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2020年10月31日 イイね!

ニッサンの国有化についての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

コロナショックでANAが大幅なリストラや路線の集約などの改革を行うというニュースがあったが、それ自体はもはや当然のことであり今後は経営そのものが焦点となるのは間違いない。ただ見方を変えればANAはいち早く明確な対応を示したとも言え、一方今回もJALにはそれができないあるいはその気がないと言ってもいいだろう。そしておそらくJALは10年前のリーマンショックの時と同様、再び国有化されることになるのではないかと勝手に思っている。
そしてそのJALを彷彿とさせるのが先月の「ニッサンに政府保証」「過去最大規模の1,300億円」というニュースだが、その後追加の情報が全く出て来ないのは、当然情報もマスコミ自体もコントロールされているということなのだろう。最終的には一時国有化ということで間違いないと思われるが、ニッサンとアライアンスを組む仏ルノーはそもそも国策企業だし、先月ホンダが提携を発表した米GMも10年前リーマンショックを機に経営破綻し一時国有化されていた。米国ではデトロイトがトランプを生んだと言われていることもあるし、やはり国内経済、牽いては政治への影響が大きいということについては間違いなく、これまで日本、そして世界経済を牽引してきた自動車産業の行く末は、言うまでもなく国家としても一大事である。 

というワケで先月の続き。
国家が民間企業を救済することは特に珍しいことではなく、また一方で、最近なら郵政(と言っても10年数前)、相当前には国鉄など、国営から民営化されるものもあり、最近ではあまり使われないが半官半民という言葉も昔はあった。
奇しくも最近docomoがNTT本体に統合されるというのがニュースとなったが、NTTも40年前電電公社から分割民営化されたものであり、おっさん世代が子供の頃国鉄と並び大ニュースとなっていた記憶がある。
当時の記憶では、国鉄については巨額赤字だから民営化するのだという理屈が最前面に押し出されており、子供でも何となくそういうものだと理解していたが、では電電公社もそうだったのかというと当然そうではなく、一体この違いは何なのだろうか、というハナシである。

鉄道は戦前まで交通、牽いては経済の主役だった。まさに国内の隅々まであまねく線路が張り巡らされ、それによって人、モノが動き、そしてカネが動いたのである。が、戦後は急速に発展した自動車にその座を奪われ、また経済の論理による都市一極集中と地方の過疎化によって、地方では完全に採算性を失うこととなった。実際おっさんが子供の頃の記憶では移動はクルマが中心で駅に行くことはほとんどなかったし、駅が街の中心というわけでもなかった。また鉄道とバスを比較した場合目的地が同じであるなら、時間は多少かかったもののバスのほうが料金は低く、駅よりバス停のほうが家から近かった。結局個人の移動目的であればクルマがダントツで、公共交通としてもバスのほうが利便性が高く、地方で人が減り、モノもカネも動かなくなったことで鉄道は競争力を失った。つまり収益悪化は当然なのである。
そもそも国鉄の経営が怠慢で、経営者が無能で、労働組合が傲慢だったとしても、そのことは一義的なものではなかったと言えるだろう。しかし事業として完全に崩壊するまで放置し巨額の赤字を積み上げたのは組織の責任であり、もはや解体する外ないというのが国鉄の民営化だったということになるようだ。もちろん国営であるからには政府、政治家にもその責任はあるハズで、国会議員が自らの地盤の利益誘導のため線路や駅を誘致するというのは全く珍しくなかったそうである。その意味で民営化は確かに英断だったということにもなるのだろうが、結果としてはやはり遅すぎたのであり、落ちるところまで落ちた組織のまさに典型である。まして民営化後も事実上地方のJRは実は国が支えているのが実態なのだそうだ。明らかに採算性がないものを民営化するというのは最初から経済の論理として成立しないのだから当然である。わざわざ不採算部門を分割する意味は、最終的にはそれを切り捨て採算部門を生き残らせるためであり、地方のJRは最初からいずれは捨てられる運命だったのである。あれから40年、地方の路線は一度自然災害に見舞われると復旧されることなく廃止されていくという状況だが、おそらくは国の支援も限界に来ているということであり、これまで存続しただけでも長かったということになるのだろう。

一方の電電公社についてはどうだろうか。
今回の統合のニュースよるとdocomo、NTT共に民間企業とはいえ巨大国策企業に変わりはなく(今回の統合にはこの辺の問題もあったようだが)、まして経営問題というワケでは全くないということであり、40年前も当然そうだった。
通信、電力、交通という経済基盤は何よりスケールメリットが必要であり、その整備は莫大な予算が必要なため、資本主義が生まれた時から国策の筆頭である。それらの利益は直接国家の財源となったし、言うまでもなく経済の発展が国家の利益であった。戦後、経済の回復、発展と共にそれらが一定程度成熟に至ると、それまでほど莫大な予算を必要とはしなくなるため、更なるサービスや技術の発展を目的として自由化、民営化されるというのが世界共通の流れである。当然日本もこれに習うこととなるが、それは自由経済を正義とするアメリカの圧力などもあっただろう。
地域電力会社や電源開発も、民間企業とは言え事実上の国策企業だが、ここ数年、自由化、送発分離に舵を切ったところである。

この経済の主役、そしてその利益を享受するのは国家ではなく民間企業であるという考え方によるものの一つ、というか最後で最大の事例が「郵政民営化」である。事業としては十分健全、というより莫大なカネがそこにあったからこそ、自由経済の原則によってそれを独占することは許されない、ということになるようだ。ただこれも時代の波が押し寄せていることは明らかで、通信の発展によりそもそも郵便物は今後消える運命にあることは間違いない。ただ実際は郵便事業そのものではなく銀行と保険という本来であれば付帯サービスであるハズの事業から巨額の利益を得ていたのであって、実際これらの収益により地方の不採算郵便事業も存続しているということになるそうだ。経済が発展するに連れ、というよりそもそも経済の実権を握っているのはモノづくりや物流などではなく金融や保険などの虚業であるということに、誰もが気づいた出来事だった。

ただその金融ですら、ここ数年危機感が高まりつつあるというハナシである。
バブル期までは国により絶対的に守られていた銀行も、バブル崩壊で北海道拓殖銀行は潰されその結果地方経済への影響も小さくなかったと言われているし、その後銀行の不祥事も数えきれないほどあったと記憶している。そもそもバブル自体銀行、金融がその主犯であり、そして日本全体をそのまま失われた30年に陥れ、ここ数年地方銀行なども再び存続の危機なのだそうである。銀行自体金融政策によって生き延びているのか逆に翻弄されているのかその辺はおっさんにはよく判らないが、肝心の審査能力が低下しているというハナシもあり、経済の実権を握っているハズの銀行がこの体たらくではますます将来暗澹たるものである(そもそも審査能力とは何なのか、昔はそれがあったのかは大いに疑問ではあるが)。
このような状況で行われた郵政民営化に、日本経済にとって何らかの現実的な好影響などあるハズもなく、まして「かんぽ」は全組織ぐるみの巨額詐欺事件を起こしたところである。

要するに民営化とは、経済の論理として当然のことであり住民サービスや国民のために行われるワケでは全くないし、事業の効率化も経営の改善も、全く関係がないということである。国鉄がJRとなり経営やサービスが改善したわけでは全く無いし、駅員の対応が良くなったということはほとんどなかった(最近でこそ常識的水準にはなったが、それは単に時代の流れだろう)。郵便事業も、最近土曜日の配達をやめるというニュースもあったところであり、これからサービスが向上してくことはないだろう。
まして組織の論理によって全てが劣化しガバナンスが崩壊していく日本においては、国営であるということの規制が緩んだだけとなり、巨大利権を狙う経済原理主義者達がそこに群がる結果となるだけであって、一部の人間以外に何のメリットもないのである。件の「かんぽ」事件などはむしろ国営、民間双方の悪い部分を併せ持ったハイブリッド悪徳経営者とハイブリッド腐敗組織を生み出したいい例である。結局組織の誰もが経営能力もなく、実務能力もなく、責任も取らず、間違った方向に進んで後戻りできず、最後に組織が崩壊し、しかしゾンビの如く生き残り、腐敗を拡散させ、皆がゾンビとして生きるというのが現在の、そして今後の日本の姿なのである。
負の遺産を処理することなく放置してきた結果、それが止めどなく積み上がって崩壊する、それを避けられないのが社会の法則であり、社会の支配者たちはそれを判っている、そういうものだと認識している、そうなってから考える、ということなのである。これらはいわゆる「緩慢な死」というヤツだそうで、この事自体はリーマンショックの時から言われていることであり、結局何も変わらないのだ。死の神シヴァは、再生の神でもある。真の再生は破壊無くしてありえないということは、世界中の神話が示しているとおりである。

そしてここでニッサンにハナシが戻る。
本来企業として自分の力だけではいよいよダメだとなったとき、周りからその実態を見極められたうえで、少しでも得るものがあればどこかの誰かが助けてくれるし、誰も相手にしてくれなければ破綻するだけである。その前になんとかするのがフツーであり、であれば助けてもらうのがルノーがいいのか、国内メーカーがいいのか、国がいいのかというハナシでしかない。
現時点ではホンダは「No」を突きつけたワケで、トヨタは事実上既にダイハツ、マツダ、スバル、スズキまで面倒を見ている状態である。ルノーは助けてくれるというより全部を持って行かれることになり、それはだけはイヤだと考えているのが日本政府(の一部)、ということになるのだろう。
かつて栄華を誇った液晶産業を見る限り、経営破綻しホンハイ傘下になったシャープ、一方国が前面に立って誕生したJDI、どちらがいいかは明白だろう。しかし、実際どちらの選択肢を取るかは分かれたワケで、我々から見る結果と、「彼ら」の目的はそもそも違うのだと考えるのがより自然だろう。再三言うようにそれは現在の日本の経営者と呼ばれる者達の中に、企業を経営しようとする意志のある、そしてその能力のある人間は、既にいないということなのである。ただそれは我々素人の考えであって、「彼ら」にとってはそもそも意味がないのだ。組織の論理が完成に至り、責任などというものが組織のトップに一切不要となったのだから当然ではある。おそらく経営陣の不正蓄財の責任はうやむやのまま、ニッサンは国有化されるしかないのだろう。ニッサンはそもそも民間企業だが、歴史を辿れば立派な国策企業であり、ここまで書いた通りもはや巨大組織に国営も民間もない。資本主義にとって巨大企業は国家と表裏一体なのである。

