2021年08月31日
学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
オリンピックが終わり、現在パラリンピックが行われている中、コロナは案の定最悪の状況である。
2ヶ月前には「ワクチン接種がようやく始まったので「今になって状況は最悪」というのはさすがに今回で終わりだろうと思ってはいる(オリンピックの強行でどうなるか全く確信は無いが、それもまた以前書いた通りだ)。」と書いたが、自分の認識が全然中途半端だったことを痛感している今日この頃である。
そのオリンピック、自分は今回ホントに全く見ていない(正確にはマラソンで札幌の街をちらっと眺めたくらい)。
担当アーティストの辞任で話題となった開会式閉会式はネットのニュースでチェックしたが、世間的にはもっぱら予想通りの反応しかないようだ。
まあ当然であり、そして多くの人々はすぐに忘れるだろう。悪いことはすぐに忘れる大衆と、最初から考えない支配者こそが社会を動かしているのであり、80年前から変わらない日本人の性質の最たるものでもある。
代わって話題になったのは、名古屋市長、メンタリスト芸能人、元プロ野球選手コメンテータ、暴行問題の現役人気プロ野球選手、といったところだろうか。
これらの問題も件の辞任オリンピック担当アーティストと共通性があると思うのだが、というワケで前回の続き。
件の名古屋市長は、金メダリストの表敬訪問を受けた際、女子選手のメダルをいきなりかじったというものだ。
メンタリスト芸能人は、ネット上で「生活保護受給者は死んでも構わない」という趣旨の発言をしたというものである。
元プロ野球選手コメンテータは、テレビ番組で女子ボクシングという競技を蔑む軽口を叩いたというもの、現役人気プロ野球選手に至っては試合直前チームメイトと揉めて小突いたという、小学生レベルのハナシである。
名古屋市長の場合は、非常識極まりないという一言で充分だが、要するに彼が根本的に「そういう人間」だということだ。
彼は長きに渡り公職にありそのうえで目立つパフォーマンスを得意としていたのであって、彼の人間性など以前から分かっていたことである。ということはそんな彼を支持する多くの名古屋市民がいるということであり、それはやはり彼と同じような老人男性若しくは何も考えずに大勢側に付く愚かな大衆であるという、現代の日本社会の構造をそのまま反映しているということになるだろう。
権力意識が強く、女性を蔑視し、それでいて昨今のコロナ事情も全く理解していないうえ、いい年こいてウケを狙った悪ノリでスベる、「そういう人間」が日本の三大都市の長であるということに対し、弱者、マイノリティである女性や若い世代の嫌悪感が噴出したと言ってもいいかも知れない。
ただ選手の所属先であるトヨタが公式に「あるまじき行為」として抗議したことで、当たり前とはいえ名古屋市長がトヨタに全く頭が上がらないことを公衆の面前に晒したことは「トヨタの力」を見せつけたという意味でも注目だったし、これで溜飲を下げたという人も多かっただろうと思う。ということはこれはむしろ彼に対する援護射撃だった可能性もあるが、この先どうなるのか、その背後でトヨタが何をするのかしないのか興味深いところだ。当初IOCが「不可」としていたメダル交換までも実現させたことで、コロナ事情を鑑みオリンピックのテレビCMを取り止めた分、ここで大衆にアピールしたことはもはやさすがトヨタとしかいいようがない見事な対応だったと言ってもいいかもしれない。
メンタリストの場合は、彼が根本的に「そういう人間」なのかどうかは別(というか個人的には本気でどうでもいい)として、単なる炎上商法なのは間違いないだろう。
YouTubeチャンネルの存続まで危ぶまれているとのことなので、廃止されれば大失敗、存続すれば逆に大成功となるのだろうが、テレビCMの中止で莫大な損害賠償が発生するというハナシもある。
彼が出演したCMのスポンサーにとっては、大衆から「アウト」と判断されるのは絶対に「アウト」なのだから彼が「アウト」であることは間違いないが、チャンネルを存続させたからといってYouTube自体が大衆に「アウト」判定されるかと言えば、それはまずないだろう(この辺は全く判らないが)。ということはチャンネルが廃止される可能性は低く、となれば炎上商法としてだけみれば作戦成功と言えるのかも知れないが、YouTubeチャンネル中に流れるCMの関係など彼自身の収入的には作戦失敗ということになるのかもしれない(この辺は全く判らないが)。まあとにかくそういうギリギリのところを狙ったYouTuberの戦略または一発勝負ということなのだろう。
そもそも彼の場合、名古屋市長とは真逆で特に女性や若者から特定の支持者を得ているようで(おっさんにはよく判らないが)、そのようなキャラクターは特にネット、YouTubeに向いているのだそうだ。まして既に莫大な収入があり仮にこれから収入がゼロになったところで何の問題もないのだから、どんな方法を使ってでもカネになりさえすればいいのである。炎上商法で成功した元芸人YouTuberなど正直ロクな人間ではないと個人的には思っているが、それが成立するのがネット社会であるということもまた事実である。
元プロ野球選手コメンテータの場合は、そもそもそのような発言がこれまでも度々批判されていたが、番組としてはむしろそれが「ウリ」だったワケで、名古屋市長と同じかそれ以上に彼が「そういう人間」であることはとっくの昔から判り切っていたことではある。それでも彼が相当な長期間レギュラーとして出演しているということは即ち視聴者が彼を支持しているということであり、彼を支持する日本中の老人男性に対し、そうではない層から嫌悪感が集まっているということになるだろう。
番組側、テレビ局側としては、彼を嫌いな層は元々番組を見ていないのだから番組を観る層の支持があればそもそも何ら問題はない。むしろ視聴率を稼いでいるからこそ彼を起用し続けるのであり、結局番組制作者、番組視聴者、スポンサーが皆彼のような人間の集まりなのだ。
コメント内容自体これまでのものと大差はなく、たまたまオリンピックという一大イベントに対する発言だったことで一定数を超えるの批判を集めてしまっただけであり、とりあえずスポンサー問題ともなっていないことから、ほとぼりが冷めるのを待つだけだろう。ただスポンサー側としても今後は単純な視聴率だけでなく「視聴者層」という考え方に変わりつつあるということも徐々に表面化しているようではあり、いずれその時代が来ればテレビ番組サイドも当然変わらざるを得ないのかもしれない。
現役プロ野球選手の場合は、暴力というあまりに単純なことなのだが、これもやはり彼が「そういう人間」であることは明らかである。
それでも日ハムファンは当然として多くの北海道民は彼を「ちょっとやんちゃ」「親分肌」程度に認識することによってずっと支持してきた。
その上、謹慎期間が僅かに経過した時点で別のチームへ移籍し、何事もなかったようにプレーするというやり方にも批判が集まっているが、彼が移籍した金満チームは日本一ファンが多いのであり、過去にも数々の裏技、ルール破りを用いてある意味好き放題やってきたが、それによって人気が下がるということは一切なかったし、今回もそうだろう。
結局、オラオラ選手と金満チーム、そして彼らを特別扱いするスポーツ界とマスコミ、そしてそれらを支持する巨人ファンというエコシステムを形成するマジョリティに対し、そうではない人間達からのささやかな嫌悪感の表明でしかないのである。
そもそもなぜ件の連中が批判されているのかと言えば、「非常識」「差別」「蔑視」「不遜」「暴力」である。非常識な行動や暴力も背後にはやはり差別や蔑視や不遜があり、彼らには根本的に共通の人間性がある。これらは一般的な「社会常識」的には批判されて当然と言えるだろう。
ただ客観的に見て一つ一つの行動はどれも稚拙であり、かつ直接的な損害はないあるいはそれほど大したことではない(もちろん損害があれば法的な問題となる)。
それがここまで大きく批判されるのは彼らが「人前に立つ仕事だから」という表面的な建前以上に、「多くの利益を得ているから」に外ならない。
ではなぜ「彼らのような人間」が多くの利益を得ているのだろうか。なぜそうではない人間は多くの利益を得られないのだろうか。
一部の人間が多くの利益を得ることは、社会の法則である。多くの人間にとって、どうやってその一部の人間になるかが問題である。
プロ野球選手、芸能人は人気、視聴率という名の大衆の支持がなければ存在し得ず、まして言うまでもなく名古屋市長は選挙で選ばれている。
結局これらは全て「『彼らのような人間』を支持する人間」が大勢いるという、ある意味当然の事実を顕しているに過ぎない。
選挙で勝つこと、YouTuberとして人気を得ること、テレビで視聴率を取れること、プロスポーツで人気と注目を集めること、これらは全て共通しているのであり、彼らは根本的に同じ性質を持つ、同じ種類の人間である。
彼らは自分の利益のために他人をコントロールする能力に長けている。彼らはそれができる人間達であり、そして彼らにコントロールされている人間が実際数多くいるのだ。
そしてコントロールされる側の人間にも当然その理由がある。
彼らは基本的に表面的な部分しか見ていない。政治家であれば選挙の、芸能人、プロスポーツ選手などテレビ画面の中のパフォーマンスだけしかそもそも見えないのであり、それを喜んで見ている人間なのである。
