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2020年05月30日 イイね!

新型コロナと社会についての感想と妄想(その2)

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

この危機において社会はなぜこうも混乱するのかということなのだが、つくづく感じるのはやはり疫病とはそれそのものも然ることながら、社会の根本的な問題をより鮮烈に炙り出すということである。

結局個人の認識は本来そもそもバラバラなのが当然だというのが前回のハナシである。全てはそこからスタートしなければならず、社会がどうのこうのというのはその次の段階にある。
自分の利益と他人の利益が同じ場合、共に行動することで利益は大きく、不利益は小さくなる場合がある。これが動物が群れで生きる、ひいては人間が社会を形成する理由である。
が、自分の利益と他人の利益は常に同じというワケではなく、自分の利益とならないことのためには誰も行動しない。

自然界においては、生きるために食料を得ようとすること自体死の危険と隣り合わせである。
元々人間は捕食者としての能力は低い部類であり、ほぼ全ての動物同様他の動物に捕食される可能性がそれなりに高い。弱い動物が群れを作ることは、その危険性を少しでも下げるためである。また他の動物を捕食しようとする時、危険が少ない動物を獲物として選択をすれば一般的には得られる食料も少なくなるが、群れで共同すれば危険を減らしつつ大きな獲物を仕留める可能性も高くなる。
自然界では個体間の食料の奪い合い、つまり縄張り争いが必ず生じ、これも動物にとって直接生命の危機となる場合も多い。群れで生きることはこれを一定程度緩和することになる。
ただ全ての動物が群れを作るわけではなく、哺乳類で言えば草食動物にはその傾向が強いが、そもそも捕食能力が高い肉食動物でありながら群れを作るものもいる。結局、如何に危険を減らしながら食料を得るか、それぞれの選択とそのバランスによって自然が選択するのである。

群れを作り、集団で獲物を仕留めたとしても、少しでも多くそれを得たいというのが個人の欲求であり、それによりそこにはまた争いが生じる。その争いに勝ち自分がその全てを得ることができれば理想だが、争いに敗れ、傷つき、成果を得られないとなれば、その個体は集団に参加する意味がない。集団内の争いが個人の生命を脅かすまでには至らず、かつ獲物の一部であっても得ることができ、それが単独で行動するよりも個人の欲求を満たすものであれば、そう判断する個体が一定数いれば、集団は維持される。
結果として集団がより自分の欲求を満たすということを認識した個体は、これを継続しようとする。つまり集団で生きること、社会で生きることは、やはり個人の欲求なのである。
集団の優位性を認識した上で個人の欲求が更に強くなれば、集団を維持し、より強固なものとする必要をより強く意識するようになり、集団に反するものは自分の欲求を妨害するものと見なすことになる。
つまり集団が存在するということは、個人が配分を求める争いと、個人に従属を求める争いが常に存在しつつも、結果として一定の範囲内でバランスが取れているということになる。

集団の中でも外でも、個人の欲求を最大化することは他人のそれを侵略することが多く、そこには争いが生じる。争いとは詰まるところ暴力であり、結局は自分の命を危険に晒す可能性がある。群れで生きる生物、そして人間は他者との争いにおいて、暴力という手段を「一定の範囲内」に抑えることが結果として個体の生存に有利であるという自然の法則に選ばれ、生き残ってきたのである。おそらくこれが「理性」の原型であり、これを発達させ、社会を発達させることで人間は進化してきたとも言える。
結果として、集団を維持、強化しつつその中で自分への分配を最大化することが個人の欲求の最終目的となる。

翻って、疫病が最大の敵となった現代の社会である。
「理性」によって社会を維持、発展させることを、今のところ継続してはいる。もちろん暴力がなくなったわけではなく、結果として一定の範囲でバランスが取れている。
個人はやはり集団の中で配分を求める争いと従属を求める争いの中、自分への配分を最大化することが最大の目的である。

他人の行動が自分に、ひいては社会に損害を与える可能性がある場合、それを防ぐために社会は他人の行動を制限しようとする。
具体的には説明、説得、忠告といったものに始まり、それでも改善しない場合はそれに感情がこもって、徐々にその表現が強くなっていく。そしてその次に、利益または不利益と引き換えにするという条件交渉があり、最終的にはより物理的な「力」によってそれを実行するのである。個人にとってこれらがリスクとして評価されることで社会からの「圧力」となり、結果として個人の行動に影響を与えることになる。
最終的にはその個人のリスク評価が最大の問題であり、それに至る過程はどこまで行ってもバラバラである。仮に死刑になるとしても、それを恐れない者にとっては圧力とはならない。

一般的な個人というものが、社会からの物理的な力、つまり「罰」を受けないように行動しようとするものだとすれば、まずはどうすればその罰を受けないかという法則を意識するだろう。
まずは「ルール」「法」といった明確になっているもの、次に一般的、常識的、と思われる行動を取っていれば概ね問題ないということになるだろう。「ルール」についても、現代社会においては基本的には常識の延長である(これについては別の問題もあるが)。
が、問題はその「常識」とは何かと言うことだ。
おそらくそれは、「その個人が属する社会全体で結果として共通理解となっているもの」を指す。

生まれたばかりの子供は、五感から得られる「情報」のみを頼りに、本能としてインプットされたとおり行動することで生き残る確率を高めている。それは生命の歴史上自然に形成されたものであり、基本的な部分は大人になっても変わることはない。ただしそこには個体差が存在する。
子供は次に脳と身体の成長に伴い、親の行動という情報を得ることで、それを蓄積し、実行し、その結果をまた記憶し、それを繰り返すことで認知、判断、実行という思考を形成していく。そこにはまた環境や結果の違いが生じ、更に生まれ持った個体差が加わり、個体差が大きくなる。
単独で行動する動物であれば、親離れから先は全て自分の行動の結果が情報となり判断基準となる。それらが更に個体差を助長し、そして生存確率に直接影響する。
群れで生きる動物であれば、その後も群れの仲間の行動の結果を情報として利用することが可能であり、それが情報量を格段に増やすことになる。それが群れで生きる動物の利点でもあり、結果として個体差による生存確率の違いは少なくなる。人間はこちらを選択し、そして結果として自然から選択されてきたのであり、そしてそれが「正しい」という評価になるのだ。
結局人間社会において常識とは、生まれた時から持っている本能、次に親に与えられた情報、次に周りにいる他人の行動を基準として共通理解を形成していくことでようやく成立しているのである。子供の頃からそれだけの時間と労力をかけなければ、それは形成されないということでもあり、いわゆる「教育」「しつけ」「指導」などがそれに当たるだろう。

