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2021年03月31日 イイね!

日本のIT化についての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

2021年2月14日にNHKで放送された「『YOU』100回記念」という、36年前、1984年のテレビ番組がとにかく衝撃的だったという話の続き。
テーマが「気分はもう21世紀人」ということで気鋭のクリエーター達が未来を語るというものだったが、中でも特にコンピューター技師の「各家庭にコンピューターが入り、全てが通信で繋がって、何でも出来るようになる」という発言にとにかく驚いた、という話である。

ちょっとググったところ1984年頃といえば、戦後アメリカの軍需産業として成長したIBMが覇権を握り、Appleがマッキントッシュによりいよいよ頭角を現し、そしてMicrosoftはまだ黎明期だった。
おっさん世代にとってパソコンといえば職場で初めて触れるものだったが、1995年発売のWindows95辺りからだったと思う(書いていて思い出したが、Windows3.1というのが確かその前にあった)。そしてWindows98の発売がブームとなり、個人ユーザーに普及し始めたという記憶がある。自分でパソコンを購入したのは2000年代中盤、自宅でネットが当たり前になったからだった。
つまり1984年は、各家庭にコンピューターが入り込むおよそ20年前ということになる。20年後の未来というものは、見えている人には自然に見えているものなのだ。彼らは「コンピュータを使えない人は機械の奴隷になってもらうしかない」と敢えて挑発的な言葉を用いて、そんな社会が当たり前になるということを伝えようとしていたのだろう。

そして36年後の日本である。
本当にコンピュータが家庭に、そしてあらゆるところに入り込んで何でも出来るようになった、これがいわゆるIT革命である。が、コンピューターが何でもできるからと言って、人間が(少なくとも日本人は)、何でも出来るようになったワケではなかった。

日本の産業としてのIT革命については周回遅れとまで言われるようになって既に久しく、IT後進国であることは誰の目にも明らかだ。IT後進国の先進国などというものはあり得ないと言っても過言ではないワケで、つまり日本は既に後進国なのだ。現実問題、給与水準でも先進国に比べて相当の差が付いているというハナシである。
それを裏付けるのが、みずほ銀行の何度目かの大規模障害、厚労省のコロナ対策システムの重大欠陥、そしてコロナによるリモートワークやハンコ問題等々のニュースだろう。
実際のところシステム障害やセキュリティホールなどというものは所詮程度問題であり、世界の巨大IT企業ですら避けられるものではないとも言えるのだが、日本の場合はやはりその程度が問題レベルということになる。
みずほ銀行に関してはおそらく、というか当然システム開発に当たるベンダーも日本随一だろう(セキュリティ上そこらへんは秘密なのかもしれない、と思って検索してみたらフツーに出ていたのだが、まさにそうだった)。にもかかわらずこうなったということは、それもやはり日本のベンダーの実力を顕していると言わざるを得ない。今回は過去の大規模障害とは違い、システムの欠陥というワケではなく運用ミスということになるようだが、これだけの大規模システムであれば運用、メンテナンスにも当然ベンダーが大きく関わっているハズである。ベンダーは日本の超大手数社だそうだが、実際の仕事は計り知れないほどの下請けが行っているというところだろう。そもそも発注元がバブル崩壊の金融危機で3つの銀行が合併したものである。おそらくは厚労省が発注したコロナ対策システムも同様だが、こうなるともはや個々の技術者の問題ではなく組織の問題であり、つまり日本の組織が上から下まで壊滅状態なのである。

世はGAFA四騎士の時代である。
日本で誰もが知る大手IT企業として思いつくのは、楽天、ZOZO、LINEくらいだろうか(LINEは基本的に韓国企業だそうで、それはそれで納得である)。
四騎士のウチ、日本企業が対抗できる可能性がたとえ僅かでもあったとすればモノ作り系のAppleくらいだろう。残り3つについては「モノ」ではなくインターネット、情報通信によるサービスであり、そして集めた情報そのものが巨大な商品と化すなどということは、どのみち日本人には考えもつかなかったことだろうと思う。

日本のIT産業としては、GAFA的企業が生まれないという言わばB2C的な問題と、既存の産業あるいは社会全体でIT化が進まないという言わばB2B的な問題の2つの側面があるように思う。牽いてはそれを技術で支えるベンダーも育たないワケで、つまり日本人はIT革命そのものについて行けていない、そもそもそれが何なのか判っていないということになるだろう。

日本でGAFA的企業が育たないのは一体なぜだろうか。
ちょっと前まで日本でIT社長と言えば、有名女優との浮名を流すなど典型的な成功者の代名詞のようなものだった。ホリエモン、ひろゆき氏、ZOZO社長など誰もが知っているし、そのような企業やサービスはもちろん日本にも数多くある。そう考えると決して日本人だけがそのような能力がないというワケでもないようだ。
ITサービスの特性として、また単なる資本主義の法則としてスケールメリットが最大の要因であるということがGAFA的超巨大IT企業を生み出しただけということになるかもしれないし、またその意味ではそもそも人口や国土と言った基本的な国力の差が大きく顕れる分野であるということもあるのかもしれない。
ただサービスの内容自体についてもGAFAが全く新しい何かを作り出していることに比べれば、日本のそれは単なるEC、SNSの域を出ないと言ってもいいだろう。それではとても巨大企業に太刀打ち出来るとは思えないし、歴史的に見ても鉄や火薬に始まり、通信、映画、放送、コンピュータなど、まさに革命的技術を世界に広めた先駆者が巨大な利益を得てそして人類の歴史まで動かしてきたのであり、日本人にはそのような素質が全く無かったことは明らかだ。
そう考えるとGAFAが人類の歴史をも変え得る超巨大企業であるというだけで、日本企業にそれを求めるのがそもそも間違いだと言っていいのだろう。巨大資本が世界中の富を一定程度吸い尽くした後、得意の後出しジャンケンで追いつくのが日本の進むべき道だと考えれば、ある程度現状を肯定的に見ることも出来るのかもしれない(実際は違う意味で日本にそれができるとは思えないが、100年単位の歴史で考えればそういうこともあるだろう)。

もう一つ、既存の産業あるいは社会全体の問題ではどうだろうか。
社会全体と言っても、個人の生活においてIT化が進んでいないということではないのは間違いないだろう。日本人の誰もがスマホもネットも使い、そしてGAFAのサービスを利用している。個人にサービスを提供するのが日本企業ではなく海外企業でだということあるいは日本企業が提供するサービスが低レベルであるということが、日本の産業と社会の問題なのである。