前者は社会の法則を理解し、利用し、そして結果を得ることでそれが正しいということを認識している。
セレブ元掲示板管理者や炎上商法有名脳科学者なども皆同じである。彼らはそれを「才能」と呼ぶし、事実そうなのだ。
彼ら一部の賢い人間に利益を与えているのは、大多数の我ら愚かな人間なのである。
今回は時間がなくものすごく中途半端で前回の続きにも全くなっていないが、この先はまたゆっくり考えることにする。
Posted at 2021/09/01 18:55:14 | |
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2021年07月31日
業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
オリンピック真っ最中である(書いているのは開会前からだが)。
コロ中での開催がさんざん批判されてはいるが、おそらく日本人の大半は喜んでテレビを見ているのだろうと思う。
ときに開幕四日前、開会式などの演出を担当する日本の有名アーティストが過去のいじめを批判され辞任したという、またもや不祥事のニュースで大騒ぎとなっている。
内容としては障害者である同級生に対しかなり苛烈ないじめをしていたというもので、それ自体はおそらく小学校高学年から中学生くらいのハナシなのだが、問題はアーティストとして成功した後になってそれをおもしろおかしく、嬉々として、自分の個性として、露悪的、確信犯的、しかも継続的に、複数の雑誌の企画で語っていたというところにあるようだ。当然それを出版した複数の有名音楽雑誌もまた批判の対象となっている。
無論、人権や多様性についての崇高な理念を掲げるイベントにおいてそのような人選を行った運営サイドも批判の対象となっているのだが、有名誌に掲載されたのだから当然世の中的に知られたハナシでありながら、知らなかったで逃げ切ろうとする姿勢が更に批判されるといういつもの光景である(最終的にはやはりアーティスト本人に最も批判が集まっているようで、それはやはり内容そのものがヒドすぎるというところにあるのだろう)。
ついでに彼を音楽担当として10年以上前から起用していたEテレの番組まで休止あるいは中止になるようであり、NHKもまた同罪と見なされている(個人的には「バリバラ」や「ハートネットTV」で今後この問題が扱われるのかどうか興味深いところだ)。
ちなみにこの「デザインあ」という番組は確かに面白いのだが、やはりオリンピック絡みの「エンブレム問題」でデザイン業界の体質が明るみとなって以降、時折登場してエラそうに語る「先生」方が皆同じに見えるようになりすっかり興醒めしたということも個人的にはあった。
ついでにNHKとオリンピック絡みのハナシをすると、「パプリカ」の異常なゴリ押しぶり(しかも一年伸びたこと)にも嫌悪感を禁じ得ないのだが、当然これにも何らかの力が働いているのだろう。
結局、かのアーティストやデザイナーがオリパラに関わりさえしなければ本人もNHKも今までどおり何事もなく過ごせていたのだろうと思うと、好事魔多しというか、万事塞翁が馬というか、世の中そんなものだという外ないが、彼らが全てを失ったのかと言えば、おそらくはそれでもおつりが来るほどの利益が得られるのだろう、だからこそ皆オリンピックに群がるのだろうと思っている(もちろん本人は別にオリンピックなどやりたくなかった可能性もあるが、業界の論理に選ばれるほどの政治力を持つ証であり、まして自分は相応しくないと思っていたとか、こうなることを予見していたというワケではないだろう。逆に彼らの性悪ぶりからすればむしろこうなったことを面白がっているのかもしれないとすら思わないでもない)。
今回の問題の論点は基本的に4つある。
オリンピックの問題、いじめの問題、音楽や芸術の表現の問題、そして過去を糾弾するいわゆる「キャンセルカルチャー」の問題である。
「小山田圭吾」がオリンピックに相応しくない最大の理由 伊東 乾 JBpress 2021/7/22(木) 6:01
小山田圭吾「いじめ自慢」を生んだ「90年代サブカル“逸脱競争”の空気」 水無田 気流(國學院大学教授) 現代ビジネス 2021/7/22(木) 8:01
日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由 だから子どもは「怪物」になる 内藤 朝雄 明治大学准教授いじめ問題研究 2017/2/9
自分はそこまで音楽に詳しいワケではないのだが、人並みに音楽好きではある。
かの渋谷系アーティストも特にファンではなかったし音楽誌はほとんど買わなかったのでこのハナシは知らなかったが、おっさん世代では若い頃からちょっと音楽好きであれば彼の名は誰もが知っていた。また彼の音楽性に対しても評価は高かったし、才能があるのはおそらく間違いないのだろう。
が、音楽性と人間性は別であることはこの歳になればフツーに判ることだ。そもそも芸能界、芸能人、音楽業界とは、資本主義の権化なのである。
前回は散々スポーツ界を批判したので、今回は音楽界について考えてみる。
団塊ジュニア世代にとっての音楽は少年時代、昭和後期、70年代から80年代の日本の絶頂期を彩るものだった。経済的な豊かさは娯楽としての音楽産業に流れ込み、あらゆるジャンルの音楽を世界から吸収した時代であり、まだ子供だった団塊ジュニアはそれをなんとなく、ただただ華やかなものとして享受していた。
社会に出て分かったことだが、自分たちより少し上の世代、現在の50代中盤の音楽に対する意識は、団塊ジュニアとはかなり違うものだ。この世代に比べれば自分など意識も知識も子供レベルでしかなく、とても彼らの前で音楽を語るなどできない。
当時の受験戦争、校内暴力全盛の学生時代を過ごした彼らにとって、海外から発信される音楽は傷ついた心を癒やす支えとなっていたと言えばちょっと大げさかもしれないが、それはまさにあの「トランジスタラジオ」の世界だったと言ってもいいだろう。彼らはそれを自然に、あるいは必死で吸収し、自らの心を満たしていたのだ。やがてそれらの音楽は彼らの血肉となり、そして社会に出て自ら発信し始めた音楽が「日本の音楽文化」として日本の若者に、そして世界に発信されるようになっていった。自分たち団塊ジュニアは大人になっていく過程でこれをある意味フツーに享受していたのである。若い頃はそれらが「サブカル」と呼ばれる意味が分からなかったが、それはそのような音楽、そして漫画やアニメなどという「文化」が決して「サブ」ではなく「メイン」だったからである(資本主義において団塊ジュニアという世代が一つの市場、ターゲットとして機能していた部分もあるのはおそらく間違いないが)。
これは経済成長の過程で日本のクルマや電気製品などの産業が辿ってきたにも通ずるものではある(残念ながらどちらの時代も終わってしまった)が、こと音楽に関しては世界の潮流との関係もありこの年代が特に大きな時代の転換点となっていたということはあるだろう。
自分も職場の先輩に触発され洋楽を一応一通り「お勉強」はしたのだが、既に彼ら世代の日本の音楽をフツーに受け入れていたせいか、洋楽に没入することはなかった。やはり団塊ジュニアにとってこの一つ上の世代が発信し始めた音楽が入り口となり、そこから洋楽に目を向けたという者が多かっただろうと思う。洋楽はどちらかというとあくまで音楽の知識として「ああこういうことだったのかあ」という感じだったが、それを知ることはまた面白いことではあった。
音楽性と作者の人間性は別であることも、この世代を通じて学んだ。彼らの時代の音楽への情熱と知識は別次元であり、彼らはとにかくひたすら音楽というものを見続けてきた。その中でアーティストという人間達がどのようなものであるかもただただ観てきたのである。
洋楽のアーティストでは、商業的に成功し大金を得ることで破滅するというのがある意味定番だった。音楽産業は「一攫千金」の世界であり、カネによって彼ら、そして彼らの周りの多くの人間達が狂わされていくというのが一つのパターンだったのである。これは一般的な「芸能界」でも全く同じであり、やはり貧しい家庭、複雑な家庭に育った人間が多いようだ。
「芸能人」「アーティスト」そして音楽や芸術ですら、業界においては「商品」でしかない。彼らの極一部はそれに見合う対価を受け取るが、ほとんどの利益はレコード会社、芸能事務所などの「商人」「業界」が手中にする。現代ではそれらも全て「組織」であり、その組織で上に行くほど自らの利益が倍々ゲームとなる。これが社会の法則である。利益が欲しければ、そちら側に回るしかない、それが当たり前なのだ。
かの渋谷系アーティストも、親が有名歌手、いとこも息子も音楽業界ということでまさに業界の力を最大限利用して生きているのだろうし、だからこそオリンピックの大役を得ることができたのだろう(もう一人炎上辞任した元お笑い芸人も、より組織に近い側に回ったクチでその点やはり頭がいいというか、カネの匂いに敏感なのだ)。
つまり音楽そのものと、音楽産業は全く別次元の存在なのである。スポーツそのものとスポーツ業界、映画そのものと映画業界、クルマそのものとクルマ業界などなど、全て同じことだ。業界にとっては全てが「商品」であり「カネ」でしかないのである。
そもそも音楽もスポーツも、テレビもマスコミも、ましてやオリンピックやパラリンピックなどというものが、というよりそれを運営する人間が、資本主義の権化、つまりカネの亡者達であるということを当たり前に認識すべきであり、逆に彼らはそれを当たり前に理解しているのであり、理解していない者がただただ愚かなのである。