効果的に他人に圧力をかけつつ暴力を避けようとした時、他人のリスク評価をコントロールすればよいと考えるのは「理性的」だと言えるだろう。
が、実際の個人の行動一つ一つに対し、個人の中でも複雑に処理されている情報認識、問題認識、判断という一連の作業を統一しようとすれば、それは膨大な作業となり、社会が高度化するほどより複雑になる。実際そのような作業を行うことは非効率的であり、物理的にも限界がある。故に、自分の属する範囲で、大多数の個人により、結果として共通の行動となっているもの、それを「常識」として認識し採用しているに過ぎず、現実問題それが人間の限界である。
これが社会の限界なのだから、未知のリスクに対し共通認識を形成する作業を行っていくのが如何に難しいかは明白である。つまり今世界で起きている混乱は、社会の限界を顕しているのである。

ただ、それに必要となる作業の物理的な限界は、技術によって僅かづつではあるが高められてきた。それは「情報」を共有する技術である。
人間はその技術を磨くことによって社会を進化させてきたとも言える。言葉を獲得して以降、文字を発明し、印刷、写真、映像、電話、テレビ、インターネット、スマホに至るまで、人間はこれを求め、高めてきた。
個人は自分の利益のために情報を求める。その性質を利用すれば、認知から行動までの過程全てを統一しなくても、最初に必要となる「情報」だけである程度他人をコントロールすることができる。情報をコントロールするその技術に長けたものはシャーマンとなり、暴力に頼らずとも支配者となることができるのである。
情報に基づく結果の予測と評価を相手に与え、それを相手が自分の利益になるとして受け入れれば、相手は行動するだろう。
つまり他人をコントロールしようとするとき、他人がどう判断するかを予測して、そうなるような情報を与えるのである。
つまり他人から得られる情報とは、そのように操作されている場合があることになる。

何かを買って欲しい子供が親にそれを伝え、そして否定された時、どうするだろうか。
まずはもう一度、それでダメなら2回3回と、回数で自分の気持ちの強さを伝えようとするだろう。
次に、懇願する、怒る、泣くなど伝え方を変えて相手の心情に訴えてみる。
次に、そこから動かない、大声を出すなど相手が困るであろうことを行う。これは相手に物理的な困難を与えそれをやめることを条件にした交渉だが、効果があることを経験上解っているだけで条件交渉だとは思っていないかもしれない。お手伝いをする、勉強を頑張るなどの条件交渉は、それを認識した後、一歩進んだ方法と言える。
一般的な方法としてはおそらくこんなところだが、こうして考えると他人を動かすための方法は学習することによって増えていく。が、基本的なことは5歳の子供でもできるほど単純であるとも言える。ただここまでしても要求が通るかどうかは判らない。
6、7歳くらいになると更に高度な戦術を学習する。「みんなが持っている」「勉強に役立つ」「学校で使う」など理由があることを伝え、「説得」するのである。もちろんこれにはウソ、つまり情報操作も含まれる。ここまでくれば、「情報」によって他人を動かすことができるということを理解しているということになるだろう。

これに対し、大人がこれを拒否する、つまり自分の要求を伝える場合はどうだろう。
自分の理性が勝っていれば、理由を説明して相手の理解を求めようとしたり、条件交渉をしたりという感じだろう。が、子供に大人の理屈が伝わることのほうが稀であり、「大きくなれないぞ」「サンタさん来ないぞ」「お化けが出るぞ」といった「情報操作」を行うことがほとんどだろう(そもそも正しい情報や理論を持ち合わせていないからという場合も相当ある)。そして最後は語気を強めたり、暴力に訴えたりするのがフツーの大人である。つまり相手との力関係によって、理性的な手法による労力をできるだけ省き、最終的には力に頼るのが自然の法則なのである。これは学校や職場における上下関係についても全く同様のことが言える。

子供と大人の間における稚拙な情報操作は、いずれウソだとバレる。そうすれば情報としての価値がないことに加え、ウソをついたことに対する反感から要求はほぼ否定されるだろう。これが繰り返されれば、またウソだろうという予想で判断されることになる。そうすれば今後自分の要求の大部分が伝わらなくなる可能性がある。ということは、相手がウソを見抜く能力を持っている場合、そして今後関係が継続する場合は、ウソはつかないほうがいい。これは合理的な判断であり、実際子供でもだいたい判ることだ。
つまり情報操作を行うか否かは、相手の判断能力と今後の関係性によって判断される。相手にウソがバレないと判断した場合、今後自分が相手に何らかの要求をする必要がない場合は、いくらウソをついても問題ないということになる。

結論、個人は社会の中で自分の利益を最大化しようとする。そのために他人を暴力と情報でコントロールしようとする。そして他人にコントロールされずに自分の利益を最大化するためには、他人から与えられる情報をどう判断しそれによりどう行動するかによる。

ようやくここからが本題、疫病に襲われた社会の混乱ぶりについてである。
自分の命を危険に晒す目に見えない敵が迫っているのである。500年前なら悪魔の仕業と考えるのが当然だろう。神に祈るしかない、そのようなときシャーマンが現れる。どうすれば生き延びることができるか、自分は知っていると主張する。祈祷を行い、生け贄を捧げ、特定の動物や人間を悪魔の化身だとして殺す。なんとか生き残ろうと、他に情報を持ち得ない多くの人々がそれに従う。それが本当に有効なのかは判らないが、とりあえず一瞬の「安心」を得ることができる。こうしてシャーマンは人心を掌握し、それに成功し続けたものが支配者にまで上り詰め、富と権力と得る。これらは全て、自分の利益の最大化のために、暴力と情報で他人をコントロールするという社会の法則によるものである。
そしてそれでもいつかは疫病は収まる。シャーマンは自分の成果だと主張するだろう。誰にもそれを確かめる術はないが、特に否定するものもない。

今はそれがウイルスによるものだと大抵の人が認識している。もちろんそうでない人も相当数いるが、生け贄や悪魔祓いには何の意味もないと認識している。
これは情報によるものである。正確な情報が自分の命を守ると知っているからこそ、人々はそれを求めるのである。ただし人々が求める情報とは、どうすればウイルスから自分の身を守るかということであるのは言うまでもない。そしてその情報が得られなければ、身を守るために、また身を守るための情報を得るために、個人が持ち合わせている情報を頼りに、文字通り必死で動くことになる。これが社会の混乱である。
自分の命を守ることを最優先するために、危険を示す情報に脳が与えた属性が「恐怖」である。そして「恐怖」に反応し命を守るための行動を最大化する脳の反応が「怒り」である。恐怖と怒りはまさに命を守るための本能であり、人間の行動の中で最も顕在化しやすい。当然それにも個人差があり、その反応が強いほど人間は物理的な反応を最大化させる、つまり論理的な情報判断を放棄する。こうして恐怖と怒りは社会の混乱を拡大させるのである。
情報技術が発達した現在において、実際大半の人にとっては「疫病」そのものが所詮他人から与えられた情報である。他人からの情報により恐怖に駆られ、そして更に情報を求め、そして結局最後は情報判断を放棄する。こうして社会は負のスパイラルに陥るのだが、これは人類の進化の証でもあり、そして人間社会の限界なのだ。

