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2019年12月30日 イイね!

日本のディーラーについての感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

トヨタがついに販売チャンネルを廃止するというニュースが出てからしばらく経つが今更ながら感想。

自分は若い頃、そもそも販売チャンネルとは何のためにあるのか理解できなかった。ユーザーからすれば一つの店舗で全ての車種が買えるほうがいいに決まっている。が、考えてみればクルマのような大きな商品を店頭に並べるのは物理的に限界があるし、営業は多くの商品知識を習得する必要があるし、整備についても同様である。逆に言えば、それだけ一つのメーカーの生産する車種が多い(多かった)ということであり、このような状況ではやはりチャンネルごとに車種が限定されている方がメーカー、ディーラーそしてユーザーにとっても合理的である。
また販売チャンネルには同メーカー系ディーラー同士の棲み分けという意味もある。
自動車業界が日本の基幹産業として発展の一途を辿っていた時代、メーカーにとって販売台数向上のために販売店を増やすことは経済の理論上当然である。
自動車は単価が高いうえ整備体制もメーカーの信頼に直結する重要な要素だけに、一定程度信頼性のある有力資本でなければ簡単にディーラーになれるものでもなかったそうだが、小売業経営者においても一定程度「儲かる」商売であり、ディーラーの数は増える一方だった。そうなれば当然競争が激しくなり、商機が減り価格競争で利益は削られることになるのだが、これを少しでも緩和するのが「棲み分け」である。
自らの商機が限定されると同時に一定程度確保されるという「棲み分け」というものは、あらゆる業界にとって正に必要悪である(そもそも「悪」でも何でもないかもしれないが)。ただそれには「バランス」が非常に重要であり、それを確立するにはそれなりの労力が必要だ。自動車販売の場合、一般的に車種毎の価格帯、いわゆる「車格」によって有力資本と弱小資本のバランスをとっていたそうである。高級車は「トヨタ店」、大衆車は「カローラ店」、ホンダであれば「クリオ店」「ベルノ店」といった具合である。
高級車であれば一般的には顧客も富裕層ということになり、数は売れずともクルマ一台分の利益率は高く、また整備やその他のサービスまで一括して受けることも多くビジネスとしては当然効率的である。大衆車は利益率が低く数を売らなければならない上、サービスを可能な限り自分でやってなんとかカネを節約しようとする我々下級国民が相手であり、ディーラーからすればまさに労多くしてなんとやらである。クルマのディーラーの営業が他の小売業に比べて明らかに客を見ていると感じることが多いのも、この歳になれば納得できる。
これについては完全に業界側の論理ではあるが、ユーザーにとっては結果としてチャンネルが一つのブランドになっていたということもある。これは序列思考が強い保守的なユーザーにとってはそれなりに意味があったと言えるだろう。
ディーラーにとってクラウンやカローラといった「名前」だけで一定数売れることが決まっている(いた)車種は、言うまでもなく最も重要な商品でありこの車名が正に看板となっていた。日本で最も売れていたクルマの販売店名が「カローラ店」なのだから、どんなにクルマに無知なユーザーでも判る名前にするという戦略は、他のメーカーにはないトヨタの凄さだろう。逆にクラウンなどの高級車ユーザーは、このような大衆と同列に扱われることがない上、車種に特化した付加価値の高いサービスを受けることもできたのだから、やはり販売チャンネルはユーザーにとってもメリットがあったのである。実際「みんカラ」を見ていると、数年ごとに新車を購入することも、実車を見ずに新車を契約することも、車検からオイル交換、洗車まで全てディーラーに任せることも極々当然という人が相当数存在するということを、今更ながら実感する。

もう一つ若い頃理解できなかったことが、中身が同じクルマを名前と外見を変えて3つ作るというトヨタのやり方である。ユーザーにとっては微妙な違いとは言え選択肢が増えるのはいいことだと言えるのだが、これもディーラーの論理で考えてみれば極々簡単なことだった。売れている車種は当然どのチャンネルのディーラーにとっても欲しいワケだが、ブランド、棲み分けということを考えるとその意味ではっきり差別化しなければならない、ということである。が、それも既に過去のことであり今となっては売れているミニバンのアルヴェル、ノアボクくらいのものとなった。
メーカーにとっては、市場が縮小しクルマ全体が売れなくなったとき最も重要なのはコストカットであり、車種を減らすことはその大きな要素である。が、チャンネルを維持するには一定の車種が必要であり、チャンネルごとに僅かに差別化するというやり方もすらもコストカットの対象となった。
ディーラーにとっては扱える商品の幅が広いほど売上的に安定するのは当然であり、クルマ自体が売れなくなってきた今、チャンネルに縛られず売れるクルマを売りたいということになるのもまた当然である。となれば違うチャンネルで同じ車種が販売されるようになり、チャンネルの意味はなくなる。トヨタ以外のメーカーはとっくに行っていたことだが、やはりディーラー数が格段に多いトヨタだけがこれまで存続し、そして今それも終わりを迎えるということである。

また現在は軽自動車がその比率を大幅に伸ばしており、トヨタの場合今後はチャンネルどころかこれまでのメーカーの垣根を超えて行かなければならないかもしれない状況である。
ディーラー的には利益率が低い軽しか売れないとなれば経営的にいいことではないものの、それでも売れないよりはマシということにはなる(個々のディーラーの経営状況にもよるが)。基本的に軽を扱っていなかったトヨタディーラーも10年ほど前から扱えるようにはなり、今後はもっと全面的に軽を売りたいというディーラーからの要望も強くなるだろう。今のところはダイハツとの関係で全面的に軽を売れないトヨタが小型車である新型「ヤリス」に力を入れるのはこのためではないかとも思う。そう考えると軽という存在そのものをなんとかしようと動いてくることも充分に考えられる。トヨタの完全子会社となった「ダイハツ」の名前が消えることも、そう遠くない将来なのかもしれない。
このような状態が長く続けば「儲からない」商売ということになり、今後ディーラーは減少するだろうし、2025年問題で経営者がどんどん退場していく中、後継者不足で事業をたたむディーラーも多くなるかもしれない。更に10年もすれば日本市場は崩壊し、ディーラーの数は激減するだろう。これ自体は経済の論理であり、メーカーにとっても粛々と対応していくだけのことではある。

