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2019年01月05日 イイね!

平成の終わりと団塊ジュニア

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
正月ということでネットやテレビばかり見ているおっさんだが、言うまでもなくそれらを全て真に受けているワケでは決してない。「みんカラ」も、ただそれらをネタにを古くからの友人と雑談しているような気持ちで言葉にしているだけである(もちろんこんな言葉遣いで話すワケではない)。皆フツーにクルマが好きであり、試乗したクルマのレビューも自分が感じた全てを彼らにどう伝えるかを意識している。
というかそもそもみんカラはいわゆる「SNS」という、それこそ離れた友人とまるで会話のようなやり取りを可能にするためのモノなのだが、そこはやはりおっさんである。そのような「繋がり」は全く必要としていないし、実際そういった使い方は全くしていない。こうして文章にすることは自分の頭で考えることの良い練習にもなり、脳の老化防止にもなり、老後の生活の糧とするための日本語の練習にもなる(かもしれない)というだけのことである。

平成も今年で終わりということで、おっさんの世代はまさにこの時代と共に大人になってきたワケだが、一言で言えばバブル崩壊と失われた20年、まさにロスジェネという日本にとっても象徴的な時代だったと言えるだろう。
団塊ジュニアとしては、昭和というある意味絶対的な時代からバブルを経ていざ社会に出ようとした途端全てが悪くなる一方という少々哀れな世代となってしまったが、ミレニアルと呼ばれる一つ後の世代から「社畜」などと呼ばれるようになってしまったのは、一体なぜなのだろうか。

「戦後教育」を受け「受験戦争」をくぐり抜けてきた50代40代が行き着いた先がこのありさまなのだが、教育といえば最近よく耳にする「働き方改革」でも特に教職員、教育現場の疲弊が問題視されているようだ。が、そもそも自分たちの労働環境をどうすることもできず、教育を業務としてこなしてきただけの公畜(社畜の公務員版、本来の「公僕」とは違う意味合いで表現してみたつもりだが)に、理想の教育などできるハズもないだろう(そもそも理想の教育とは何かというのはまた大きな問題だが)。また「反戦平和」「自由平等」などという思想の中心的な存在であり、かつて一大勢力を誇った教職員の労働組合も、現在は全く見る影もない。これも結局労働組合とて所詮組織であり「組織の論理」によって崩壊するということの証明でもある。そもそも今頃になって政府主導で働き方改革が叫ばれるという時点で、労働組合もすでに終わっているとしか言いようがないのだ。
結局、戦後教育といえど組織の論理によって崩壊した旧日本軍や日本社会の反省が生かされることなど全く無かったと言えるだろう。本来であれば、組織の論理によって国家までもが崩壊するというのは自然の法則であり、それを避けるにはまずそれを認識し具体的な対策を講じるということが必要なハズだが、そのようなことは日本の教育はもとより政治、思想においても全く聞かれることはなかったように思う。教育現場に例えれば、「いじめをなくそう」「いじめはあってはならない」などという言葉だけを掲げ、何の結果を出すこともないまま何十年も同じ過ちを繰り返しているということに対して、誰一人指摘するどころかそもそも問題として認識すらされていないのである。いじめをなくすことはできない、だから起きた時の対策を講じる、そんな当たり前のことが全くできないのが日本人なのだ。
結局為政者の思い通りの教育がなされ、戦前と何ら変わりない集団主義の人間が大量に生産されてきたということは、現在の社会を見れば明らかだろう。戦後教育を受けてきた大多数の人間が今や立派な社畜(「会社」の社ではなく、「社会」の社かもしれない)となったのである。

「スクール☆ウォーズ」や「3年B組金八先生」は、自分たち団塊ジュニアの少し上の世代にあった「校内暴力」時代を描いたテレビドラマだが、数多くの我々小学生も当時そのテレビを漠然と見ていた(主に平日夕方の再放送だったが)。
世代が違うのでハッキリとは判らないが、この時代はいわゆる「受験戦争」のピークだったようであり校内暴力はその反動ということだったようである。そう考えるとまさに戦後教育、そして学校とは単なる学力による競争原理のシステムでしかなかったと言っていいだろう。「レッテルを貼る」という言葉を小学校の国語や道徳の授業などでも聞いた憶えがあるが、かたや学力だけで評価された人間、かたや学力だけで排除された人間という、格差、二極化、空洞化といった負の側面が健在化したということでもある。高度成長期の後バブルに向かう狭間であり、あまりに急激な発展というものはやはり社会の歪みを生み出すということのようだが、そもそもなぜ経済発展から受験戦争というものが生み出されたのだろうか。
それは当然その時代の大人、つまり「親」たちに原因があることは間違いない。社会が経済的に急激に発展する中、自分の子供がその社会で生きていくために必要なことは何かと考えた時、「いい大学」「いい会社」ということしか目に入らなかったということなのだ。大学、会社という「組織」に完全に依存することをのみを子供の人生の目的と考えたのである。もちろんそのほとんどは子供のためを思ってのことなのだろうが、結局それが正しかったのか、どのような問題を生み出すのかということまでは誰も判っていなかったのだろう。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というギャグが流行ったのもその頃らしい(記憶が定かではない)が、この超有名な流行語は全体主義的社会の風潮を揶揄したものであるのに対し、「非行を助長する」などとして批判するというまさに「陳腐」な「親」や「教育者」が大勢いたのも事実だったそうである。
結果としてこの世代の青少年たちの一部は「暴力」という形で「反抗」することとなったのだが、今思えばそれは人間としての自然な反応として顕れていたのであり、むしろ良かったと言ってもいいのかもしれない。おかげで如何に非論理的な日本人でも少しは反省し、考えを改めた親たちもいくらかはいたハズである。