個人は自分のために社会を必要としている、社会は情報と暴力で成立している、そして社会の混乱とは偏に情報不足、そして恐怖によるものである、というのが今回の結論である。
本当は、こんなことを延々と書くつもりは全く無く、自粛要請、満員電車、ハンコなどなど、「クズである」と言いたかっただけなのだが、そこに辿り着くことすらできなかったので、とりあえずどうしても今言っておきたいことを一つだけ。

自粛警察が大活躍である。
例えるなら彼らは、アンネをゲシュタポに密告する類の人々だ。
無知であり、自ら考える能力がなく、社会に依存しきっていて、恐怖に突き動かされ、異物を排除することに執着し、それに快楽を得る、支配者にとっては一番都合のいい人間である。
今話題になっているSNSによる誹謗中傷や、昔から全く変わらないいじめの問題も本質は同じだ。
全体主義の過去から何も学ばず、社会を論理的に理解することもなく、結局は精神論でこの70年生きてきたのが日本人であり、これを意図し、利用するのがこの国の組織である。

そして国家と共に、かのセレブロックミュージシャンは、この類の人間達に大義と正義を与えた。
彼の考え自体を否定することはできないし、そこまで意図したワケではないかもしれない。
だとしても、少なくともこれはロックとは対極にあるものである(その意味では、逮捕歴のあるセレブ実業家や匿名掲示板のセレブ元管理者の方が、よほどロックなメッセージを発信しているように思える)。
攻撃することで快楽を得る、攻撃対象を常に求めている人間はまた、それを正当化するモノも常に求めている。彼らに対しそれを与えれば、嬉々として行動するのである。

彼らを排除することは不可能だ。
彼らこそ社会なのだから。
彼らには社会から与えられた大義と正義があるのだから。
彼らと戦うのがロックである。
社会と戦うのがロックである。
その戦いにあるのは、個人の尊厳でしかない。
その戦いには大義も正義もない。
常に孤独である。
最初から不利な戦いだと判っている。
そもそも勝利することなど永遠にないのかもしれない。
それでも個人の尊厳のために戦い続ける、それがロックである。
戦わなければ、自分を、そして自分が本当に大事だと思うことを、守ることはできない。
だから真のロックスターはこう歌う。

戦う君の唄を、戦わない奴らが笑うだろう。
Posted at 2020/05/30 07:00:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年04月30日 イイね!

新型コロナと社会についての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

この一、二ヶ月、日本、そして世界中が危機的状況なのだが、これだけの「災害」は自分にとってもこの先も間違いなく起こるだろうから、この時自分が何を考えていたかを記録しておくために、今回はまず個人の視点からここに書いてみる。

今の時点で自分はいつ自分が新型コロナに感染してもおかしくないと思っている。自分ができることはまあそれなりにやっているつもりだが、仮に自分でできることを100%やったとしても、それで感染する確率を、例えば既存のインフル以下にできるとは全く思っていない。とは言え、自分が「死ぬ」とは思っていないのも事実である。確率で言えば交通事故で死ぬほうがよほど高いと考えているからだ。どのみち正しいと思える情報がない中それはほとんど正当性バイアスであることも自分で認識してはいるが、結局、いつ、何で死ぬか、個人のレベルで言えばそれだけのハナシである。4月に入ってそれも多少揺らぎつつあるのも事実だが、ただ個人の「認識」とはそういうものである。
とは言え、感染しない方がいいのは言うまでもない。重症化すれば当然苦しむことになるし、感染したということになればそれだけでとにかく大変だということは判る。
やはりなんと言っても、万が一家族や他人に感染させたときのことを考えると、それは避けたいということは間違いない。

疫病とは、感染確率が高い、そして致死率が高いということであり、誰にとっても死の確率がそれまでに比べ高まっている状態である。
疫病だろうが何だろうが、個人にとっての優先順位はまず自分の命だということはおそらく間違いない。
そして次にこれまでどおりの生活を送ること、そして将来もそれを続けること、ということになるだろう。逆に言えば、死ぬこと、病で苦しむこと、生活で苦しむこと、という順序で回避していくことになる。
命の次にくるもの、つまり生活においては、個人は他人、つまり社会を強く意識することになる。
まずは自分にとって大切な人の命、次にアカの他人の命ということになる。
大切な人を失えばやはり自分が苦しむことになるし、場合によっては今後の人生も意味をなくしてしまうかもしれない。
またアカの他人の命を奪う結果になれば、自分がこれまでどおりの社会生活を送ることができなくなるかもしれない。疫病においてはやはり、自分のせいで他人を感染させ、死なせてはマズイ、それが社会性というものである。
これらはまさに「四苦八苦」そのものである。
結論、生命が全てにおいて最優先だということにおいて、異論の余地はないと言っていいだろう。

しかし、である。
いくら命が最優先だと言っても、最大の問題は言うまでもなくその方法だ。
実際自分がどう行動するのかということになればハナシはそれほど単純ではない。
これは本来、人間にとってとてつもなく大きく、難しいことである。
本来それは常に起こっていることであり、ほとんどの場合それを意識していないだけなのだが、それを突き付けられているというのが今自分に起こっていることであり、世界で起こっていることである。

津波が目の前に迫れば、おそらく誰でも逃げるだろう。
が、津波が来る可能性がある場所で地震が起きたとき、誰もが逃げる、というワケではない。
刃物を持った怪しい人間に出くわしたら、逃げるか、隠れるか、戦うか、選択肢は増える。
タバコは100%寿命を縮めると判っていても、やめる人間の方が少ないだろう。
自分の命を守ると言ってもこれだけ幅があるのだから、他人の命となれば尚更である。
刃物男と対峙したとき、そこに自分と他人がいたら、そして自分ではなく他人が襲われそうになったら、選択肢は更に複雑になる。
そこまでの非常事態ではない日常生活おいても、他人の命に自分が関わる可能性はある。例えば火の始末は昔から言われていることだし、現代であればクルマの運転が最も危険だろう。考えてみれば一般人がここまで厳しく、事細かく法律に縛られているのはクルマの他に思いつかないが、それでも飲酒運転も危険運転もなくなることはない。