仮にディーラーが激減するとどうなるだろうか。

新車販売はインターネットに移行するということも考えられる。実物を見ないと選べないというユーザーもまだまだ多いだろうが、試乗車などを手配するシステムが整備されればユーザーとしてはそれほど悪くないとも思う。ただこれだと何度もディーラーを回ってライバル車種を見比べるという作業はできなくなるかもしれない。これについてはクルマ好きにとっては明らかにデメリットだが、悲しいことに衰退する市場の宿命であることは日本の電気製品で既に学習している。ということは現在の家電量販店のように、複数メーカーのクルマが同じ店舗に並ぶということもあるのかもしれない。だとすれば逆にユーザーにとってはメリットとも言える。
ただ、問題は整備である。
現在はディーラーが整備を担っている部分が相当あると思われる。仮にこれがなくなれば町工場やカー用品店などがそれを担うようになるのかもしれないが、専門的知識、情報が必要な部分の対応については不安があるかもしれない。ソフトウェアの不具合などは、ユーザーが訴える症状から現場の整備で判断できるというものではまずないだろう。今後はこのような難しいトラブルが更に増える可能性もある。この辺りは自動運転技術なども含め10年後には何らかの新たな対応が必要となるのかもしれない(これはディーラーでも同じだが)。

個人的には、元々ディーラーの整備には不満が多かった。
自分は若い頃中古車ばかり数台乗り継いだが、最も長かったのは最終的に20年、20万kmほど乗り続けたホンダ車で、このとき「ディーラーは当てにならない」ということをはっきり実感したものである。
最もひどかったのはエアコンの暖房が壊れた時で、何も相談なくエアコンの操作部ユニットを交換され3万円程支払ったものの、原因は別にあったため治っていなかったというものである。その後別なディーラーを尋ねたが原因が判らないということでしばらく放置するハメになったが、たまたま別なトラブルで旅先のディーラーを尋ねた時についでに相談した所、暖房用のサーモスタットが固着しているようだとの診断を受け、その後地元の町工場で修理してもらうことができた。ディーラーであればメーカーが主体となって故障のデータを集約し整備時にそれを利用することが可能だろうと思っていたのだが、どうやらそういうことは無く結局は整備士個人の腕次第ということのようである。おそらくディーラーの整備というものは、日本車はなかなか壊れないということもあり通常のメンテナンスや部品の交換などはキッチリ行うものの、壊れた時、不調の時などの対応能力はあまり高くないということになるだろう。おそらく10年程の間に考えられる一般的なトラブルについてのマニュアルなどは存在するのだろうが、そのマニュアル通りの整備しかできないものと思っていた方が間違いない。ただこれは昔のハナシであり最近のことは正直よく判らないが、むしろメカニズム的により複雑となりいざトラブルになった場合の対応の幅は更に狭まっているということもあるかもしれない。
もちろん、ディーラーより町工場の方が優れているということを言いたいワケでもない。たまたま信頼できる町工場というものを知っているから言えるだけであり、当然信頼できない町工場もゴマンとあるだろう。それも全ては整備士の腕、工場の誠実さ次第であり、それは彼らの仕事に対する誇りであって、「信用」というものはそういうものである。そういう工場であれば、オイル交換一つをとっても自分でもできるが代金を払ってそこに任せたいと思うだろう。ディーラーにしても元々町工場だったという場合もあるようなので整備にこだわりのある社長もいるのかもしれないが、そんな社長も今では相当高齢となっているハズであり、全てが組織の論理に支配された今の日本で中心となっている50代40代には、そのような人間は相当希少である。

最後にディーラーの不思議の中でも最も気になっていたことをもう一つ。
あらゆる小売業が年中無休になったにも関わらず、盆と正月、ゴールデンウイークは相当期間休業することである。これは少なくともバブル時代から超デフレの現在まで変わらず、ディーラーは殿様商売だと感じていたのだが、まともな理由があるとすれば言うまでもなく経済の論理、つまりこの期間は商売にならないから、ということになるだろう。
確かに年末年始はまとまった期間銀行が開いていないので、頭金の支払いもローンの手続きもできず、結果として新車の契約はできない。が、盆はそうではないし、最近は盆正月だからと言って親戚行事に忙しいということもなく、若者は遊び歩く方が多いハズだ。ましてゴールデンウイークはクルマ選びでディーラーを回ったりするには絶好の機会である。
サービスについても、盆正月は交通量が増えまた普段あまり運転をしない人も大量に運転をする時期であり、明らかに事故や故障が多くなる(自分の経験談でもあり、保険の営業から聞いたハナシでもある)。また忙しくて放置していたクルマの不調も、洗車やオイル交換すらもまとまった休みの方が工場に出しやすいハズである。
となればどうしてもその理由が判らないのだが、これだけ横並びに長期間全てのディーラーが一斉に休業するというのは他の小売業には見られず、おそらくメーカー、というか業界主導で徹底されているということには間違いないだろう。

よくよく考えてみると、メーカーの生産ラインは季節労働者が支えており、彼らにとって盆正月は重要な休暇であるため、工場は停止となる。工場がまとまって停止する機会は生産設備のメンテナンスにとっても重要であり、受発注システム等関連設備も同時にメンテナンスを行うのが効率的ということになる。となればディーラーは発注や在庫確認等が行えない、だから全面休業、ということになるようだ。この説明であれば充分に納得がいく。
ただこれだとあくまで新車販売、それも契約段階で影響を受けるだけで、展示、試乗、整備は関係ない(整備については部品の調達の問題はあるかもしれないが)。ということはやはりディーラーにとっては新車販売が売上の柱であるということになり、サービスはそれほど重要ではないということになる。
売上的に大きかった高額なオーディオやアルミホイールが以前より売れなくなり、メンテナンスパックや追加保証などを執拗に勧めてくるようになったとは言え、盆正月、GW、通常の定休日もキッチリ休めるということは、やはり日本で自動車業界は小売業においても頂点にあることは、これまでもそして現段階でもまだ揺るぎないようである。
確かにこの30年ほどの間ディーラーの閉店といえば、30年前に異常に大量出店したニッサンとマツダ以外あまり目にしたことがない。あれ程の不祥事で売上を落としているはずのミツビシですらそうだ。
逆に新規出店も同様にほとんど見られず、ディーラー業界のシステムは極めて盤石で安定していたと言って間違いないだろう。

そもそもディーラーにはくだらないサービスが多いのも明らかである。新車購入時の店長からの手紙など論外だ(何かのサービス券でも入っているのかと思った)。
カタログなどはかつてに比べだいぶ安っぽくなった部分もあるものの、まだまだディーラーは華やかさを前面に出した演出がその大部分を占めていると言ってもいいだろう。自動車業界がどれほど日本経済を引っ張ってきたかということを正に顕しているのである。

が、いよいよトヨタが動き出したということは、それもあと10年程のことかもしれない。
Posted at 2019/12/30 02:12:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年11月30日 イイね!