確かに、自分より10歳ほど上、つまり現在の50代、「学力」「学歴」のみでその時代を通過してきた、そんな上司が大量にいる(ような気がする)が、逆に社会に対し明確な形で反抗してきた人々も数多くいるということにもなり、そのような人々が我々団塊ジュニア世代にある意味強い影響を与えてきたという部分も実はかなりあると思っている。というのもこの世代には現在の日本のロック界を支える人々が数多くおり、我々の世代にとってまさに兄のように影響を受けた存在となっているといっても間違いではないだろう。もちろんそれは80年代という日本経済の絶頂期とも若干重なり、所詮資本主義の一部としてのことだったというのも否定はできないが、彼らが過ごした学生時代だからこそ吸収できた、主に海外から届けられたその音楽文化と精神性を社会に発信し始めた結果、それを我々の世代が享受するという形となったようにも思える。
金八先生より少し後の時代の高校を描いたテレビドラマ「はいすくーる落書」が放送されたのが、まさに平成元年である。その主題歌が当時若者の間で強い共感を得ていたことを考えると、校内暴力時代を通過してきた世代が発信し始めた音楽と、反抗することの意味とは何かというメッセージによって、自分たちの世代は多少救われたのかもしれないとすら思う。ストーリーは全く覚えていないが、「はいすくーる落書」はそれなりに流行っていたハズであり周りの友達も結構皆見ていた。自分としては面白がって見つつもそこに描かれる荒廃した高校の様子を見て不安になったりもしたものだったが、いざ高校に入ってみると少なくとも自分が行った学校では恐れていたほど荒廃してはいなかった、というかむしろ全然フツーだった。もちろんそれなりに色々な人間がいてそれなりに色々なこともあったが、それはまさにその主題歌のとおりという感じだった。舞台となった架空の高校名が「〇〇実業」だったということで実業高校系の団体が「イメージが悪くなる」と抗議したという話を聞いた時も、大人たちの陳腐さを感じたのを記憶している。自分でいうのも何だが、少年達のほうが現実を判っていたしある意味よほど大人だったと言ってもいいだろう。少なくとも自分は校内暴力も受験戦争も実感してはいないし、高校進学は当たり前ではあったものの大学進学は個人の問題という感じだった(これについては地域性もかなりあるかもしれないが)。世代としても一つ前の世代とは明らかに違ったと思われるが、漠然とではあっても一歩引いてそのような時代を見ていたことが、無意識のうちに社会というものを認識することに繋がっていたと言ってもいいのかもしれない。
ただそのような客観的な認識を持つのはやはり一部の人間であり、日本の教育、社会の仕組みはほとんど変わることはなかったというのも、残念ながら事実である。弱い者たちが更に弱いものを叩く、それは永遠に続く人間性なのである。

昭和から平成に至るまで中学、高校を描いたテレビドラマやマンガは数限りなくあるが、それは青少年が社会に向かって成長していく中でそれらを必要としている、つまり「需要」があるからに外ならないだろう。内容的は主に部活動などスポーツや芸術を通じて人生に必要なものを学んでいくというモノもかなりの数に上るが、現在そのスポーツ界がこれまた大きな問題となっているのである。