頭が悪そうに聞こえるのは百も承知だが、自分は一応ロック好きである(前述の通りレベルは低いし、ましてこんなことを公言する時点で「厨」であることは大前提として認識している)。
今回のニュースで「露悪的」という言葉を初めて知ったので検索して意味を調べてみたらふとこんなことを思った。
それは「ロック」は「露悪」であるということだ。
「露悪」の対義語は「偽善」なのだそうだ。
だからこそロックは露悪なのである。
かの渋谷系アーティストも、もしかしたら当時ロック的なイメージづくりで件の雑誌記事に加担した可能性もあるし、当時はそういう文化があったとする業界関係者のコメントも少なくない。が、自分が見てきた限りでは、今回のような内容の記事がロック系アーティストにとってフツーのことだったとは全く思わないし、仮にそういう空気が多少あったとしてもやはり内容がヒドすぎるのは間違いないだろう。つまりこれはあくまで彼と編集者個人の人間性によるものだろうと思っているし、おそらく自分のような感覚の人間が多かったからこそこれだけの大炎上となったのだろうと思う(件の元お笑い芸人の方は同情する見方も多く炎上度合いが違うのだから)。フリッパーズギター、そして渋谷系という音楽性を考えても、それがイメージ作りのための演出だったという言い訳には、大多数の人間にとって違和感しかないだろうし、そのような言い訳が逆にまた反感を買うというお決まりのパターンでもある。まして当時から話題になっていたというのだから、業界全体としてもやはり批判されて当然ということになるだろう。
ただ、業界とはそんなものである。
例えば、数年前に解散した国民的男性アイドルグループの超ヒット曲を作曲した超有名アーティストは、薬物で数回逮捕されていながらもテレビには出ているし、これまた高校時代から国民的大スターだった元プロ野球選手も同じだ。美しい歌詞やメロディーだったり、高校生の汗と涙と感動だったり、上辺の虚飾に塗り固められたまさに「偽善」で商売をしているマスコミ、芸能界、スポーツ界のダブルスタンダードには、嫌悪感を拭えない。
が、露悪的なロック好きとしては、岡村靖幸が最近NHKの「みんなのうた」で自らが歌う楽曲を提供していることを知ってちょっと感動したし、ピエール瀧もすぐにでも最前線に復帰して何ら問題ないと思っている(ディズニー映画の吹き替えやNHKの大河ドラマにいい感じの役で出たりさえしなければ)。
もしも露悪的でロックなアーティストが開会式の演出担当だったら、そして初めからその意図を明らかにして人選したのであれば、アーティスト側も選んだ組織側も、謝罪も辞任もする必要はなかっただろう(もちろん最初から批判はあるだろうが)。結局、今回の問題はそのイベントの美しく崇高な「イメージ」と実際は全く違うということ、つまり「偽善」が人々の嫌悪感を買ったということなのである。極端なハナシ、例えばこれがシド・ヴィシャスやキース・ムーンだったら辞任することはなかったかもしれない(例えばのハナシである)。そう考えると、イメージなどというものは所詮勝手なものではある。
その意味では、ロンドンオリンピックの開会式(なんだかんだ言って当時は開会式までちゃんと見ていた)で「プリティ・ヴェイカント」が演奏された(最初は「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の予定だったがさすがに止められたらしい)ことに比べれば、日本の音楽文化などまだまだ足元にも及ばないなあとも思うが、こと今回に関してはやはり日本のオリンピック主催者側にまともな人間、少なくとも仕事だけはまともにやる人間、まして才能のある人間など誰一人いなかったということになるだろう(辞任した彼は仕事はちゃんとやっただろうとは思うが)。
音楽界などというものは元々超格差社会である。世界中、大抵の音楽は金持ちのものだ。現在の日本でも3歳からピアノを習い音大を出て業界に一歩踏み入れるには、とにかくカネが必要だ。もちろん音楽そのものは庶民のものでもあり、ギターや三味線などは元々貧乏人の楽器である。ただこと商業的なチャンスに関してはある意味平等ではあり、それに賭けるものもまた数多くいる。歌であれば楽器は必要ないし、アイドルなどある意味性的に自分を切り売りするホストやキャバ嬢となんら変わりはない(もはや音楽とは関係ない)。
その意味で現代音楽のアーティストはやはり貧しい出自が多く、中でもロックはそもそも「不良」の代名詞だった(逆に最近はそんなことも言われなくなったのはかなり大きな時代の変化ではある)。
ロックとは反抗、反骨の象徴であり、大人、学校、社会、国家という「圧力」や「権力」に対し、「自由」を求める若者たちの戦いの象徴だった(これが「サブカル」たる所以でもあるのかもしれない)。
ロックが露悪的なのは、人間の感情、人間の性と強く結びついており、表面的な理屈や道徳などで語ることのできない、真の人間性を表現するものだからである。
「ここは天国じゃないんだ、かといって地獄でもない」「弱い者たちが夕暮れ、更に弱いものを叩く」、そんな社会の普遍性をもまた、ロックから学んだのである。
そういう人間の性を見つめ受け入れていくという、ある意味仏教的哲学あるいは無神論にも通じるものとしてロックを受け入れたのが団塊ジュニアだった(もちろん当時はそこまで意識はしていないが)。やはりロックというものは、弱き者たちにとっての真の「力」であるべきであり、それが真のロックアーティストだろうというのが個人的な信念である(こんなことを言うこと自体「偽善」なのかもしれないが、それを自問することがまた結果として露悪的、そしてロックへと向かうのである)。
弱者をいじめたことをいい年こいて自慢するような渋谷系アーティストや音楽誌の編集者は、ロックのかけらもない上流階級アーティストと資本主義原理主義者であり、そして自分は強者であることを心底誇っているに違いない。これは露悪的というよりむしろ単に性悪的であるというべきだろう。「性悪」そして「偽善」こそ強者にとって必然であることは「君主論」に著されたとおりである。
真のロックアーティストは、そのような人間の性をただただ見つめ、それをただ音楽にして我々に伝えるだろう。そしてそれは弱者、ロックで露悪な人間達にのみ届くのである。
今思えば逆にそれが支配者たちの思う壺だったような気もするが、30年後、自分たちより上の世代が皆天国に行く頃には、こんな日本も少しは変わっているかも知れないとは思わないでもない。例えるなら、「ドラゴンボール」でたとえパラレルワールドであろうとも人造人間のいない世界を願ってタイムマシンを作ったブルマにも通ずるものがあるかも知れない、などとくだらないことを思ったりもするが、そうでも思わなければ、世界の破滅を願う終末思想に陥ったことだろう。
本当の意味で露悪的、アナーキーであることは、強者になれない、愚かな弱者にとっては必然なのであり、それが自然の法則なのである。
結局、弱者も強者も永遠に続く人間の性であることを認識することが、今回の問題の論点の一つでもあるいじめ問題にも繋がっていると思うのだが、それはまた後で考えてみることにする。
Posted at 2021/08/01 06:53:09 | |
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2021年06月30日
学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
個人的にはほとんど興味はないが、東京オリンピックが目前である。
ネット上ではオリンピック批判が吹き荒れているが、実際の世論としてはオリンピック賛成派反対派それぞれというところだろう。どのみち開催は既定路線、というより中止という概念自体存在しないのであり賛成派は殊更騒ぐ必要もないのだから当然だ。
おっさん個人としては、オリンピックを機に国民の意識が「スポーツ観戦」ならぬ「スポーツ感染」くらいになれば、「自粛」など一切しなくて良くなるのだからいいことだとは思っている。
とは言え東京では緊急事態解除からわずか10日ほどで既にリバウンドが明らかとなりつつある状況なのだそうで、五輪前としては最後にもう一幕くらい、超弩級グダグダコロナ対策政治パフォーマンスがあるのは間違いないだろう。
もしかしたら、コロナの感染が拡大し始めた昨年の冬真っ先に社会や大衆に自粛を訴えた日本の超有名セレブロックミュージシャンが、今度は「オリンピックのために國民一丸となって頑張ろう」などというメッセージを発したりするのかもしれない。
数少ない(あくまでネット上で)賛成派であるホリエモンは、そもそも「コロナはただの風邪」と言って自粛要請を徹底して批判していたのだから、オリンピックをやるのは当然ということである。その主張は首尾一貫しているし、自分もその理屈は正しいと思っている。
自分もコロナに関して基本的にはリスクを低く見る「ただの風邪」派であり、ゲームセンターや音楽のライブに行けなかったことなど「自粛」を殊更嫌悪している。その点からすれば本来オリンピックは問題ないことになるハズだが、これに対しては反対派である。