企業が個人にサービスを提供するために必要なのは、最終的には「実装」すること、つまりコンピューターシステムそのものということになる。
具体的には個々の企業がベンダーに発注することになり、相当の費用と時間を投下し続けなければならない「設備投資」そのものである。
つまりIT化とは単なる設備投資であり、かつて大量生産時代の到来と共にモノづくりで利益を上げようとすれば当たり前のことだった「オートメーション」となんら変わりはない。
設備投資が進めば設備メーカー、つまりベンダー業界が更に発展し、コンピュータシステムの技術水準が向上し、企業のサービスが向上し、企業の業績が向上するという好循環が生まれる、というのがIT革命の、そして単に経済としての理想であることは言うまでもないが、日本においては現状そうはなっていない。
基本的には、設備投資が進まないのは景気が悪い証拠である。だとすれば歴史上最長の好況といわれた小泉政権時代、そしてアベノミクスでそれが進んだハズだが、どうやらそうではないようだ。そもそも失われた30年と呼ばれる時代にあってこれを「好景気」と呼ぶことには特殊な概念が必要なのだろうが、それはさておき少なくとも他の先進国あるいはちょっと前まで途上国と言われた国にすら置いて行かれるほどIT化が遅れたことは間違いない。
よく言われるのはこの数十年、日本企業がひたすら内部留保を増やしてきた、それが賃金の抑制のみならず設備投資にも顕れている、ということになるようだ。だとすれば資本主義の世界で数十年もの間将来への設備投資を怠ったとすれば、それは勝負になるハズもないだろう。
クルマや電気製品では当たり前にできた、そして結果として世界を席巻するほどの実績を上げることができた、当たり前にやらなければならないことを、今の日本企業がやっていないということである。これはやらなければいけないことを判っていないか、やらなければいけないと判っていて放置しているかのどちらかである。つまり遅れているのは日本の企業と役所、つまり組織であり問題は日本のビジネス環境、組織文化であり、それは一言で言うとまさに組織の「劣化」だろう。

厚労省が発注したコロナ対策システムも長期間実質稼働していなかったということであり、そして再稼働したとしてもそれがコロナ対策として「実績」を上げているとは全く思え得ない。
結局日本政府が作るものは全て、例えるなら今年の正月にNHKBS1のテレビ番組で見た空母「信濃」のようなものだ。
前の大戦で旧日本軍が建造した大和、武蔵、信濃の3隻は全て、世界最大の主砲、強靭な装甲、最先端の注排水システムを誇り、技術の粋を集め、巨額の費用と犠牲を払って建造しながら、敵のたった数発の魚雷によって致命的ダメージを受け、一切の戦果を上げることなく、多くの若者の命と共に、海の藻屑と消えたのである。
時代遅れの大鑑巨砲主義に固執したというワケでもなく、航空機についても技術力、戦闘力については決して劣っていたワケではないということだが、どんなに優れた技術も総合力でなければ結果は出ない、最大限有効に運用して初めて意味があるということは、言うまでもない。

腐敗した組織を再生することに、人類はおそらく一度も成功したことはない。
自然環境の変化により消滅する場合を除けば、腐敗して崩壊するか、腐敗を除去しようとして結果として破滅するか、そのどちらかである。
組織の上層部の誰も責任を取らず、集団無責任体制が復活した日本の組織がヘタに世界を目指すことは、全てを破滅に導いた戦前の日本と同じ過ちを繰り返すことになる。
だとすれば、無謀な戦いで悲惨な死を迎えるのか、このまま世界に敗北し緩慢な死を迎えるのか、その二択であり、どちらかといえば、腐敗して、緩慢な死を迎えるほうが、悲劇的な破滅の道を歩むよりは、多少いいのかもしれないというのが、おっさんとなった今の自分の感想である。
Posted at 2021/04/01 06:00:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2021年02月28日 イイね!

1984年と団塊ジュニア

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

2021年2月14日にNHKで放送された「『YOU』100回記念」というテレビ番組がとにかく衝撃的だったので感想。
1984年6月9日に教育テレビの深夜に放送された番組を振り返るもので、この頃まだ小学生だったおっさんにとっては番組名くらい(それもおそらく土日の再放送的なもの)しか記憶にないのだが、そうそうたるゲストの若かりし日の姿、発言内容等々、今から36年前、バブル崩壊の10年前、黄金の80年代絶頂期の空気感が非常に強く伝わってきてまさにタイムスリップしたかのような衝撃だった。

番組自体は若者がターゲットで毎回ゲストの話を聞くという当時の定番スタイルのようだが、100回記念特番のテーマが「気分はもう21世紀人」ということで、気鋭のクリエーター達が未来を語るというものだった。テーマやゲストが芸能、アート的な分野に特化していたとは言え、自分が今なぜそれをやるのか、今後何をやりたいのかということや、この世界は今後どうなるのかといった将来を見通していた発言が随所にあり、36年前に10代20代の若者からこうした発言が出ていたことにはただただ驚くばかりだった。
発信者の発言としては、「ウケたいとは思う」「ウケようとすると面白くなくなる」「自分は受け手でもある」「受け手の感覚をなくしたら終わり」「だから自分が面白いと思うことをやる」「自分と同じ考えの人を増やすことがウケるということ」というのが概ね若手アート系の共通認識だったように思う。
また時代、将来についての発言で印象的だったのは、細分化、行き詰まり、空気が薄い、未来へ続く太い道なんてなくなる、新しいも古いもなくなる、送り手と受け手の境界がなくなる、といった言葉が彼らの共通認識だったということである。この感覚が36年前に既にあったと思うと彼らの先見性に驚くばかりだが、それが事実だったということはむしろ彼らには自然にそれが見えていたということになるのだろう。「行き詰まり」という言葉も、日本にとってまさに絶頂期とも言える時代にあっては意外だったが、話の全体から見れば納得だった。
またコンピューター技師の「各家庭にコンピューターが入り、全てが通信で繋がって、何でも出来るようになる」という発言には、この時点で完全に将来が見えていたことに驚いたし、ビデオクリエーターなる肩書の人物の「テレビはデータベースとなり見たいものをコンピューターで引き出すようになる、だからこの仕事はなくならない、むしろ発展する」という趣旨の発言や、これを受けて「カネがかかること、それをやる人がいる限りCMもなくならない」というCMクリエーターのコメントもあり、将来というものは見えている人には自然に見えているものなんだなあと感心するばかりだった。

自分がこの番組を見て感じたのは、時代とは、そして過去とは、未来とは何か、ということである。

1984年をちょっとウィキペディアで見てみたところこんな時代である。
2月 サラエボオリンピック 北沢 欣浩が銀メダル 黒岩彰、マッチ・ニッカネン、カタリーナ・ビット・・・
7月 ロサンゼルスオリンピック 山下泰弘、森末慎二が金メダル カール・ルイス、フローレンス・ジョイナー・・・ 
9月 ホンダF1第2期初勝利 ウィリアムズホンダ ケケ・ロズベルグ
アップルがマッキントッシュを発売
邦楽シングルオリコン年間トップ10 わらべ、安全地帯、松田聖子、チェッカーズ、中森明菜、芦屋雁之助・・・
洋楽アルバムオリコン年間トップ10 マイケル・ジャクソン、カルチャークラブ、シンディ・ローパー、ヴァン・ヘイレン、デュランデュラン・・・
まさに日本(とアメリカ)にとって黄金の80年代だった。

番組出演者の年齢を調べてみたところこんな感じである。
糸井重里1948年生まれ今年73歳放送年36歳
坂本龍一1952年生まれ今年69歳放送年33歳
竹中直人1956年生まれ今年65歳放送年29歳
鴻上尚史1958年生まれ今年63歳放送年26歳
なんきん1959年生まれ今年62歳放送年25歳
戸川純1961年生まれ今年59歳放送年23歳
原田知世1967年生まれ今年54歳放送年17歳
河合美智子1968年生まれ今年53歳放送年16歳
当時の40歳は今年76歳、30歳は今年66歳、20歳は56歳、10歳は46歳、0歳は36歳だ。
おっさんの属する団塊ジュニアと呼ばれる世代は当時10歳前後である。そしてちょっと意外な感じもするが糸井と坂本の二人はいわゆる団塊世代、つまり親の世代ということになる。