EVと軽自動車の今後についての感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

去年の北海道での大停電と今年の千葉県の長期停電で、電気自動車やプラグインハイブリッド、ハイブリッドが停電時の非常用電源として有効だという情報がネットによく出ているので感想。

自分も車載用インバーターで1000Wレベルの炊飯器やポットに対応しようといろいろ検索してみたところ、いくら高出力のインバーターでもそもそもクルマのバッテリーと発電機の限界が低いため、やはりEVやPHV、HVには到底敵わないようだ。バッテリー容量的にはEV、PHVがダントツで、HVではエンジンによる充電が必要となり、車載用インバーターでは3000rpm程度でなければ発電量がバッテリーの電圧低下に追いつかないらしい(もっと詳しい情報には辿りつけなかったのでこれから先は自分で試してみるしかない)。
そこでふと、エンジンがない、つまり発電機がないEVはどうなるのか?という疑問に突き当たったところである。

今回の千葉県のように数週間停電が続いた時はどうなるのだろうか。
というか、うっかり充電切れとなった時どうするのかということすら今まで考えたこともなかったので検索してみたところ、現時点では充電スポットまでロードサービスによりレッカーするしかないということのようである。移動充電器というものもあるにはあるようだがまだまだ実用段階とは言えないようだ。
ということは仮に自宅のすぐそばに充電スポットがあったとしても、自宅が停電している場合は同様に停電している可能性が高く、停電あるいは被災していない区域の充電スポットまで行ける電力を残しておく必要がある。
エンジン車の場合、道路が寸断されることによりタンクローリーによる運搬ができずガソリン等燃料の供給が一時的に止まることはあるが、そもそもガソリンスタンドには一定の貯蔵があるというところが電気とは違う点だ。貯蔵を使いきったとしても道路の仮復旧にかかる時間は通常長くても一週間程度だろう。自家用車においては、仮にその間に燃料を使い果たしてガソリンスタンドまで走行できなくても、数リットルから20リットル程度の燃料を個別に運搬することは容易であり、そうすれば最大200km程度は走行可能である。
そもそも停電時は給油装置が動かないという話もあるが、非常用発動発電機を備えている所もありまた最悪手動でも給油自体可能ということなので、対応の幅はそれなりにあるようだ。ということはEVの場合も発電機を備えた充電スポットが必要だし、またバッテリーをユーザーが運搬、交換できるものにすれば災害時対応の幅は広がるだろう。もちろん、非EVより明らかに優位なレベルまでバッテリー容量が向上すれば問題ないということにはなる。

そう考えると少なくとも現段階でEVを購入することは、クルマを一台しか所有しないごく一般的なユーザーにとってはデメリットしかないといって間違いない。よほど新しもの好きで経済的余裕がある者以外に合理的選択肢であるとは到底言い難い。
今時フツーに使っていてガス欠することなどまずないのだからEVも何ら変わりはないという言い方も見られるが、ガソリンスタンドと充電スポットの数の違いは平時もさることながらやはり災害時には問題が大きいと言わざるを得ないだろう。
となればやはりHVまたはPHVが理想的なのだが、問題は価格である。

現在、軽自動車がこれだけ販売台数を伸ばしているのは、単に大衆の経済力が低下したからだけでなく絶対的にクルマの価格が上がっているためであり、HV化の進行も価格を引き上げている一つの要因かもしれない。コンパクトカーはダウンサイジングの受け皿となり比較的経済力のある者の選択肢となったため、それでもHV化はどんどん進行している。車両が30万円以上高く、現在の燃料価格では年間数万km走行しなければ燃費向上分を回収できないにもかかわらずである。結局現在の電動化の流れは資本側の論理とそれを支持するユーザーによるものであり、そのような方向性から考えれば次に来るのは軽のHV化ということになるだろう。

20年前、軽は燃費が悪かった。マニュアルトランスミッションでも1500ccクラスのコンパクトカーの方が全然良かったのである。これはいくら軽の車体が軽くてもエンジンの排気量が相対的に小さすぎるからだといわれていた。
だが現在、車体は大きく重くなったにも関わらず燃費は比較にならないほど向上した。現実的には20年前のコンパクトカーのMTのレベルだが、それをAT(広い意味)で実現しているのだから、軽以外と比べれば格段に向上したといっていいだろう。これはCVTとコンピュータ制御の進化によるものだそうだが、それ自体は軽以外も同じことであり、軽という規格、条件ではその効果が高かった(逆に言えば元々悪すぎた)ということになるのだろう。ということは、これは完全に素人考えだが、もしこれにモーター制御が加わればさらに燃費が改善するのではないかと思う。
技術的にはバッテリーの搭載スペースと重さが問題となるハズだが、開発手法としてはこれまでのやり方の延長でしかなくそれほど難しい問題ではないだろう。確かに搭載スペースについてはコンパクトカー以上に難しいのかもしれないが、バッテリーそのものもおそらく小型で済むはずであり軽自動車特有の問題という訳ではないハズだ。
重さについてもかつてに比べ明らかに増えており特別な問題だとは言えないし、あったとしてもタイヤのコストの問題だけだろう。
ということは軽のHV化最大の課題は技術ではなくやはりコストであることは間違いない。おそらく軽ユーザーはコンパクトカーユーザーに比べ経済的にシビアなハズであり、燃費改善分を回収できないHVに価値を見出すかどうかは不透明だし、またメーカーにとっても軽は利益率が低くコスト的にはやはりシビアなハズある。

そもそも軽自動車は「規格」「規制」によって存在するのであって、業界と行政によって作られたもの、つまりどうにでもなるものである。
元々日本が自動車を基幹産業とするため、更に所得者が低い者にも売るために様々な行政的優遇措置を設けたものであって、あくまで「底辺」の拡大がその存在意義である。また戦後の復興期には自動車メーカーの育成と棲み分けという意味もあったのかもしれない。
メーカー、業界としてはそれで一定の利益を確保し、全体としてみれば当然プラスとなっていたワケだが、軽自動車がそれより上の価格帯のクルマの売上を圧迫し始めると大メーカー、ひいては自動車業界の利益が減ることに繋がる。なぜなら軽は利益率が低いからであり、成熟した資本は利益率の高さを追求しなければならないのだ。
また軽の比率が更に上昇すればそもそも「規格」としての存在意義である「底辺」でもなくなってくるワケで、理屈上行政的にも問題となりかねない。自動車税の問題が正にそうだが、そうなれば規格そのものの「廃止」という議論が浮上してくるのは当然だろう。

