2018年02月17日
業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
今の自動運転の流れはアメリカのIT業界が発信源である。アメリカのIT業界にとって現在の技術的な最大の流れがAIであり、その消費者向け技術としての最大のターゲットとなったのが自動運転である。つまり自動車のハナシでありながら決して自動車業界から発信されたものではないというのが最大のポイントということになるだろう。実際自動運転はIT、AI技術が全てであり、自動車業界のこれまでの技術とは全く無関係といってもいいワケで、これまで技術が進んで来なかったのも、そして今それが注目されているのも、そういう流れなのである。
自動運転が本当に実現できるとすれば自動車業界だけではほとんど対応不可能という点からすると、主導権はIT業界にあるといってもいいのかもしれない。となれば自動車業界としてはEVシフト以上に影響が大きく、全く新しい戦略が必要とされることになるだろう。またそれだけでなくこれまでのクルマの概念すら大きく変化するような社会的な大変革となる可能性もある。
これは新しい資本主義の流れであり、いわゆるIT革命、イノベーションが全ての産業に多大な影響を及ぼし始めているということである。つまり自動車業界は決して自ら進んでやっているワケではなく、まさに黒船、外からの巨大な力に動かされているということになるだろう。日本で言われるIT革命とは次元が違うのだ。ただ現状では自動車業界もそれなりの影響力を持っているワケであり、当然みすみすその流れに飲み込まれることなどあるハズもない。今後はいかに主導権を握るかというのが最大のポイントになってくるだろう。IT業界とて自らクルマを作ることは現時点では簡単ではなく完全に主導権を握ることは難しいが、比較的簡単に作れるというEV化が進んでいけば状況も変わってくるハズである。そう考えると、自動運転とEVシフトはどちらも自動車業界にとっては歓迎できるものではなく、しかしそれが避けられないとすれば、少しでも遅らせながら、自らの生き残る方向性を探っていかなければならないという、相当大きな問題ということになってくるだろう。
個人的には、人間にできることは基本的にAIにもできると思っている。ただやはりそれをプログラムするのが最大の問題でありこれは少なくとも現時点ではかなり膨大な作業となるハズだ。ちょっと前にホンダが3代目フィットでDCTの不具合を大量に出したときもそれが原因と言われていたように思うが、それなりに時間と労力を要する作業であるにもかかわらず当時の経営陣がそれを軽く見たために起きたというハナシだったと記憶している。
最終的にはプログラミング、テスト、バグ取りまでAIが行う時が来るのだろうが、最も重要なのはやはり信頼性であり、そのためにはただただ実績、つまり時間が必要なのである。まして通信や情報サービスとは違い、ユーザーにとっては自分の命を預けるものであり、メーカーにとっては多大な損害を被る責任問題となりかねない重大な問題なのである。
となれば、10年やそこらで全てが変わることはまず考えられない。この歳になるとある程度時間の感覚があるが、この10年、20年、30年で何が変わったかということを考えれば、やはり実用化はまだ相当先の話だと思う。変化のスピードという意味ではライドシェアの方がよっぽど目前の問題だが、こと日本国内に関しては政治力、つまり規制でなんとでもなるので自動車業界にとっては問題とはならないだろう。
現時点の日本メーカーの見解では、クルマが完全に自律するのではなく道路や信号などのインフラと連動するのがベストだとしているが、これだと技術が進歩した時にインフラがボトルネックとなる可能性がある。またインフラ整備と管理運営は現在道路を管理する国や自治体、それに信号機や規制を管理する警察ということになるのだろうが、全国の全ての道路にそのような設備を設置するには、とてつもない時間がかかるだろう。というか設置費と維持管理費を考えれば、既存のインフラの維持すらままならないと言われている状況では、明らかに不可能である。仮にそれが技術的にベストだとしても、全く現実的ではない。そもそも発信源であるアメリカでそのようなことができるハズもなく、当然そのような考え方にはなっていない。このような日本のメーカーの主張は時間稼ぎでしかないのは明らかである。