番組では、彼らはいわゆる「クリエーター」として作品や仕事を通じて自分を表現し、自分を生きるということを示していたように思う。彼らは自ら発信する側の人間であり、自分というものを表現する能力には長けている。自分を持っているということは、やはり言語化できること若しくは何らかの形として表現できるということが重要なのだと思う。その作業を繰り返すことで自然と自分自身で自分を発見し、理解し、定義していくのだろう。

と、ここまでがこの番組を見て、希望に満ちた、浮かれまくった黄金の80年代、小学生の頃に戻った自分の感想である。
そしてここからは今、斜陽の時代に、おっさんが思うことになる。

将来が見えているからと言って別に彼らが社会全体を最善な道へと導いているというワケでもなんでもないということは言うまでもない。
所詮この番組自体「テレビ」であることに違いはなく全てを真に受けるものではないし、彼らは業界の論理で選ばれし者達であることもまた事実だろう。糸井や坂本は当時はまだまだ若いとは言えその「太い道」を歩んできた人間だろうし、音楽や美術の世界であっても所詮は「業界」であり才能だけで生きていける世界でもないだろうとも思う。傍から見ている人間からは、彼らは自ら望んで、希望に燃えてその道を選んだように思い込んでいるが、詰まるところ彼らの生まれがそういう環境だった、またはそうするしかなかっただけということもあるのかもしれない。または結果として彼ら自身の性質がその世界に特化していた、カネの匂いに敏感で、世渡りのセンスに恵まれていたということなのかもしれない。コピーライター、CMディレクターなどという肩書はおっさんには未だにピンと来ないが、やはり経済の頂点界隈にいて初めて存在し得るものだろう。CMと言って真っ先に思いつくのは、去年「電通案件」として炎上し、オリンピックからコロナ対応まで日本経済のあらゆる場面で暗躍する巨大資本である。
まして芸能界など表面的な華やかさや美談で語れる世界とは程遠いことは、おっさんくらいの年齢になって、またこのようなネット時代になってようやく誰にも解ってきたことではある。3歳から泣きながらピアノのレッスンや芸の練習を親にさせられてきただけということも現実にはフツーにあるようだし、逆に複雑な家庭環境や貧困によって子供や青少年が搾取されること、反社とのズブズブの関係、一攫千金を夢見る人間が集まる世界であるというブラックな裏側があることは昔からなんとなく判っていた。事務所との奴隷契約や性被害が今頃になって問題となっていることも周知の通りである。

当時トップクリエーターと呼ばれた人間達、文化や精神的側面において新しい時代を代表し牽引していくかに見えた人間達が、何か社会を変えたのかといえば、この36年間を見れば判ることだろう。中には現在大学で後進の指導に当たる者もいるが、教育や大学が36年前に比べて新しい時代を迎えているかといえば甚だ疑問である、というよりむしろ後退しているようにしか思えない。
そして現在、このようなテレビ番組は全くなくなった。
黄金の80年代だろうと失われた30年だろうと、社会には常に弱者も強者もいる、それ自体は永遠に変わることのない自然の法則である。が、それでも自分を生きるということが可能であること、そのために何をするのか、それ自体が生きるということなのだということを彼らは示していた、せめてそう考えるのが前向きな意味では唯一の正解となるのだろう。

とは言え当時の雰囲気を一言で言えばやはり「高揚感」だったというのが団塊ジュニアであるおっさんの感覚であり、おそらく多くの日本人に共通するものだろうとは思う。故に現在の「閉塞感」はその反動、というより単に相対的なものでしかないのかもしれない。

その高揚感が蘇った衝撃についついまとまりのない感じになったが、この番組についてもう一つ言いたかったコンピューター関係のハナシはまた改めて考えてみることにしたい。
Posted at 2021/03/01 06:02:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2021年01月31日 イイね!

2021年の正月に見たテレビ番組の感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

正月ということでネットやテレビばかり見ているおっさんだが、言うまでもなくそれらを全て真に受けているワケでは決してない。「みんカラ」も、ただそれらをネタにを古くからの友人と雑談しているような気持ちで言葉にしているだけである(もちろんこんな言葉遣いで話すワケではない)。
というかそもそもみんカラはいわゆる「SNS」という、それこそ離れた友人とまるで会話のようなやり取りを可能にするためのモノなのだが、そこはやはりおっさんである。そのような「繋がり」は全く必要としていないし、実際そういった使い方は全くしていない。こうして文章にすることは自分の頭で考えることの良い練習にもなり、脳の老化防止にもなり、老後の生活の糧とするための日本語の練習にもなる(かもしれない)というだけのことである。

御多分に漏れず「来るな」と言われずっと家に居たこの正月、テレビで印象に残った番組はNHKBSで見た「ガンダム」と「中国武術」である。

まずは「ガンダム」について。
横浜に建設された動く実物大ガンダムのプロジェクトを扱ったもので、技術者達の奮闘ぶりを中心に制作過程を描いていた。
実は12月18日の初公開イベントの生放送も見たのだが、おっさん出演者のハイテンションにアイドル風の若い出演者が頑張ってついていこうとしているのが印象的だった。
やはりメインのターゲットはおっさん世代であり、正月の番組もガンダム好きおっさん芸能人が進行するバラエティ的な演出で、動く実物大=「ガンプラ」的な要素が強かったように思う。まあ確かにこれはこれでアリかなとは思うのだが、ちょっとお祭り的雰囲気が強すぎて中身が物足りなかったというのが正直なところである。できれば一般公開終了の数年後くらいまでに、解体の様子やプロジェクトの企画立案から営業的な成否、そして技術者達のその後までを扱ったドキュメンタリーをNスペでやって欲しいと思う。
プロジェクトそのものについては、ガンダムの世界観を再現するということではなく別な世界観を設定しているようでそれ自体はあまりピンと来なかったというか、初公開イベントでもハッキリ言って演出がむしろジャマだったというのが正直なところだ。それ故、最後に一つプロジェクト自体に注文を付けるとすれば、ラストシューティング(おっさんはこの言い方にすら違和感があるが)と言い張るにはさすがにあれはない、ムリがあると言わざるを得ないので、せめて解体するとき可能な限りそれに近づくような、おもいっきり右腕を上に振り上げたポーズにしてもらいたいと思う(当然頭と左腕だけ解体した上で)。