軽とそれ以外の両方を生産販売しているメーカーの場合、もし軽を売りたくないのであれば開発費をかける必要はないし、そもそも選択肢としてのコンパクトカーとの差別化を明確にすればいいハズだ。ホンダはN-BOXを売りたくないのであれば品質を下げればいいということになり、もっと言えば撤退すればいいのだ。軽を事業の主体とするダイハツ、スズキについては軽が売れている現状は他メーカーより有利ということになるハズだが、以前から軽以外も生産しているし、またホンダも含め経営の安定性を求めて自社で両方生産しているということになるハズである。またダイハツは以前からトヨタ傘下で資本関係により経営を補完しており、最近完全子会社となった。スズキにしてもグローバル化は既に当然のことであり、国内メーカーにとっては軽という商品、規格が完全にガラパゴス化していることは間違いない。そもそもグローバル市場では規格云々以前にほぼ存在しないカテゴリーであり、縮小市場である日本限定商品にはとてもコストをかけてはいられないハズだ。
ただ現実問題として規格が存在し一定のユーザーがそれを選択するとなれば、付加価値を高めて利益率を上げるのか、市場を捨てるのかというのは難しい判断となる。結局現在は各メーカーとも付加価値を高める戦略をとっているが、おそらくそれは国内ディーラーにとってまだまだ軽が必要だからということになるだろう。
国内ディーラーにとっては安定経営のため商品展開にはある程度幅が必要であり、軽が売れる限りなくなるよりはあったほうが当然いい。利益率が低い軽ばかり売れるのはやはりいいことではないが、それはその上のクラスの魅力がなくなったからではなく価格が上がったせいであり、今後もこの流れが変わることはおそらくないだろう。いずれにせよ今後10年ほどで国内市場が更に縮小しディーラーの淘汰が進めば、メーカーが軽もディーラーも捨て完全に日本を捨てる時が来るハズである。
ただそれまでの間はディーラーを喰わしていくため、特にホンダと日仏連合は現在の高付加価値化の流れを進めるしかないだろう。そうなれば次に来るのはやはりHV化だと思われるが、今の所息を潜めているように見える。もしかすると今後のEV化の流れに伴い一足飛びにEV化を目指しているのかもしれないとも思わなくもないが、やはり廃止も含め将来的な規格上の方向性を探っているのだろう(ただ逆に電動化などではなく成熟した既存の技術で商品性の向上を図っているようにも思われ、かつてのクルマ好きとしてはむしろ魅力的に映ったりもする)。
この辺りはメーカーにとって戦略上大きな問題だと思われるが、これだけマーケティングやバリューエンジニアリングといった情報技術の進んだ時代にあっては、メーカー側としても一定の根拠を持っているのだろう。もしかしたら現在の状況もある程度想定の範囲若しくはコントロールされているのかもしれないと思わなくもない。
とはいえやはり業界にとって軽はもはやジャマな存在でしかなく、仮にダイハツとスズキがトヨタに完全に吸収されれば廃止の方向に進むのは間違いない。ただもし低コスト低価格の軽が生き残るとすれば、逆に今そしてこの先10年が軽主体のメーカーとしてのダイハツとスズキにとって勝負の時なのかもしれない。

仮に軽自動車という規格がなくなったとしたら一体どうなるだろう。

規格がなくなるということは、行政的メリットがなくなるということである。
逆に言えば規格そのものを完全に廃止しなくても、行政的メリットがなくなれば事実上の廃止となる。
行政的メリットが全て失われるとしたら少なくとも我々下級国民からはかなりの反発があることは間違いない。軽自動車の価格自体は既に20年前のコンパクトカー並に上昇しているため、税金の安さがその存在価値の全てといっても過言ではないからだ。また運送業界でも軽は一定の役割を担っていると考えられそちらからの反発もあるかもしれない。
だとすれば、軽に全ての行政的水準を合わせる、つまり車庫証明を廃止し自動車税を大幅に下げるということがユーザーにとっては納得できる形ということになる。税金で言えば軽の10,800円との差は、10月から減税されたとはいえ1000cc以下で25,000円と大きい。軽の水準と現行の段階設定に当てはめれば、1000cc以下15,000円、1500cc以下20,000円というのが妥当な線だろう。であればより純粋にクルマとしての価値観と価格のバランスでクルマの大きさを選択するだけのことである。
あとは業界と行政との勝負ということになり自工会がどう動くのかということになるが、軽自動車税が増税されたのはつい数年前のことであり、どうやら自工会としてはやはり軽がこれ以上売れてほしくない、であれば増税すればいいという考え方のようである。当然行政にとってもその方がいいのは言うまでもなく、ということはやはり今後は軽自体廃止という方向でしかないのだろう。
大衆にとっては自動車の税が減ろうが増えようがトータルで取れるところから取られるだけのことであり、どのみち同じことではある。おそらく酒税法の改正と同じような感じで高税率帯を下げ、低税率帯を上げて間を取るような形で落ち着くことになるのかもしれない。

そもそも軽というクルマ自体、主にその大きさにどこまで需要があるかも問題である。もちろんこの大きさが日本の事情に適していることは現在でも間違いないが、必須ということでもなくなっているのは事実である。ユーザー側からすれば既にコンパクトカーとそこまで大差はないし、エンジンが小さいほうがいいということは当然なく、税金と価格が選択理由の大部分を占めているハズである。となれば軽がなくなれば単純に現在の1000ccクラスのコンパクトカーに置き換わるだけということになるのかもしれない。
そもそもメーカーにとってはその日本が重要でなくなったのであり、コストカットのために軽を廃止したいのであって、新たな市場として前向きに捉えているワケではないのだから、ユーザーの動向を見極めつつ生産を縮小していくハズである。
おっさん個人としては、クルマとしての開発の自由度が上がるワケでもしかしたらそこに有意性が潜んでいるかもしれないし、これまで悪かった車重とエンジンのバランスを最適化することができるかもしれないし、更にはHV化も進むかもしれないし、そうなればこれまでは全く考えられなかったグローバル市場への展開も可能なのではないかと思ったりはする。世界はエコブームであり今後小型車の需要が増えるかもしれない。それが現在の軽(クラスの小型車)が生き残る唯一の方法だと思うのだが、おそらく相当希望的観測なのだろう。