日本のIT、AI業界は完全に世界から取り残されており、自動車メーカーはアメリカのIT企業と手を組むしかない状況である。これは国単位という既存の見方をすれば明らかな危機であり、しかし全く太刀打ちできないとすれば、どこまで抵抗できるかという発想になるのは致し方ないのかもしれない。ただそうはいってもアメリカでそれが実用化されればもはや抵抗など全く無意味となる。これこそがいわゆるクルマのスマホ化であり、「モノ」の話ではなく「モノづくり」「イノベーション」といった産業構造の変革の話なのである。日本のクルマが「ガラカー」となり、トヨタがシャープとなる日が来るかもしれない。そうならないためには、日本の自動車メーカーは日本を捨てるしかないだろう。結局どちらにしても日本のモノづくりはこれから相当の期間、敗北の時代が続くことは間違いなさそうだ。日本という国、社会、組織、人がかつての力を失ったとすればそれはある意味当然として、日本という国単位で考えること自体が間違っている、それがグローバル化なのである、ということなのかもしれない。
Posted at 2018/02/17 21:01:25 | |
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2018年02月01日
トヨタが方針を発表したので感想。
業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
30年前以上から、次世代エネルギー車といえば電気か燃料電池かという感じだった。というか燃料電池だって結局発電するのであり、この時点で少なくとも電気モーターでタイヤを駆動する、ということだけはハッキリしていたのである。この頃はまだ地球温暖化という問題は存在せず、いわゆる大気汚染と資源問題だった。
動力側、つまりクルマが、様々なエネルギー源、つまり燃料に対応するのは不可能だ。ガソリンと軽油ですらムリなのだから、それぞれの燃料しか使えないクルマが数種類存在することになる(もしかしたらこれはこれでメーカーにとって一概に悪いことではなくむしろ利益となるのかもしれないが)。
供給する側にとっても、何種類もの燃料を扱うのは設備の負担が大きく効率が悪いと思われる(これももしかしたら一概には言えないのかもしれないが)。
効率から言えば、ガソリン、軽油、天然ガス、水素など様々な燃料を従来のガスステーションで供給するよりも、充電ステーションの方がよっぽど簡単なハズだ。もっと言えば、家やデパートの駐車場で充電できれば専用のステーションすら不要である。
一方、多様なエネルギー源の発電所を作ることは当然可能であり、そして電気という単一のエネルギーとして供給することで、より効率的で安定的なエネルギーとなるだろう。ガソリンと軽油といった違う種類の動力機関を開発する必要もなければ、バッテリーよりは危険性の高い燃料を積んで走る必要もない。ということは結局、いつかは必ずEVにたどりつくというのが極々フツーの考え方なのである。
じゃあなぜ未だに電気自動車が普及していないのかと言えば、技術的にはただ一点クルマとしてのバッテリーが充電時間と航続距離の点で実用化されなかったためである。燃料電池も、というか現在のハイブリッドも、それを解決するための一つの手段である。500km走るために5分で給油できるところ何分で充電できるのか。これはクルマにとって致命的な問題だ。ただ逆に言えば、それさえ解決すればどう考えてもEVのほうが有利なハズだ(バッテリーのコストと電気料金次第かもしれないが)。
ということは技術的にいつかは必ずEVシフトは起きるのである。ドローンの急激な普及と同じ理屈だ。そう考えるとそれほど時間はかからないかもしれない。
もしそうなればもはや革命と言っていいほど世界に大きな影響を及ぼすだろう。ガソリンスタンドは確実に消滅するのである。
ここまで大きな変革と、そして莫大な利益をもたらす技術であれば、それ自体最大限コントロールしようとする考えも当然出てくるのではないだろうか。当然多くのメーカーが開発を競っているハズだが、先に世に出したものの勝ち、という単純なものでもないのかもしれない。もしかしたらバッテリーの技術はもう完成していて、表に出すタイミングを調整しているのかもしれないとすら思わないでもない(ソコまで考えるとちょっと話がトびすぎるので一旦やめておくが)。