これでは主張が一貫していないということになるのだが、なぜ反対なのかと言えば、もはや言うまでもないだろうが、ロクな感染対策もできず、ゲーセンやライブ、運動会や部活、飲食や旅行を散々悪者にしておきながら、オリンピックはやるという政府のグダグダ対応とダブルスタンダードに嫌悪感を抱いている、それだけである。
世界最大のイベントをやるために小規模なイベントや飲食を禁止するという時点で理論的に破綻しているし、感情的にも受け入れられないのは至極当然だろうと思う(ただこういうところだけは「自粛を要請してるだけで何も禁止はしてない」という「理屈」を持ち出すのだろう)。そもそもコロナ当初から今に至るまで基本的な認識から実際の対応に至るまで論理的に説明されていたことなど一度もないのだから当然である。
もちろん現時点、つまり緊急事態が解除されている(沖縄を除く)状況ではゲーセンもライブも運動会も部活も飲食も旅行も「対策をしているからOK」という理屈で可能なのだから、オリンピックもできることにはなる(その後どうなるかということは全く別として)。というか政府はそのために緊急事態宣言のタイミングなどあらゆるものをお膳立てしてきたのだから尚更だ(その後どうなるかということは全く別として)。しかし、たとえそうだとしても、これまでとはレベルが圧倒的に違う巨大規模のイベントでありそれに伴う感染拡大の可能性も全く違うのだから、その点だけでも単なる嫌悪感だけではないと言ってもいいだろう。
そもそも去年は延期されたのに今年は強行されるのは、欧米が一定程度落ち着いたからでありそもそも日本がどうこうではない。もし現時点で欧米がロックダウン状態だったらやはり延期か中止されたハズである。
正直に言えば、やはり自分はオリンピックが嫌いである。
元々は特段嫌いでなかったものであっても、それが世の中で極端に礼讃されるとき、自分も一緒になって喜ぶ人間と、嫌悪感を抱く人間に分かれるものである。これがコロ前であれば、実害といえば見たいテレビ番組がオリンピックに取って代わられる程度のものであり(それすらひどく憤慨したものだが)、そもそもコロナも政府の対応も関係ないただの感情論ということになる。
が、嫌いになった理由はもう一つある。
こう見えて若い頃は、野球、サッカー、バレーボール、相撲、格闘技、F1、そしてもちろんオリンピックもしっかり見ていた、というか特定の競技の生中継をテレビで見るため仕事を休んだことすらあるほど本気で楽しんでいたものだ。真剣に見るあまりルールや採点基準を覚えたりしたもので、ソルトレークシティーのときの明らかにアメリカに優位な判定、採点を行うレフリーや審査員には大いに憤慨したものだった。
が、あまり詳しく勉強すると当然その背景などもだんだん分かってくるものであり、そこにネットが普及してくると更にいろいろな情報も加わって、要するに「裏側」が見えてきてしまうということがある。表側だけを極端に美化するマスコミ、競技性など全く理解もせず国家への帰属意識だけで興奮する視聴者、ルールや裁定に力を加えることで結果を得ようとする組織の不正などに対して、絶望や反感を抱くあるいは冷めてしまうということであり、言うなればそれがおっさんになるということである(それが逆に「厨」だということになるのかもしれないが)。
そもそもオリンピックは基本的に4年に一度しか見ない競技ばかりで、ほとんどの視聴者はその競技性どころかルールすら理解していない場合も多いだろう。
例えば、スキーのクロカン系競技などは(選手が一定レベルにあることは当然として)もはやワックスの選択が勝敗を決するという状況で、その開発から現場での情報収集、調整といった技術的な部分まで巨大なナショナルチームとしての総合力でなければ勝負にならないというハナシだ。が、テレビを見ている限りそこをゲーム性の要素として大きく取り上げるワケでもなく(あまりそこを強調すると番組の方向性が変わりターゲットとなる視聴者層への訴求力が失われる恐れもあるためか)、ただただ何周もコースを周回する映像を見ている感じでしかない。
例えばひたすらコースを周回する競技としてはモータースポーツがその最たるものだが、それを面白がって見るには当然そこにゲーム性が見えてくる必要がある(モータースポーツの場合スピード感とかマシンがかっこいいとか映像だけでも訴求力がある部分は多少あるが)。そしてスキーのワックスの話はF1のタイヤ選択に例えることができるだろう。
自分がF1を見ていた30年前は、ブリジストンとピレリの2メーカーでそれぞれ4種類くらいからレースごとにチームが選択する形となっていた。サーキットの特性、マシンの特性、そして最も大きな天候という要素によってその選択が大きく勝敗を分けるため、タイヤ交換と給油を行うピットストップがチーム戦略の根幹だった。その戦略を如何に実行するかということもまたドライバーの技術であり、ピットストップ自体を固唾をのんで見守ったほど重要であり面白かった(その意味ではピットリポーターは重要だったなあと思う)。年間16戦トータルで見たときに、あのときのタイヤ選択が、ピットストップがということまで思い出されるほど楽しむことができたのである。
ただそこまで楽しむにはそれなりの知識、情報が必要であって、ましてF1は年間16戦ある中での話である。4年に一度の一発勝負(その競技自体は当然常に行われているのだが)をテレビで見ても、競技性、ドラマ性というものはそこまでちゃんと見えてはこないだろう。実際テレビ放送を見る限り競技的な中身は薄く、となれば如何に盛り上げるかという点にのみ特化した映像制作となり、国家の代理戦争として闘争本能に訴えるか、「選手の頑張り」的なあまりに稚拙な単なる感動ポルノを流しているようなものだ。結局オリンピックなどスポーツでも競技でも何でもない、ただのお祭りでしかないのである。
古い話ばかりで恐縮だが、自分がF1を見ていた当時解説者が「F1は、オリンピック、サッカーワールドカップと並ぶ世界三大スポーツだ」という話をしていた記憶がある。10代の自分には何が三「大」なのか、F1は毎年16戦やるのに他の2つは4年に一度でなぜ同列なのか疑問だったが、要するにその「大」とは「カネ」であることはこの年になれば判ることである。そう考えると毎年16戦やるF1がすごいのか、4年に一度でそれだけ稼ぐオリンピックがすごいのかよく判らなかったりもするが、要するにそれだけ巨額のカネが動く「興行」なのだ。
そしてその興行を主催する側の最たるものが、テレビや新聞などのマスコミである。
言うまでもないが彼らは初めから彼らの目的で、まるで真実であるかのような「映像」を用いてスポーツという「娯楽」を作り上げ、それを商品として販売し巨額の利益を得ているのである。彼らが作る「ニュース」「情報番組」までもがこれらの宣伝に利用されているということもまた言うまでもない。ネット上では「オリンピックが始まればマスコミは掌返し」と言われているが、元々テレビなどというものは徹底したダブルスタンダードであり、片方で散々批判しておきながら次の瞬間満面の笑みで礼讃するというのも昔から極当たり前のことだった。ましてコメンテータなどというものは制作者(あるいは所属事務所)と契約を結び報酬と引き換えに番組に「出演」しているのであって、そこに個人の思想による正義あるいは主張的な何かが存在するなどと信じる方がおかしいのである。そもそもマスコミとは常にそういうものであり、「新聞社」「テレビ局」ましてや「ワイドショー」などというものに論理性や一貫性というようなものを求めること自体間違っているのだ(アメリカではついこの間まで、特定の支持政党を養護する偏った情報を流し続けるメディアの姿勢が問題視されていたのだから、真逆のことを平気で言えるというのはどちらの意見も平等に報じる「いいことだ」ということになるのかもしれない)。
そしてもう一つの「興行主」が、「競技団体」である。
競技団体の会長は政治家である場合も多く、そして最近、一部で「脳筋」などと揶揄されるものの「お茶の間」には人気のある元代表選手タレントが、競技としては全く畑違いである日本フェンシング協会の会長に就任したというニュースもあった。
「競技を知らずに選手のために仕事ができるのか」という、表面上の論点となっている「部外者」問題ついて仮に単純にそのことだけを考えるのであれば、フェンシング協会の中には人材がいないということを公言していることになり恥ずべきことだとか、本来競技を理解しこれまで競技のために長年活動してきた人材を登用するべきだかという考え方は確かに心情的、道徳的なハナシとしては理解できる。が、そのような意見こそまさに「部外者」による勝手な、表面的な感想でしかない。
今回のタレント会長人事はまさに、競技団体の目的とは、存在理由とは何なのかを明確に顕しているのであり、それは「スポーツを愛する個人の活動を支援するため」などということでは決してない。会長の仕事、会長の適性としてその競技団体が必要としているのはまさに(広い意味での)政治力、政治活動であり、真面目に競技に打ち込んできた人間がその職に就く必要も、競技を理解している必要も、ましてや競技を愛している必要も全くないのだ(これについてはそこら辺のサラリーマンでも一つの職場の長がその仕事を理解しているというワケでは全くないのだから、タレント会長の方が人目に晒されるプレッシャーもはるかに大きい分責任も重大ということにはなるだろう)。