ホンダが予てから話題の小型EVの市販を発表したが、価格は350万円だそうである。
またほぼ同時に軽トラからの撤退も発表された。
電動化は、現時点では高所得者の趣味でしかない。
言うまでもなく大多数の軽ユーザーは、これ以上値上がりすることは一切望んでいないハズだ。コンパクトカーとは違いHV、電動であるということだけで付加価値を得られるような経済感覚の者は少数だろう。
とは言え今後さらに日本の大衆の所得が低下すれば、現在のコンパクトカーがそうであるように、相対的に軽が比較的経済力のある者の受け皿となる、というか既にそうなっていると言ってもいいだろう。軽は廃止され、小型車の価格は上昇することになり、経済力のない者はいよいよ行き場を失うことになりそうだ。そうなれば極端な話むしろ軽より更に下のカテゴリーが求めらることになるが、日本の自動車メーカーにとっては捨てるべき市場であることはもはや明確である。

そうなったとき、例えばセグウェイのようなアメリカ、中国もしくはアジア諸国製の全く新しい低コストの電動「乗物」、ニューネクスト日本製じゃない乗物が軽自動車に代わり大衆の足となる時代が来るのかもしれない。
そうすれば、というかそのような形でのみ、現在声高に叫ばれる「電動化」が末端まで浸透することになるのだろう。
Posted at 2019/11/30 04:12:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年10月31日 イイね!

自動車税の減税についての感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

この10月から自動車関係の税金が下がるということで感想。

取得税に関しては、軽と普通車の違いや細かい計算はとりあえず置いておくとして、ほぼ消費税増税分とトントンというところのようである。一消費者としてはこれといってうれしくもなんともないが、業界としては需要の混乱を避ける意味では重要だったのだろう。

自動車税については毎年のことだけにそこそこ減税「感」はあるが、冷静に考えれば大した金額ではないし、軽自動車税については今回は一切変更はない。そもそも軽は数年前に大幅に増税されているうえ、今後も増税の方向であることはどうやら間違いないらしい。業界的には利益率の低い軽が大幅に販売台数を伸ばしているという現状を少しでも変えたいということの顕れだろう。また税とは取れるところから取るのが基本中の基本であり、軽が売れている限り当然のことでもある。言うまでもなくメーカーの利益を誘導しつつ税収を確保するのが税制であり、ユーザーにとって負担が減ることは一切ないのだ。
これは完全な推測だが、今後10年程の間に軽自動車税の増税とそれによる需要の落ち込み、自動車税を再び増税というパターンも充分にあると思っている。若しくは重量税や、「走行税」など別な形での増税ということもあるだろう。

今回の自動車減税は現自工会会長が就任した時からのいわば「公約」である。そしてその公約は即座に実現したのだから、如何に自工会の力が大きいかということを顕している(もちろんどの段階からどう進行していたのかは知る由もない)。
20年前、一定期間経過したクルマの自動車税が増税された時は業界の姑息なやり方に強い憤りを覚えたが、リーマンショック後の「エコカー補助金」には自分も直接恩恵を預かった。これだけ判りやすく政策が実行されるということは、やはり自動車業界が日本経済を支える主要産業であるということが少なくとも現時点では揺るぎないということでもある。ただ逆に、これだけあからさまにそれが実行されるということはそれだけ国家の力を必要としているということでもあり、それだけ危機が迫っているということにもなるのかもしれない。

その自工会会長については、任期終了後異例の2期連投、通算3期目ということだそうだが、ネットによると他に人材がいないということらしい。確かにこれだけ顔の見えるリーダーは他にいないし、現会長本人の強いリーダーシップの顕れだということもあるだろうが、ホンダは四輪部門が危機的状況だと言われているし、日仏連合は例の巨額不正から未だに混乱状態である。とりあえず公約の税制改正を実現したとは言え課題は山積している中、やはり日本の自動車業界を牽引できるのは「トヨタ」以外にないということだろう。
組織が危機にある時、強烈なリーダーが必要とされる。が、巨額不正により逮捕されたニッサン元トップのように、それで全てが上手く行くということでは全く無い。ホンダもカリスマ創業者を脇で支える人材がいたからこそここまで発展したと言われているが、現在は組織の論理に選ばれた人間のみが残されているようだ。もはやトヨタに現社長のようなリーダーとそれを支える人材がこれからも育っていくことを願うばかりであるが、組織の論理に抗える者が組織に存在し続けるというのはそもそも矛盾でしかなく、歴史的偶然でしかないだろう。

ここ最近マツダ、スバルなどのメーカーが相次いでトヨタと資本関係を強化しているそうである。資本関係を結ぶのも切るのも経営上の手法であり今に始まったことではないが、この時代だからこそ業界再編が加速していくということでもあり、もはやトヨタ以外日本の自動車メーカーは生き残れないという見方もあるようだ。マツダ、スバルはいずれ完全にトヨタの一ブランドとなる可能性すらあるのかもしれない。
日仏連合はとりあえず生き残りを賭けての戦いが続くが、基本的に国策企業としての延命治療にしか見えず、ルノーもニッサンもここから新たに生まれ変わるということは考えにくいだろう。
ホンダも成長企業としての頂点を過ぎ発展を持続できるか否かの分岐点にあるようだ。二輪部門は好調のようだし、何より小型ジェットがかなり好評価ということらしいから、四輪部門を切り捨て新たな企業として生まれ変わるのが理想なのかもしれない。とはいえ四輪だけトヨタにというわけには行かないだろうから、日仏連合に参加という方が可能性が高そうだ。もしくは例えば「NSX」だけホンダがブランドとして保持し、製造は他メーカーで行うというのが現実的かもしれない。ついでに言えば来年辺りF1から撤退するのではないかと思っているが、これまでの活動に本当に意味があったとすれば、レース活動とNSXの製造販売という、例えばマクラーレンのようなビジネスも選択肢とはなるのかもしれない。

かつてのクルマ好きとしては、百年に一度の大変革で「これまでのクルマ」はどのみち終わりだということ、それ以前に日本市場は終わっているということは認識している。だからこそせめて残り10年かそこらこれまでのクルマを楽しみにしたいという気持ちなのだが、メーカーにとっては残り10年かそこらのため、まして終わっている市場のためのクルマを本気で作るというようなことはない。もちろん需要があればそれに見合う価格で製造販売することもあるだろうが、スポーツカーなどはプレミアム帯の価格になることは当然である。
最近発表されたコペンGRも魅力的だが、価格的にプレミアムとなるのは間違いない。「GR」や「ModuloX」などは最初からプレミアムブランドとして生まれたものだ。そもそも2シーターは独身か年寄りでなけば2台目としての選択以外になく存在そのものがプレミアムであり、マツダロードスターもホンダS660も同じだ。マツダやスバルなど小メーカーは戦略上プレミアム路線を選択する外なく、クルマとしては他メーカーより明らかに魅力的だが当然価格も高い。現状おっさんの選択肢に入るのはスズキ「スイフトスポーツ」のみという状況である。
この時代にあっても、クルマにおけるスポーツ性というものは一定の付加価値として生き続けていることは間違いない。ただ縮小する市場ではコストカットが全てであり、どのような価値を提供するのかということは何を切り捨てるのかということでもある。メーカーにとってこれは非常に大きな選択となるのだろう。結局、日本が縮小市場であるという経済の論理には抗えないのである。