ただやはりレアアースの問題など技術的も難しいのかもしれないし、仮に技術が確立したとしても普及レベルまで供給量と価格が安定するまでにはそれなりに時間がかかると考えるのがフツーだろう。
仮に技術的問題が解決して爆発的にEVが普及すれば、電力供給が不足するのは間違いない。ということはEVシフトは電力供給とセットで行う必要があるということになる。これはまさにEVシフト=エネルギー問題、ということである。
ただ、自動車業界もエネルギー業界も各国政府もマスコミも、そのことには触れないようにしているとしか見えないのは、これもまた当然理由があるハズだ。
現在の方向性、つまり環境問題からEVシフトを見た場合、新たに発電所を作るとなれば当然既存の化石燃料ではなく新エネルギーということになる。そのうえ自動車が燃料を使わなくなれば既存のエネルギー業界の最大勢力である石油業界にとっては大打撃となるハズである。当然、巨大な資本主義の力学が作用するワケで、話はかなり大きくなってくる。おそらく国家レベルの問題ということになるだろう。
中国や欧州がEVシフトを前面に出してきたということは、利害関係の力学の結果としてそうなったか、国家レベルでの利害関係の調整をクリアしてきたということだと思う。現在の日本は、他の国家に比べてこの手の変革を見通して全体をコントロールする能力が高いとはあまり考えられないので、これは密かにかなりの大問題かもしれない。とはいえ世界が動き出したのを見れば当然動き出さざるを得ないだろう。日本という国の性質自体は永遠に変わらないとしても、もはやこれ以上遅れをとることはできないハズだ。ただ、その進行度合に合わせた段階設定については、巨大な利害関係が絡んで単純にはいかないだろう。国ごとの事情も違うかもしれない。自動車業界としては、現実的なEVシフトの進行度合がどうなっていくのかが戦略的に相当重要となってくるだろう。各段階に置いて遅れを取ることなく、かつ最大限の利益を上げるためには、ただ先を行けばいいという単純なものでもないのかもしれない。
現在の流れであるEVシフト=エコという論理は明らかなウソといっても過言ではないが、マスコミがそれに触れないようにしているせいか未だに気づかない人が大半だ。仮に環境問題だとすれば、発電するためのエネルギー源が何なのかという問題であり、また内燃機関とEVどちらの方がエネルギー効率がいい(つまり省エネ)のかという問題である(高速巡航ではEVはまだ内燃機関を超えられないらしい)。本来ならそのことが最前面に来るハズだが、そうなってはいないのだ。
結局本当のEVシフトとは、エネルギー問題+技術革新ということであり環境問題とは根本的には全く別な問題なのである。今のEVシフト騒動は、技術革新ではなく環境問題のフリをした資本主義の論理によって起きているのであり、おそらくその裏側には自動車業界、エネルギー業界、環境業界(?)の巨大な利害関係があるのである。
本当のEVシフトは、航続距離と充電時間が内燃機関並になるという技術的ブレークスルーがなければ絶対に起こりえないと言ってもいいハズだ。かと言ってクルマに水素を積んで走るのも、現在のガソリンスタンドと同じレベルで水素を供給するのも、現状では費用対効果という経済の原理的に現実味はかなり薄いと思う。やはり既存の燃料プラス充電、つまりハイブリッドまたはプラグインハイブリッドが唯一のEVまでの繋ぎとしか考えられない。だとすれば、既存のエネルギー業界もしばらくは現状維持ということになり、利害関係にもそこまで大きな影響がない。結局大きな変化はないのである。
とはいえ、技術的にいつか必ず起きる大きな変革であるとすれば、社会的混乱を避けるためにも段階を踏んで進めていくのが理想的であり、それが「今」なのだ、ともっともらしく捉えることもできる。
もし今本当のEVシフトが起これば現状の日本の自動車業界は終わると言われている。だとすれば仮に日本メーカーがバッテリー技術を確立したとして、それをすぐさま公表するだろうか。だから日本メーカーは今まで必死でこのことをごまかしてきたのかもしれない。それにしても、自動車という基本的に変わっていないモノで50年以上もの間莫大な利益を得続けられるほど世の中が変わらずに続いていくということもないだろう。モノ作りとは、そして時代とはそういうものである。つまり今世界中でEVシフトが叫ばれるのもそのような資本主義の法則なのだ。日本の自動車業界は、EVシフトにかかわらずどのみち将来に不安を抱かざるを得ない状況であり、逆にこの期をチャンスととらえて本当のEVシフトに備えて欲しいと思う。逆に、現在のメーカーを中心とした自動車業界「以外」の人々がこの期をモノにしていくことができるとすれば、それが本当の理想なのかもしれない。成熟した資本主義では、巨大な資本はモノづくりを本業とは考えないだろう。