実際このような会長人事は組織を強化するため、つまり協会の会員を増やすために有効だと考えられるからこそ行われるのであり、これにより会員が減るということになれば行われるハズがない。件のタレント会長も、お茶の間に人気があり、だからこその人選であり、おそらくフェンシング人口は増えることになるのだろう。世の中的に、大衆はそれを喜んで受け入れていると考えるべきなのである。
結局競技団体の目的とは何かと言えば、それは「カネ」以外の何モノでもないのであり、もちろんそれはアマチュアスポーツであっても同じなのだ。
このようなことを選手、まして子どもたちがどう思うかなどということはそもそも競技団体側には全く関係ないし、実際のところ子どもたちにも否定的な感情よりむしろ好意的な見方の方が多いだろうと思う。競技的にも、選別システムに投入する母数が多ければ多いほど結果に表れ、結果が出れば会員が集まるというのが最も基本的なビジネスモデルである。
日本代表選手ともなれば当然、その競技団体の選別システムによって徹底的に選び抜かれた人間達である。彼らが生み出す利益によって組織が運営されるのであり、彼らは組織の利益のために存在するのである。
もちろん結果を出した極一部の選手には本人の収入にもその利益の一部が反映されるのだが、ちょっと前に際どい写真集を出版して話題となった、オリンピックでメダルは獲得できなかったものの国内では有名な女性アスリートは、選手としてのピークをとうに過ぎたものの現役にこだわり続けた結果、なかなか厳しい経済状況の中で活動し続けているということだった。つまり「ピークを過ぎる」ということイコール「価値がなくなる」のが「代表選手」という「商品」なのである。その後は論功行賞で組織の仕事でもするかタレントにでもなるのがフツーなのだろうが、競技自体を愛する彼女のような人間はだいたいこのような(もちろんそれが本人の意志であればいい悪いの問題ではないが、少なくとも経済的には厳しいという)状況になるのが社会の法則なのである。
とは言え実際のところ彼ら選手の大半は、何もわからない子供の頃から競技団体の選別システムの中で身を削り、その中で運良く一握りのトップ選手になれたしても、まだまだ社会人としては未熟な状態でピークを迎え、そしてそれを過ぎるとお払い箱になるのがお決まりのパターンだ。大抵はそうなってからようやく本当の「自分」と向き合う人間と、そのまま組織の歯車として生きていく人間がいる、というようなことだろう。
これは自然の法則であり、それを最大限利用する人間が正しいのであり、理解していない人間がいるとすればそれはその人間が愚かなのだと言わざるを得ない。もちろん理解はしていても利用はしないという人間も数多くいるのだが、理解し利用したくても簡単ではないということもまた自然の法則ではある。
件のタレント会長についてのテレビの情報、芸能人側からの発信ではほぼ全て彼を礼讃するものばかりだが、興行主としてマスコミと競技団体は目的が同じなのだから当然である。またその中での芸能人の発言の中身で言えば「あいつはまじめなやつだ」「みんなのために頑張れるやつだ」「だからいんじゃね?」というような、小学生レベルのハナシなのだが、社会の法則を知り抜き、芸能界で生き抜いてきた彼らが本気でそう思っているワケでもないだろう。そもそも芸能界とはそういう場所であり、そこで生きる彼らは、彼らの論理で、彼らの利益のために、全力を尽くすのである。
これは政治家も全く同じであり、コロナ対応で散々エビデンスがどうのこうと言いながら、ここに来てオリンピック強行の理由に平気で感情論を持ち出すような、蛙の面に小便のような人間達でなければ、そこまでの立場には決してなれない。
つまりマスコミ、芸能人、競技団体、選手、そして政治家は皆同じ穴のムジナなのであって、テレビや新聞は全てオリンピックという興行のために存在するのである。
結局、オリンピックとは「祭り」である。
歴史的に見れば、祭りとは権力システムそのものでもあり、大衆の帰属意識を高めるため、あるいは帰属意識の高い人間が満足感を得るために催される「儀式」なのだ。儀式とは、シャーマンにとって最も重要な「技術」であり「道具」である。
大相撲では呼び出しの時必ず出身地を言うことになっているが、これはかつて力士は地域の英雄として見られていた証なのだそうだ。
また国内では一大スポーツイベントである高校野球は、昭和であれば地元の高校が出場すれば大人から子供まで大喜びだった。現在は強豪高と言われるところはほぼ全て全国から生徒が集まっているのだから、地元出身の選手などほとんどいないのだが、そんなことは誰も気にしないのである。
オリンピック賛成派とは、そもそもお祭り大好き、周りと一緒になって騒ぐのが好きな人間達であり、日本人、日本国に帰属している事以外に自分の存在を見いだせない集団主義の人間達であり、努力、根性という精神論が大好きな人間達である。
そしてもう一つは、それらの人間を最大限利用し莫大な利益を得る人間達であり、これらを前述の人間達と併せて「体育会系」と呼ぶ。
オリンピックとはまさに「体育会系の祭典」なのである。
対して反対派というのは、一言で言えば、上記のような人間が嫌いな人間達である。
政府が嫌い、マスコミが嫌い、競技団体が嫌い、にわかファンが嫌い、バカが嫌い、故にオリンピックが嫌いなのである(ただ今回はコロナ問題を論理的に考える人間、そして論理的思考力とは別に単に不安が強い人間が多く含まれるかもしれない)。
社会を動かしているのは、このような人間達では決してない。故に彼らは多数派とはなりえない。
社会、経済を動かしているのは、賛成派のような人間達の強力な「欲望」である。
彼らは決してバカではない。社会の法則を理解し、他人を観察し、情報を集め、必死で考え、自分の利益のために必要なことを最大限実行している、それだけである。
むしろバカなのは、理屈や道徳、規律や規範、善と悪などという概念を持つことで彼らに利用されている反対派のような人間たちである。実際反対派には何の力もない、故に理屈や道徳を持ち出すことしかできないのだ。
こう見えて自分も若い頃は複数の競技に実際に参加していた。
社会人になると運営側の仕事も一定程度こなさなければならなくなり、ほとんどの参加者が子供という地方の小規模な大会の実務を何度か経験している。
その中で、自分のチームを少しでも有利にしようとする指導者が少なからず存在することには正直辟易していた。
日本のスポーツ指導者は体育会系精神の塊であり、日本のスポーツ文化のレベルの低さはもはや日本人の性なのである。
自分が所属していた団体では幸いにもその競技、そして選手を愛する指導者に恵まれたと思っているが、そのような指導者はたいてい大会の結果などにはこだわらないものである。
そのような指導者もいること自体間違いはないが、巡り会えたとすればそれは本当にたまたま、幸運でしかないということを認識するべきだろう。
Posted at 2021/07/01 06:20:47 | |
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2021年05月30日
業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
去年の8月以来9ヶ月ぶりのコロナネタ。
発生から1年半、欧米が落ち着きを取り戻す中、日本は今になって状況は最悪、またまた各地で緊急事態宣言となったが、それ自体は以前散々書いた通り、何年経っても同じグダグダの繰り返しであって改めて書くこともない。
ただワクチン接種がようやく始まったので「今になって状況は最悪」というのはさすがに今回で終わりだろうと思ってはいる(オリンピックの強行でどうなるか全く確信は無いが、それもまた以前書いた通りだ)。
ただそのワクチン接種における予約システムの不具合のニュースについてはちょっと思うところがあったので、どちらかというと前回前々回のハナシの続き。
予め別途受け取った番号をインターネット上で入力して予約が成立するという、防衛省が発注した予約受付システムなのだが、その番号が実在しなくても予約が成立するというもので、そしてそのことを報道したマスコミに対し、発注者が業務妨害だ不正アクセスだと強烈に批判したというものである。
もはやあまりのレベルの低さに呆れ果てて言葉もない。
まず常識的に業務妨害でも不正アクセスでもないことは言うまでもない(もちろん自分には法律の知識はない)。
このような発言が国家の大臣から出る時点で冷笑する外ないが、これが日本の現状であることを認識するだけであり、「日本のIT化」など永遠にムリであることを確信するのみである。
もう一つ、大手IT企業の役員が(この人選については正直よく解らないのだが)揃いも揃ってマスコミに登場し、「不具合ではない」言っていることにはどう見ても違和感しかないし、これもまた日本のIT企業のレベルを顕しているといってもいいだろう。
そしてこのような番組が制作、放送された事自体、特定の意図によるものであることもまた明らかである。
もちろんベンダー側からすれば「これは仕様だ」「だから不具合ではない」という意味で言っているのだろうし、だとすればそれ自体は全く間違っていない。
また「急いでいたのでこういう仕様にしたのであり、適切、むしろ英断だ」という趣旨の発言もあったようだが、それも発注者、受注者という立場での発言としては理解はできる。
が、ユーザー側からすればそういう問題ではないことは言うまでもない。
少なくとも予約を申し込み接種を受ける国民と、そのシステムを現場で運用する医療関係者(今回は自衛隊員かもしれないが)にとって不都合がないのかという問題である。