そんな中、現在日本で唯一と言ってもいい中間価格帯のスポーツカーが、意外にもトヨタが販売する「86」(とスバルが販売する「BRZ」)である。
この中間価格帯のスポーツカーが生まれるには、巨大総合メーカーのトヨタが、ニッチな専門メーカーのスバルにスポーツカーの生産を外注するという考え方なしには実現しなかったということになるようだ。BMW製「スープラ」同様、おっさんにとって初めは否定的にしか取ることができなかったが、それぞれのメーカーが持つもの、切り捨てたものをお互いに補うというのは双方にとって利益となるのであり、結局のところユーザーにとっても利益となるのである。おそらく今後はこの流れが加速していく、というかむしろこれしか道はないと言ってもいいのかもしれない。
おそらく86もスープラもグローバル市場ありきで日本はあくまでオマケだということは間違いないが、ユーザーとしてはそれでよしとするしかないだろう。86については日本での販売台数は好調とは言えないようだが、他のスポーツモデルに比べればそれなりに見かけるという印象だ。おそらく次期型はないと思っているが、現行を改良しながら10数年売り続けるということは充分あるだろう。かつてのトヨタMR-2がそうだったし、現行ニッサンフェアレディZもそうだ。
そう考えると、おっさん世代のクルマ好きにとっては、かつてのような比較的安価なスポーツモデルが生き残るには、トヨタの一ブランドとなるしかないということになるのかもしれない。

20年前まで、比較的安価なスポーツモデルはだいたいコンパクトカーをベースとしていた。いわゆるボーイズレーサー、ホットハッチなどと呼ばれたクルマ達で、現在その唯一の生き残りがスイスポである。
かつてに比べ軽自動車にその存在価値を奪われつつあるとは言え、ノートやアクア、フィットなどは現在も販売台数的にはメーカーにとって重要なハズだ。それなのにスポーツグレードが事実上消滅したのはなぜなのだろうか。

コンパクトカーがメーカーにとって重要だということは、実際それだけ販売台数の比率が高いということである。これは経済状況が絶好調だった30年前と比べ現在もそれほどそれは変わっていないようである。そもそも社会とは経済力が低くなるほどその人数は多くなるのが自然の法則なのだから、数的に低価格車の比率が高くなるのは当然である。更に日本の大衆の経済力の低下に伴い、「ダウンサイジング」呼ばれるミドルクラスからコンパクトへという流れが加わった結果、いわゆるオヤジセダンは絶滅した(ただし価格的には同程度の比較的高価なミニバンは好調なので説明が矛盾するかもしれない)。その結果クルマ全体の価格が上昇傾向となり、少しでも安い軽自動車に更にユーザーが流れるという結果になっているということだと思われる。

経済の論理からすれば「規模」は最大の要素であり、当然販売数が多ければ利益も大きくなるが、縮小する市場ではそれは成立しづらくなる。となれば成長の余地があるグローバル市場をターゲットとするのは当然である。またそもそも低価格帯は利益率が高くない、薄利多売ということから、成長が止まった市場ではもはやコストカットのみが最重課題となることは想像がつく。日本市場にはグローバルモデルをなるべく手をかけずに投入するのが理想的だ。最近相次いで発表された「ヤリス」「フィット」もそうである。

ということは、現在の日本にコンパクトカーのスポーツグレードが存在しないのはグローバル向けに存在しないからということになるのだが、ではなぜグローバル市場で需要がないのだろうか。
感覚的には、アメリカはともかく欧州は日本よりもスポーツグレードの存在意義がありそうな気がするが、実際はそうでもないということになる。なぜなのかは正直全く判らないが、最近の環境問題から日本以上に規制が厳しいのかもしれないし、日本以上に大衆の所得が低下しているのかもしれないし、日本以上に「若者のクルマ離れ」が進んでいるのかもしれない(それはないか)。もしかしたら欧州ですら既に縮小市場であり、日本と同じコストカット最優先という状況なのかもしれない。

ちょっと結論が見えない話になったが、発表となったヤリス、フィットを見る限りおっさんが大好きだったコンバクトスポーツは今後も期待薄、というかやはり絶滅したと言っていいだろう。
新型ヤリスはデザイン的にはほとんど「アクア」だがそれなりにまとまっているようには見えるし、技術的にはハイブリッドの燃費性能を最前面に押し出しているようだ。
それに対し新型フィットはデザイン的には全く閉口する外ないが、評価の高い2モーター式ハイブリッドを採用しているということでおそらく走行性能ではヤリスを上回るだろう(ダウンサイジングターボはフリードに続き今回も採用されなかったが、これにも意味があるだろう)。
とはいえハイブリッドであれば当然価格は上がるし、エンジン的にスポーツを謳うようなフィーリングになることもないだろうから、おっさんが望むようなモデルはまず期待できない。ただおそらくGRとModuloX は、いずれ350万円近い価格で投入されるのだろう。
そしてやはり今回もダウンサイジングの受け皿以外にコンパクトカーとしての存在意義は見出だせず、今後も軽自動車の比率は下がることはないだろう。

ここまでくればおっさんにもいよいよ諦めがついた(かもしれない)。が、やはり一度はディーラーに足を運ぶことになるのだろう。そうすれば本当に諦めがつくのだろう。
Posted at 2019/10/31 06:08:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年09月30日 イイね!