かつてのクルマ好きとしては、これまでの自分の運転に危険性が全く無かったなどと言うつもりは到底ない。が、運転技術には個人差があるし、車の性能にも差があるのだから、リスクの評価の差、そして実際の対応の差ができて当然である。一定のレベルを超える損害が発生した時初めて自分の行動が社会から評価されることになるが、個人としてはそれをも含めて全てのリスクを自分で評価し行動するのである。
タバコに関しても、やめなければ50代で死ぬ、やめれば80歳まで生きるということではないワケで、他のリスクとの比較でしかない。個人としてはタバコと仕事のストレス、どちらが体に悪いかという比較はリスクの評価として当然だと思うのだが、社会的にそれが示されることはまずない。

この辺についてはネットで読んだ次の記事のタイトルをそのまま書いておく(自分の言葉で書くのがこのブログのテーマだが、備忘録、まさに「ブログ」として)。

2020/4/23_11:20 「危機を煽ることで回避される感染症の危機」 森本紀行

つまり人間はまず「状況」の「認識」があり、次にその状況が将来的にもたらす「結果」の「予測」があり、次にその「結果」の「重要性」の「評価」があり、それが回避したいものである場合、次に自分がどのような「行動」が可能かの「評価」があり、その「行動」により「結果」が変わる可能性についての「予測」と「評価」があり、次に行動したときの結果としないときの結果の「比較」とその差についての「評価」があり、次に行動に複数の選択肢がある場合それぞれにおいての「評価」があり、次にその複数の評価の「比較」とその差についての「評価」があり、その評価が一定以上高いと判断したとき初めてその選択肢について「行動」するのである。
人間誰もがこの過程を意識的に、あるいは無意識に、情報や認識を逐一修正しながら、行きつ戻りつ繰り返すのである。そしてその回数や精度に個人差が加わる。
そもそもこの作業に費やす時間と労力は負担であってできれば避けて通りたい。まして時間的あるいは精神的な余裕がない状況では尚更である。

状況の認識にも、結果の予測にも、結果の評価にも、「情報」が大きく影響する。
そしてその「情報」をどう評価するのかということが(広義の)「哲学」である。
個人にとって情報とは、そもそも認識可能な存在であること、次にそれを認識すること成立する。つまり成立するか否か、環境と個人それぞれに要因がある。
生まれてから今に至るまで、原因と結果、正しいと間違い、良いと悪いという情報を積み重ねることで、何をどう評価するのかという哲学が形成される。結局哲学を形成するのも、情報の蓄積なのである。
また情報の評価には、楽観的、悲観的、直感的、論理的、正義感が強い、不安感が強い、等々個人の多様な性格が影響し、それにもやはり情報の蓄積が影響している。つまり相互に影響しあっているのであり、情報も哲学も結局は一体だとも言える。
結局個人がリスクを評価するには、無意識のうちに個人なりに持ちうる情報を最大限織り込んでいるとも言える。
が、もう一つ、人間は忘れる生き物だということである。特に不安や危険についての情報は感情という脳の反応による影響を受け、個人の性質によって特定の事象だけを大きく評価したり、あるいは自分の都合のいいように捨てていったりするものなのだ。こうして情報の取捨選択が自動的に行われるのである。

状況の認識から行動までの過程一つ一つにこれだけの過程を経ているのだから、結果としての行動に個人によって差があるのは当然のことである。それは平時であろうと危機であろうと基本的には同じなのだ。

そのバラバラなものを共有するため、統一するために論理的思考という手法を用いること、それが狭義の「哲学」である。
乗っている船が沈む時、隕石が落ちてくる時、ゲシュタポに尋問された時、数多くの小説や映画で扱われるテーマでもある。
有名なハナシとしてはいわゆる「トロッコ問題」というのがあるが、ちょっと前、小学校でこれを取り扱ったことが問題となった。つまりこのような哲学の入り口すら受け付けられない、受け止められないような人間が大多数だというのが、大衆の水準なのである。

今回はちょっと終わりが見えないのでこの続きはまたゆっくり考えることにするが、とりあえずどうしても今言っておきたいことを一つだけ。

「命を守るため」などということは、小学生でも言える。
そのために何をすべきかというとき、初めて人間としての本質が顕れる。
集団に任せ、皆で同じ行動をとる、この国で最も有名なロックミュージシャンに数えられている者がそんなことを真っ先に呼びかけていた。それも音楽ではない方法によって。
彼はロックミュージシャンとしての評価を失うことになったと、自分は思う。
最も「セレブ」としての評価は高めたのだろうし、今後もそれは揺るぎないのだろう。
もちろん一人の人間の発言としては、否定する何ものもない。
ただ彼の行動は、少なくとも自分が知っているロックというものとは全く違う。
そもそもロックなどというものは所詮資本主義社会の、消費財としての産物でしかないとして、その結果ロックミュージシャンがセレブになるのだとしても。

ロックとは、こういう時こそ必要だ。
いや本来常に必要なのだが、こういう時こそその真の意味が問われることになる。
ロックは正解を出すためのものではない。
生きること、その事自体への問そのものである。
全てを疑う、それがロックである。
本当に大事なことは何なのか、答えを出すのは一人ひとりだ、それを邪魔することは誰にもできない、そう叫ぶのがロックである。
誰も皆同じことを言う、そんなのはウソだ、お前らの言うことなど信じない、お前らが今まで口先で何を言ってきたのか、そして今まで本当は何をしてきたのか、そう叫ぶのがロックである。
怖れ、怒り、苦しみを吐き出し、さらけ出し、そして受け入れる、それがロックである。
弱く愚な自分を嘆き、呪い、それでも生きていこうとする、それがロックである。
そしてどんなに弱くとも、自分の力で戦う者の力になろうとする、それがロックである。
そのために音楽の力を用いるのがロックである。
世の中の弱く愚かな者達に何かを伝えたいなら、音楽を用いるのが音楽家の使命だろう。
そして我々は、こんな時だからこそ、音楽を必要としている。

だから僕は、どうしたらいいとか、そんなことなんて聞きたくはない。
Posted at 2020/04/30 06:33:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年03月31日 イイね!

