよりはマシ、ということになりかねないのではないだろうか。そうなれば当然生活保護の財政負担が増加することになり、そうならないためには給付水準を下げ、支給要件を厳しくする、ということになるのは間違いない。生活保護についても、それを破綻と呼ぶかどうかというだけの問題となるのである。

確かに年金は掛け金を運用することで成り立っているという制度的なハナシはある。が、国家が運営しているという点において最終的には全ての責任は国家にあるのであり、ということは結局運用で回らなくなれば税金が投入されることは間違いない。当然消費税の大幅増税もあるだろう。結局国家予算全体のハナシであり、年金も医療保険も生活保護も公共事業も含めその中で何にどれくらい支出するかというだけのことである。つまり年金が破綻するということは医療保険も生活保護も公共事業も全て破綻するということだといっても過言ではないハズだ。もちろんここでいう「破綻」も、今現在我々が考える平均的水準を相当下回るということを言っているに過ぎず、ゼロになるという意味ではない。当然国家としては予算全体のバランスを取りつつそれぞれの水準をコントロールしながら、それらが妥当な水準なのだという理屈をつくり上げるだけのことである。となれば、年金の優先順位は生活保護よりは上に設定されるハズだ。でなければ皆生活保護を選択することになる。ということは年金が本当に苦しくなるある程度前の時点で、生活保護は相当水準を下げることになるだろう。

結局、年金、医療保険、生活保護が相当水準を下げるのは確実でありそれがどれくらいなのかという問題なのである。自分の中では少なくともこの50年ほどの水準については一定の範囲内というイメージはあるので、それ以前の日本をイメージするのが判りやすいのではないだろうかと思う。ということは今から60年ほど前、2040年から見ればその80年前、1960年頃の60歳をイメージしておくのがちょうどいいのかもしれない。あの頃の老人の生き方しかないのだと考えればなんとなくイメージは湧くし、老人などというものはそんなものだという気もする。平均寿命まで生きても年金をもらえるのは10年そこそこ、所詮年金などというものはそれくらいのものだったと考えれば多少判るような気もしないでもない。
ただ、社会も家族も働き方も当時とは相当形を変えており、大勢の子どもたちに囲まれ家族に支えられて生きていたあの頃とは違い、老人ばかりの社会の中、夫婦でまたは一人で黙々と生きていくということになるのだろう。逆に必要に迫られて家族が肩寄せあって生きていくという形の社会に戻っていくのかも知れない。言うまでもなくクルマなど所有できるハズもない。

結局どれだけ考えようとも「自分しか頼るものはない」「諦めるしかない」ということであり、それが国家の思うツボであったとしても、そうとしか言いようがないのである。もしくは全てを受け入れたうえで「とにかく今さえ良ければいい」という生き方も、逆に大いにアリだろう。
またこれらはあくまで団塊ジュニアにとってのハナシであり、彼らがこの世を去る頃にはまた状況は変わるハズである。国家として見ればその時が来るのを待つだけだと言ってもいいのかもしれない。
そう考えれば、戦後日本の成長を支えた団塊の世代をなんとか最後まで送り届け、少なくとも幼少期だけは豊かに過ごした自分たちが全ての損を被り、閉塞した時代を生き続けるその次の世代にこれ以上の負担を残すことなくこの世を去るのが、団塊ジュニアにとってせめてもの美学という考え方もアリかもしれない。戦後日本で何を残すことも無かったこの世代が最後に意義のある何かを残せれるとすれば、それはせめて「何も残さない」ことなのかもしれない。
Posted at 2018/03/24 20:44:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年03月17日 イイね!

自動車メーカーと自動車レースについて

日産が今シーズンからフォーミュラEに参戦するということで感想。
というよりかつてのF1ブームにハマったおっさんの単なる「郷愁」である。

「少しでも人々の生活をラクにするため」「少しでも人々の暮らす環境を良くするため」、そのような想いでモノづくりをしたといわれるカリスマ創業者の、20年前に読んだそんな伝記本のハナシを真に受けている自分が一番愚かであるということは重々承知している。そもそもその本の内容が事実かどうかすら知る由もなく、もちろん今はそんなこと現実的にはあり得ないという認識はある。が、もしかしたらこの時代はまだそんなことがホントにあったのではないか、少なくともそう思えるような、これぞまさにプロダクトアウトという技術を形にしてきた過去の事実は確かにあったのだろうと思う。それを見て感心していたかつてのクルマ好きとしては、ここ20年以上そのような感情を抱いたことがないという事実は残念としか言いようがない(それから30年近い月日が経ったことに愕然とする今日このごろである)。
技術で社会を変えることができるということを、そして人々に夢と興奮を与えることができるということを世界最高峰のレースに参加することで示してきた彼が、その結果蓄積した技術と資本の現状を見ることがあったとしたら、果たしてどう思うだろうか。

あの頃なぜあれほど多くの日本の人々がF1に夢中になったのかといえば、単純に日本のメーカーが世界の頂点に立ったという、それまで出来なかった日本人にとってまさに「夢」だったことだからである。70年代80年代という夢はいつか必ず実現すると思われていた時代にあって、日本がそれまで追い続けてきた世界についに届いたという物語性は、多くの人々にとって単純ながらも大きな感動となった。2週間に一度午前1時に起き出してまでテレビを見るほどの興奮を得られたのは、画面の向こう側にあった憧れの世界と繋がることができたからだろう。
ということは逆に言えば、一度世界の頂点に立ってしまった後は仮にどれだけ勝利しようとももう二度と同じ興奮を味わうことはできないということになる。それは人間の認識や感情の仕組み上どうしようもないことであり、仮にその後何年も勝ち続けたとしても当時のファンにとってはもう興奮することはできないのである。