横柄な警察官についての感想と妄想

社会学も政治学も全く知らないおっさんの単なる感想と妄想である。

横柄な態度の警察官が、交通ルール違反を理由に執拗な取り締まりを行うという動画がニュースとなっているので感想。

どちらが悪いかというあまりに単純な感情論でモノを言う場合にしても、可能な限り全ての情報を総合的に判断したうえでなければ後で自分が否定されることにもなるし、自分も恥ずかしい想いをすることになる。この手の動画を見ただけで全てを判断することは不可能だ。
というワケでこの動画そのものの感想を述べるワケではなく、ここからはあくまで一般論である。

木っ端役人が権力を笠に着て横柄な態度をとるのは人間の本質であり、洋の東西、時代を問わず不変である。このような人間は序列的に自分より上と見なす人間にはへつらい、下と見なす人間を蔑むのが「当然」のことであり、意図してか否かは別として社会の法則を忠実に実行しているに過ぎないのである。
個人的には、だからといって肯定するものでは全く無い。というかむしろ横柄な役人そのものより、それを肯定する人間がテレビやネットに大勢いることに嫌悪と恐怖を覚える。が、それもまた人間の本質であることも間違いないし、それが社会の水準であることも否定しない。「違反した者が悪い」などということは、小学一年生でも言えることである。一つの事件でも論点はいくつも存在するのであり、最近話題の「闇営業」問題でも「宮迫が悪い」だけで全てを総括しようとするのと同じである。これは一人の人間に全ての責任を押し付けることで複合的な問題も全て解決したように見せかけようとする権力側の人間と、自分は権力側であることをアピールしようとする人間の特徴的な論調であり、社会の法則に忠実に生きる人間の性でもある。このような人間は自分が権力側の人間あるいはマジョリティであると思い込むことに最大の満足感を得るのであり、個別の問題そのものには全く興味がない。
そもそも事件に全く無関係であるその他大勢の大衆にあっても、そのような小一レベルの「正解」あるいは「正義」で満足できる人間はむしろ幸せだろうし、それに疑問を持ってしまう人間は何一つ得をすることはない。

少なくとも自分の経験上、警察官は一般住民に対し基本横柄である(もちろんそうでない人間もいる)。相当過去のことで一語一句憶えているワケではないが、検問のときは「走りそうなクルマだね?どこで走ってるの?別に取り締まろうってワケじゃないけど」という感じだったし、交差点で信号無視の車に衝突されたときは「信号は青だったな?ウソはついてないな?」というのが過失割合ゼロの被害者に対する発言である。違反をしたワケでもないのにこの調子なのだ。むしろ切符を切る時は意外におかしなことは言わなかったりするのだが、「ノルマ」の達成に必死かあるいは達成できてホッとしているのかもしれない。ただここ十年程は、そもそも接点が少ないのもあるが、ここまでタメ口ではなかったのはやはり時代の流れなのだろう(こっちがおっさんになったせいもあるかもしれない)。
そもそも「取り締まり」とは犯罪や違反を少しでも防止する目的ではあるが、その方法としては、警告、威嚇、懲罰、見せしめでしかないのであり、横柄な警察官の態度もそのような意識からくるものだと思われる。クルマの速度違反などは矛盾だらけであるということは以前も書いたが、社会はその矛盾をむしろ受け入れているのであり、だとすればあまり論理的とはいえずまたその効果自体甚だ疑問であるこの「取り締まり」というものも、同様に受け入れるしかないということになる。
自分はここ数年コンプライアンス上やむを得ず「ほぼ」制限速度で走行しているが、煽られたりムリな追い越しをされたりするのは日常茶飯事であり、実際ムリな追い越しで接触されたこともある(「ドライブレコーダー体験談」のとおり)。不本意ながらも法令を遵守する者が嫌がらせを受け、そのような嫌がらせをする者はいくらでも存在するにもかかわらず、たまたま「些細な」違反で検挙されたときは、やり場のない怒りで発狂しそうになったものである。当然警察に対し一方的な恨みを抱いたのは言うまでもない。

一方、一警察官の立場ではどうだろうか。
クルマの事故やトラブルの処理に当たる末端の現場では、人間がどれほどクルマの運転能力が低く、危険運転や飲酒運転を平気で行い、くだらない理由で揉め事を起こすかということを、イヤというほど思い知らされているハズだ。また取り締まりというものが矛盾だらけであることは重々承知で業務として行っているのであり、逆恨みされるだけであまり楽しい仕事でないことは想像できる(もちろん楽しんでいる者もいるだろうが)。
そもそも交通だけでなく、また犯罪は言うまでもなく全ての治安維持が業務の対象であり、程度の軽重はあれど万引き、ケンカ、不法投棄、オレオレ詐欺、徘徊老人、不審者、自殺、児童虐待、ハロウィンの渋谷等々、愚かな人間と社会が引き起こす無数の問題の後始末が仕事である。人間社会とはそういうものだということを認識しなければとてもやっていられない職業であり、理想主義的な傾向の人間には精神的に辛いことになるかもしれない。落し物や迷子の世話する交番のお巡りさんなどというイメージは、対外的PR用に作られたものである。高校大学を卒業するとともに志を持って、あるいはなんとなく、有意義であろう職に就くことを選んだ若者が社会というものを受け入れるのには、平均以上に厳しい職業であることは間違いない。もちろんそれはどんな職でも多かれ少なかれあることではあるが、やはり一定水準以上の耐性を持っていなければ務まるハズもなく、いわゆる「優しい」性格の人間は排除されていくのも自然の法則だろう。犯罪者と対峙するには、いくら組織力と権力と武力を持ってするとしても相当の戦闘的精神力が必要なハズであり、ハッキリ言えばいわゆる優しさとは相容れないものである(これについては異論もあるかもしれない)。
その意味では、警察官といえど人間である。警察組織全体としてみた場合、相対的にはフツーの社会と同じように、犯罪者と同等の精神レベルの人間もいれば、心の優しい人間もいるし、出世が全ての序列思考の人間もいれば、欲のない庶民的な人間もいるのである。裏金作りや不正を行う者もいるし、犯罪者と裏で繋がるものもいる。そのような内部の不正と闘う者はやはり組織から圧力を受けることになるし、組織の論理に忠実なものはやがて組織で力を得ることになる。ただフツーに考えて警察とは巨大組織、官僚機構、お役所中のお役所であり、その意味でも横柄な人間が多いのは当然だろう(もちろんそうでない人間もいる)。
まあ20年前は他の役所でも横柄な人間はまだまだいた(ナンバーの変更手続きに行ったときの陸運局職員の横柄な態度は20年経っても憶えている)し、JRの駅員やバス、タクシーの運転手などにも今とは比べ物にならないほど多かった。結局は相対的なものであり、社会の皆が横柄な態度であればそれはニュースにはならない。つまりある意味それがフツーだったのが昭和という時代である。これも時代の流れであり、この点だけを見ればたとえ僅かであっても社会が「正しい」方向に向かっているということにはなるハズだ。ただ逆に妙な息苦しさを感じないワケでもないというのは、自分がおっさんになったが故の感覚的、感傷的なものかもしれない。