日本の経済の凋落と新型コロナについての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

日本経済の凋落が明らかとなってから30年も経ってようやくではあるが、環境の変化に対応しなければならないという危機感を訴える論調が声高に叫ばれるようになった。
世間でこれを言っている人間自体が本当に危機感を持っているかどうかも判らないが、そのこと自体は当然のことではあるだろう。

環境の変化に対応するというとき、問題は言うまでもなくその変化の速さと大きさであり、その幅が大きいほどついていけるものは少なくなる。
生命の歴史になぞらえた場合、環境の変化に適応できるものとは個体が持って生まれた性質そのものが自然に選ばれるということであって、個体が自らを変質させるワケではない。
マンモスが自らの体を小さくすることも、サーベルタイガーが自らの牙を小さくすることもできないのである。更に言えば、今話題の疫病もまた同じである。耐性を持っている個体、運良く感染しなかった個体が生き残るだけなのだ。環境に選ばれたものが生き残り、それ以外は滅びるということが「適応する」ということであり、基本的には人間社会も同じである。

ただし隕石の衝突や太陽活動の変化、そして疫病という自然現象とは違い、人間社会の変化においては個人が自らの頭の中を変えることで適応できる、というのも理屈である。
しかし、これまで環境に選ばれてきた者が、元から持っている自らの性質や自ら獲得してきた方法を捨てるのはやはり簡単ではない。ましてそのやり方で生きてきた期間が長い程それが難しいというのは言うまでもないだろう。当然逆も然りであり、これまで社会や組織から排除されてきた者もまた、自らのやり方を変えられなかったが故にそうなったのであり、彼らが自ら社会を変えるワケではない。まして、仮に環境の変化をいくら認識したところで、社会全体のためにお互いのポジションを入れ替えようなどということは絶対にあり得ない。

個人が変化することで社会を変えようとするならば、自らを変化させることが比較的可能な、せいぜい20代くらいまで若者には、その可能性があるようには思える。
が、少なくとも現在の日本においてはその割合は大きくない。だとすれば適応できない大多数が滅亡するのを待つしかないということになるだろう。
既に30代から40代前半は社会から排除されており、だとすれば少なくとも現在の40代後半以上が全て退場するまで、これから先は定年が廃止され死ぬまで退場しない事になりそうだから、となればあと30年以上日本は変わらないということになる。
ただ30年後には今の20代も50代である。つまりそれだけの時間を生きていく間、その社会による選別が続くこととなる。つまりどんなに新たな可能性を持つ若者も結局それまでの社会に適応していくのであり、新たに明確な選別作用が働かない限り何も変わることはないのだ。

が、それでもいつかは必ずその日は来るわけで、それでも構わないのであれば、それまで間をどうするか、それまでの間にどうなるか、という問題だけだとも言える。
その間に環境変化の程度と早さがどれくらいかということによって、日本がどのような状況になるかが自然に決まるのである。
ただ、これまで社会で生きてきた人間は、社会で生きていくことについてはそれなりの能力を持っていると言える。彼らは社会で生きていくことに特化したのだから、社会が変わればそれに合わせる能力はおそらく長けているだろう。
社会というものは、結局どこまで行ってもそういうものなのだ。

もちろん問題を提起する側の人間は、そうならないようにしたいのだろう(あるいはそうなることに備えよということかもしれないが)。
当然自然に任せている時間的余裕はなく、だとすればそれは個人に求められる問題ではないということになるハズなのだが、変化に対応するのが個人なのか、組織あるいは社会なのかということは今の所はうやむやとなっている。というかそもそもその違いを認識していない場合がほとんどだろう(もちろん「両方だ」などということは中学生でも言える)。

組織あるいは社会が自ら変化することが可能だとすれば、それは言うまでもなくリーダーの仕事である。が、現在の日本のリーダーは言うまでもなく長年組織の論理に適応することで成功してきた者達である。ということは前述のとおり自らを変化させることは難しい。つまり変化に対応できないリーダーが日本の組織を仕切っているのであり、当然組織が変化に対応できるハズがない。ほとんどのリーダーは自らの組織の人間に対し変化することを訴え、そして自らの組織の人間が変化できないことに対し不満を述べる、それで終わりである。

結論として、変化に対応できる個人と、変化に対応できる個人がリーダーとなっている組織だけが変化に対応できる。当たり前のハナシである。
変化に対応できるリーダーが、新たな環境に適した個人を如何に自分の下に集めることができるかという、ビジネスとしては極々当然のことでしかない。
そして残念ながらそれは少数でしかなく、やはり大多数は滅びるしかない。少数の組織と少数の人間が生き残る、それが変化の時代の宿命なのだ。

ただ人間誰でも自らに及ぶ危険を認識すれば行動する。問題はどの段階で認識するかである。何らかの情報に基づいて事前に行動できる人間は、生き延びる確立は高くなる。
実際は、津波が目の前に迫ってから逃げる、例えばそのような人間が大多数であり、彼らは生き延びることはできない。結局それは「予測」する能力である。どんな人間もさすがに津波が目の前に迫れば、これに飲み込まれたら死ぬかもしれないということが「予測」できるだろう。地震が起きた時点でそれを予測できる人間は、自分の過去の経験、でなければ人類の経験である歴史の記録を情報として持っているからこそそれが可能となる。
もちろん情報が間違っている可能性もあり、結局重要なのはその「判断」である。つまり予測とは「情報」そして「判断力」である。が、人間、不安に駆られると安心を得ることだけに囚われ、論理的判断を放棄する。つまり一番「安心できる」選択肢を再優先するのである。マスクの行列に並ばずにいられない者達も、オレオレ詐欺に騙される者達も同じである。それが大衆の認知能力の水準であるという事実は、受け入れる外ない。

現在の日本の経済環境においては、単にビジネスで既に世界の水準から遅れている、それだけのハナシである。ビジネスというものは相手のあるものであり、自然災害のような明確な過去の事例がない。つまり答えがないのだ。
これはどちらかというと「戦争」に似ているのかもしれない。絶対的な勝利の法則など存在しない中、最後までただただ勝利を前提にしていたのでは、おそらく生き残ることはできないだろう。戦前の日本もまたやみくもに前進し続けるだけで、二度も核兵器を使われた上に、完全降伏させられるまで終わらせることができなかった。

どんなに高度な情報と判断を用いても答えがないことにどう対応するかというのは、それはもはや哲学、そして最後は信念の領域である。哲学はある程度学ぶことが可能だし、学んだ者はある程度は他人にも伝えることができる(ハズだ)。が、信念はあくまで個人の中にあるのであり、決して組織や社会にあるのではない。そして大多数の人間にそれを期待することはやはりそもそもムリがあるだろう。集団主義では間違った方向に進んだ組織を修正できないことは歴史上明らかである(もちろん歴史とは常に勝者が作るものではあるが)。

未知のウイルスへの対応も全く同様だろう。
組織、社会というものに対応を求め、正解を求めることは不可能だと言っても過言ではない。混乱が更に拡大すれば収拾不可能になる恐れすらあり、最悪の場合社会は崩壊するかもしれない。
が、おそらくそれも別に人類滅亡を意味するワケではないだろう。その事自体は歴史に答えがある。答えがあることは、まずそれを知ることが重要である。

社会を憂い、社会に変化を訴える者は、社会を変えることはできない。
社会が滅びようとも、自分が生き残り、自分のやり方が正しいことを示すことでしか社会を変えることはできないのである。

そして最後は運である。
そのときはもはや神に祈るしかない、それこそまさに人間が歴史上学んできたことなのかもしれない。
Posted at 2020/04/01 04:11:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年02月29日 イイね!