いずれにせよ本当のEVシフトが起きるのは、新しいバッテリーの技術が「公表される」ときだと思う。
Posted at 2018/02/01 21:33:59 | |
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2018年01月05日
理念や信念は個人の中にのみ存在するのであり、決して組織の中にあるのではない。
組織は組織の論理で動き、組織にとっては個人の理念や信念など何の意味もない。
個人の理念は個人の寿命と共に死に、人々の記憶からも薄れそしていつか消える。
組織は個人を超えて成熟し、個人の理念を排除しつつ、組織の論理に収束する。
組織の論理が組織の存在理由となり、それがいつか組織を崩壊へと導く。
これは自然の法則であり、全ての組織において例外なく絶対である。
組織が成熟した今、個人の理念がクルマを作るのではない。
組織の論理に基づいた組織がクルマを作るのだ。
組織が成熟し崩壊する自然の流れに過ぎない。
今のクルマを嘆いてもしょうがないのだ。
自然の法則の結果なのである。
誰にも抗うことはできない。
カリスマ創業者はとっくに死んだ。
そして彼の理念や信念も、彼と共に死んだ。
彼がしたようなことは、彼にしかできなかったのだ。
だがもし彼が生まれ変わったとしても、同じことは絶対にできない。
時代によって彼が生み出され、そして彼もまた時代を生み出したのだ。
偶然でもあり、必然でもあり、それを自然と呼び、それを奇蹟と呼ぶのである。
偶然若き日々がその時代と重った人々も、その奇蹟を眺めていた。
いつしか時代は終わり、それもまた自然であり、必然である。
そして多くの人々に、漠然とした記憶だけが残った。
創業者に導かれ、クルマづくりによって選ばれた僅かな人間達も、いずれ去っていく。
残るのは、巨大な資本に導かれ、組織の論理によって選ばれた多くの人間達である。
今の時代、カリスマ創業者のような人間が全くいないというわけでもないだろう。
だが今はそのような人間がいたとしても、その手でクルマを作ることは不可能だ。
もし今そのような人間がいたら、クルマとは全く別な何かでそれをやるだろう。
クルマ好きは、メーカーを好きなわけではない。
クルマ好きは、クルマが好きというだけである。
メーカーを見るのではなく、クルマだけを見ればいい。
過去のクルマが好きなら、そのクルマだけを見ればいい。
過去のクルマと今のクルマを比較してもしょうがない。
過去の時代に戻ることは、誰にもできないのだ。
過去の自分自身にすら、戻ることはできないのだ。
自分自身ですら、ずっと変わらないわけではないのだ。
クルマ好きということだけが、変わっていないというだけだ。
Posted at 2018/01/05 22:00:17 | |
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2018年01月01日
業界の実情も経済も全く知らない、最近ちょっと歳を喰ったせいか将来不安だらけというおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
団塊ジュニアが退場する20年後の国内市場に対する戦略を、メーカーはもうとっくに持っているハズだ。当然その先が大変な事になるのはとっくに判っているからである。もっと言えば、10年後すらどうなっているか判らない。団塊ジュニア世代が最後の砦と思っていたが、日本経済の先行きを見れば社会不安が急速に広まる可能性もある。10年持たないかもしれない。仮に10年持ったとしても、どのみち団塊世代に比べれば購買力は相当低くなっているハズだ。
もちろんこれは日本の構造的な問題だが、社会的要因がプラスに転じる可能性がほとんどない中メーカーとしてどのように対応するのかといえば、生き残るということにおいてはもはやクルマづくりの技術や思想の問題ではない。
もちろん世界的な業界再編の中で生き残るためには技術的優位性は当然必要ではあるが、それは国内市場に頼ることができなくなるからであり、国内市場にはあまり関係がない。状況を変えるほどの技術的革新などというのは現実としては誰も考えてはいないし、電気自動車や自動運転はそれには全く当たらないだろう。