とはいえ、今はとにかくコロナである。ANAのニュースが示す通り、あらゆる経済活動が相当のダメージを受ける中、自動車業界だけあるいは一つの会社だけを救うというのは、難しいかもしれない。平時なら、大丈夫な誰かが大丈夫じゃない誰かを救えるが、それができなくなるというのが自然災害や疫病の恐ろしいところである。これまで国家によって守られていたモノ、利権を得ていたモノの中には、切り捨てられるモノも数多く出るだろう。
バブル崩壊もリーマンショックもあらゆる経済活動にダメージを与えたことに変わりはない。が、コロナの場合は特に交通、運輸、観光というところが直撃を受けることになり、そちらの救済が重視されると同時にやはり厳しい目が向けられることになるのだろうと思う。MRJの事実上の凍結というニュースもあったが、これについては相当な国費が使われた上全く結果を出すことができず、むしろコロナを理由にヤメることができてラッキーだったという見方もできるかもしれないし、それ以外にも例えばリニアモーターカーなどそもそもとても採算が取れるとは思えず、最終的には技術の輸出まで含めてというのが現在の理想なのだろうが、コロナによって事業も技術も確立することすら難しくなるだろう。当然JR各社も軒並み大幅減益を発表しており、今後は誰が国に助けてもらうかという競争になるのかもしれない。
10年前はなぜJALだけ税金を投入するのかというハナシに当然なったのだが、それは言うまでもなく破綻と救済どちらがいいのかということであり、そしてそれは誰かが客観的理論的に判断するものではなく、全ての利害関係者の力学によって結果として決まるのである。バブル崩壊、リーマンショック、そしてコロナとダメージの大きさがどれ程違うのかはよく判らないが、もしかしたら今回はJALだけを救済するということにはならないかもしれないし、それでもやはりJALだけが救済されることになるのかもしれない。
そんな中、「100年に一度の変革期」まではまだ自動車業界の問題とも言えたのだが、そこにコロナというのは、ニッサンにとってはまさに命運尽きたということになるのではないかと思っている。

コロナにより、世界は今人が動かなくてもいい時代を目指している。
が、人には移動したいという欲求があるのも事実であり、それ自体がなくなることはないだろう。遅くても数年後にはワクチンと治療薬が普及するだろうし、そうすれば他の疫病同様「克服された」ことになり、世界はコロ前に戻るだろう。その時が来れば観光需要は戻るハズだし、コロナのことなどすっかり忘れるに違いない。
とは言え、全てが元に戻ると思っているのは日本人だけかもしれない。
ファクターXによって日本は欧米に比べダメージが少なかったと言えるが、これによって世界での競争が有利になるということは全く無さそうである。また欧米では「ニューノーマル」が加速しようとしているし、むしろそれをビジネスへと転換しようとするだろう。日本はダメージが少なかった分そのような発想が希薄であり、時差出勤もテレワークも東京の「解除」、その後の「GOTO」などによりあっさりどっかへ行った。お上はと言えば、感染者が再び増加すると「”引き続き”対策を講じた上で」と言って何でもかんでも実行する、「誰も緩めていいとは言ってない」「お前ら何勝手に緩んでんだ」というのがお約束である。とにかく忘れるのは早いのが日本人であり、何事もうやむやを好み、お上の言うことは聞いているフリをするのが得意である。そして世界が新たな基準によって動き出した時、またしてもついて行けないことになるのは目に見えている。そもそもコロ前から新しい分野は何一つ世界について行けていない日本に、どう考えても未来はない。現在も世界に誇る産業用ロボットといえど80年台からの遺産である。時間は決して後戻りしない、あらゆるものは歳をとる、そして起こったことは消えてなくなるワケではないのだ。

最後に、特に気にもならないがニュースをひとつだけ。
今月初めにホンダF1撤退のニュースがあった。
その事自体についてはこれまで何度も書いてきた通りなので改めて触れるものはない。
が、おそらく2021年はホンダF1史の最後となるだろう。
そう考えると確かに少し寂しさを覚えるし、それは単なるおっさんの郷愁に過ぎないのだが、せめてコロナがある程度収束し、最後の年の日本グランプリが鈴鹿で開催されることを願っている。
Posted at 2020/10/31 06:55:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年09月30日 イイね!

ニッサンとホンダの合併話についての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

確か2019年の初め頃にもそんなハナシがあったので「また?」「同じ話?」という感じなのだが、ネットで見る限り前回との関連性は書いていないのでよく解らない。が、フツー同じニュースをまた1年後にということはないだろうから、そういう動きはこのところ常にあるということなのだろう。
おそらく誰もが自分同様ピンと来てはいないという感じだと思うが、それなりにニュースにはなっているようだし、コロナのハナシにも飽きてきたので感想(既に1ヶ月ほど経ってしまったしその間かなり動いているが、流れに沿って書いている)。

現時点ではこれが実現するとは誰も思わないだろうが、このタイミングでこのニュースが表に出るということにはそれなりに理由があるハズであり、おそらくそれは新型コロナによる打撃であることは間違いない(この合併話自体はコロ前のハナシだそうだが)。
今回の動きは経産省が画策したことだそうで、そして同時にニュースのリーク元ということになるらしい。
そしてその理由は何かといえば、誰かがそれを望んでいるからだということになるのだろうが、それが経産省の役人または政治家、ということではないだろう。もちろん結果として得られる利益が彼らのビジネスモデルであり、役人社会の論理で動く者達にとって主体的な行動理由となることも当然あるのだろうが、今回については実現する可能性はおそらく初めから考えていないだろうし、そもそも合併、そしてその後の結果がどうなるかということと、そのために行動することとは彼らにとっては何の関係もない。
だとすればこのような動き自体、そしてそれがニュースになる事自体に何らかの意味があるということになるだろう。

このハナシ自体の時系列はイマイチよく判らないが、とりあえず前回ニュースとなった2019年初め(若しくはその少し前)と今回の舞台である(と思われる)2019年終わりで、ニッサンとホンダに何か状況の違いはあるだろうか。
前回のニュースの頃は、ニッサンについてはかのカリスマ経営者の国外逃亡直後であり、ルノーからの吸収圧力が強まっているというニュースがあったと記憶している。一方のホンダは四輪部門の不振が顕著だということだった。そして以降ニッサンは業績下降が止まらないということであり、ホンダも上向いてはいないようである。
この状況を考えると、もちろんホンダも芳しくはないが、危機の度合からすればニッサン側に主な理由があることは明白だろう。
元々ルノーと仏政府はニッサンの吸収を常に目論んでおり、かのカリスマ経営者はそのために送り込まれたのだが、ニッサンの支配を完全に手中にして以降逆にニッサンの独立を守る側になったというハナシである。その意味ではニッサンも日本政府も彼を利用していたとも言えるのだが、その彼が再びルノー側に回ることを恐れたニッサンと日本政府が彼を国外に追放したということになるらしい(ちょっとハナシがトんでる気もするが)。そして彼が去った後ルノーと仏政府の圧力に対しニッサンと日本政府がそれに対抗しているということだった。ということは件の合併話はやはりその一環であり、ニッサンを守るために日本政府がどこまでも介入するというアピール以外に意味はないだろう。2020年に入り新型コロナによって業界には更なる圧力が渦巻く中、過去のニュースを流すこともささやかではあるが一つの情報戦略ということになるのだろう。そしてこれは対ルノーだけでなく全世界、そしておそらく色々な意味で国内に対して、ということになるハズである。

そもそもこの先ニッサンが生き残れるとは誰も思っていないハズであり、そしてそれは単に時間の問題であり、いかに延命するかという(それはそれで重要な)問題なのだが、それもコロナによってついに先が見えた、ということになるのかもしれない。
かつて栄華を極めた液晶産業が敗北し、国策によって誕生したジャパンディスプレイは終わりの始まりとして既に有名である(というより既に終わっている、敗戦処理、墓場泥棒の巣窟、と言って間違いない)。
これは弱者連合がどういう末路を辿るかを示している。ルノーとニッサン、そしてミツビシの組合せは、そうではないとは誰も思わないだろう。
国策によってそこにホンダが加わるとすればそれはもはや液晶産業同様、日本の自動車産業の敗北を宣言するのに等しい。そしてそれが現実のものになる可能性は、日に日に高まっているのかもしれない。

ただ仏ルノーはそもそもが国策企業だし、米GMも確か10年ほど前、破綻後に国営化されたのだから、世界的に見て特別なこととも言えないのかもしれない。
そしてそこに、そのGMとの業務提携をホンダが発表したというニュースである。
今や技術提携、資本提携、アライアンスは極当たり前であり、というか昔から特に珍しいことではなかった。市場が拡大する状況では他の企業と一時的な協力をすることは両者にとって利益となる場合もフツーにある。ホンダはかつてローバーと提携したこともあるし、いくつかのメーカーからOEMを受ける側だったこともある。
が、今はそういう状況ではないのは言うまでもなく、その意味において相手がGMであることにどのような意味があるのかということになるのだが、内容は主に基本コンポーネントの共有化ということなので、単なるコストカットでしかないのは間違いない。だとすればやはりホンダの将来にとって前向きなものであるとは言えないだろうが、北米市場はホンダにとっておそらく最も重要な市場であり、その意味で相手がGMであることにそれなりのメリットがあるということになるのだろう。まあとにかく全てがコストカットの時代であり、そもそも「前向きな」業務提携などまずないといってもいいのかもしれない。