新型コロナについての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

このタイトルで必ずクルマのハナシをするのがおっさんの性である。
昭和を代表する車名であるトヨタ「コロナ」が消滅してから20年程経つだろうか。いわゆる「ハイソカー」の先駆けであり、その役割を「マークⅡ」に譲ってからは、オヤジグルマとして微妙なポジションでありながら商業的には大成功だったこれぞまさにザ・トヨタ車である(この表現も最近は聞かなくなった)。おっさん世代にとっては郷愁の響きなのだが、最近思いもよらず「新型」が登場し何かと世間を騒がせているようだ。

その「新型」については2月中旬の時点で水際対策は失敗、感染拡大は確実な情勢だが、個人的には特に驚くようなことではない。SARSやらMERSやらは既におっさんの記憶から相当薄れているが、海外で発生した疫病を水際で防ぐということが如何に形式的な対応であるかということは、数年前のデング熱の時には既に判っていたことである。

実際の対策、特に医療的なものについては、いいか悪いかは別としてこの程度のものになるのが国家としては限界であり妥当なのだろう。
ちょっと前にアフリカで発生した「エボラ」クラスになればさすがに100%封じ込めるという「方向」にはなるのだろうが、それでも全世界が共同で何らかの対策をとっていたとは到底思えず、ほとんど神頼みレベルにしか見えなかった。発生源がまさに世界の片隅だったからこそなんとかなったのかもしれない。
仮に日本が発生源となり、それが100%封じ込めが必要な性質のものだったとしても、この国にそれができるとは到底思えない。もちろん中国ならできるとも思えないし、アメリカだろうが他の先進国だろうがそれは同じだろう。まして現時点で日本は先進国の中でも色々な意味で周回遅れと言われているのだから、他の先進国にできないことが日本にできるハズがないのである。これから先も、日本が発生源となる可能性はかなり低いようだが、今回のように発生源並に危険な「感染源」となり得ることはもはや明白である。

このような疫病対策は基本的に医療の問題以前に危機管理の問題であり、情報管理の問題であり、そしてまさに組織、社会の問題である。
これについてはネットで読んだ次の記事がズバリ指摘していたのでタイトルをそのまま書いておく(自分の言葉で書くのがこのブログのテーマだが、今回ばかりはほぼ全てを顕していると思ったので)。

現代ビジネス 堀 有伸 2020.2.23賛否両論…岩田教授の告発騒動に見る、日本の深刻な「構造的問題」

BEST TIMES 【注目の岩田健太郎教授が分析】しゃかりきな、水際対策、意味あるの?
―日本の過去の感染症対策を振り返るー

この2つの記事の内容は、無意味なルールを厳格に運用するのが日本人、仕事をしているフリ、などなどまさに核心を突いている指摘ばかりだと感じる。そしてこれらは現在の日本の全ての組織に通じるものだろう。自動車メーカーの検査不正や燃費不正にもこの辺が当てはまると思う。ルールそのものが無意味なのにも関わらずそれに労力を注ぎ、肝心な部分をおろそかにしたり、逆にルール違反だと大騒ぎしたりといったことは、劣化した組織、そして社会の問題である。誰も何が重要で何が重要でないかを判断することなく全てをこなしているだけなのだ。その判断は組織の責任者の仕事であるハズだが、結局組織とはその責任をうやむやにするように進化するものなのである。

そもそも理論上、歴史上、政府の「対応」とは国家を守るためのものであり、国民を守るためのものではない。もちろん国家にとって国民は最大の要素ではあり結果的には国民の生命は守る必要があるが、この場合の国民とはその「要素」としての「国民」全体でしかない。
目的、目標として最優先されるのは、経済活動への影響を最小限に抑えることである。感染が拡大し死者が大量に発生すれば社会は大混乱であり、経済も大打撃だ。それを防ぐための手段としてまずは感染拡大の防止、そしてその次に病気の予防や治療というものが存在するのであって、優先順位というものは自然と決まっているのだ。
極端に言えば国家として見た場合の経済活動に影響がなければ、感染が拡大しようが何人死のうが問題はない。もっと言えば鳥インフルや豚コレラと同じであり、この場合の養鶏場、養豚場での対応と何ら変わりはない。つまり理論上国民も家畜も同じなのだ。ただそのことを我々下級国民自身が理解していないだけなのである。もちろん現実の対応そのものには程度の違いは当然ある。家畜と違うのは、大量の人間を強制力を持ってコントロールすること自体が膨大なエネルギーを必要とするということだ。そしてそれは現在の日本では難しいことではあるが、警察と軍隊の出動であり、それこそが国家の原点である。ただそれは最も原始的な手段であり、高度な国家となる程それは最終手段ということになる。現代では「情報」によって社会をコントロールすることが最優先となるが、前述のとおりそれは「高度な国家」であって、それなりの技術と事前の準備が必要である。
そしてそれを担っているのは政府の官僚だが、彼らは100%組織の論理に従って動く者達の集団であり、その意味ではまさにプロフェッショナルだ。そして彼らの仕事の全ては「ストーリー」を「作る」ことである。またそこにはいわゆる「有識者」「専門家」も存在するが、彼らも「御用聞」「御用達」として成立している官僚勢力である。これは前の原発事故の時に誰もが判ったことだ。そして今回も原発事故と同様、というかもっと簡単に「想定外」で片付けることが可能である。

政府の危機管理というものが前の原発事故の頃からほとんど変わっていないということはおそらく間違いない。
当時、現場がどれだけ危機感を訴えても、「御用達」専門家が原子炉建屋は爆発しないと判断し、政府はそれに従ったというハナシである。もちろんその「専門家」が自らの技術と信念に基づいて判断しその上で対策を講じたのであれば、結果として間違っていたことは別として批判するべきものではない。が、そうであれば現場の声を無視するなどということは考えられないだろうし、やはり御用達という立場で政府の立場を忖度した慣れ合いの構造から来る判断だったことはおそらく間違いないだろう。まさにそれによって彼らは日本全体をピンチに陥れたのである。
とは言えそのわずか数年後、オリンピックの開催地として東京が選ばれたのは紛れもない事実だ。原発事故に対する海外の目は相当厳しいものでありオリンピックはムリだろうと思っていたのだが、結局なんだかんだ言っても日本が経済大国であり、世界も経済を再優先するということが証明されたのである。まして日本に訪れる外国人は増える一方だ。
そう考えれば、政府、そして主要なマスコミが「メルトダウン」ではないと言い張ったことも結果としては良かったということになるのかもしれない。であれば当然今回も「パンデミック」ではないと言い張ることになるのだろう。逆に都合のいい言い訳として利用するために「パンデミック」を大々的に宣言することもあるかもしれない。そこにあるのは事実とは全く次元の違う論理であり、そもそもその事実すら我々には所詮知り得ないのである。