で、番組の内容で一番印象に残ったのは正直主役である技術者達よりも、ガンダムの原作・監督だった富野氏である。

軽量化のため技術的に非常に苦労して完成した「手」の視察に訪れた氏の「Vサインできないの」という質問に対し、できないと回答された時の「かー・・・(できないのかよ)」というリアクションには、番組の出演者も「それはないだろ」という感じで、小声で「いいじゃんそんなの」と言っていたのが面白かった。そこはまさに「性能は100%出せます!」か「そんなの飾りです!エラい人にはそれがわからんのです!!」と担当の技術者が氏に言い返して欲しい場面だったが、ガンダムを見てないのか、言い返せないのが今の技術者なのか、とにかく惜しいポイントだったというのはおっさん世代の共通の感想だったことだろう(実際言い返すなどフツーはムリなのは判っている)。
また初公開イベントでの氏の挨拶の冒頭で、「まず自立二足歩行できなくてすいません」という趣旨の発言がいきなり出てきたのも衝撃的だった。これも技術者にとっては「このクソじじい・・・」と思うところだろうが、それは実はおっさんたちの心の中にある、というかまさに図星だったというのが正直なところではあるだろう(そういう意味では、動きのスピードも遅くやはりちょっと物足りなかったというのは否めないところではある)。現実問題としては安全性等諸々の事情をクリアするのは日本ではまずムリだろうが、だったらアメリカか中国に行けばできるのかもしれないし、もしかしたら日本よりビジネス的に成功するかもしれないと思ったりもする(その前に日本ではとりあえず歩かなくてもいいモノ、つまり動くジオングか、ガンタンクあるいはザクタンクでいいからやってほしいと思う)。
氏のこのような発言は、言われた側にとっては「何言ってんだこいつ」という感じになるのが当然なのだが、同時にいつかなんとかしてやろうという気持ちになるということは実際あったりはするもので、そういうことを判ってやっているのかもしれないと思ったりもする。Vサインは全く必要ないと思うが、自立二足歩行するモビルスーツをいつかは見てみたいというのが多くのおっさんの気持ちだろう。それはまた10年後、20年後の目標になるのであり、言い換えれば「夢」となるのである。そういう意味でガンダムは、技術イコール夢という、団塊ジュニアにとって、日本の技術者にとっての特権だと言ってもいいのかもしれない。届かないかもしれないほど高い、しかし「夢」となりうる目標を周りに示すことが出来る富野氏のこういう部分は、もしかしたら本田宗一郎と共通するのかもしれないとも思う(残念ながらクルマではそういう時代は終わってしまったが)。
結局目立つのはいつもそのようなカリスマリーダーであり、技術者というのはどこまで行っても日が当たることはないのだなあというのが実感ではあるが、それでも自分たちが良ければそれでいいのだということもまた再認識することができた、その意味ではいい番組だったと言っていいかもしれない。

一方の中国武術の番組については、これも非常に興味深いテーマであり内容も面白かった(ちなみに正月のは再放送だったようだが)。
おっさん世代にとって中国武術といえばジャッキーチェンを筆頭にした香港映画、そして北斗の拳やドラゴンボールといったいわゆる格闘系マンガの世界にも通じるもので、大きな影響を受けて来たからだ。

番組の主役である、現代の総合格闘技を極め経済的にもそれなりに成功した中国人の男が経営するジムには、しょっちゅう道場破りが現れる。現代においてはその様子をネットで配信し自らの道場の宣伝にするためであり、もちろん主役の男もそれを利用しているのだが、いつしかそれは「中国伝統武術」対「現代総合格闘技」としてネット上で大評判となっていった。次々と現れる伝統武術の使い手を、いとも簡単に倒していく主人公に対し、伝統武術界は権力を利用して彼の名前をネットで検索できないようにした結果、主人公は中国国内で活動できなくなり事実上抹殺された、というものである。

いわゆる「カンフー」映画において必ず登場するのが、実力がないのに威張っていて主人公をいじめる兄弟子と、ライバル道場から送り込まれた汚い手を使う道場破りである。これらは子供でも外国人でも判る典型的なザコキャラとして描かれていたのだが、子供心にも誇張であることはなんとなく理解していた。が、激弱で、口だけは達者で、勢いは最初だけという、映画やマンガに登場する典型的な人間は、現実に存在するのだ。一年前の正月のホンダF1の番組についても書いたが、典型的な人間というのは本当にいるんだなあとこの歳になってつくづく実感する。番組に登場する道場破りはまさにカンフー映画のそれか、ドラゴンボールのミスターサタンそのものなのである(ちなみにネットによるとミスターサタンは後に重要キャラとなったようだが、おっさんの中でドラゴンボールはせいぜいフリーザ編までなので悪しからず)。
彼らのような人間は当然のことながら実力で敵わないと解ると別の方法で攻撃してくる。結果として実力では敵なしで卑怯なことは何もしていない主人公の格闘家も、次第に追い込まれていくのである。つまり格闘技を極めた正義の男でも、卑怯な彼らには決して勝てない、というのが番組の趣旨だったように思う。もし彼らに勝ちたければ、彼らの土俵で、彼らのやり方で、最後の最後に勝たなければならないのだ。
結局のところ人間の社会では、卑怯者の集団が最強なのでありそれが自然の法則なのである。生き残ることは全ての生物にとっての最終回答であり、それに対し卑怯もへったくれもないのだ。「卑怯」あるいは「正義」という概念そのものが間違いであり、それを持ってしまった人間が愚かであり、不幸なのである。彼らに勝てない弱者がせめて自分を慰めるためあるいは弱者同士慰め合うために生み出した、それだけのものだといってもいいだろう。そして我々弱者は、映画やマンガの中でそれらが勝利することによって、せめてもの喜びを得るのである。今大ブームとなっている例の「鬼」マンガもまただからこそ成立するのであり、正義が勝つのが世の中の当たり前であれば誰もそれをここまで必要とはしないだろう。

もう一人、番組で中心的に描かれていた格闘家がいる。彼は過激な言葉で外国人を攻撃し愛国を訴えることでネット上では相当の支持を得ており、伝統武術に敵対する者は裏切り者だとして番組の主人公である格闘家をネット上で非難し続けるのだが、実はとても裕福とは言えない暮らしの中で、そのような活動によって自己顕示欲を満たしている、ということだった。彼の現実の生活とネット上での愛国者、武術家としての振る舞いのギャップが非常に印象に残っているのだが、というのも実は自分もまさに彼のような人間を見たことがあり、日本も中国もそう変わりはないということを強く実感したからである。もしかしたら格闘技界はその手の人間が多いのかもしれないと思わないでもない。
そもそも格闘技は、極めて原始的(だからこそ奥が深いのだが)な技術を追求するという性質と、それ自体が極めて危険であるという性質故、客観的な実力を測ることは極めて単純だがそれができないということもあり、偽物が存在する余地が多くある。それ故誰でも「なんとか流創始者」なる肩書を名乗ることができるし、実際一昔前はそのような人間はそこそこ実在した。そのような性質上、個人指導者や小規模な道場も他のスポーツに比べると多い方で、どちらかというとバラバラで組織の影響力が少ない場合も多い。それ故おかしな人間や反社会的な人間が入り込む余地も大きいのだが、逆にまだまだ純粋な人間も多いようにも思ったりはする。が、それもやはり他の競技に比べてということに過ぎないのかもしれない。