今、国内市場でメーカーができることはただ一つ、収益率向上、企業体質改善であり、言い換えれば高付加価値化とコスト削減である。そしてその時が来ればもはやコスト削減などという問題ではなく、工場閉鎖、人員削減しか方法はない。現在大きな設備と人員を抱える大メーカーほどそうなるだろう。
メーカーとしては当然海外に活路を求める外ないが、逆に言えばそれが全てであって、それさえできれば国内市場は問題ではない。メーカーにとっての戦略といえば、もはや海外戦略のみと言ってもいいのだ。よくよく考えれば、とっくの前からそうだったと考えれば、全て理解できる。
そう考えれば、今のクルマがつまらないだの価格が高いだのということは、いかに小さいことかということである。たまたま自分は若い頃クルマを比較的安く楽しめる時代を過ごせただけのことであり、言うなればそれもまた時代のおかげなのである。そして時代というものはいつまでもは続かないのだ。メーカーのせいでも何でもない。
そのような状況の中で、もはやユーザーとしてではなく日本人として自動車業界に求めるのは、国内業界全体をただ崩壊させるということを少しでも避けるために、今のうちに何かできることはないか、ということかもしれない(高額車の購入という貢献もできない自分が言うのも何だが)。というかこれまでメーカーに頼ってきた業界の末端の現場、つまり部品メーカーやその下請の町工場が、自らその時に備える必要があるのではないだろうか。今この時点ですら日本経済をバブルと見る向きもあるようだ。自動車業界自体は必死でコスト削減を行っているところでありバブルとは無縁だが、バブルによって日本経済、ひいては市場が持ちこたえているということもあるのかもしれない。仮にバブルが崩壊すればそのまま構造的市場縮小を早めることになるかもしれない。となれば悠長なことは言っていられないかもしれない。そしてタイミング的にその影響を強く受ける可能性があるという意味で、長きに渡り主要産業として戦後の日本経済を牽引してきた自動車業界が、その最後の責任を担う時かもしれない。
今のようにコスト削減を徹底し収益を最優先するということは、その先メーカーが生き延びるためでしかなく、おそらく業界の末端はコスト削減のしわ寄せを受けているのではないだろうか(それでも業界全体が最低限の恩恵を受けていることにはなるのかもしれないが)。またコスト削減ばかり長く続けていけば技術力的にもあまりいい方向とは言えないのではないだろうか。ただ将来的に国内業界を捨ててメーカーだけがなんとか生き延びたとしても、メーカーまで消滅するよりはいいということにはなるのだろう。最悪のことを考えれば、それだけでも良しとする外ないのかもしれない。
ただ逆に、日本のメーカーを支えた部品メーカーやその下請の町工場が世界のメーカーに対してアピールできるほどの技術力を持っているとすれば、それはまた新しい時代の可能性でもあるのかもしれない。日本人はいいクルマを作ることは苦手だが、いい部品を作るのは得意なのだ。メーカー中心のピラミッドが崩壊するのが目前だとすれば、末端の現場が生き延びるためには、自ら世界にその技術力を売り込むくらいのことが必要となってくるだろう。国内メーカーにいつまでも付き合っていたら技術力が低下してしまうかもしれない。何かに守ってもらう時代は終わったのだ。その意味では日本の農業と似ているかもしれない。それくらい時代が、全てが変わりつつあるのだ。そしてその先にあるのが真のグローバル化であり、それはその気になればすぐにでも行動に移すことは可能なハズだ。もちろんそのための準備と充分な成果を上げるためには一定の時間は必要だろうし、これまでの体制との決別という大きな決断となるが、当然有力なところはもうとっくに準備していることだろう。
業界の末端の現場は決してあきらめずに、すぐそこに迫った変革の荒波の向こうを見据えて、必死で生き延びていかなくてはならないのではないだろうか。それは自分のためではなく、次の世代のためである。
Posted at 2018/01/01 20:43:44 | |
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2017年12月20日
業界の実情は全く知らない一般ユーザーの単なる「感想」と「妄想」である。