ただ今回は日本だけの問題ではない。
そしてやはり国際機関の目的と行動は明確であり、日本政府の対応とは比較にならないだろう。もちろんそれとて所詮官僚組織なのかもしれないが、少なくともその対応は一定程度哲学的論理的なものであるようには見える。
疫病は人類共通の問題であり、しかもそれは避けられないものであり、むしろ疫病そのものよりそこから発生する問題の方がよほど国際社会にとって深刻なダメージとなりかねない。それに如何に対応するかというのが国際機関の存在する意義である。
歴史上、このような状況ではいじめ、差別が起こるのは100%判っていることであり、そしてこれがエスカレートし大量虐殺まで引き起こす、それが大衆なのだということをまず認識する必要がある。良識的な人間にとってはこれは疫病そのものよりも忌避すべきものだ。現在の日本で大量虐殺が起こることは考えられないが、いわゆるヘイト的運動、そしてそれに触発された者による犯罪レベルの事件は100%起きるだろう。それでも他国に比べればおそらくまともな方かもしれない。結局大衆の性質もまた永遠に変わることはないのだ。

最後に巷で話題の生物兵器説のハナシをすれば、仮にそうだったとして、もはや誰もそれを防げないということは間違いない。だからこそ誰も兵器として使えないということにはなるのだが、これはまともな人間がその判断を担っている場合に限るということになる。核兵器も同じだが、まともでない人間の手に渡るのももはや時間の問題でしかないのだろう。
結局科学がいくら進歩しようと、大衆の愚かさと無力さは永遠に変わることはない。
目の前にあるものしか見えないのかと思えば、逆に見えないものに怯え続けるのだ。
そもそもこの2ヶ月間、「旧型」つまり「フツーの」インフル感染者が何人で、何人死んだのか、もっと言えば高齢者が自宅の風呂場で何人死んだのか、氷河期世代の中年が何人自殺したのか、交通事故で何人死んだのか、なぜクルマで毎年何千人も死んでも誰も政府を批判しないのか、クルマ若しくはそれを運転する人間と新型コロナのどっちが危険なのか、そういう哲学的な問題は、誰一人示してはくれないのだ。
とはいえ、大衆にはそんなことは理解できないし、社会学者はそれを示すことはないということもまた哲学的事実として受け入れるだけのことでしかないのだろう。
Posted at 2020/02/29 07:13:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2020年01月31日 イイね!

令和の始まりと団塊ジュニア

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

正月ということでネットやテレビばかり見ているおっさんだが、言うまでもなくそれらを全て真に受けているワケでは決してない。「みんカラ」も、ただそれらをネタにを古くからの友人と雑談しているような気持ちで言葉にしているだけである(もちろんこんな言葉遣いで話すワケではない)。皆フツーにクルマが好きであり、試乗したクルマのレビューも自分が感じた全てを彼らにどう伝えるかを意識している。
というかそもそもみんカラはいわゆる「SNS」という、それこそ離れた友人とまるで会話のようなやり取りを可能にするためのモノなのだが、そこはやはりおっさんである。そのような「繋がり」は全く必要としていないし、実際そういった使い方は全くしていない。こうして文章にすることは自分の頭で考えることの良い練習にもなり、脳の老化防止にもなり、老後の生活の糧とするための日本語の練習にもなる(かもしれない)というだけのことである。

この正月、NHKの特番で「ガンダム」「スターウオーズ」「ホンダF1」という、まさにおっさん世代向けコンテンツが3つもそろったが、これは去年(2019年)がガンダム放送開始(1979年)から40年、スターウオーズ公開(1977年)から42年でシリーズ完結、ホンダF1は第4期(?)初勝利(ブームを産んだ第2期開始(1983年)から36年)と話題がてんこ盛りだったためである。
令和の始まりと2020年という節目に当たり、これはまさに一つの時代を象徴しているようにも思えるが、実はおっさん個人としては、これらのコンテンツは昔メチャクチャハマったが最近は全然見ていないというモノであり、それだけに時代、郷愁といった感覚が強いかもしれない。

番組的には、スターウオーズの方はコメントに値しないヒドいものだったが、ガンダムの方はなかなか面白かった。主に当時の現場のヒドさと若い人材の奮闘ぶりを赤裸々に語っていくという構成だったが、40年前のことだからできることではあるだろう。

そしてホンダF1の番組だが、今宮純が死んだというニュースもあり色々と思うところはあった。もう70歳だったのかと思うとセナが死んだ時のことなどを思い出したりして尚更である。
ただ、BSプレミアム主体だからかどうかは知らないが基本的に民放レベル、浅めのタイアップ番組の類であり、2019シーズンのみに2時間も費やした割にはおっさんが真に受けるようなものでも面白がるようなものでもなかった。そもそもこの番組のターゲットはどう考えてもおっさん世代のハズだが、少なくともそこにコミットすることは全くできていなかったと言っていいだろう。もしかしたら制作責任者はブームを全く知らない若い世代なのではないかとも思うが、逆にマニュアル通りにやることで組織の評価を得る40代50代なのかもしれないとも思う。この手の番組制作コンセプトに倣っただけの表面的な番組になってしまった感があり、NHKの番組制作者としての魂が全く感じられなかった、というかやはりホンダの広報が制作の主導権を握っていたということなのだろう(当然か)。
ようやく第4期(?)活動の成果が見え始め日本でも宣伝効果を上げていきたいのがホンダ、そしてメディアの希望だろうが、かつてのようなコンテンツとしての力が戻るきっかけになるようには到底思えなかった。
番組で一番興醒めだったのは、アフレコのレース実況である。今はテレビ中継があるのかどうかすら知らないが、おそらくどこもやっていないということなのだろう(若しくはアフレコのほうが制作がラクだったとか費用的な問題とか別の理由があるのかその辺は判らない)。
30年前テレビ中継にかじりついた世代としては、あまりに有名なオープニングテーマを始め当時のフジテレビの演出はそれなりに上手かったと今は思う。ワザとらしく薄っぺらなアナウンサーの実況とは対象的に、解説者やピットリポーターが伝える技術的で緊迫感のあるコメントが誰もを自分がドライバーやエンジニアや監督になったような気分にさせてくれたものである。今のような高度なテレメトリをテレビ画面で見られたワケでもなく、チーム無線が聞けるワケでもなかった(そう考えるとやはりピットリポーターの役割はかなり大きかったなあと思う)が、ロンジンアンドオリベッティのタイム表示だけでテンションが上がったし、たまに音声全部が電話回線のような音質の時もあり、それがまたなんとも言えない雰囲気を醸し出していたこともあった。当時年末にやっていた4時間くらいある総集編も、演出的に今回のNHKよりはよっぽど良かったのは間違いない(そもそもテーマが違うか)。そういう意味では、その当時のフジテレビの人気っぷりと現在の凋落っぷりも、30年という時間、そしてバブルという時代を象徴しているようで感慨深いものがあるかもしれない。