本来、そのような質の悪い指導者を排除し、客観的な評価を可能にし、真面目な指導者の活動を支援するのが組織の役割であると考えるのがフツーだが、それは単なる建前に過ぎない。
人間の性質は組織にこそ強く顕れる。組織はいつしか質の悪い指導者にお墨付きを与えるためのものとなり、そしてそのような者が組織を動かすようになり、そして組織を利用して彼らが利益を上げることが目的となっていくのである。独裁者や派閥争いといった権力、自己顕示欲という集団における人間の性がむしろ強く顕れるのがスポーツ界であり、会長の独裁ぶりと反社との繋がりがちょっと前に問題になったボクシング協会もそうだ。競技上の不正である「奈良判定」という言葉も、確か20年以上前からあったような記憶がある。
柔道やボクシングなどという超メジャー競技ともなるともはや組織の論理に全てを支配された世界である。元オリンピックメダリストの指導者による選手へのわいせつ事件など、起こるべくして起こったというのが事実だろう。もちろん格闘技だけでなくスケート協会、バスケット協会などスポーツ界は皆同じようなものだ。集団規模の優位性、特にその極めて大きな経済的利益を認識すると、当然のごとくそれを最大の目的として活動することになる。柔道を真似てオリンピック競技化という悲願をついに叶えたのは空手界である。ちなみに剣道も同様にオリンピックを目指す向きもあったが、逆に柔道のように本質が変化してしまうことや外国勢に組織を乗っ取られることを恐れてそれを避けているというハナシもある。
そのような組織において一流選手と呼ばれる者は、巨大な選別システムによって抽出された組織の歯車に過ぎず、言ってみれば社畜と何ら変わらない。もちろん極一部の選手はそれに見合う対価を得ることが出来る点が社畜とは違うが、組織に完全に依存し利用されることを受け入れている時点で精神的には似たようなものだろう。
スポーツ界、そしてオリンピックとは巨大な営利企業であり、そこに群がるカネの亡者の集合体なのである。彼らの論理、つまりカネの力で国家まで動くのだから、理屈では絶対に彼らに勝つことはできない。彼らに勝てるのはカネの力、つまり経済の法則だけである。東京オリンピックの開催か中止かは、理屈で決まるワケでは決してない。もちろんこれだけ巨大な利権システムの内部においては利害関係も複雑であり、このような状況では中止したほうが利益になるまたは損失が少ないという者も当然いるハズだ。最近「東京オリンピック中止を検討」などというニュースがリークされているのも、自らの利益を巡って中止派と強硬派の激しい戦いが繰り広げられていることを顕しているのだろう。結局のところ、最後にどちらが勝つか、それだけのことである。

最後にもう一つ、ホントにちらっと見ただけなのだが印象に残ったテレビ番組について少しだけ。
それは極めて高い東大合格率を誇る超有名進学校のいわゆるタイアップ、宣伝番組だったが、その中でやってることは結局体育会系と何ら変わらないということ、むしろそれをウリにしているということにある意味衝撃を受けた。
体育会系を揶揄して「脳みそ筋肉」などと呼ぶことはあるが、その番組を見る限りそこの生徒達は、日本で最も優れた頭脳を持つ脳みそ筋肉あるいは「精神筋肉」人間達である。
彼らのような人間を日本中から集め、選別、抽出し日本の政治行政の中心に送り出すのが東大を筆頭とする日本の大学というシステムなのだ。そう考えると数年前の日大ラグビー部の問題も何ら不思議ではないし、つい最近旭川医大の学長のコロナ関連発言やその後の対応が大きなニュースとなっていることや、北大の学長がパワハラで解任され法廷闘争になっていることも、日本の教育システムの実態を見せてくれたこの番組を見れば、充分納得がいくというものである。

2021年も、コロナと東京オリンピックでグダグダという、結局去年と全く同じ、何の進歩もない、そんな日本社会であることは100%間違いない。
Posted at 2021/02/01 05:51:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年12月31日 イイね!

脱ガソリン宣言についての感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

東京都の2030年脱ガソリン車宣言について、トヨタの社長が厳しい発言をしたりとネット上でもかなりの大騒ぎになっている。
言うまでもなく「脱ガソリン」が具体的に何を意味するのかが重要な問題で、それが何かは結局よく分からないのだが、おそらく電動化ゼロの純ガソリン車の新車販売を禁止、というようなことになるだろうというのが大方の見方のようだ。
中身によってはダウンサイジングターボやSkyActivに対する死刑宣告になり、そのようなことをメーカーが受け入れるハズがないし、お上にそんなことができるハズもない。
もちろんディーゼルも禁止にはならないだろう。特に大型車や重機のディーゼルを10年で禁止するのは建設業、運送業界が受け入れるハズがない。だとすれば乗用車だけ禁止しても効果は薄いハズだし、それでも乗用車だけ禁止になるのかもしれないが、じゃあ軽は?二輪車は?といったことも現時点ではうやむやということのようだ。

この手の規制についてよく言われるエピソードとしては、「マスキー法」のハナシがある。
50年前アメリカで制定された、誰もクリアできないと言われた厳しい排ガス基準を真っ先にクリアしたという、ホンダのお約束イメージ宣伝エピソードだが、確か制定にあたってはメーカーとの協議は当然行われており、むしろ厳しい方がホンダにとってはチャンスとなると考えていたというハナシだったと記憶している。
今回も都と自動車メーカーはもちろん、日本政府とも当然内々にハナシはついているのだろう。その上であくまで10年後の目標としたのであり、制度の運用自体はどうにでもなることは間違いない。この10年という期間はメーカー側にとってクルマの開発に必要な期間としては決して長くはないが、本当の問題はその期間ではなく、自動車産業、牽いては日本の未来という最大の問題に、ついに公に手を付けたということなのである。

ネット記事の論調は概ね同じようなもので、基本的には自動車メーカーの主張を支持しつつも、現状を受け入れる外ないという感じであり、自分も2018年2月に書いた通りだ。

ガソリン車禁止の向こう側に見える各国の思惑。日本のとるべき道は?
岡崎五朗 | モータージャーナリスト
12/10(木) 11:09

東京都知事2030年に純ガソリン新車販売禁止明言! できるか? やるのか?? 真意と可能性
2020/12/10 17:23 ベストカーWeb
文/国沢光宏

自動車業界に迫る電動化ショックを超える衝撃波
JB Press 夫馬賢治:ニューラルCEO
12/22(火) 6:01

物事には目的があり(そもそも目的が「正しい」かどうかは別だが)、次にそのための手段がある。
そのための手段は一つではなく(一つしかない場合もあるが)、手段を考え、創りだすことが重要な作業となる。
最終的には哲学の問題ではあるが、その手段を構成する重要な要素が「技術」である。
技術の観点からすれば、目的はあくまで結果である。
例えば目的がCO2の削減だとすれば、CO2の排出量を基準とするのは言うまでもない。
その結果のために、その手段を初めから一つに限定するというのは本末転倒であり、無意味であり、あり得ない。
目的のために様々な技術を開発し、実用化し、最適な状況に合わせて使い分けるのが技術の理想であり、唯一の答えなどないのだ。
今回の場合で言えば、いわゆる「ウェルトゥホイール」の考え方を整理し基準を設ける、というのが本来のあり方だろう。
この時点で現在声高に叫ばれるEVシフト(最近は意図的に「脱ガソリン」に言い換えられているようだが)は、その論理自体に矛盾がある事は明らかであり、当然それは技術の問題ではない。このようなやり方は明らかに特定の勢力による何らかの意図があるのは間違いないだろう。

社会は理屈で動くワケではない。ほとんどの場合それは利害の問題であり理屈や理念はたいてい後から付け加えられるモノだ。
そして規制が利権を生むということもまた、社会の法則のうち最も基本的なシステムである。
例えるなら、スポーツの世界でよくあるルール変更と同じようなものである。
古い話になるが、F1で言えばターボ禁止、アクティブサス禁止(これについてはセナの死との因果関係もありちょっと違うかもしれないが)といった具合であり、また柔道やフィギュアスケートなど、大多数の判定や採点によって行われる競技については、その基準などハッキリ言ってどうにでもなるのである(逆に言えばだからこそこれだけの人気競技になれたのかもしれない)。スポーツとは競技性が重要であり、つまりは面白くなければ意味がないということになるのだが、それ自体誰も否定するところではないものの結局その中身については有力チームとステークホルダーの力学で決まるのはあらゆるスポーツで衆知の通りである(もちろんそれも含めて「スポーツ」だということになるのだが、それを認識した上で本気で楽しめるにはある程度の達観か、無知であることが必要だろう)。そして言うまでもなく全ては資本主義と組織の論理であり、例えば日本が世界に誇る「柔道」は、なるべくして「JUDO」になったのである。そもそも柔道は創始者の言うなればトヨタ並みの商業的センスで全国的、そして全世界的「企業」となったというのは有名なハナシだ。