技術者的視点からすれば(発注者がこうしろと言ったからというハナシは実際ウンザリするほどあるものの)まずは中身であり、そして基本的には予約する国民にとって、また現場で作業する関係者にとって使いやすく、安定し、現場をスムーズに回すことに有効だったのであれば、トータルではいいシステムだと評価するべきである(ただしそういう評価は今後の実績で当事者が判断することであり、ましてシステムの場合「いい評価」というものは逆に決して表に出ることはないのだが)。
コンピューターシステムとして考えればそこに番号を入力することに当然意味があるハズだが、だとすれば当然予約した個人を特定するため以外に考えられないだろう。何のために個人を特定するのかといえば、名前や住所の入力を省略する、予約する権利があるかどうかを確認する、二重予約を防ぐ、予約の横流しを防ぐ、更には今後の二重接種を防ぐためあるいは接種の配分を適切に行うため接種記録を残す、などの意味が考えられる。
名前や住所の入力を省略できれば利用者にとっては当然便利だし、居住自治体や年齢制限等についても間違いはゼロになる。
また二重予約や入力ミスなどは、実際現場のスタッフがそれらの齟齬に対応することになるし、また結果としてその枠のキャンセルに繋がり例えば一日分の予定量のうち一定の割合で接種の空白が生じることになる。当然時間と労力だけでなくワクチンそのものがムダになりかねず(ワクチンのことはよく判らないが)、それは避けるべきものであることは言うまでもない。更に言えば会場でその個人のデータに接種結果を入力し接種の全体像を把握することで、現場のリソースとワクチンそのものを適切に管理・配分するということも、システムの目的として当然考えられる。
が、今回はそのような意味で番号を入力するワケではなかったようだ。だとすれば何のために番号を入力するのかということになる。
確かに、予約しようとする者が、予約には番号が必要だいうことになれば、その番号とは何か?ということになり、自分にそれが通知されていなければ、自分は予約する権利がないのだ、と認識することになる、と考えることはできるだろう。仮に架空の番号で予約する者がいても、本人が当日会場に赴いても摂取できないかもしれない、それだけのことだ、ということにはなるかもしれない。
ただ現場の混乱、それによる時間、労力、ワクチンのムダ(ワクチンのことはよく判らないが)という視点は全く無かったと言えるだろう。現場が混乱すれば接種に訪れる善意の一般人にも不利益が出ることは言うまでもないと思うのだが、発注者側の誰もそんなことは気にしていなかったのである。
ただ予約時に入力した番号で個人を特定するには当然予め発行した番号の情報が必要であり、それと照合できるようシステム、データが連動している必要がある。
ということは今回はおそらく番号を発行するシステムがそもそも別のシステムだったということ、それも一つではなく多くの全く別のシステムで発行された番号を受け付けるということだったのではないかと思われる。
だとすれば、それに対応するには技術的に、というより物理的に大きな作業量となり相当の負担がかかるのは間違いなく、それ自体時間的にムリと判断したのだろう。
つまり件の予約受付システム自体は、そうするより外無かった、逆に言えば本当に「それだけのシステム」だったということになる。だとすれば、それはこのシステムだけの問題ではないし、これでやれと言われた側、つまり防衛省と受注者の側だけを見れば、やれるだけのことはやったという事になるのかもしれない。
もしそうだとすれば、少なくとも防衛省的には「そもそもそういう条件だった」「時間がなかったからそういう仕様にした」「現場の混乱のリスクを比較検討し問題ないと判断した」と言えばいいのであり、その根拠を淡々と説明すればいいだけだ。
が、かの大臣の発言からすればそのような説明ができる明確な思想も根拠も持ち合わせていないどころか、国民に対し説明をするということ自体全く考えていなかったとしか思えない。
いずれにせよユーザー側からすればそれで全然構わない、ということにはならないハズだ。これによって実際のワクチン接種現場に多少なりとも混乱を招くのは間違いないし、それによってミス、事故を誘発する恐れもある。ただもちろんそれも程度問題であり、実際今のところそこまで大きな混乱は起きていないようである。
結局のところ今回の件は、個別のシステムに限って見れば不具合ではないし、発注者にもベンダーにも罪はない。問題は番号を発行する側と連動していなかったことであり、これは日本全体として、もっと根本的な、そもそも論なのである。
そもそもワクチン接種自体少なくとも今回のパンデミックが始まった時から判っていることであり、またそれ自体日本は世界に比べはるかに遅れているのだから、日本の政府として見れば「時間がなかった」という理由自体成立しないことは言うまでもない。
「IT」という言葉が定着するはるか以前から、情報システムとは根本的に「データベース」であり、そしてそれらを可能な限り統合するという意味で「システムインテグレーション」「SI」と呼ばれていた。
つまり、「情報」=「データ」を有効活用するためそれらを「統合」することが大前提なのであり、全てが繋がることに意味があるのだ。
コンピュータが通信で繋がって遠隔で何でも出来ることだけがIT革命なのではなく、それ以前に、50年前から、IBM互換汎用機の時代から、根本的に「情報」が「繋がる」「統合する」ことでその効果が幾何級数的に向上するということなのである。
コロナ関連のシステムはとにかく問題続きで、現場には負担でしかないという状況だそうである。なぜならそれは複数のシステムに、バラバラに、FAXと電話で得た情報を手で入力していくという日本人にとってはフツーの、世界から見れば100週遅れの、50年前と同じやり方をしているからに外ならない。
情報システムとして見れば日本はまさに根本的な無能社会であり、それはこの20年でのIT敗戦、そして今回のコロナ敗戦を見れば明らかなのだが、当の日本人がそのことを全く理解していない。にも関わらず今頃になって組織の重役が何の臆面もなく「データドリブン」だの「エビデンス」だのと外来語を並べてたてている様はもはや滑稽としか言いようがないのだが、これはまさに日本の組織の現状を写す鏡を見るが如しである。
もちろん一般の大衆がそんなこと理解できるハズもないしその必要もないとは思う。個人が通信手段、連絡方法として電話なら電話、FAXならFAX、ネットならネットしか使えない、使わないのはそれこそ自由だし、むしろ好きなように選択出来る方がいいに決まっている。
が、今回の問題が報道され騒ぎになったということはまず「そもそもフツーに考えてどんな番号でも受け付けるシステムってどうなの?」という「感覚」がもはや極フツーの一般大衆の中に広く存在するということであり、ということはやはりシステムを提供する側のレベルがユーザーの考える水準を明らかに下回っているということになるだろう。
当然実際に開発に当たる技術者からしても、このようなモノを世に出すとなれば、それが仕様だからしようがない、という感覚には到底ならないだろうと思う。こんなモノのために身を削って働いているのかと思うと徐々に自信も誇りも削られていくのがフツーであり、このような状況で人材が育つハズもない。
しかしIT企業の社長達が雁首揃えて何を言うのかといえば「仕様だからベンダーの責任ではない」「急いでいたのでしょうがない」ということだけであり、それは業界自ら己の技術的信用を失墜させるだけでなく、牽いては日本人のIT化に対する意識を更に潰していくのである。
実はIT業界が労働集約型産業であり、ブラック企業の巣窟であることもまた衆知のとおりだ。本来、単純な作業においては人間よりはるかに高い処理能力がある機械(コンピュータ)がそれを代行し、人間は人間らしく時間を使おうと言うのが機械化、自動化であるハズなのだが、人間を機械のごとく使い倒すことができる人間が組織を支配し、そういう彼らだけが人間らしく生きることができる、少なくともこれが日本のIT業界の現実であり、もはや日本人の性と言ってもいいのだろう。
言うまでもなく大手ITゼネコンはもちろん業界を主体として政治行政とは常に繋がっているハズだ。そしてこのような非常時こそ業界としての力をアピールする絶好の機会だったハズである(実際巨大な需要と利益を得ていることは間違いない)。
が、トヨタやシャープという製造業が人工呼吸器やマスクなどで積極的にアピールしたのに対し、この体たらくではIT業界がこれからの日本の主要産業を担うのは到底ムリだろう。システムがダウンしようが、実質的に稼働していないのと同じ状況だろうが、何とも思っていないことは今年になって明らかとなった数々の事例で明らかである。
全ては「やってる感」で事足りるのが今の日本の組織なのだ。
そしてもちろん末端の現場だけが大変な目にあっているのは言うまでもない。
結局、「裸の王様」と「仕立屋」しかいないのが今の日本のIT業界、というより日本社会そのものなのである。
Posted at 2021/05/30 07:00:50 | |
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2021年04月30日
学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