3大メーカーはスポーツグレードのサブブランド化を相次いで打ち出した。
対照的に2小メーカー(マツダ、スバル)は逆にメーカーとしてブランドイメージ化を以前から進めている。とりあえず後者は業績的にも好調のようである。
サブブランドの意味合いはどういうところにあるのだろう。
なぜメーカー「本体」ではなくサブブランドなのだろうか。
古くからメーカーはクルマの販売のためにイメージ戦略上レースに参加しており、サブブランドの多くはそのレース活動を行うための組織の名称であった。時々その名を冠してレースのイメージを商品化したクルマを販売したのは、まさに営業戦略上のブランドイメージである。ただ当然重要なのはあくまで「メーカー」であり、サブブランドはあくまでも「サブ」である。
30年前は、スポーツグレードの存在は当たり前だった。当時の若者、いわゆる団塊ジュニア世代は数的にはまさにボリュームゾーンだった。日本経済はバブルの真っ只中で若者にとってもクルマは絶対必要だったので、彼らを惹きつけるスポーツグレードは戦略上重要だった。ただしいくらバブルでも基本的に若者はカネがないので、そのイメージを前面に出しつつ価格は抑えたグレードが数多く存在した。
その中にあっては、サブブランド名を冠したモデルは性能的にも価格的にも更にその上のいわば「プレミアム」商品であり、多くの人にとっては実際は手が届かないし、そこまでは必要もない、という位置づけだった。ユーザーにとってもやはり「サブ」である。
バブルがはじけると消費は低迷したし、団塊ジュニアは徐々に実生活重視の年代になっていった。多くのスポーツグレードは姿を消し、その代わりミニバンが売れることとなる。そして日本市場はいよいよクルマが売れなくなる時代が目前に迫っている。団塊世代が最後のクルマを買う段階を過ぎ、団塊ジュニアが最後の砦である。今のところこの世代はまだ10年以上は高額なクルマを買うことができるハズだが、日本経済によってはいつ将来不安が急激に高まることになるか判らない。好景気と言われる今が勝負だ。現在は決して安くはないミニバンがバンバン売れてはいるが、メーカーはそれで満足している場合ではない。彼らに更にクルマを売るためにはどうすればいいか。その答えが「ミニバン」に「スポーツイメージ」をくっつければイイ、ということだ。
ただいまさらメーカーとして日本市場でイメージ作りという訳にはいかないしその必要もない。市場は成熟しているし、イメージはもう固まっている。それにもう長い間スポーツグレードは作ってない。何より時間とコストをかけてはいられないし、スポーツイメージが欲しいのはとりあえず今だけである。
そこでサブブランドの登場だ。この世代は「ブランドイメージに弱い」「かつて手の届かなかった憧れのブランドイメージを手にする余力が今はある」というのがメーカーの思惑だろう。
よくわからないのは、3大メーカーのうち2つは新しいブランドを全面に押し出していることだ。ブランドを育てるには時間も労力もかかるのがフツーだ。それこそレースで勝ち続けるとかそういう強いイメージがなければブランドとは言えない。その意味では、既にある程度の知名度を持つ過去のブランドを持ちだしたほうがいいと思うのだが、時間がない中あえてそうしないの理由はどこにあるのだろうか。
確かに2小メーカーに対抗するためには過去のブランドでは足りないということもあるかもしれないが、こういう時に考え方として再優先されるのは結局、営利企業としての論理である。つまりより少ないコストでより多くの利益を狙う、ということ以外にない。このブランドで売りだしたクルマを見れば、かつてのブランドイメージに留まらない、更に上の高額商品を売りたいということなのは一目瞭然だ。実際のところメーカー的に、それで売れる、それで売れれば儲けもの、それでハズしてもダメージが少ない、のどの辺りなのかはユーザーとしては全く解らないし、売れると言ってもどれくらい売れれば成功なのかは綿密な計算があるのだろうが、ただ少なくとも日本市場で「売れる」ようには思えない。
もしかしたら、かなり穿った見方だが、過去のブランド(を支えた組織や人間)は既に事実上存在しないからなのかもしれない、とも思う。要するに、メーカー「本体」とは「別組織」であるということがポイントではないだろうか。むしろメーカー「本体」とは切り離したいということかもしれない。「本体」とは違う組織、人間、がやるということは、少なくとも「本体」にはそういう人間はいないということだろう。もしかしたらそこが本質なのかもしれない。