ちょっとハナシが逸れたが、今回の脱ガソリンについてはそんなちまちましたハナシではなく、世界規模の巨大な資本主義の力学によるものである。
2018年2月に書いた通り、EVシフト、CASEといった「百年に一度の変革期」をもたらしているのは、IT革命と環境問題であり、ということは自動車業界にとっての敵は「IT業界」と「環境業界」ということになる。つまり敵はもはや他メーカーではなく異業種、異業界であり、だからこその「百年に一度の変革期」なのである。そしてそれは交通という社会の根幹をも劇的に変える可能性すらあるまさに革命であり、そこには巨大な利権が潜んでいるのだ。当然、既存の巨大利権であるエネルギー業界が黙っているハズもなく、ひょっとしたら実は裏でこの問題を主導しているということもあるかもしれない。

自動車メーカーが主張する通り、自動車がEV化したところで地球温暖化の解決にはならないどころか問題山積だ。
本来であればEVが全てではないという理屈、正論を世界にアピールしたいハズだが、おそらく現実的に当然そうなるだろうと考えていたのか、それを必死で世界のステークホルダーにアピールしたり、世界のルール作りに対して直接影響を与えようとはしてこなかったのかもしれない。もちろんそのために日本政府を動かすということもなかったのか、少なくともそのようには機能しなかったと見える。
そんな中、やはり現実の壁にぶつかり一旦落ち着いたのかと思いきや、実は世界ではEVシフトの流れはむしろ加速していたようだ。

EVシフトの発信源は欧州、中国であり、彼らがまさに「ゲームチェンジ」を仕掛けているということになるだろう。
「コモディティ化」をもたらすと言われるEVシフトは中国など新興国、そしてIT業界などの新興勢力にとっては有利であり、逆に既存の自動車産業にとって望まざるものであることは基本的にどの国でも同じハズだ。にも関わらず欧州勢がそれに乗っかったのはなぜだろうか。
フォルクスワーゲンを中心とするドイツ勢の「ディーゼル不正」によるダメージを払拭するためだというハナシもあるが、コモディティ化の脅威を考えるととてもそれだけだとは思えない。だとすれば、もはやこの流れに呑まれるしかない、他の選択肢はないと考えているのだろう。とは言え自動車業界としてもみすみす敗北を選択するハズもなく当然一定の勝算はあるハズで、それはおそらくアメリカ、そして日本のメーカーもおそらく同じだと考えるのが自然だろう。もちろんここでいう自動車メーカーの「勝算」と、日本の産業や雇用が守られるいう問題とは全く無関係である。

言うまでもなく日本の自動車メーカーにとって主戦場は世界であり、最終的には彼らの土俵で戦うしかない。ゲームのルール自体をコントロールしようという努力は当然しているだろうが、どうやら自分たちが最も有利となる展開に持っていくことはもはや苦しい状況となったようだ。
つまり、外からの敵が迫っている、どうやらそれはかなり強敵である、そしてついに彼らと本気の戦いが始まった、いや戦いはとっくに始まっており、それがついに表面化した、というよりむしろ決定的になった、ということになるのだろうと思う。今回の「脱ガソリン宣言」は、世界のゲームチェンジに着いて行くことが確定した、それだけのことである。
言うまでもなく国内ルールのコントロールについては今の自動車業界にとって造作もないことであり、今回も自動車業界の判断に基づくものであることは間違いない。とはいえ、政治の世界とてそこは権力闘争の場であり、自動車業界とて常に戦い続けなければならないし、それこそ10年20年後はどうなるか判らない。自動車業界と政治という見方をすれば、テスラの社外取締役なる人物が現れ、そして政府が動き、敵なのか味方なのかどちらでもないのかどちらにもなり得るのか、彼らは彼らの論理で動く、そのような世界で全ては決まるのである。所詮我々ごとき最下層に真実を知る由もない。

その上で、国内社会に相当大きな影響があることを考えると、当然最後は政府の仕事である(本来「最後」ではないハズだが)。
政府が声高に宣言するからには当然相当の働きをする、つまり相当のカネを出していくことになる。ユーザー向けには購入補助金の増額といったところだろうし、社会的には充電設備などインフラ整備があるだろう。メーカーにしても何らかの形で直接的にカネを受け取ることも当然あるのかもしれない。
もう一つ、巨大資本にとってステークホルダーが最も重要な要素であり、世界の投資家にアピールすることは絶対要件だ。彼らの土俵に参戦することが決まった以上大々的に宣戦布告する必要があり、そしてその中身が国内規制である限り政府が大々的に発表するのは、世界共通である。
そして最終的には、EVシフトによる自動車産業のコモディティ化は、凋落した電機産業と同じ道を歩むことを意味する。つまりモノづくり日本の終焉である。自動車産業は大リストラに突入することになり、そうなった時には当然政府の対応が必要となる。
ネットによると、都の宣言は全く中身がなく単なる政治パフォーマンスで実際は日本政府がようやく方針を決めた事のほうが重要だということのようだが、要するに世界に、そして国内にそれを知らしめるパフォーマンスとしての意味が大きかったという事になるだろう。

結局のところ現在のEVシフト騒動は、クルマのスマホ化という、産業構造の大転換が目前に迫っているということになる。
ましてお上が、日本の政府が公に問題を提起するということは、100%悪い方向に行っていることが誰の目にも明らかになった時である。
元クルマ好きからすれば、今回ばかりは自動車業界に理があるし、日本を支える最後の産業としてついつい肩入れしてしまう気持ちもある。
が、これまで自動車業界が常に誠実で、我々庶民の味方だったなどということがあるハズもなく、全てはカネと権力、そして欲望による戦いでありそれが社会というものだ。
最下層の人間が、自分たちの雇用や生活を自動車産業に守ってもらおうなどと考えることが間違いなのだろう。
既に1年が経つ今になって状況は最悪、ということはこれ以上悪くなる可能性も当然ある、というのがコロナにおける日本の危機対策である。
飲食、娯楽、観光業界や、一部の医療従事者に相当の負担をかけ、この困難をやり過ごそうとする日本社会を見る限り、自動車産業終焉後の日本に未来はない。
自分が永く生きたければ他人の血をすすり、自分の大事なものを守りたければ代わりに自分の命を賭して戦うしかない。我々に出来ることはと言えばまさに「生殺与奪の権を他人に握らせるな」ということしかないのかもしれない(自分はこの超人気マンガをちゃんと見たことは一度もない)。

コロナのハナシに前半の半年を費やしてしまった今年もあっという間に終わりである。
ちなみに今年の流行語大賞は「密」でも「鬼」でもなく「電通案件」で間違いないと思っていたのは、どうやら自分だけだったようだ。
Posted at 2020/12/31 07:09:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年11月30日 イイね!