というところに、「ニッサンに政府保証」「過去最大規模の1,300億円」のニュースであり、これまでのハナシはこれであっさりタネ明かしということになった。
制度についてはおっさんにはよく解らないのだが、ネットによると要するに10年前のJALと同じで、最終的には一時国有化ということになるようである。前述の通りルノー、GMも同様であり、そしてどちらも現時点でとりあえず生きてはいるのだから、世界的にはアリなのだろう。
もし国有化ということになれば、逃亡したトップ以外の前経営陣の不正蓄財についてもうやむやでは済まされないだろうし、過去の責任問題が大きくなると思われるが、組織のトップは一切責任とらなくてもいい社会はここ10年でほぼ完成形であり、おそらく問題ないのだろう(司法取引で既にお咎め無しということらしいが、そう考えるとますます全てが「彼ら」にとって都合よく回っているのだなあと感心する)。
ただ日本人にとってはJALやJRなどはただのインフラだと思っておりむしろ国営でもいいと思っているが、モノづくり、それも一度は世界を席巻した日本製品が国営化されたとして、その商品に魅力を感じるかといえば、少なくともおっさんの場合は、おそらく無いだろう。国営企業なら国営企業らしく大衆向けに安いクルマを供給してくれればイメージも上がるだろうが、今の時代安くて悪いだけのモノになるような気もする。ただ国鉄に例えると、車両そのものは決して技術的に悪いということはなくむしろ優れていたイメージがある(自分はテツではないのでそもそも車両の製造までやっていたのかどうかすら知らないが)ので、技術者にとってはいい仕事ができる環境になるのかもしれない、というのは一縷の望みである。が、考えてみればそれも相当過去のハナシであり、また最近日本の鉄道技術は世界での競争に敗れているという記事を読んだ記憶もあり、そもそも全く逆に巨額赤字で民営化された国営企業に例えるのは全く見当違いではあるが、この辺のハナシは面白そうな気もするのでまた後で考えてみることにする。

そしてそこに、明らかにタイミングを合わせたように新型ニッサン「Z」の情報も発表された。
エンジンは3リッターV6ツインターボという超保守的コンセプトである。また外見はS30とZ32を強く意識したデザインだそうで、確かにフロントはS30、リヤはZ32のイメージが反映されているのがハッキリ判る。これは言うまでもなく現60代と40代がターゲットということであり、そもそもこの世代しか興味を持たないと言って間違いないだろう。というかZの主なターゲットはそもそも昔から北米市場であり、現在もそうなのは間違いない。しつこいようだが今や国内はオマケでしかないのである。
当然価格もトヨタスープラやシビックタイプRより低いハズがなく、500万円台から更に上の価格帯となるのは間違いないだろう。そもそもスポーツカーとは旗艦であり憧れである必要があるのであって、80、90年代のような若者でも頑張れば買える時代は二度とやっては来ないのだ。Z32世代である現在の40代は、実際に購入する者は極わずかだろう。GT-Rとの住み分け云々という記事も見たが、当然GT-Rは更に上の価格帯でちゃんと棲み分けられるのである。
そう考えるとスポーツカーとして存在意義があるのはそもそもGT-R、NSXなど数千万円クラスであり、500万円のスポーツカーなど富裕層にも大衆にも相手にされない中途半端な、特に意味のない存在になっていると言ってもいいのかもしれない。「スポーツカー」=「旗艦」、企業イメージ、販売促進という発想自体がそれほど意味を持たなくなっているのであり、全てが縮小する一方の国内市場においてはまず間違いないだろう。

そんな国内市場に、ニッサンはこれから18ヶ月で12種もの新型車を投入するそうだ。いきなりそんなことしてダイジョブか?という感じではあるが、これまで新車をほとんど投入してこなかった分蓄積したモノがあるのかもしれないし、10年以上古い設計のクルマばかりではさすがにもうムリということかもしれないが、もしかしたらお上がヘンに口出ししたのではないかという気がしなくもない。まあ実際はグローバル市場向け製品をとりあえず国内に持ってくるだけという感じらしいので、少なくとも技術的なリソースの問題はないのだろうが、今までそれすらしてこなかったということは国内市場はそれで充分と判断していたということなのだから、方針の大きな転換ではある。
実際国内市場においてはもはや完全に軽が主役であり、国内ディーラーもおそらくそれを待ち望んでいたハズであり、とりあえずそこに注力していこうと考えていたのだろうと思う。ネットによれば新型デイズ、ルークスは、技術的に圧倒的評価を得ていたホンダN-BOXを上回る程評論家の評価は高いようであり、ニッサンあるいはミツビシの技術者達がまともに仕事さえできればいいクルマができることは間違いないのだろう。ただ技術と売上は一致しないのがクルマの常であり販売台数はN-BOXには遠く及ばないようで、国内のニッサンディーラーにとって12種の新型車にはまさに命運がかかっているのかもしれない。
ただテレビCMに象徴されるように、国内においてニッサンが企業イメージを託すのはYAZAWAでありキムタクであって、そのイメージを伝えようとする相手は60代と40代である。つまり国内市場はこの国の構造的な問題であり、それ自体どうすることもできないのであって、形式上、最低限、あとわずかの期間、ディーラーを食わしていくだけ、ということでしかないのだろう。

ただこれについては全てのメーカーが同じである。100年一度の変革期以前に、少なくとも国内市場においては日本メーカーにはいずれこの時が来ることは判っていたのだ。
マツダとスバルは早々に生き残りへと舵を切り、得意分野に集中し、技術とブランドを前面に打ち出す戦略に転換した。総合メーカーとして存在する3つのウチ1つは崩壊前夜である(ミツビシはこれに含む)。このことはそもそも「総合メーカー」という存在そのものが問われていると言ってもいいのかもしれない。
ホンダは総合メーカーへの成熟を目指す過程で、少なくとも日本市場においては技術力のイメージとブランド力を失う結果となったが、グローバル市場ではそういうワケでもなく、これはある意味戦略どおりなのかもしれない。要するに日本市場はもはや全く重要ではないのである。

そのホンダについてもニッサン同様ニュースが相次いでいるが、この構造的問題の中10年程前に採った拡大路線がアダとなっているそうである。もちろんそれはグローバル市場における戦略でありそもそも国内向けラインナップは縮小の一途ではあったが、結果として(かどうかは知らないが)2年ほど前から国内工場の閉鎖が次々に決定し、グローバル市場でも国内ほどヒドくはないようだがやはりイギリス工場は閉鎖となった(あくまでコロ前のハナシ)。
まあこれについてはホンダに限ったことではないし、どのみち国内市場はただのオマケでしかないのは間違いないが、そんなオマケユーザーからすればこれまで莫大な利益を得てきた企業の責任として、最後にせめてこのまま切り捨てるのではなく少しは恩返しをしてもらいたい、と言ってもバチは当たらないだろう。
その意味では、かつてホンダの代名詞だった「シビック」が大衆車から高級車になり、そして日本人はもはや相手にもならなくなった今、事実上大衆車となった軽の質を格段に高めたという意味で、「N-BOX」はホンダの最後の「恩返し」だったと受け取ってもいいのかもしれない。完全国内専用モデルに対し相当の開発費を投入し、相当の広告費を使っていた(であろう)事も合わせて考えると、確かにホンダにしかできないことだったのかもしれないとは思う。ディーラーにとっては結果的に他の車種を喰うことになり、売れれば売れるほど利益を損ねるとまで言われているのだが、国内市場はもはやシビックどころかそもそもフィットですら売れる時代ではない、N-BOXという方法しかなかったのだと考えるべきなのだろう。だとすればメーカーにとって国内市場、国内ディーラー、国内ユーザーに対して、切り捨てる以外の選択肢として最後の、唯一の答えだったのである。そしてその意味では、ニッサン、ミツビシも後に続くことになった。

ホンダについては、現時点でもう一つの話題である「ホンダE」についても少し。
正直見た目はかなりイイ感じだがそれ以外目新しい物は何もない、というのが個人の感想である。このコンセプトであれば10年前、ニッサンリーフ以前に出せただろうとすら思う。今までEVを出さなかったのはビジネス上の戦略でしかないし、だとすれば今出したことにも何か意味があるハズだが、それが何なのかはピンと来ない。
もちろんターゲットは中国、欧州市場であることは間違いないが、個人的にはEVはまだ普及段階にないと思っている。その中国、欧州においても一時よりトーンダウンしているように見えるし、まして国内においては何ら進展も見られず、ニッサンリーフの電気料金プランもユーザーにとっては後退する一途である。現時点では一旦先が見えた、現実的な壁にぶつかった状態であり、当然ホンダEについてもどのみち利益が出せる状況ではないだろう。だとすればこれは完全に個人の妄想だが、特定の誰か、例えば電池メーカーであるパナソニックなどのステークホルダーに対して何らかの答えを出す必要があったとか、もしくは社内的なこれまでの流れのようなモノに対して一旦回収に動いた、言ってみれば「はいここまでやりました、これでいいでしょ、じゃこれで一旦終わりね」というような、いわゆる大企業病的な組織の論理ではないかとも思わなくもない。当然目新しいモノなどなく、特別な電気料金プランもなく、高価格帯でそれに見合うデザインと高級感だけがウリである。話題性以外の要素が全く見当たらないのだが、それでも話題性だけはあるというのは確かにホンダらしさかもしれない。
国内市場がオマケでしかなくなった今、そのオマケユーザーの目に映るものはもはや日本の自動車メーカーの真の姿ではなく、ホンダEもこれが世界の流れなのだということになるのだろう。が、ニッサンがリーフで先行し、10年遅れでホンダが追随する、この状況でEV時代が目前まで来ているとはどうしても考えづらい。もっと言えばミツビシがi-mevで更に10年先を行っていたハズだが、結果を出すことはできなかった。テスラや中国メーカーが引き合いに出されることはあるが、ビジネスモデルが違うのであり比較にはならないだろう。トヨタについてはHV重視に微塵もブレは見られないように見えるし、RAV-4でPHVがバカ売れしたそうだが、もしEVシフトが本当なら、最後にトヨタが全部ごっそり持っていくだろう。
最近何かと言われるのは、エジソンは電球を発明したのではなく、実用化、商業化したのだというハナシだが、やはりそこに最大の壁があり、だからこそそれを成し遂げた者が歴史に名を残すということなのかもしれない。もちろん現代のビジネスにおいてそんなことは誰でも判っていて、だからこそ皆がエジソンを真似ようとしているのが現時点でのEVブームなのだろうとも思う。モノづくりの世界において、というかこの世の全てにおいて、利益を出すことに尽きる、皆がそれを忠実に実行しようとしていのである。
これから新型ZやホンダEについてネット上には礼賛記事が多く出ることだろうが、それもまた経済の論理であり、マスコミとて貧乏人相手に商売しているワケではないのだ。