この20年の間に「サブブランド」は「本体」からの予算も人員も相当削減され規模は縮小しているのではないかと思う。また「本体」にもスポーツグレードの開発者はいたハズだが、そういう人間も「本体」からいなくなったのである。そうだとしたらそれは組織の論理としてはむしろ自然の法則であり、大組織であればあるほどその傾向は強くなるだろう。そして今またとりあえずそれが必要になったが、それほど長くは必要ないだろう、だったら別組織として予算や人員を一時的に確保して対応していこう、というものではないだろうか。また(この辺は全く詳しくないが)、企業会計としての経理上の意味合いなどもあるのかもしれない。とにかくステークホルダーの方を向く必要がある超大企業にとっては、彼らの意向も重要な問題となってくるのかもしれない。
この辺はおそらく3大メーカーと2小メーカーの違いでもある。小メーカーは戦略上大メーカーと真っ向勝負を避けるのは当然だし、その結果スポーツとプレミアムに向かうのは自然の流れである。ブランドイメージの重要性は大メーカーより明らかに大きいし、そのためには何が必要かという考えを明確に持った人材が必要であり、彼らの仕事が結果となって現れることになる。2小メーカーは現時点ではそれを成功させており、結果としてブランドイメージだけで言えば3大メーカーに勝利していると思う。確かにこの路線では販売台数は減るかもしれないが、莫大ではなくとも収益を上げればいいのである。実際、自分の周りにも3大メーカーからマツダに乗り換えた人が数名いる。ちなみに彼らは特にクルマ好きというわけでもないフツーのおじさんたちだが、「CX−5」の評判を知って興味を持ち、購入した結果その品質には満足している。それでもクルマに詳しくない女性などは未だに「マツダ」と聞くと怪訝そうな顔をするのは事実ではあり、大メーカーのターゲットは数的には明らかに多いこちらの人たちということになる。当然そういうクルマ作りをしていくこととなり、そのほうが商売としては儲かるのだが、少しでも高額商品を売りたいとなった今、スポーツ路線のブランドイメージとなると(もしかしたら高級ブランドも)、いつのまにか小メーカーに遅れを取ってしまっている、という状況ではないだろうか。
個人的にはこと団塊ジュニアに対しては過去のブランドを持ちだしたほうが間違いなく数的にはアピールできると思うが、高額商品を購入できるターゲットに限定しようとすれば違ってくるというのも理解できる。ただ少なくともホンダがそういうやり方をすることに関してはどうしても納得いかないのである。現在の2小メーカーのようにメーカーそのものをスポーツブランドとして時間をかけて育ててきたたものを、意図したかどうかは別としてこの何年かで捨ててきた。ここに来て新しいブランド「ModuloX」を打ち出したが、そもそも「Modulo」は既存のブランド名であり、単なる純正オプションというイメージが付いてしまっていて、スポーツやプレミアムのイメージはない(なので新しいブランドと言えるのか言えないのか、要は中途半端なのだ)。それをこれから育てるとして、いったいいつそれが開花するだろうか。F1で「ModuloX」の名前でやるとかそこまでするなら話は別だが、そんなことをしてもなんの意味もないだろうし、そもそも勝負はまさに今なのではないのだろうか。どうもちぐはぐにしか見えないというか、少なくとも日本市場としてはホンダは既に方向性を失っているという気がする(既に日本市場を重視していない、特に明確な戦略を必要としていないとすればそれはそれで理解できるが)。同じく新しいブランドを打ち出したトヨタも同じ戦略なのかもしれないが、根幹となるメーカーとしてのブランドイメージを捨ててしまったホンダは、少なくともこの新しいブランドで団塊ジュニアに台数的に多くのクルマを売ることは難しいのではないかと、クルマ好きの団塊ジュニアは思っている。ただここまで考えて見ると、「シビック」を日本で売ることにした理由が少し判ったような気がする。おそらく日本市場ではそもそも台数は追っていない、最大限収益率を重視した省エネ戦略で充分、ということだろう。
Posted at 2017/12/23 22:02:47 | |
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