次期クラウンのニュースについての感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

2020/11/13、クラウンが次期モデルでセダンをヤメてSUVクロスオーバーになる、かもしれないという衝撃のニュースがあったので感想。

もちろん現時点では公式発表ではないためウワサの域を出ないのだが、ベス○カーの類ではなく中日新聞が報じたということで、それ自体が大きなニュースとなったようだ。たかがクルマのモデルチェンジがここまでニュースになるのは、やはりそれがクラウンだからである。
当然これ自体何らかの情報戦略で、メーカー側が世間の反応を見るためにリークしたとか、ディーラー側がメーカーに圧力をかけるためなど何らかの意図があってのことだろうが、いずれにせよどちらかに転ぶ可能性があってのことなのは間違いないだろう。
ディーラーにとってはかつては黙っていても売れる上に利益率も高いまさにドル箱商品だったワケで、売れなくなったとしても現状維持を望む声が大勢を占めるのは社会の法則であり当然だろう。仮に廃止となれば相当抵抗があるハズだ。
ただメーカーにとっては100年に一度の変革期にそんなことは言っていられないのであり、名前を残した上で現在売れまくっているSUVとして生まれ変わるというのは確かに最善策に思える。この辺りのディーラー対メーカー、あるいはディーラーメーカー双方の賛成派対反対派の綱引きあるいはそれを見越して先手を打ったというような駆引きが、今回の情報リークという形で現れたのではないかと思う。

この事自体は2018年3月に書いた通り必然だったと言える。何せセダンには需要がないのだ。クラウンですら、というか「日本市場では」ということであり、アメリカや中国では需要があるのであって、トヨタであれば「マークX」を廃止し北米向けカムリにそのポジションを置き換えたし、ホンダであればレジェンドもアコードもそうである。そしてこれでついに国内専用セダンは絶滅することになる(違う意味で今話題の「センチュリー」はやはり「別格」として)。
これも2018年9月に書いたが、そもそも国内市場はオマケであり国内専用という存在がもはや絶滅寸前なのであって、もはやミニバンと軽(トヨタならダイハツ系)しか残らないのだ(そう考えるとダイハツ、スズキにはある意味「日本車」の「将来」がかかっているとも言える)。トヨタで言えば、最新カローラのモデルチェンジによってクラウンとアルヴェル、ノアヴォクのみとなった。
今回のニュースによればクラウンは国内専用モデルとして生き残る可能性はあるということになるようだが、おそらくメーカー的にはそもそもフツーなら廃止、でなければグローバルモデルに置き換えということになるハズで、現状維持派に対し「さあどうする?」と選択を迫っているようにも見える。これはやはりディーラーがメーカーを支えてきたトヨタ、そしてそのディーラーを支えてきたクラウンであるが故の問題であり、それ故どちらに転ぶ可能性もあると言えるだろう。
ただ、いくらかつては他社のパクリを2年もあれば市場に出せるのがお家芸だった「開発力」のあるトヨタとは言え、今の時代これから次期モデルの方向性を決め、そして開発をスタートするということではあまりに遅すぎるような気がする(実際のところは知らないが)。だとすればおそらく高級SUVは開発中、クラウンは廃止、じゃあそれをクラウンにするのは?ということになったのではないかという気もする。

国内市場でセダンに代わって主流となったのはミニバンとSUVである。クラウンで言えばその座を奪ったのはアルファードとハリアーだろう。
おっさんの記憶では、バブル期まではSUVと言えばハイラックスサーフやテラノ、ビッグホーン、そしてパジェロが大人気だったが、この頃はまだSUVという言葉はなく一般的には「四駆」などと呼ばれていた。現在SUVブームと言われているのは世界的な潮流のハナシで、もしかしたら日本は世界の先を行っていたのかもしれない。
ただ団塊ジュニア世代が社会に出た頃は、当時比較的安価だったスポーツタイプに比べワンランク上の価格帯で、ちょっと頑張らないといけないイメージだった。乗っているのはやはり30代以降が多かったし、パジェロを新車で購入した同年代の知人の「400万円」というハナシを聞いてさすがにムリだと思った記憶がある。この頃の若者はまずスポーツタイプ、ヤンキーはセダン、オシャレ派は四駆というキャラクター設定ができており、四駆はむしろ「都会派」「トレンディ」だった。この流れを受けて乗用車ベースの比較的安価な四駆、ホンダCR-Vがそれなりにヒットし、その後トヨタがRAV-4でごっそり持っていったというようなこともあった。バブル崩壊で先に挙げた4車種は全て消えていったが、この2車は曲折を経ながらも存続している。
そして登場したのがハリアーである。当初から高級「感」を最大のウリにしていたため、身近でも40代50代に所有者がそれなりにいた記憶があるし、街中でもかなり見かけたものだった。今思えばこのハリアーがクラウンの最大のライバルとなっていた、つまり30年前からそれは始まっていたのであり、アルヴェルがクラウンの座を脅かすようになったのはそれからずっと後のことである。

おっさんの記憶では、アルファードが登場したのはバブル崩壊後に登場したオデッセイ、しばらく後のニッサンエルグランドの大ヒットにより高級ミニバン市場が定着した頃で、相当遅れてきたトヨタが後出しジャンケン一人勝ちというこれまたいつもの必勝パターンだった。15年ほど前の記憶では当時知人でも数人いるほど大人気で、価格的には結構ギリギリという人が多かったが年齢層は30代から40代といった比較的若い層からも支持されていた。
この頃はまだファミリー、中年といったイメージであり、価格的には大差はなかったもののクラウンとは明らかに違うジャンルという感覚だったし、今思えばこの頃から知人でクラウンを所有しているのはヤンキーしかいなかった。また当時は今ほどオラオラ感全開ではなくヤンキー需要はオデッセイ、エルグランドが主流で、現在のオラオライメージが定着したのはこの次のモデルからである。特に2018年3月のモデルチェンジ以降アルファードがバカ売れしているそうで、それ以前は売れ筋だったヴェルファイアとの差を逆転、それも圧倒的な差となっているそうである。
この時アルファードのデザインについて一般的なクルマ好きの評価は「下品」だった。あまりにあからさまなオラオラ顔がそう評されたのだが、それは当時のクラウンから始まったデザインの流れ、イメージ戦略であり、そして結果としてまさに予想通り圧倒的オラオラ顔のアルファードが圧倒的人気を得たのである。
組織の重役用としての需要も増加しているそうだが、「高級車」の定義がオラオライメージの定着によって書き換えられるというのは、クルマ好きとしてはもはや絶望でしかない。ただこれも以前書いた通り、高級車の定義などとはそもそもそういうものだということであり、下品はまさに商売の基本であることをも証明したワケである。ステップワゴンもセレナも、そして直近のモデルチェンジでオデッセイも晴れてオラオラ顔になった(おそらくオデッセイについてはこれが最終モデルとなるだろうが)。
大衆にとっては所詮ステップワゴンもセレナもノアヴォクも同じにしか見えない、言ってみれば冷蔵庫や炊飯器のようなものであり、売れるクルマとは「ちょっとよさげな冷蔵庫」と言ってもいいだろう。モデルチェンジで人気不人気を交互に繰り返すステップワゴンに例えると、先代RK、その2つ前のRFはまさにそうだったし、現行RP、2つ前のRGは敢えて他者との違いをウリにした結果クルマとしての評価を得る代わりに全く人気がなかった。大衆にとって「他者との違い」が肯定的に評価されるのは「序列が高い(ように見える)」という一点のみであり、それ以外は「他者と違わない」ことによる安心感の方がはるかに上回るのである。クルマを含むあらゆる商品の選択の基準は大衆にとっては所詮「美人コンテンスト」的心理であり、そしてそれを利用することに長けた者が社会での勝者となるのだ。