最後に、ホンダに関して最近読んだ記事についても少し。

ホンダが死守すべきたったひとつのこと ホンダ専務・本田技術研究所社長 三部敏宏氏インタビュー(その6) 9/9(水) 6:00 日経ビジネス

ちなみに「その6」となっているが1〜5も全部を読んではいない。
少なくともこの記事を読む限りでは、この人が記者の言う「面白い人」には到底思えなかったのだが、おそらくしゃべりが面白いとかそういうことなのだろう。正直な感想として、ホンダの社長に自工会の会長はやはり務まりそうもない(記事の相手は「ホンダ」の社長ではないようだし、違う意味でそもそもムリなのかもしれないが)。
「クルマはオンナにモテる」「カネがあったらいいクルマを買うのが当然」「若者がクルマを買わない理由がわからない」「レジェンドはいいクルマだ」等々、もはやさすがホンダの社長だとしか言いようがないし、これがまさに今のホンダを象徴しているのである(ホンダが「技術研究所」を「本社」に統合したという組織改正の記事でもあり、肩書については正直良くわからないのだが、一応技術方のトップということで間違いないだろう)。とは言え昔から自動車メーカーの社長など皆このようなものだったのかもしれないし、それは自分には知る由もない(「ホンダの社長」といって本田宗一郎をイメージする方が常識的にはおかしいし、それこそ「厨」と言われても仕方ないだろう)。
タイトルから想像するような、ホンダの将来を描けるような記事ではとてもなかったことだけは間違いない(もちろん記事のコンセプトがハナからそうだったとすれば何ら問題はない)のだが、唯一面白かったのは「どんな手を使っても燃費競争に絶対に負けるわけにはいかなかった」「No2でもいいとは絶対に言える雰囲気ではなかった」というハナシである。そんな会社のどこが本人の言う「好き勝手」な会社なのかさっぱり判らないし、むしろ典型的な組織の劣化とも言えるハズだが、そこについては本人も記者もハナシに矛盾があるとは全く思っていないようだ(確かにこの人は好き勝手やってそうだし、彼を初めとする役員のハナシなのだろう)。
関連して「N-BOXが売れたのは、いいものを作れば売れるということ」とも語っているが、これも本心だとは思えないし、もし本心だとしたらこれも矛盾している。「ホンダはフツーでは許されない」とも語っているが、「ホンダを批判するヤツは結局ホンダを買わない」とも言っている。これは裏を返せば「そんなのは国内のおっさんユーザーだけで、そんな奴らはそもそも眼中にない」と言っているようにしか聞こえない、というか間違いなくそう考えているハズだし、その事自体は全くもって正しいと言える。また「今S2000を出すのがホンダらしいかといえばそうではない」というのも確かにそのとおりである。
結局もはや時代が全く変わったのだ。
新しい価値観を提供することで強者に立ち向かうことを得意としてきたホンダにとって、成熟した市場、社会では、仮にその性質を今なお持ち続けたとしてもそれほど有利には働かないだろう。時間は決して後戻りすることはないし、全てのモノは歳をとる。日本はあらゆる意味で成熟社会であり、ホンダはもうトヨタを目指す外ないのである。
仮にホンダがトヨタになれたとして、クルマ好きからすればトヨタが2つあったところで何も面白くはないのだが、資本主義としては当然いいことなのだろう。
実際のところマツダがSKYACTIVEを開発したように、ニッサンがVCRを開発したように、ホンダからエンジンに関する技術が出てくることは、しばらくなさそうである。

ただ時はまさに「100年に一度の変革期」であり、本来かつてのホンダであればそれはまさにチャンスとなるハズである。
記事中では彼らの息子が全くクルマに興味がないことを嘆いていたが、個人的にはそんな息子たちにクルマを作らせたほうがよほど面白くなるだろうと思う。
もしもこの世のどこかにまだHONDADNAが存在するとすれば、それは今やホンダという組織の中には決してない、そう確信したところである。
Posted at 2020/09/30 06:07:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年08月31日 イイね!

新型コロナと社会についての感想と妄想(その5)

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

大衆におけるロックダウン賛成派と反対派、日本型=グダグダの対応、そして組織の論理と集団心理が全ての行動原理なのが日本人である、というのが前回のハナシだが、あまりにまとまりがつかなかったので今回はその続き。

コロ中(コロナ禍)の盆休みである。
帰省するべきか否か、大衆レベルではこの葛藤に多くの時間と神経をムダに消費していたワケだが、普段何も考えずに生きている人間には、たまにはそういうことも必要なのかもしれないとは思わないでもない。まあ個人的には1年や2年や5、6年実家に帰らないからといってどうでもいいことではある。

むしろこの盆休み、観光地や温泉ホテルやデパートの方が、さすがにハイシーズンとはいかないもののもはやほぼコロナ前のレベルだというのが自分の印象である。聞いたハナシでは、キャンプ場はどこもいっぱいだそうだ。緊急事態だの解除だの緩んでるだの再宣言だのもうなんとも思わない、そんな自分がどうかしているのかとすら思わないでもないが、そんな自分は棚に上げて、世の中の手のひら返しぶりにはちょっとどうかしていると思わずにはいられない。
そもそもお上は例の「GT」キャンペーンで行け行けと言っているのだし、テレビでは海水浴場や公園の噴水で大勢が遊んでいる映像はもうフツーの夏の光景として扱われている。サーフィンや登山まで槍玉に挙げていたのはわずか3ヶ月前のことだが、ワクチンも治療薬もまだ、つまり何一つ変わったワケでもないのにこの手のひら返しである。これは結局「対策をしてるからいいのだ」というハナシなのだが、だとしたらそれは最初からずっと同じハズであり、さんざん叩かれたパチンコ店も、いったいあれはなんだったんだということになるハズだが、そんなことは全くお構いなしである。
今思えばこの盆休みに混雑するデパートや温泉ホテルに行くくらいなら、メチャクチャ空いていて料金も安かった自粛期間中に行ったほうがよっぽど良かったことは間違いない(というかこれでGTキャンペーン価格?全然安くなくね?というのもある)。つまり、そもそも自粛などせず、対策をして、ずっと営業していれば、このような反動もなく、ムダなキャンペーンによる混乱もなく、経済的にも影響を少なくできたであろうことはおそらく間違いない。
東京では「解除」後、先月くらいから感染者がかなり増加し、自粛前の数字を遥かに上回っているにも関わらず、再び自粛要請を発動することはなさそうだ。結局、自粛して、解除する、そのことに何の意味もないどころかかえって悪化させるだけだったことは明らかである(そもそも初めから今に至るまで、お上が発表する数字は検査数や方法からしてデータの体を成していないと言われているのだから、実際感染者が増加したのかどうかも全くもってアヤしいのである)。

ただ基本的に自粛要請、ロックダウンというものが、医療機関の逼迫度を基準にしていることは理解はしている。医療崩壊を避けるためには、負荷が一定の基準を超えればロックダウンしかないのは当然だろう。ただやはり基本的には医療機関の物的人的支援を柔軟に行うなどの具体策の方がよほど重要だと思うが、そういう部分は既存のシステムにすっかり縛られて何もできないのが今の日本の組織の典型的な症状である。
とは言え、全世界で人工呼吸器や医療用マスクが足りないなどということになればそれはどうすることもできないし、地方部ではそもそも地理的物理的にリソースに限界があり患者が急増すればすぐに医療資源が逼迫するというのも分る。
だとすれば、地域ごと、都道府県ごとに医療機関の逼迫度を主体的に判断しロックダウンを行うのが理想ではないだろうか。県外に対しても「こっちは医療機関がヤバいから来るな」と明確に発信すればいいのである。そうすれば沖縄の問題は起こらなかったかもしれない。そして日本全国、帰省すべきか、観光に行くべきかの判断に悩むこともなければ、自粛警察というクズ共に大義を与えることもないハズだ。とは言え、沖縄や北海道などの地方こそ観光は主要な産業なのだから、どのみちその判断は難しいものになるだろう。だとすれば、都道府県自ら責任を持って発言するなど出来るハズもなく、国に「なんとかしてくれ」となるだけである。
結果として国は行け行け、地方は行くなあるいは来るなということになり、とはいえハッキリそう言うワケでもなく、「慎重に判断しろ、お前らが」と最後は個人に責任を丸投げするのである。
今回東京、大阪、北海道などの知事の行動が大きく報道され、国と地方自治体が対立しているように見えていたが、実際は互いに責任をうやむやにするために裏で繋がっていると考えるほうがよほど自然だろう。グッドコップバッドコップ的役割を演じているとも言える。そもそも沖縄も北海道も、国の補助金で生きているようなものだ。東京大阪は国と勝負することもできるのだろうが、それも最終的にはそれぞれの政治家、政党、支持母体の力学、利害関係が全てを決定するのであり、大衆がマスコミを通じて目にするものは全て政治的パフォーマンスなのである。