ただ番組の演出は別として内容的にそれなりに面白い部分もあるにはあった。
一番面白かったのは、ホンダのF1部門の技術者がジェット機部門の技術者に助けを求めた、というハナシである。
故障しまくっていたF1エンジンの部品を見て「こんなのがホントに回ってたのか?と思った」というジェット機部門の技術者の発言はなかなか興味深く、ある意味痛快だったとも言える。これは現在のホンダそのものを顕しているようにも見える(ちゃっかりジェットを宣伝してるだけにも見えるが)。
もう一つ印象的だったのは、開発現場、レース現場、本社の3人のキャラクターである。それぞれ個性的だったが、中でも「本社」のキャラクターの強さには感心してしまった。
若い頃は判らなかったのだが、テレビドラマやマンガで見る「典型的」な人間というのはやはり現実に存在するからこそ描かれているのである。さすがにこの歳になると接したことのある人間が相当な数になり、そのデータが多くなれば自然に一定の定義によって分類されていくようになってしまうのだが、自分のデータベースによれば「本社」のキャラが一番「典型的」で印象的だった(もちろん人は見かけにはよらないものだが)。自分は元々そのようなものには興味がなかったが、人、そして組織というものに目が行ってしまうのも、それだけ歳を喰ったということなのだろう。

レースそのものについても、久々に見て面白いと思った部分もあったのはまあ新鮮だった。
給油がなくなりピットインがめちゃくちゃ早くなっているのには驚いたし、コース上のオーバーテイクも結構増えているようにも見えた(そういう編集なのだろうとは思うが)。スタートでミスっていきなり順位を落とすなんてことはローンチコントロールですっかりなくなったと思っていたが、こういう人間的なミスがやはりスポーツの面白さの基本にあるということだろう。だからこそドライバーの個性や魅力、そしてマシンの違いやメーカーのイメージに繋がっていくのである。

ただやはり、おそらくF1は、ホンダという組織にとって、そして日本人にとって、もはや必要ないものだろう。
もし日本人がホンダから引き継いで本格的なF1ビジネスに乗り出したら面白いと思うが、鈴木亜久里が失敗して以来そのようなチャレンジャーは現れないようだ。そもそも日本を活動の中心にしても成立しないのだろうし、今後環境問題などF1自体が先行き不透明な部分もあるのかもしれない。
第3期(BARhonda)の撤退の時はそのやり方に批判もあったと記憶しているので、再びその名を汚すことのないよう、その設備や人材がF1界にとって有用なものとなるよう、美しく去ってもらいたいと願わずにはいられない。
そしてNHKには、なぜホンダがF1に復帰したのか、なぜマクラーレンとは上手く行かなかったのか、そしてなぜF1から撤退したのか、その時が来たらぜひNスペでやってもらいたいと思う(40年後では主役も自分も死んでるから10年後かせめて20年後に)。
今回のテレビ番組によるとガンダムは当時、今までとは違う新しい何かを求めて生み出された(それが自分たちが業界で生き延びるためであったとしても)というハナシだったが、このF1番組に関しては制作者にも、そしてホンダにも、そのような意気込みは皆無だったのは間違いない。
そしてホンダのF1も、市販車も、同じように感じてしまうのは自分だけではないだろう。

団塊ジュニア世代は、少年時代にこれらのコンテンツを消費しその影響を強く受けてきた。
が、実際に消費者として支えてきた(カネを払ってきた)のは、その親である団塊世代と、その下の比較的経済力がある(あった)現在の50代だろう。
団塊世代の退場が始まり、団塊ジュニアが日本のコンテンツ消費の数的ボリュームゾーンとして旧来のコンテンツを支える最後の砦だが、上の世代に比べ経済力が低く、消費者としてこれらのコンテンツを支える力がないのは確かなようだ。
ましてどんなに「大きな影響を受けた」と言っても、これらのコンテンツに与えられた何らかの力を、何らかの形で外に出していくということは、どうやらほとんどなさそうである。残念ながらこれらは単に経済の論理によって生み出された、消費されるためのモノに過ぎなかったのかもしれない(それでもこれだけ多くの人の心の中に存在しているだけでその価値はあったのだろうし、コンテンツ産業とはそもそもそういうものである)。

良くも悪くも団塊ジュニア世代とは、経済的な豊かさを追求し組織の力によって社会を均一化、安定化するという、団塊世代から始まる戦後日本というシステムの最終結果として存在しているようにも思う。戦後の焼け野原に比べればはるかにいい時代を生きてきたことは言うまでもないが、その時代によって上の世代が持つ強烈な欲望やそれを剥き出しにすることの必要性が薄れた結果、何となく生きているというのがこの世代なのかもしれない。人間最大の原動力は「欲望」であり、戦後、バブル期まではそれがフル稼働していたと言っていいだろう。そして一定程度成熟した社会ではそれがフル稼働しないとすれば、それは当然かもしれない。経済的には確かに今はバブル期よりは悪いかもしれないが、社会の在り様そのものが悪くなったのかといえば簡単に比較はできないし、それを哲学的に示してくれる社会学者もいないようだ。どのみち社会というものは落ちるところまで落ちない限り、這い上がろうとする力は生まれてはこないのかもしれない。ただそれがこの社会の「支配者」側の人間達の意図するところであることもまた社会の法則である。
残念なことに社会に出てからはずっと、経済は縮小し、格差は拡大し、これまでのシステムに疑問が生じ、社会は後退しているようにしか見えない中で、30年もの時間が過ぎたにも関わらず、社会に順応することだけを学んできた団塊ジュニア世代は、自分たちでそれをどうにかできるなどとは、考えたこともない。

本田宗一郎が四輪の生産に初めて挑んだのは45歳を過ぎてからだったそうだ。
また富野由悠季がガンダムの監督を務めたときは39歳だった。
この二人も終戦直後、高度成長期という時代を生きたのであり、そして時代に流されるのではなく、自分を生きるということを貫いたのだろう。
時代に抗うことは誰にもできないが、一人の人間としては社会も時代も年齢も関係ないのかもしれない。
社会に頼る必要はない、自分がやりたいことをやればいい、新しい時代を作るのは自分だ、かの二人ならおそらくそれを公言して憚らないだろうが、そのようなことは死んでも口にしないのが我々団塊ジュニアである。
Posted at 2020/01/31 06:31:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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