もちろんF1を含め一般的にプロスポーツというものは全て「興行」であり、例えば日本のプロ野球がそうであるように常に勝者に自分を投影し、勝利という結果からくる満足感をだけを求める人々が、観客、視聴者あるいはファンと呼ばれる「消費者」の大半であることは間違いないだろう。当時のブームは単に勝利という結果を消費する人々に対してそれを供給していただけという見方もできる。
またあの頃のブームは、F1をプロレスと同じ手法でショーアップし特定のドライバーを「妖怪とうせんぼじじい」などと面白おかしく表現することで人気を集めていた某有名アナウンサーの功績だとする意見も多くある。それが事実であったとして大半の人々がそれが面白くて見ていたのだとしても、それはそれで別に構わないし世の中そんなものだということは理解している。

しかし、当時カリスマ創業者は興行に参加する意図でF1に挑んだワケではないし、ファンの中にはただ16戦15勝という結果を消費していたワケではない人々も多くいたハズである。世界の有名チームとの戦いに、テレビに映るドライバーやメカニックの仕草に、何気なく積まれたタイヤに、なんとも言えないカッコよさを感じていたのだ。それはやはり今まで見たことのない、未知の世界への憧れだったと言って間違いないだろう。

彼が挑んだレースの世界では技術は絶え間なく進み続けるのが当たり前なのであって、技術の研鑽自体が目的なワケではない。その中で更に優れた結果を出すために、他のチームとは違うまだ誰もやったことが無いような何かを追い求めているのである。彼がそれに挑んだのは、それがまだ日本で誰もやったことがないことだったからであり、そしてその中でも誰もやったことがないことをやるんだという信念があったからこそである。つまりそのような中で本当に必要なのは結局技術そのものではなく、その技術で何をするのかという、技術者としての衝動的欲求だったのだろうと思う。チャンピオンになったのはあくまでその結果であり目的ではなかったと言ってもいいかも知れない。もちろん最初の挑戦とその後ではその目的、目標が同じというわけではなかったかも知れないが、少なくともそれはやはり「未知の世界」への挑戦だったことは間違いないだろう。

そしてカリスマ創業者は死に、時代も変わった。

今のF1はあの頃のF1とは全く違うものである。が、F1が変わったワケではなく、時代が変わり見る側が変わったのだ。逆に言えば、F1はあまりにも変われなかった。F1はマシンあってのスポーツだが、あの頃以前の30年間と比べそれ以後の30年間はマシンもエンジンもタイヤも見かけ上はほとんど変わっていない。その中でいくら高度な技術を競ってもそこに物語が見えてくることはなかなかないし、その上で見えてくるゲーム性や人間性はなおさらである。かつての栄光のチーム名を冠し、それにふさわしいとされるドライバーが仮にチャンピオンになっていたとしても、あの頃を知る人間にとっては同じ価値は無いと言っていいだろう。なぜならそれは新しい挑戦ではないからからであり、新しい価値がないからである。どれだけ技術が進歩しようと新らたな価値が与えられなければ、あの頃のファンは興味を持たないだろう。
おそらく彼なら今のF1に参戦することはないだろうし、全く別な新しい何かに挑戦していることだろう。しかし今の組織にはそのような決定は絶対に出来ないと言って間違いない。そもそも今の組織にとってF1に参加する意味は、欧州市場の販促策として有効だからというごく普通の理由以外にないハズだ。確かにブランド作りは重要であり、その意味では国内向けには何もしていない割に欧州向けにはちゃんと戦略を実行しているとも言える(実際F1はもはや国内にはあまり効果はないだろう)。ただ果たして莫大な投資がそれに見合うのかという判断にしかその根拠を求めることはできないような組織にとっては、とりあえず結果が出ればいいということだけがその唯一の目標となり、参戦するにも撤退するにも誰にもその決断をしづらい、ただのお荷物的存在になってしまうのではないだろうか。組織内部がそのような空気だとしたら、どんなに予算があっても技術者のやる気は高まらないだろうし、まして単に技術力だけでなくまずその世界の中で徹底的にやりあう姿勢が必要なF1界では、技術者が自分たちの仕事をやりつくすことすらできないのではないかとも思う。
そのような観点からすると、フォーミュラEの方がコストも遥かに低いハズだし、チームやメーカーの影響力を発揮できる余地もあると思うし、新しい何かという物語性もある。技術者のやる気も高まり、ファンの興味も引くことだろう。が、今の組織には新しい挑戦などそもそも必要ないし、ましていわゆるファンなどというものはもはや全く必要ではない。かつての偉大な実績というお墨付きがあってなんとか誰かが決断できるF1と比較しても、フォーミュラEへの参戦を決断することに初めからなんら意味を見出すことはできないだろう。それは組織の論理で生きている人間にとっては当然のことであり、現在の組織で決定権のある人間は100%そういう人間なのである。

とはいえ今の成熟した社会では、そのような人間こそが本当の勝者であるということは間違いない。彼らがどのようにして組織の頂点に上り詰めたのかということこそが伝記本として出版されるべきだが、本を読まなきゃそれが判らない者にも、逆にそれを他者に明かすような者にも、初めからその素質はないということになるだろう。
Posted at 2018/03/17 21:00:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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