このようなうやむや、モヤモヤ、これぞまさに日本型の対応と、独裁国家である中国は別としても韓国や台湾、そして欧米各国の対応の違いは、一体どこから来るのだろうか。
未知の疫病に際し、国家の立場とは明確であり、それは唯一、国家の維持である。国家の維持とは即ち現体制の維持であり、そのために必要なのは主に経済である。経済によって支配者となった者たちが経済を止めるハズがないし、そもそもあらゆる人間にとって経済は生きることと同義である。
疫病による死者を出さないなどということはそもそも不可能であり、当然、一定のレベルに抑えるということになる。一定レベルとは何かということについては、何人死ぬかは問題ではない。疫病で何人死ぬか、自殺で何人死ぬか、過労で何人死ぬか、国家にとってそれらは全て経済問題に置き換えられ、損失額に換算される。資本主義を名乗るのからにはそれは当然のことなのだ。疫病で多数の死者が出れば経済に与えるダメージは計り知れず、それをどう計算し、予測し、最善策、次善策と実行に移していくかというだけのことであり、もし失敗すれば多大な経済的損失を被る、それが全てである。それらの計算結果、予測の違い、そして支配者達それぞれの皮算用と力関係、それらが結果として各国の対応の違いとなって顕れるのである。
中国の場合は一党独裁体制であり目的も対応も明白だ。韓国、台湾、東南アジア諸国が厳格なロックダウンを早期に実施したのは、SARSの経験からだそうだ。
イタリアやドイツ、フランスなどのロックダウンは高額な罰金による強制力を伴っているが、これはやはり疫病そのものの重症者、死者数が多い、医療資源の逼迫度が高いということから来るものだろう。
イギリスの当初の対策は理屈的には明快であり当時は理解できたが、ドイツやフランスとは違うというブレグジット的国民感情を利用しようとしたのかもしれない。結果としては大衆の反発から撤回することになったのだから、政策的には失敗ということになるだろう。
アメリカでは疫病そのものを軽視する大統領と、厳格なロックダウンを実施したニューヨーク市長の対比が鮮明だった。現時点では大統領の支持率低下に大きな影響を与えているそうだ。そして日本も、現都知事はその対応により自らの評価を高め、それが選挙結果となった部分もあると言われている。
こうして見れば疫病対策とはやはり政策であり、政治家が何を見ているか、どちらを向いているか、ということである。考えてみれば改めて言うまでもない当然のことであり、疫病対策だけでなく、あらゆるものがそうである。そして成熟した社会では、組織の論理が隅々まで浸透し、行政も科学も医学も、全ての業界が同じなのだ。
つまり日本型グダグダ対応は、政治に無関心であり権力に従順で社会に依存しきっている大衆と、このような社会を作り上げた現支配体制の成果であり、その意味ではやはり日本はコロナ対策に成功していると言える。大衆にとって帰省するか、キャンプに行くかで悩んでいるなんぞ、幸せなものである。
もちろんこれはおそらく疫病の危険度がそもそも低かったから(たまたま日本は「ファクターX」があっただけ)であり、仮に今後本当に危険な疫病が起こった時、この国にまともな対応できるとは全く思わない。

そもそも帰省なんぞは大抵「行かないと親がうるさいから」ということだけのものであり、親戚の家や墓参りも、なんとなく行かなければならない雰囲気で行っているだけなのだが、今回は嫌な顔されるというワケだ。元々帰省が憂鬱だという者も一定数存在しているのだが、そのような者にとってはコロ中はむしろ良かったとも言える。
今回のコロ中にあって、というより元々帰省やその他社会的慣行、行事などは、「行かなければ嫌な目に合う」「行ったら行ったで嫌な目に合う」という閉塞した、矛盾した、無意味な状況を自ら作り出し、相互に不快な状況を増幅させる、日本人的隣組社会の象徴だと言ってもいいだろう。

疫病とは、自分の命はもちろん他人の命に対して自分の行動にも責任が伴うという状況である。それはまた他人の行動が自分の命に影響しかねないということでもある。
外出すれば感染するかもしれないが、しかしただ家に閉じこもっていたのでは経済は止まり結局自分の命に影響しかねない。だから皆で経済を回さなければならない、と他人は言う。だとすれば、自分は外に出ずに他人が経済を回してくれればいい、と思っている。経済を回したほうがいいと外出したら、他人から攻撃されるかもしれない。他人がどちらを重視しているか、最終的にどう行動するかは判らない。こうして「疑心暗鬼」が社会全体を覆っていく。
ネットによるとこれらは「ゲーム理論」と呼ばれ、例えば経済学、心理学で言われる「美人コンテスト」や「囚人のジレンマ」なども同じようなものらしい。
そしてその恐ろしさはむしろ疫病自体よりも、極端に言えば大量虐殺まで引き起こすほどの社会の分断を生むことであり、それは歴史が証明している。「自粛警察」はその典型な初期症状だが、今回は結果としてそこまでの重大な影響はなくせいぜい差別的な言動や張り紙をされたり、県外ナンバーのクルマがキズ付けられる程度ではある。つまり今回は疫病自体がその程度のものだということになるのだが、とはいえ個人的には自粛警察や、パチンコ店やサーファーを晒し首にしたワイドショーなどには、嫌悪感というよりやはり恐怖感を覚える。

殺人や傷害などは言うまでもなく、交通事故などでも故意または過失で他人の生命を奪うことになれば法によって裁かれ罰を受けるし、金銭的な損害賠償も請求される。
日本において交通事故の死者は最近でこそ年間3千人ほどだが30年前は万単位だったと記憶している。労災での死者は最近では年間千人弱のようだ。そして自殺者は年間2万人である。ちなみにインフルは3千人から1万人、そしてコロナは8月までで千人ちょいである。
自殺については、自己責任という見方がおそらく大勢であり原因者が法によって裁かれることはないが、最近は被害者自ら(というか遺族)が裁判に訴えた場合、その責任を認める場合が多くなっているようである。
しかし、病気の場合はそのような責任問題となることは今までほとんど誰も考えていなかったと言えるだろう。妊婦が近くにいる場合など風疹のリスクを認識させられるが、それもここ10年ほどのハナシである。まして毎年インフルでの死者が多数発生しているのは紛れもない事実であり、当然誰かが誰かに感染させているのだが、予防接種をするもしないも自由だし、インフルでも出社する人間は今でも相当数存在する(50代以上の社畜などはほとんど全員と言ってもいい)。
が、今回のコロナでは大衆は今までのカゼやインフルなどとは違う反応を示している。自分の死に対する恐怖と共に、他人に対する影響を強く意識しているのだ。
これはおそらく、単純にそれだけリスクが高い(と認識している)ためだろう。他人に感染させ万一死んだりすれば大変だということをハッキリ意識しているのである(この事自体は決して悪いことではないが)。
特にハイリスクとされている高齢者にその割合が高いことはおそらく間違いない。まして日本ではそもそも高齢者の比率が高く、社会における影響度も大きい。つまり、少なくとも今回の自粛警察については、主に高齢者がその主犯であると言っておそらく間違いないだろう。ワイドショーについては、制作責任者が高齢者であるというより番組の主な視聴者としてのターゲットが高齢者であるということの方が大きいだろう。
そしてそのようなワイドショーを見ることによって、他の大勢も自分が自粛警察のターゲットになることを恐れるようになる。こうして「恐怖」が社会の「空気」を作り出すのである。テレビ、マスコミというものが、それをあっという間に日本中に伝染させるという恐ろしいことを簡単にやってのけるということを、改めて示したと言えるだろう。それはある意味感染力、毒性ともに疫病よりも恐ろしいものである。

しかし、かく言う自分も10年以上昔から、インフルで出社する同畜舎の社畜に対しては、殺意に近い嫌悪感を抱いていたのは事実である。いわゆる「俺コロナ」で警察に逮捕されたという報道を見て、インフルで出社した人間も逮捕すべきだとすら思っている(どのみち起訴されることはないのだが)。
そのような社畜に対し「家に帰れボケ」と怒鳴りたい感情を何とか抑えている自分は、コロ中でパチンコ店に並ぶ人間に「家に帰れボケ」と怒鳴る自粛警察と同じではないか、これは自粛警察を嫌悪する自分と矛盾するのではないかという気もする。これはどう説明すべきなのだろうか。

コロナという疫病を他人に感染させないということは当然重要であり、その意識のない人間に対して怒りを持つのもまた当然だとは思う。コロナに感染していながら(自らそう認識していながら)出社したとなれば、それはやはり非難に値すると言ってもいいだろう。ということは、インフルにしても、フツーのカゼにしても同じことであり、詰まるところその人間が他人の迷惑、もっと言えば命をどう考えているかということである。
ただやはりこれも程度問題ではある。フツーのカゼで鼻水が2、3週間収まらないからといってずっと休むわけにもいかないだろうし、そもそも傍から見て花粉症と区別もつかない。また隣でセキをゴホゴホゲホゲホやられたのではやはり穏やかではないが、それが喘息の発作だと言われれば、嫌悪感は全く無くなる。
こうしてみると人の感覚などというものは非常に複雑なもののようではあるが、やはり偏にリスクの評価の問題、そして他人の社会的行動に対する評価の問題だと言えるだろう。ということはやはりどこまで行っても必要なのは正確な情報と、状況認識と、そしてその共通理解である。たとえコロナに感染していたとしても、症状がなく自覚していない場合は、出社したとしても非難する何ものもないということになるハズだが、最初から今に至るまで無症状感染者の問題すらロクな整理もされていないのだから、共通理解などおそよ不可能だろう。