2021年2月14日にNHKで放送された「『YOU』100回記念」という、36年前、1984年のテレビ番組がとにかく衝撃的だったという話の続きの続き。
テーマが「気分はもう21世紀人」ということで気鋭のクリエーター達が未来を語るというものだったが、中でも特にコンピューター技師の「各家庭にコンピューターが入り、全てが通信で繋がって、何でも出来るようになる」という発言にとにかく驚いた、が、預言者のその声は残念ながら36年後の日本には届かず、それどころか社会は80年前に逆戻り、日本政府が作るコンピュータシステムはまさに戦艦大和である、という話。
日本におけるシステム開発の現場はとにかく問題だらけのようだが、その理由として真っ先に挙げられるのは「日本人は要件定義ができない」ということらしい。
「日経XTEC 第58回 日本人は「決める」のが苦手? 佐藤 治夫 老博堂コンサルティング代表 2011.10.31」
「プログラマーやめました 要件定義が苦手な日本人 2018年6月10日」
少なくとも日本人に比べれば、海外ではこのような問題は起こらないあるいはユーザー(クライアント)が要件定義をすることができるということのようである。
日本人にIT産業は向いていないとまで言われているそうだが、それがシステム開発の基本中の基本である要件定義ができないからだというのは、組織として、社会として、個人であれば社会人としてほぼ絶望モノである。それは言い換えれば論理的思考力がない、仮にあったとしてもそれを表現することができない、それに基づいて行動できないということであり、このような人間が世界のビジネスにおいて、あるいは一般社会において何らかの「仕事」を成し遂げることができるハズもなく、逆に言えば現在の日本人の「仕事」とはその程度のレベルなのだということになる。
ここで一応「要件定義」とは何なのか考えてみる。
まずは「目的」である。なんのためにそれが必要なのかということだ。当たり前である。
次に「方法」である。目的のためにどうするのか、ということである。これも当たり前である。
突き詰めれば、この2つしかない。そして実際は2つめの「方法」を可能な限り明確にするという作業、それだけのことだ(そしてその作業とは何かを明確にする、というのをひたすら繰り返すのがシステム開発である)。
最大のポイントは「可能な限り明確にする」ということなのだが、これはモノづくりにおいては基本中の基本である、というより形あるものを創り出すという作業においては必然的に、自動的に、当たり前にそうなるだけのことだ。ということはクルマや電気製品を作ってきた日本のメーカーは当然行っていたハズだが、そのモノづくりで一度は世界を席巻した日本人にそれができないとはどういうことだろうか。
クルマを作るのはメーカーである。
フツーの自動車メーカーであれば、いいクルマとは何かを考え、それを製品化し、売れなければまた考えるを繰り返す。あるいはトヨタであればユーザーの思考、嗜好を知り抜いた膨大な数のディーラーが、メーカーに対してそれを要求する。言うまでもなくユーザーがそれをやるワケではない。
メーカーはそれが仕事であり、売れるクルマを企画し、設計し、部品を発注し、組み立てる。この作業を一定水準で行うにあたって、曖昧さの存在する余地は極めて限定的であり、つまり「要件定義」云々など言うまでもない至極当然のことである。
そして膨大な下請け企業は、メーカーの仕様に忠実に、その上でひたすらコストを下げる、そういう作業を繰り返しているだけだ。日本のモノづくりにおいては、このピラミッド型システムが有効に機能していたのである。
つまり一部の開発メーカーを除く日本の大多数の企業は、まさにロボットの如く単純作業をしていたと言ってもいいだろう。そのような日本型システムがまさに「日本品質」を生み出していたのである。
ではコンピューターシステムはどうだろうか。クルマと何が違うのだろうか。
基本的に、IT革命とは産業革命である。その意味ではコンピュータシステムとはまずは産業用であり、クルマで言えば生産設備である。生産ラインや産業用ロボットと同じであり、かつて大量生産時代の到来と共にモノづくりで利益を上げようとすれば当たり前のことだった「オートメーション」となんら変わりはない。
日本の自動車、電機、食品などの大手メーカーにおける生産設備や産業用ロボットはおそらく世界的に見ても最高水準だろうと思う。高品質の製品を生み出すのは高品質の生産設備であり、生産現場においては最も重要で優先されるものである。言ってみればこの生産設備こそが日本品質そのものだったと言っても過言ではない。言うまでもないがそれはかつての日本人だけではなく、例えばCGアニメ界の巨人である米PIXER社ではその作品と同等以上に、作品を制作するための道具としてのコンピュータシステムを常に開発し続けている。
ではその生産設備はどのように生産するのかといえば、生産設備を生産する設備を生産する設備を生産するワケはなく、最後は人間の手で作るのは言うまでもない。そしてその生産設備によって完成品に組み立てられる部品もまた同じであり、それを供給するのは無数の中小企業部品メーカーである。そこでは生産しているのは、使い古した旋盤を、指先の感覚で、千分の一ミリ単位で操作する職人によって創りだされた部品である。モノづくりにおけるかつての日本品質は、このアナログ技術によって支えられていたのである。
自らの仕事に誇りと責任を持ち真剣に取り組むこのような現場であれば、例えば職人が旋盤の仕様の一部を変えたいというときに、明確に言葉で表現できないなどということがあるハズがない。つまり日本のモノづくりを行ってきた企業、そしてその現場であれば、生産に必要なコンピューターシステムの開発における要件定義ができないなどということはまずあり得ないだろう。
じゃあ日本で要件定義ができないと言われているのはいったい「誰」なのかと言えば、それこそまさに「みずほ銀行」であり、「厚労省」であり、出勤簿にハンコを押せと言い続ける大多数のオフィスである。またちょっと前にネットのニュースで見たのは、「旭川医大」が発注したシステムにおいて、ベンダーと法廷闘争になっているというものだった。
つまり要件定義ができないのは、前述の「プログラマーやめました」にある通り日本の大多数の「組織」であり、組織で生きることに特化してきた人間達である。結局一言で言えば、もはや言い尽くされている通り「組織の劣化」が全てなのだ。
組織が巨大化すれば業務が細分化するのは避けられない。一人ひとりは自分の担当しか判らないから全体が判る人間が必要となる。これについては何も現代に限ったことではなく、人類の歴史が始まったときから、戦争に勝つため軍隊を最大限機能させるというのが最重要課題だった。
産業革命以降は、童話「モモ」で描かれている通り労働者達は「時間を売り渡す」、つまり時間から時間まで使用者の指示に従うことで生きるようになった。「モモ」ではそれすら人間性を失わせる危険なものだと警告しているのだが、それをとにかく9時から5時まで会社にいればいい「気楽な稼業」と至極前向きに捉えていたのが戦後の日本のサラリーマンだったハズである。
それがいつの間にか「成果主義」なるものが導入され、というより導入してもいないのに上辺の言葉だけが利用され、サラリーマンとは何かということがうやむやのまま使用者の都合のいいように搾取されるようになったにも関わらず、それすらうやむや、つまり定義できていない、定義するつもりもない、定義って何?というのが日本人なのである。
労働者向けには日本的な「平等」の概念を手っ取り早く実現するために「学歴」と「勤続年数」を用いてきたが、実際にはその中で組織の要職に就くのは派閥や権力闘争のセンスに優れた、組織の論理に選ばれた人間達である。そして現在はその日本型終身雇用制度も少子高齢化と不況により崩壊し、名ばかりの成果主義がまかりとおるようになった。
このような日本型組織の上層部には、業務を定義する能力のある人間など存在しない。本来組織において業務を定義するのは、最終的には組織のトップであるということは、日本人には当てはまらないのである。
とはいえ現在の日本であっても、モノづくりや建設土木の現場では指揮監督者から明確な指示がないということはおそらくないだろう。それでは仕事が進まないということが現場にいれば誰の目にも明らかだからだ。
が、現場とちょっとでも距離が離れたり、紙の上だけで仕事をしている場所では、とたんに全てがあやふやになる。組織が大きくなれば現場との距離はますます大きくなり、現場を知らない人間が増え、責任の所在があいまいになり、指揮監督者の能力も責任も問われなくなる。上辺だけの人間関係が有利になり、自分の取り分を増やすことに執心し、現場がどうなろうが関係なくなる。
仕事が形となって明確に顕れるのが現場である。戦後の日本の発展は、現場が頑張ってきた、現場が引っ張ってきたから成されたのであり、現在の日本の衰退は、現場をないがしろにしてきた、現場が何も言えなく(言わなく)なったが故なのである。
そのような日本社会にあっては、部下が上司に対し、業務においてムダな時間を省くための明確で詳細な指示、あるいはより良い作業と今後の改善ためにその根拠の提示を求めたりすれば、無能、傲慢、なんなら発達障害とまで認定されかねない。業務として、あるいは問題解決の手順として必要だからであり、本来これこそまさに「要件定義」そのものであるにも関わらず、である。