スポーツ界の問題のまず一つ目は、選手(というよりむしろ「子供」「青少年」「未成年」)に対する「指導方法」と「指導者の資質」である。

競技活動だけに没頭することで外界から隔離し、ギリギリまで身体を酷使し、人格を否定するような暴言を浴びせる、まさに洗脳の三要素を絵に書いたような軍隊式指導法がようやく批判に晒されているというのも、戦後80年もの間何も変わっていなかったことの証明だが、そのような指導方法あるいは指導者を支持する人間が未だに大勢いるということもまた厳然たる事実だ。
一般的にチームスポーツは社会性を育むのに有用だと考えられており、もちろんそれは日本だけではないだろう。スポーツ界はまさに社会の縮図のようなものであり、そこで生きるための方法を学ぶことはその後の人生を生き抜くためのまさに社会勉強である。ただ同じ社会勉強でも、単に組織に服従する訓練をしているのが日本人であり、自分でどうするのかを学ぶのが例えばアメリカやドイツ、ということなのではないかと思う。そもそも目指すべき社会が全く違うということが、スポーツの指導方法にも顕れているということになるだろう。現実の社会や本当の自分とは何かを知らない子供達に特定の価値観を一方的に押し付けているという意味では、教育や指導というもの全てが洗脳だと言えなくもないが、だからこそ教育というものの本来の趣旨からすれば「自分で考える」こと、つまり「自主性」こそが最も重要なハズである。が、そのような話は日本のスポーツ指導者からはほとんど聞いたことがないし、いわゆる教育者ですら所詮ハナシだけで実際の現場ではほとんど見られないと言ってもいいだろう。日本人はとりわけ「自分で考える」ということが身についていないということは間違いない。自分で考えるということはそれがまさに「論理的」思考に繋がっていくのであり、「自分で考えない」ということはまさに「組織依存」「集団主義」、そして「自分で責任を負わない」という「責任転嫁」へと繋がっていくのである。例えば「エスカレーターの右側を開ける」などというあまりに愚かな発想が瞬く間に日本全国で「マナー」として定着するのは、ほとんどの日本人に自分で考える能力が欠如している証拠であると同時に、わずかな疑問を持つことすら避け、ましてそれを社会に問いかけること、闘うことなどありえないということの象徴的な現象である。このような性質は単に愚かであるだけでなくまさに「悪の陳腐さ」に通ずるものであり、恐怖すら覚えると言っても過言ではない。

一般的な競技団体(フツーのスポーツ教室など)においては、現実問題としてどんなに「凡庸」な指導者でもその組織においては「先生」であり、それ自体を批判するのもまた難しい問題ではある。が、理想を言うのであれば、だからこそ指導者は常に謙虚でなければならないのではないだろうか。また指導者も選手も、スポーツの本質とは何なのか、何のためにそれをやっているのかという哲学を必ずしも皆が持っているというワケではない。子供が一定の年齢になるととりあえず社会勉強として何かスポーツを、ということはよくあることでありそれ自体何ら問題はないとは思うが、親がそれを「続ける」ことにだけ意味を求め、子供は親の意志に従うことだけに意味を求めるということも、実際かなりあるようだ(「尾木ママ」のテレビで見ただけだが)。また進学や就職の際に少しでも有利になるようにという「利益」のためにその競技を行っているということも往々にしてあり、だからこそ指導者、組織、競技団体に「依存」してしまっているということもあるようだ。結局指導を受ける側、その多くが子供ということは実際のところその親が何の哲学も持っていないのだから、依存という形になるのも当然である。そのような選手(とその親たち)にとって判断基準となるのは「名門」「有名クラブ」「有名指導者」でしかなく、また競技団体や指導者側がその判断基準を満たそうとした時に必要なのは、その競技における「結果」や組織の「規模」でしかないというのも、どうしようもないことなのだろう。それが今の日本人にとってのスポーツ観、社会観、人生観なのである。

このような状況では数多くの「競技団体」においても社会の縮図としての現象が顕著なのは当然であり、これが今もう一つの問題となっているのである。情報化社会によって今までなら問題にならなかったことが表面化する中、それらの問題を自ら解決する能力などあるハズもなく、その組織における序列争い、勢力争いが一気に表面化するだけというのがお決まりのパターンである。これは全国規模の競技団体であればほぼ全てと言って間違いないし、また地方であっても例外ではない。
オリンピック候補すら輩出する、地方のとあるアマチュアスポーツチームで、選手である女子高校生に対し侮辱的発言を繰り返したとして指導者が解任されたところ、その指導者を支持する選手数名がチームを離脱するというニュースもあった。これもまた指導者の資質の問題でもあり、選手とチームの関係性の問題でもあり、そしてどんな組織もこのような勢力争いで崩壊するということの顕れでもある(もちろん個別には様々な事情があるハズでありそれについては当然知る由もなく当事者批判ではないので悪しからず)。
結局これらの問題こそが日本のスポーツ界の真の姿であり、マスコミが伝えるような美談は経済の論理で作り上げられた虚像でしかないのである。

とはいえ自分も実は意外にスポーツ好きではあり、そこには確かに何らかの「力」があると信じている。
が、それらはあくまで個人の中にあるのであり、組織の中にあるのでは決してない。
「悪質タックル」の日大生も、結果としてではあるが組織と決別することでようやくそれに気づくことができたのではないだろうか。多くの社会人がそれに気づくことすらできない中、大学生という若さでそれができたとすれば、まさにこれからが本当の「自分の」人生となるハズである。
いままで憶えた全部、デタラメだった、そう思えばいい。
答えはこころのずっと奥の方、必ず自分の中にある。
時代がどう変わろうと、自分を信じるしかないのだ。
Posted at 2019/01/05 23:45:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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