ではいわゆる「自粛警察」とはどのような者を言うのだろうか。
報道されているものを整理すると、自粛期間中営業している店舗に「ミセシメロ」の張り紙をする、県外から来たと思われる人の家屋や宿泊施設に「帰れ」と張り紙をする、県外ナンバーの車にキズを付ける、マスクをしないで公園で遊んでいる子どもと母親に怒鳴る、といったところだろう。
こうして文字にするだけでもはや充分だと思われるが、簡単に言えば行動自体の程度が低いということになる。怒鳴る、罵声を浴びせるという行為はおよそ理性的とは言えないし、車にキズを付けるのは器物損壊であり犯罪だ。営業している店舗や、県外、まして東京や都会から来たというだけで張り紙をするのは、お上が「自粛しろ」と言っているにもかかわらず自粛しない者に対して私的に制裁を加えているのである。そもそも相手がどこから来たのか確認する術もない場合が大半だろうと思われ、根本的に浅はかな人間であることは間違いない。
まあこれも言い尽くされていることではあるが、結局理性が低く、論理的思考力が低く、不安が強い、そのような者が自らの安心を得るためにやっていることである。同調圧力、村八分といったものに例えられる、典型的な日本人の反応なのだ。これは職場の同調圧力によってインフルでも出社する社畜にも通じるものであり、やはり非論理的人間の性である。つまり自粛警察こそがインフルで出社する類の人間なのだ。彼らのような人間にとって自粛要請は格好の大義であり、しかし単なる道具の一つに過ぎず、コロナがあろうがなかろうがあらゆる材料を探し求め、利用し、行動するのである。「新しい生活様式」などという新たな基準がお上に示されると今度はそれが彼らにとって大義となり、他人を攻撃する材料となるのだ。
そして彼らのような人間達がこの世からいなくなることは、永遠にないだろう。

というワケで、自分が自粛警察を嫌悪することと、インフルでも出社する社畜を嫌悪することは矛盾しない、自分は「正義厨」ではない、と自分を正当化しているところである。
ただネットで言われるところの「出羽守」であることは自覚せざるを得ないだろう。自分は日本にしか住んだことはないし、世界情勢に精通しているわけでも当然ないのだから、客観的な比較などできるハズもない。例えば病気なのに出社する「プレゼンティーイズム」という言葉もアメリカ発なのだそうで、日本人だけのものではないらしい。ただ、外からそのような概念が持ち込まれなければ全く意識されないほど当たり前だったのが日本人だとも言えるだろう。

何らかの判断をするためにそれらを比較することは論理的思考の基本中の基本であり、情報とはそのためにある(百万円単位の買い物であるクルマですら大抵の人間はそんなこと考えてもいないことは、みんカラのクルマレビューを見ていればおよそ判る)。
自分の属する社会に問題がある場合、他の社会と比較するのは当然だろう。問題の解決、そしてより良い選択を目的としているのだから、当然である。
他国との比較材料を持ちだして日本を正当化する者達もまた相当数いるのだが、そもそも彼らは問題の解決を目的としていないのだから、相容れないのもまた当然である。彼らは自らを支配者と同一視することで「安心」したい類の人間であり、国家を批判されることは自分を批判されることと同じであり、そして批判されることをことさら恐れている、不安の強い人間達なのである(クルマ選びも何百万単位の買い物だからこそ、そうして「安心」を得たい人が大半なのだろう)。
論理的に考えれば、今自分が生きている社会や組織を批判するのは当然のことであり、わざわざ自分に直接関係のない隣国やアメリカをそうそういつも批判する必要性は無いのだから、その意味では出羽守であることは理屈的にはおかしいことではない、つまり「出羽守」は褒め言葉である、と自分では思っている。

最後に自分についてもう一つ言えば、ネットで言われるところの「中二病」でもあることはどうやら間違いない。
大人になる過程で誰もが通過するものなのだが、完全に通過しきれていない者が、未だに中二病が治っていないということになるのだろう。
そしてこんなおっさんになってようやく、自分には完全な大人になることなど到底ムリだということを自覚したところである。
とはいえ中二病が悪いことばかりだとは思っていない。
もし中二病がなければこの世にロックは生まれなかったハズだ。
ロックに衝撃を受けて、人生に疑問を覚えて、社会に反抗して、あるいは女にモテたくてロックを始めた中学生が、ロックミュージシャンに成り上がるというのは一つの典型的なストーリーである。
そんな彼らがすっかり大人になって、大人の理由でロックをやり続けているとすればそれはかなり興醒めだが、我々が目にするのは大抵そういう者達であることも、この歳になればなんとなく理解している。
まあこんなことを言っている時点でやはり自分が中二病なのは間違いないが、もしロック厨と呼ばれるとしたらそれは褒め言葉であり、名誉であり、単純にカッコいい、と自分を正当化している中二のおっさんであった。
Posted at 2020/08/31 05:54:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年07月31日 イイね!

新型コロナと社会についての感想と妄想(その4)

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

個人的にはほとんど興味はないが、本来なら今頃はオリンピックでお祭り騒ぎだったハズだ。
が、豪雨災害でそんな感傷に浸るどころではない人も多いだろう。
しかし、どんなに地震や豪雨などの局地的な自然災害で何百人何千人死んだとしても、オリンピックが延期や中止になることはおそらくない。そう考えるとやはり疫病の破壊力は凄まじいということになる。
現時点では「第二波」「緊急事態」という言葉が再浮上している状況だが、そんな中にあってもこの国が目指しているのはとにもかくにも来年2021年のオリンピックだというのが見え見えである。ライブハウスやカラオケは「不要不急」と言っておきながら、単なる(ただし巨大な)「興行」であるオリンピックはゴリ押しするというあからさまなダブルスタンダードにも、シラケているのは一部のおっさんだけのようだ。
ただスタンダード、つまり基準はその利権の大きさだということは明確ではある。
「メルトダウン」という圧倒的に不利と思われた状況を覆して実現したオリンピックである。そのためにどれほどの「努力」があったのかは計り知れない(逮捕者が出るくらいのことは当然なのだろう)。それを考えれば、意地でも「元」は取らなければならない、この巨大な「興行」に関わるあらゆるステークホルダーがそう考えるのは、経済の論理として当然である。
欧米で死者が急増し各国がロックダウンを実施するに至り、ついにオリンピックは2021年に延期された。日本はといえば、疫病の危険性を煽りつつも実際の対応はグダグダという状況で大衆の不安と不信が高まりつつある中、この決定によりようやくロックダウン側に方向転換することになる。
が、その内容といえば「不要不急の外出の自粛」「不要不急の興行やイベント開催の自粛」「リモートワークの努力」そしてそれに対する「罰則はない」「休業補償も行わない」という、全てのポイントがツッコミ待ちの中途半端な名ばかりの「ロックダウン」である。
オリンピックがいかに巨大な利権機構(と捕らえるか「産業」と捕らえるかの問題かもしれないが)かというハナシは置いといて、今回は日本型グダグダロックダウン、つまり「自粛要請」についてである。
自分個人としては、疫病の危険性自体についてはそもそもそれほどたいしたものではないと思ってはいるのだが、これについては思うところが多々あるので一応整理しておく。

まずロックダウンという言葉の定義、実際の内容において問題となるは「強制力がない」ということだろう。これだとそもそも「ロック」ではなくただの「ダウン」である(単なる語感のハナシだが)。他国と比較した場合これが日本型の最大の特徴であり、実際日本では公式にこれをロックダウンと呼んでいるワケではない。
他国の場合、特に欧州では割と高額な罰金が設定されているそうだが、当然そのためには明確な基準を設ける必要がある。というかむしろ人々の行動を制限するために基準を設けるのであり、罰金は実効性を確保するためそれに付随するものである。
確かに、日本には、罰則はないけど禁止、というものは、フツーに、いくらでも存在する。それでも禁止というからにはその内容は明確となっているハズだ。その上罰則があるとなればそれだけ結果が重いということであり、要は程度問題である。
今回の「自粛要請」については罰則どころかそもそも「禁止」でもない、つまり明確な基準がないのである。結局の所これは、疫病そのものの危険性がこの程度のものだから対応もこの程度で良い、ということになるのだが、日本という国家がそういう言い方をすることは絶対にない。

大衆におけるロックダウン賛成派が必要としているのは、強制力そのものというよりむしろこの「明確な基準」だろう。
大衆にとっては、まともな情報もない中、自分の命を守るため、疫病対策と経済活動の線引き、そして最終的な選択を行わなければならないのだ。そもそも個人によって考え方は異なるし、自分や家族に持病があればリスクの大きさが全く違うということになるのである。
当然ロックダウンにも賛成派と反対派が存在することになるのだが、情報不足と政府のグダグダ対応によって余計に不安が高まり、マスクや消毒液、トイレットペーパーなどの買い占めというパニック症状が発生していた状況で、欧米各国が次々に実施しているとなれば、ロックダウン賛成派の勢いが増すのは当然だろう。
疫病対策としては最善であることは間違いはない、だとすれば当然実施すべきだ、経済つまり一時的な収入は国が補償すればよい、というのが賛成派の論拠である。現実的な様々な問題は別として、本筋としては至極当然であり、疫病そのもののリスクを高く見た場合これに反対する大衆はフツーはいないだろう。
大衆におけるロックダウン反対派というのは、一時的とは言え娯楽、あるいは仕事が奪われることに対して否定的であることに加え、じゃあいつまで続けるのか、収入補償はどうせ後から増税で取り返されるだけだ、といった本筋からは逸れた、しかし現実的な問題をことさら大きく捉えているということになるだろう。この場合はそもそも疫病自体の危険性を相対的に低く見ているのだから、これもまた当然である(自分は一応こちら側である)。
ロックダウンが疫病対策と経済、二律背反するバランスの問題であることは言い尽くされているとおりであり、大衆も理解はしているだろう。だからこそ大衆とて明確に行動しようとする意識があるハズだが、そのためには当然明確な基準、指針、そして情報が必要なのは当然のことである。が、まず持ってそれがグダグダなのだから、賛成派反対派どちらにも大した根拠があるワケでもないまま、お互いを批判しあうという状況にあると言っていいだろう。そして当然のことながら、国家の対応は賛成派反対派どちらからも評価されることはない。