結局日本の組織においては組織の長と呼ばれる人間が誰一人「答えを持っていない」「答えられない」のであり、業務を「知らない」「判らない」者が業務を指示しているのである。そしてそのこと自体なんとも思っていないか、それを必死で隠そうとするが故全てをうやむやにし成果だけを自分のモノにしようと狙っているのである。このような指揮官が指揮する軍隊がまさに80年前の日本であり、敵との戦い以前に全滅するのは必然だろう。
そのような組織に、ベンダーが「そもそも何がしたいのか」と全体的なイメージを聞いても、「ここの処理ははAかBか」と具体的な選択を求めても、答えを言わない、むしろ明確にしたくないのであり、これでは要件定義などできるハズもない。そもそも何も考えていない労働者と、権力しか頭にないリーダー達にとって、IT化など初めから全く無用なのである。
言うまでもないが、いや最初に言うべきだったかもしれないが、コンピューターには明確でない処理というものは一切存在しない。このことは大半の日本人には理解できないだろう。つまり日本人とコンピュータというのは、最悪の組合せなのである。
と、ここまで考えて、そもそも自分の考え方が間違っていたということにようやく気がついた。
つまり、「日本のIT化」などという言葉自体がそもそも間違いなのである。日本社会全体のIT化など、そもそもムリであり、考えるにも値しないのだ。
戦後の日本経済の成長は、「モノづくり」によって、そして技術の力を信じ技術の力で社会をも変えてきた技術者達によって成されたのである。もちろん背景にはアメリカという国と大量消費社会という時代があったからだとしてもだ。
世界における日本の相対的な経済成長という意味では、高品質低価格のモノづくりによって世界で商売ができたのであり、それによって日本の経済が回っていたのであって、商売や物流やコンテンツや、まして金融で日本経済が支えられていたワケでは決してない。モノづくり以外の業界は黙っていても自然発生的にそこにあるだけであり、ただ流れているカネを自分の懐に回すことが目的であって、何かを「産」むという意味での「産業」などとは決して呼ぶことはできないのだ。つまり銀行や役所や大学に自らの仕事を定義することなどそもそも不可能であり、ましてそこら辺の企業の事務所にいる人間に要件定義などできるハズもない。
そのような業界とそこにいる人間にそもそも日本の産業がどうの、生産性がどうのという危機感や使命感などあるハズもなく、そもそも彼らにはIT化の「目的」すら存在しないのである。日本経済の凋落が明らかとなり、そしてGAFA的巨大IT産業に日本の基幹産業だった自動車までもが乗っ取られようとしているところまで来てようやく自分たちの置かれた状況に気づき、今更ながら言い訳としてワケも判らずとにかく「生産性の向上」「IT化」を叫んでいるだけなのである。
今、世界ではIT化によってこれまでの「モノ」とは全く違う新しいサービスがどんどん創り出されている。これこそまさに革命である。
日本の戦後の発展はモノ作りで勝ち取ったものであり、日本人には元々新しい文化やサービスを生み出す能力はなかった。
そしてIT技術の進歩によりかつて日本の職人の手で行ってきたモノづくりの技術も、機械ができるようになりつつある。
コンピューターが繋がることで何ができるのか、何でも出来るようになって、何をするのか、そういう発想をする者は、日本には極少数しかいなかったのだ。逆に言うと、家庭で何でも出来るようになることがコンピューターの未来という事では全くなかったのである。
そう考えるとIT化における日本の最大の問題は、モノづくりの中心にあった電機や自動車メーカーが本当の意味でのIT革命による社会の変化に乗り遅れたことが、技術的優位性を失ったことよりもはるかに大きな要因だと言えるのかもしれない。
例えばクルマも100年に一度の大変革で変わるのはクルマそのものではなく、その先の社会で何が変わるのかということであり、そのことが理解できない日本人は再び電機産業と同じ敗北を喫することはまず100%間違いない。
モノづくりで世界に敗北した日本には、もはや世界で富を得ることはできない。
ということは日本が復活するには日本のモノづくりメーカーが復活するしか道はないのだが、たとえモノづくりメーカーであっても組織の劣化という日本全体の問題において例外ではなく、かつてのような技術者が存在する余地はそこにはないだろう。もはや日本の電機メーカーにも自動車メーカーにも「組織の論理に選ばれた技術者」しかいないのだ。それが社会の法則であり、そして日本人は特にその性質を強く持っているのであり、まして前の大戦の反省からその特性を理解し回避しようという発想すら全く無かったのである。つまり組織の劣化、社会の劣化を避けること自体日本人には不可能なのだ。
何事もうやむやを好み、集団心理で突き進む、結局戦後の高度成長もバブルも、日本人のそのような性質がもたらしたものなのかもしれない。ゼロからスタートし、ひたすら上を向いて闇雲に進もうとする段階ではそれが好影響をもたらすのだとしても、一定の段階を過ぎてからは、結局誰も何も判っていない中、全ての人間が思考停止に陥るのだ。やはり日本人の大半は言われたことしかできない「ロボット」なのであり、そうして生きることに最適化してきたのである。
そのような日本をIT化するためには、出来上がりのモノを与えるか、強制するより外ないだろう。若しくはバカでも何も考えずに導入できる魔法のようなシステムを提供するしかない。
もし日本のベンダーが日本人を相手に仕事をしていくとすれば、全てをベンダーが主導しユーザー側に一切要件定義を求めないような全く新しい概念でのシステム開発を目指すしかないだろうが、そんなことを考えるヒマがあったら、そして少なくとも一定の技術力があるのだったら、日本市場など早々に切り捨て海外市場に攻め込むべきである。でなければ日本全土を焦土と化し玉砕する愚を繰り返すことになり、本当に日本のIT企業は全滅してしまうだろう。
が、そもそも日本のベンダー自体組織の劣化と無縁であるハズもなく、魔法のような新しい手法を開発するなどまずムリであり、また海外で勝負しようなどと考えるリーダーも存在しないのである。
そんな中で今更小学生にIT教育、プログラミング教育をなどということ自体そもそも根本的にズレているし、子供も教育現場もIT業界も誰もそのようなものを期待も歓迎もしていない。これによって得をしたのは教育関係業界に巣食うカネの亡者だけである。
教育関係と言えば最近またいじめが大ニュースとなっているが、問題解決の当事者意識など全く無い、いじめをなくそうという言葉を掲げるだけ、つまり児童生徒に責任を丸投げする典型的な日本型組織であり、コロナ対応で国民に「自粛」を「要請」するだけの、論理的に破綻していることをなんとも思わない日本の政治と全く同じなのだ。
「1984年」と言えば、終戦から39年である。今から36年前ということを考えると、39年「しか」経っていないとも言える。
わずか30数年でどん底から頂点に上り詰めた高揚感が支配した時代から、わずか30数年で全てが朽ちていく閉塞感が支配する時代へと、日本は変わった。
戦後の経済成長は戦争によって全てが破壊されたからこそ出来たのであり、逆に言えばそんなことはもう二度と起こらない(ハズである)。
そして現在、コロナという目に見えない敵との戦いにおいて、巨費を投じた新鋭戦艦はなんの戦果もなく海底に沈み、最後は竹槍で闘え、特攻しろ、自決しろ、と言い出すこの国の本質は全く変わっていない。同じような感想はネット上に溢れており多くの日本人がそう感じているのも確かなようだが、それでもこの国が変わらないということを今回の危機は証明したのである。大衆は大東亜共栄圏の幻想と鬼畜米英の恐怖を信じこみ、虚飾の戦果を喧伝する大本営発表に熱狂し、最後は敵に屈するよりも悲惨な破滅を迎える愚を繰り返す。ムリムダ無意味な戦いでボロボロになる前に敗北を受け入れる方が数倍マシなのだが、敗北より死を尊ぶ非論理的精神構造が未だに日本人の奥深く刷り込まれており、そしてその性質を利用することに長けたものがこの社会を支配するのである。自らの利益に貪欲で、他人を都合よく利用できる者が、組織、社会を支配する、そのこと自体は極めて論理的であり、自然の法則である。逆に組織の論理に組しないというのは、ある意味非論理的ではあるが、高度に人間的な思考なのだ。
論理的思考とそれに基づいて行動する力を持ちながら、それを自分の社会的利益以外のモノに向ける、そんな技術者達が社会の多数派であるハズもない。
とはいえ全てが80年前に戻ったワケではない。
僅かではあっても間違いなく進歩している。それは偏に「技術」によるものである。
技術は社会を変えることができる。それだけは間違いない。
日本を変える者がいるとすれば、なんでも自分の力でなんとかしようとする、かつてのような日本の技術者のみだ。
自分自身と、自分が信じるものと、自分を必要とするもののために行動する、まさに「自分ファースト」こそ日本の技術者が真っ先に取り戻すべきものだろう。
そしてそのためには、日本の技術者一人ひとりがこれ以上日本の組織に利用されるのをやめ、自らの持つ力を、自分自身のために振り向ける、それだけでいいのである。
Posted at 2021/04/30 06:01:17 | |
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