言うまでもないが、「高級車」の需要はクルマが存在する限りなくならないだろう。
日本人にとって高級車といえばやはりベンツやBMWといったドイツ車が筆頭であって、それはクラウン全盛の時代の30年から40年前でもそうだった。ベンツはやはり別格であり、本物の金持ちまたはヤクザという認識であって、一方クラウンはやはり庶民の憧れというレベルだった(ちなみにおんぼろBMWは周りにも多少いたものの本物のマニアか単なる見栄っ張りと認識されていた)。まして現在は地方都市にまでアウディやBMWのディーラーが店を構えており、これは30年前にはなかったことだ。それだけ輸入車が身近になりその比率も高くなっているのだから、その意味でもクラウンの需要は下がっているだろう。

日本の高級車は常に外車を基準に発展してきたのは間違いないだろう。言うまでもなく走る曲がる止まるという基本性能、つまりエンジン、ブレーキ、シャーシがその主体であり、加えて静粛性、乗り心地、そして見た目の高級感、豪華装備ということになるハズだ。
ただ、走る曲がる止まるという基本性能は一定の水準に達した後もどこまでも向上していく、というワケではない。まして現在の日本においては整備された道路を100km/hすら出すこともなくただただ「移動」するだけであり、200km/hで何時間も安全に走行することまで考慮しなければならない欧州、アメリカとはやはり基準が違うのである。これはメーカーのクルマ作りの問題ではなくユーザーのクルマ選びの問題であり、文化も技術も、結局大衆に選ばれるのであって、そこそこの土壌に根ざしたものが最後に残るということなのだろう。つまり大半の日本人にとって、走行性能も静粛性も、高級車の基準とはならなかったのである。

となれば日本人にとって高級車に必要なのは、他人から高級車だと認識されることのみである。まして序列思考の人間にとってそれは最も重要なことであり、かつてクラウンが持っていたのはまさにそれだった。静粛性や走行性能の高さはあくまでそのために付随するものであって、まして自分が乗って楽しいことでは全くないのだ。
そのような明確な目的の対象であるクルマの需要が一度減り始めると、それまでに比べ街で見かける度合が減り、他人に認知されるという最も基本的な要件が相対的に低下する。つまり「彼ら」にとって最大の魅力が低下するのである。彼らはその一点において貪欲であり、その魅力が少しでも高い方を常に選択し続けなければならないのだ。他人の目を基準として何かを選択するというのはやはり「美人コンテンスト」「ゲーム理論」であり、その対象における真の価値とは全く無関係に、一方的に、急激に進むものである。その意味では、クラウンは確かにもはやかつての神通力を失ったと言って間違いない。

一方、特にメーカーにとっての転機となったのはトヨタ「セルシオ」だった。バブル絶頂期に登場したこのクルマは世界の高級車に影響を与えたと言われるほどであり、当時から明らかにクラウンより格上とされていた。メーカーとしてはここからまさにグローバル市場で対等に勝負できる高級車を目指すこととなり、その成果としてレクサスブランドが生まれたのである。国内的にはレクサスが高級車ブランドとして定着したのかどうかはよく分からないが、あくまでそれはグローバル戦略でありこの時から国内は二の次となったのである。このときからクラウンが序列の頂点として認識されなくなっていったのは間違いないだろう。
とは言えセルシオは新参モデルであり、しかもさすがに手が届かない価格帯であったのは間違いない。当然これもメーカーが意図したものであり、クラウンとは競合しないことが前提だったのだろう。セルシオという名前が消えたのも、あくまでその流れによるものである。
そして今やかつての「外車並み」の価格で日本車が売れる時代である。それはそれで日本車の技術レベル、そしてブランドレベルが外車並みに上がったということにはなるのだろう。感覚的にはレクサスにそれがあるのかどうかはやはりよく分からないし、ましてレジェンドやアコードがそれに代わるとはハッキリ言って全く思えないのだが、要するに時代が変わったのであり、それが理解できないおっさんユーザーなどメーカーにとってそもそもどうでもいいのである。

世界水準という意味ではもう一つ、これらの流れが国内でのクルマ価格の明らかな上昇を招いている、ということになるようだ。国内市場の主役が軽に取って代わったのは、このような理由であることは間違いない。
なぜそうなるのかといえば、一つは「ディズニーランド」の料金で説明できるそうだ。
おっさん的には全く興味はないが、ここ10年で東京ディズニーランドの料金は相当値上げされているそうで、近い将来庶民には手が届きづらいところまで行くだろうと言われているらしい。これは中国を初めとする新興国市場が急成長しているためであり、要は世界的な相場にどうしても引きずられるということなのだそうだ。これはいわゆるマクドナルド指数という、ハンバーガー一個の価格が相対的にどれほどの価値を持つのかを顕すというのと同じようなことでもあり、アメリカや日本ではファストフード、もっと言えばジャンクフードであるハンバーガーが、途上国では高級品となる、ということにも通ずるものである。
もちろん価格とは市場により決まるものでありこれは絶対的な指標としては機能しないハズだが、一つの要因であることも間違いないだろう。グローバル化により主戦場が世界となった結果、日本車の一つのモデルの価格がそのような性質を持つのは間違いない。
ディズニーランドもクルマも、額面上の価格が上昇しても日本人の収入が上がれば相対的には変わらないし、収入が上がれば価格も上がるのが経済の理論上フツーである。つまり収入が低下しているのにクルマの価格が上昇し続けるということは、日本人が相対的にそれだけ貧乏になった証拠なのである。

その上で、クルマそのものについては終わりのないコストカット時代が続くのである。感覚としては、バブル期と比較して現在のクルマは確かに安全性や環境性能と言った部分の機能的品質は上がっているものの、内外装の質感などが向上しているとは正直全く思えない。確かに軽についてはここ数年明らかに向上したといってもいいとは思うが、現在のミニバンやSUVなどは、300万円以上のクルマには到底思えないというのがおっさんの感覚である。
値上がりするということはそれまでの品質を基準として価格が上がるということであり、逆に言うと価格を基準にすれば相対的にクオリティが下がるということだ。バブル期に300万円くらいのイメージだったクルマが現在は500万円するとすれば、現在300万のクルマはバブル期の200万クラスの品質になる、つまり品質が劣化したのと同じなのだ。
もちろんこれはバブル期を基準にするからであり、相対的にそう感じるということでしかない。つまり個人の中にある基準がどこにあるのかによって変わってくるのであり、良かった時代と比べれば、全ては悪くなったということになるのである。そう考えると、良かった時代のぼんやりとしたイメージで今のクルマに対して文句ばかり言う人間、つまりおっさん世代、おっさん基準こそがメーカーにとってはジャマな存在と言えるだろう。

こうして考えると国内市場はやはり相当重苦しい時代が続くことになり、それはメーカー、ユーザーとも同じだろう。終わりに向かって縮小し続けるだけ、と言うよりもはや終わった時代を生きているに等しいのかもしれない。
そんな中、クラウンがSUVに生まれ変わるとすれば、廃止されるよりはまだ多少明るいイメージで捉えることができるのかもしれない。
Posted at 2020/12/01 06:09:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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