結論からすれば、今回の疫病対策としては「この程度でいい」というのが国家の判断なのである。考えてみれば中国で発生した当初から国内でのクルーズ船、そして現在に至るまでずっとグダグダだったのだから、国家としての対応は一貫していると言ってもいいのかもしれない。
どこまでリスクを取るのか避けるのか、ましてそれが大多数の命に関わる、つまり高度な判断である場合、それを個人に委ねるのであれば、バラバラになるのは当然である。もしそれを組織あるいは社会で行おうとするのであれば、明確な意思統一が必要なのは言うまでもなく、またその作業自体入念に行う必要があるのも当然だ。つまり「自粛要請」とは、疫病という個人の命に関わる問題、人類にとっても最大級とも言える難問に対して、組織、社会で対応することを完全に放棄したと言っても間違いではないだろう。
政治的にも、医学、科学的にも、この国におけるリーダー達は何も明確に発信していないし、共通理解を得ることを重要とは考えていない。明確にしないということは、責任を取らないということである。
リーダーには権力がある。権力とは「強制力」であり、いつどこで強制力を発動するかというのが権力者の特権であり、仕事であり、責任である。そして実際は、如何に責任を取らずにその特権を行使し、自らの利益を追求するということに長けた者が、賢いリーダーとして永くその権力の座に留まることができるのである。政治家も官僚も、そして組織の論理を理解しそれを忠実に実行できる人間は、何が自らの立場を脅かすのか、脅かすことがないのかを解っているのだ。そして自分の利益を最優先することに何のためらいもないのである。何も明確にすることなく、責任を取らず、なんとなく全体を自分たちの利益となる方向に誘導すること、それが政治手法として重要であり、そしてそれは徐々に確立されていくのである。政治に無関心であり、誰も自分で考えない、誰も責任を取らない、他人の判断に従うのみ、そのような国民と社会を確立したのであり、それは権力者、支配者にとって最も高度な統治だと言えるだろう。支配者とは、むしろ危機的状況でこそ、その支配者たる意味を持つのだ。社会学者、官僚、政治家は当然それが判っている。そして彼らにしてみれば、たとえ何千人死のうが、淡々と、粛々と、黙って、ただそこで生きている、そのような権力に従順な国民は確かに、他の国とは「民度が違う」のである。
それはまさに「神風」「特攻」「一億玉砕」の精神であり、日本の支配者やリーダー達からそれが消えることはないのだろう。

大衆の側としては一体なぜこうなるのかということなのだが、一つ言えるのは、やはりそれは「集団主義」だろう。
集団主義には正常性バイアスが強く働く。それによって「安心」を得ることには高い効果があることは確かである。
不安に生きるより、安心して死んでいく、そういう選択をするのが日本人ということになるのだろう。結果、安心して死んでいくなどとは程遠い死に方をすることは、つい75年前のことなのだが、そんな記憶も、ない方が「安心」である。
Posted at 2020/08/01 07:03:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年06月30日 イイね!

新型コロナと社会についての感想と妄想(その3)

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

この時点では一旦収束に向かいつつある(ということになっている)が、「緊急事態」真っ只中に思っていたことを書ききれなかったので、それを残しておく。
こうしてみると、結局何一つ問題が解決したワケではないのに、それは過ぎ去っていくのである。だとすれば、政府の一連の対応も妥当なのものなのだろう。

個人が社会を必要としている、社会は情報によってコントロールされている、恐怖と怒りが社会を混乱に陥れる、それが人間社会の水準であり限界である、というのが前回までのハナシである。自粛要請や自粛警察、マスクに給付金、ハンコに満員電車などなど「クソである」というのが言いたかっただけなのだが、結局それらが全てを顕しているのだ。
とはいえやはり個別の問題を言わずにはいられないので一つ一つ考えてみる。

まずはマスクだ。
重要なのはそもそも「効果があるのか」どうかであり、「効果とは何なのか」ということだ。
現在我々が入手できる一般的な情報によれば、そもそもマスクはウイルスの侵入を防ぐものではない。他人の飛沫が直接鼻と口に入る可能性を下げることはできるだろうが、そもそも自分に侵入するウイルスは主に保有者の飛沫が付着したものを触り、その手で自分の目、鼻、口を触ることによる場合が大半だという。故にウイルス保有者がセキやくしゃみ、会話によって飛沫を撒き散らすことを一定程度防ぐという点において、マスクは「効果がある」ということになる。考えてみれば元々カゼだろうがインフルだろうが、症状が出た人間がするものである。もちろん事実かどうかなど知る由もないが、論理的には充分理解できるし、元々そう理解していたハズだ。
この理屈からすれば、自分が感染することを防ぐためには自分の手を消毒することが重要であるということになり、これも充分理解できる。

が、疫病の恐怖の最中にあっては、「自分が感染することを防ぐ」ことに意識が行くのは当然ではある。そしてその意味でマスクには「効果はない」という認識になるのだが、大衆の認知能力のレベルではそのような論理的な理解は難しいということになる。
欧米では自分が感染すること防ぐものではないという認識故に大半がマスクをしないということになり、日本人は自分が感染することを防ぐという間違った認識により、とりあえず自分を守りたい一心でマスクを買い漁るということになる。その意味ではやはり日本人のほうが論理的思考能力は低いと言うことになるだろう。

そして次に問題となるのがマスク不足である。
マスクの需要が高まり品薄になるのは当然だが、その上更に買い占め、転売、価格高騰という問題が必ず発生する。その最大の原因は「自分が感染することを防ぐ」という間違った認識であり、疫病の恐怖によるパニックである。転売ヤーはそれを利用しているに過ぎない。
ただマスク不足については、現時点では「手作り布マスクでよい」「洗って何度でも使えば良い」という情報によって大衆レベルでは解決済みということになっている。
結論としては、医療用から手作りまで、材質、構造上飛沫を防止する性能に差があり、また装着の方法によって性能が大きく変わるということだが、そもそもマスクは飛沫の飛散を一定程度防止するためのものなのだから、一般人が、例え布マスクであっても、正しく着用することで「一定の」効果があるということは理屈として理解できる。
が、「一定の」効果というものが感染拡大をどの程度抑えられるのかということになれば、情報は存在しない。これは実際問題科学的な検証には時間がかかる、というかほぼ確かめようがないからである。つまり、効果の程度については判らない、マスクをしていても感染は起こる、が確率を少しでも下げることはできる、だからするべきであるというのが結論である。考えてみれば極簡単なことだが、この程度の理屈が共有できずに混乱を極めるのが現在の社会の限界なのである。

マスクと手洗い、これが感染拡大防止に「一定の」効果があるというのは、理屈としては理解できる。だとすれば、というか言うまでもなく、人と人の接触機会を減らした方がいいということになる。当然、感染者は極力隔離するべきである。まして未知のウイルスの感染が拡大するという緊急事態において、接触機会を極力減らすために社会活動を抑えるというのも、当然のことではある。これ自体はおそらく大抵の人に理解できるほど単純なことだろう。
が、実際はこれを共通認識として淡々と行動する、などということには程遠く、「PCR検査」「医療崩壊」「ロックダウン」「自粛要請」「ソーシャルディスタンス」「満員電車」「パチンコ店」「リモートワーク」「ハンコ」等々、混乱を極めている。
そしてこれらの問題は「感染対策」と「経済対策」の2つに分けることができる。この2つはどちらも重要であり、そのバランスの問題であり、まさに社会の問題である。
経済活動を抑えれば言うまでもなく収入が得られない若しくは相当減ることになる。収入が得られなければ、最終的には死につながるのであり、当然それは避けなければならない。現代の日本では、社会が一定程度機能すれば収入が消失しても即死につながるワケではないだろう。ただ社会が崩壊すれば治安やインフラの悪化により命の危険が高まることにはなる。経済崩壊も、即餓死とはいかずとも長期的には生命のリスクであることは言うまでもない。やはり社会機能、そして経済環境の維持が最優先となるは当然である。

社会機能の維持において喫緊の、そして最大の問題はやはり医療崩壊だろう。もしこれが起これば、疫病そのものは素よりそれ以外の全ての治療にも支障をきたしかねず、既に命の危険を抱えている者にとってはまさに危機的状況となる。これは理屈として理解できるものであり、当初はこれが最大の脅威であるというのが政府の主張であった。「PCR検査」とやらも、医療機関への負荷を理由に最低限に抑えられた。海外でも主に欧米各国政府はやはり医療を守るということを前面に主張していたように思う(PCR検査の実施率については海外とはかなり違うようだが、そもそも精度が低いということであり、それが事実ならば日本のやり方は妥当だと個人的には思っている)。

そして欧米との最大の違いはやはり「ロックダウン」だろう。
これを「どの程度」行うかが最大の問題であり、その判断の難しさやはりその効果の程度については測りようがないというところである。だからこそ「エビデンス」、つまり科学的根拠が重要だということになるのだが、少なくとも日本の場合やはり口先だけで中身が全く伝わってこない(それこそ日本語で言えボケと言いたくもなる)。

未知の疫病の場合、まずはその疫病そのものがどれほど危険なのか、言うまでもなくこれが最大のポイントである。明らかに大勢の人間がそのウイルスによって死んだとなれば、その危険性が高いことは誰にでも判る。仮に自分の住む町単位で数十人の死者が出たとなれば、間違いなく恐怖に慄くことだろう。疫病対策としての「隔離」は、大抵の人間にとって感覚的に思いつくものである。当然仕事どころではないし、ましてカラオケになど絶対に行くハズもない。お上に言われるまでもなく他人との接触を最低限に抑えるだろうし、患者を隔離しようとするだろう。
が、今回の新型コロナの場合確かにテレビでは連日報道されているが、少なくとも自分の周りの人間がバタバタと死んでいくということはない。何人陽性だとか、何人死んだとかの数字だけが先行し、その数字の意味や実際の感覚が全く伴っていなかったと言えるだろう。
つまり「明らかに」「大勢が」「その疫病によって」「死んだ」かどうか、疫病の危険性の程度についての情報認識そのものが全く明確ではなかった。
確かに欧米では多数の死者が出ているという情報はテレビでバンバン流れているが、今年3月頃のアメリカではそもそも新型コロナとインフルの区別すらついていなかったとまで言われている。
このような、言ってみれば「中途半端」な状況だからこそ、誰もが危機感を共有するということにはならず社会が「混乱」したということになるだろう。
つまり新型コロナの危険性の認識が一致していないことが混乱の原因であり、ハッキリ言えば「それほど危険ではない」というのがとりあえずの結論となる(最終的には個人の哲学の問題である)。

もちろん未知の疫病に対してその危険性を判断するのは容易なことではないし、個人にそれを100%理解することは不可能である。たとえ疫病の専門家であっても一般的相対的な評価しかできないだろう。まして治療薬はないのだ。そもそも病気への耐性には個人差が一定程度あるのだから、既知の病であっても結局同じことではある。つまり「危険性」とはその判定そのものをどうやって共通の理解とするかの問題であり、そのために重要なのは危険性の認識の過程である。

ウイルスが未知のものであれば、その危険性を最大限評価するというのがおそらく最も無難な選択だろう。発生当初で情報がない場合はそれでいいハズだ。
まず海外で未知の疫病が発生したという情報が入った時、その危険性が極めて高いとなれば当然最大限の対策を取るハズである。海外からのあらゆる人、モノの流れを遮断し、日本全土の完全な隔離、いわゆるロックダウンを全国で実施する必要があるだろう。
が、今回中国で発生した後もずっと中国からの人やモノの流れを止めることはしなかった。疫病そのものについての情報も、重度の肺炎を引き起こすというだけで、その危険性の程度についての明確な認識はなかった。
次に国内で感染が発生した時、今回で言えばクルーズ船で集団感染が発生した時の対応である。これについては衆知のとおり、とても厳密とは言えない、ユルいものだった。
これらの対策が我々の目に映ったとき、そのテキトーさに不安を覚えつつも、この疫病の危険性は「その程度」のものだという認識となった、つまりこれがスタート地点となったのである。
この政府の初動対応が、今回の混乱の全ての原因である。ましてその過程において科学的根拠を国民に示してきたなどとは到底言えないだろう。つまり政府はその危険性を「その程度」と認識していたということになり、国民もやはりその危険性について「その程度」と認識することになる。
世界に感染が拡大し、欧米で死亡者が増加したことで日本でも対策を強化しなければならない論調が高まっていく中でもそれはほぼ変わらなかったし、オリンピックの開催に固執するようにその議論を遠ざけているように誰もが思っていた。ところがオリンピックの延期が決定するなり急に感染対策だロックダウンだなどと言い出したのだから、明らかに手のひら返し、ご都合主義が、誰の目にも見え見えだったのである。こうなるとさすがにどんなに愚かな大衆も政府を信用することはできないし、ましてロックダウンによって経済的ダメージを与えられる、カラオケにもパチンコにも行けないとなれば、反発するのも当然である。

カラオケパチンコ以外にもまずやり玉に上がったのはライブハウスであり、映画館やレジャー施設、観光地、飲食店、ホテルであり、そして最近話題の中心となっているのは「夜の街」である。イベント、スポーツ等の興行も中止され、喫煙所も次々閉鎖された。
確かにこれらはいわゆる「不要不急」、そして「3密」であること自体は間違いはない。感染対策としては、当然避けた方がいいということは、単純な理屈でありおそらく誰にも理解できるだろう。が、オフィスには行かなければならない、そのために満員電車で通勤しなければならないという状況で、「その方がいい」というレベルの理由で一方だけを奪われることには相当の反発があるのは当然である。ましてそもそもそれが仕事である人々も大勢いるのであり、それによって収入を絶たれるとなれば、とても受け入れられるものではないだろう。実際オフィスも満員電車もそれほど大きく変わっていないし、結果として大半の人々は現在も「フツーに」仕事している。夜の繁華街とオフィス、どちらが危険なのか、このような矛盾した状況を理論的に説明されることは一切ない。結局は個人がその矛盾に対して判断し、疫病対策と経済対策という実際の行動のために何らかの線引きをしなければならないのである。感染の危険に晒されながら仕事をしなければならない人間と、感染の危険を避けるという理由で仕事を奪われる人間のどちらにも不満と反発が生まれ、それはいわゆる混乱と分断を生むのである。

感染対策と社会機能の維持を両立しなければならないというのはもはや当然の理屈である。しかしこれらは高度なバランス、妥協点を探る作業であり、例えるならクルマの開発でも常に向き合わなければならない重要な問題である。だからこそそこには明確なコンセプトが必要であり、理論と哲学が必要であり、そしてそれを担うのが組織である限り、明確なリーダーシップが必要である。それがなければ、メーカーにとっても、ユーザーにとってもいいクルマとはならないだろう。
今回の日本の対応はどうだったかというと、コンセプト、理論、リーダーシップ、どれ一つ取っても論ずるまでもない体たらくである。例えばコンセプトであれば、初期対応のグダグダ感、オリンピック延期後の手のひら返しと見るべくもないし、理論については、例えば最も重要なデータであるハズの感染者数一つとっても、PCR検査の精度の問題やそもそも検査を極力しないという方針の下で、その数字自体にどのような意味があるのかすら明確ではない。
そしてリーダーシップについてはもはやコメントの必要すらないだろう。
これだけグダグダな状況で上から何かを押し付けられても反発しない方がおかしいのだが、そこはさすが日本人である。とりあえずお上の言うことに従っているフリをすることだけは得意中の得意であり、そしてその中身については空っぽである。もはや「エビデンス」もへったくれもないと思うのだが、それはおそらくというかまさに「日本型エビデンス」なのだろう。こうなるともはやリモートワークだのソーシャルディスタンスだの、ましてハンコだのどうでも良くなってくる。

その「日本型エビデンス」の象徴が「8割おじさん」だろう。
疫病対策として社会的責任ある行動を決定し実施しなければならないというとき、その科学的根拠とは、やはり科学者として認められた者、そして一定の数の科学者に認められた理論ということになるだろう。言うまでもなくその内容については唯一の正解というものはない。だとすれば、やはりどれだけの科学者が賛同するかという「数」の論理、つまり社会的判断である。ここまで辿り着いたものをとりあえず「最善策」と「判断」することになるのであり、今回の場合、おそらくこれが「専門家会議」に当たるだろう。
そして最終的に緊急事態宣言に繋がった「理論」は、「何もしなければ42万人が死ぬ」というものである。これは一科学者の名前が前面に出ているが、個人的にはこれには強い違和感を覚える。
これを言うのであれば、もし何もしなければ、インフルなら何人、結核なら何人、心筋梗塞なら何人、そして新型コロナなら42万人死ぬという計算になる、とするべきだろう。または何もしなければ42万人が死ぬが、これをすれば何人になり、あれもすれば何人になるという計算になる、とするのが科学であり哲学であって、科学者の仕事である。最終的にそれをどのような形で発表するのかを決定したのはおそらく彼自身ではなく政府だろうし、もちろん彼はおそらく優秀な科学者であること自体は間違いないのだろうが、この点だけを見れば、彼は所詮政府の御用聞きであり、エセ科学者だと言わざるを得ない。つまりそもそも科学者が、科学業界が、科学的根拠というものの意義やその伝え方、あるいは科学的根拠そのものをないがしろにしていると言っても過言ではないだろう。が、現在の科学者とはそういうものであるというのもまた哲学的事実として受け入れるほかない。

今回もまとまりがない感じになってしまったのでこの続きはまたゆっくり考えることにするが、気になるニュースがあったので最後にひとつだけ。
元F1好きとして、ザナルディの事故についてである。

F1もインディも、死ぬこともあれば両足を切断することもあることは、ファンですら誰もが判っているし、関係者、ましてドライバーであれば言うまでもない。
それでもレースをするのが人間だし、両足を失ってもまだレースをしたいと思うのが人間なのだ。
例えそれで死んだとしても、彼らが愚かだなどとは全く思わない。
まあ個人的には登山家だけは理解できないが、日本人元F1ドライバーは登山家となり、不幸な事故にも会っている。
そう考えると、コロナ禍の中満員電車で出勤しオフィスで仕事をするのも、昼カラもキャバクラもホストクラブも、本人にとっては決して愚かなことではないのかもしれない。

自分にとっては、満員電車で出社してコロナに感染して死ぬとしたら、それは愚行以外何者でもない。そうなるくらいなら、ライブハウスで感染して死んだ方がはるかに幸せというものだ。

Posted at 2020/07/01 06:00:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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