もう一つ、これもあおり運転同様、「動画」を「誰もが」「いつでも」撮影できるという技術の普及がなければニュースにもならなかったものであり、大衆が新しい「力」を得たということでもある。社会全体としてみても、個人のプライバシーや監視社会などという負の側面はあるものの「防犯カメラ」「ドライブレコーダー」という技術がその「力」を一定程度発揮していることは間違いない。最近国会議員のパワハラや不正行為が明らかになったのも同様であり(この場合音声だけだったが)、スマホという「力」が誰もがいつでも使える状態にあることによるものである。ついでに言えば取り調べの可視化などということもこの技術の発展によってようやく実現することとなった。警察にとってこれは不利なことでしかないのかもしれないが、大衆にとってはやはり技術の「力」ということになるだろう。これについては当の大衆は全く無頓着だが、アメリカでは既に当然のことらしい。そもそもアメリカ人は警官を信用していないということもあるだろうし、日本人が平和ボケだということもあるだろう。だからと言ってアメリカがヒドい国で日本はいい国だとも、その逆だともいうつもりは全くない。技術が積極的に利用されるにはまずその意識が必要だが、問題の大きさに比して意識が薄いという場合も、誰もが手にすることができるまで普及した技術は自然に有効な使い方が広まっていくということもある。ドライブレコーダーにしても、カメラの小型化と記録の大容量化という技術がスマホによって普及したことが、スマホ以外での有効利用にも繋がっているということになるだろう。
ただ仮にいくら普及が進んだとしても、技術は万能ではない。言うまでもなく動画は「編集」できるし、写真も「加工」できる。全てを無条件で信用することなどできるハズもない。スマホもネットも犯罪に利用されるのであり、技術は常に「使い方」次第なのである。

技術には力がある。が、力というものはいいことばかりではない。使い方によっては人を傷付ける。だから使う側には責任がある。「権力者」という言葉は正にそれを顕している。
技術は権力者が生み出すわけではない。その力を認識し、有効に利用し、自分の利益を最大化することに特化したものが権力者となるのである。
人間の歴史上技術力とはほぼ「武力」であり、ほとんどの人間はそれによって自由を脅かされ、命を奪われてきた。善良な大衆はその力を細細と利用することでようやく僅かずつ自らの生活を向上させるのみである。
またもう一つの技術は「情報」である。情報には人を動かす力がある。情報を操作することで、他人を操作することができる。古来情報を使いこなすことで権力者となったのはシャーマンであり、武力と並んで最も有効な「技術」であった。これも今日まで変わらない社会の法則である。
欧米の子供向け映画やアニメなどでは、力を持つものはそれをコントロールしなければならないというテーマが数多く描かれている。権力者が力を独占しないよう、大衆が力を正しく使うよう、自らが考え行動しなければならないということが常に文化や教育で意識されているように思う。横柄な木っ端役人のハナシに戻るが、警察官も国会議員も力を持っているが故それを自らの感情のまま利用するのである。それが人間の性であるならば、「力」を「正しく」使うということは、簡単なことではない。日本では映画やアニメなどにそのようなテーマが描かれているようには思えないし、実際日本人にはそのような意識はまず見られない。全ては与えられるものだと思っているのであり、まさに親方日の丸、百姓根性そのものだと言ってもいいだろう。このような根性から来る集団的無責任体制こそ、この20年で日本の組織が起こした数えきれない不祥事の原因かもしれない。
ただ今回の事件では、警察官や国会議員という権力に対し動画や音声という記録が彼らに対抗する力となり、その力を正しい方向で利用する人間が多少なりとも存在するということにはなるだろう。実際の当事者個人としてみればそこまで社会的な意識によるものであったかどうかは判らないが、理不尽な力にはまず対抗しなければならないというのは一人の人間として当然必要なことであり、ひいてはそれが社会にとっても必要なことだと言えるだろう。
そしてそれはスマホ、そしてSNSという「技術」の大きな力によって成し得たことでもある。

技術を生み出すものは、現状に満足せず、真実を追求する。自らの利益を追求するものは、真実を求めず、現状を受け入れ、技術を生み出すことはない。どちらが幸せかということはとりあえず置いておくとしても、前者と後者は向いている方向が真逆なのだから、そもそも議論が噛み合うことはない。
地球は回っているのか、人間は猿から進化したのか、世の中のほとんどの人間にとって本当の意味でそれを知ることはほぼ不可能であり、ハッキリ言ってどうでもいいことではある。現代ではそれを大企業で出世するため、いい大学に入るため、テストでいい点を取るために一時的に大量に記憶できる人間がやがて社会を支配するのである。たとえ学者や技術者と呼ばれる人間であっても、中身は同じである場合も多い。どこぞの大学の学長と言えど、不正や問題行為が発覚したときのあまりに非論理的な発言に、またその横柄な態度に、見ている側が呆然とするほどである。これもまた社会の法則なのだ。
このような人間は、現代の教育システムでひたすら機械的、一時的に収集した断片的な「正解」をそのまま一方的に吐き出すだけであり、それが現実とどう結びつき、問題をどう解決するかなどということには一切興味がない。目の前の答案用紙に書き込むためだけにある中身のない「正解」をひたすら吐き出す単純作業を繰り返し、それを「成果」と見なすシステムを最大限利用するのみである。
最近、筆算の線を定規で引くことを小学校で多くの教師が生徒に強要しているというハナシが話題となっているが、まさに教師の精神性が小一レベルだと言ってもいいだろう。このような人間が学校だけでなく現在の日本社会の至るところで幅を利かせているのだから、教育も、大学も、その先にある日本社会ももはや絶望的であることは間違いない。そうかと思えば逆に「履歴書は手書き」という謎ルールも未だに存在するらしい。これもまたそれ自体の意味などそもそもどうでもよく、ただ何も考えずにそれに従う人間を採用することだけに機能しているのであり、そのような人間が集められた組織が現在の日本企業なのである。
ただし人間社会の法則という意味では、彼らのやり方はまさに「正解」に外ならないのだろう。

真の技術者にとって、筆算の線を定規で引かせることに満足するような人間たちの土俵で戦うことにそもそも意味はない。どう考えても議論が噛み合うことはないのであり、となれば最後まで「自分」を貫く以外にないのである。逆に言えば、筆算の線を定規で引くことが一個人としての信念だとすれば、誰になんと言われようとそれに徹すればよい。
このような態度が逆に「彼ら」から「横柄」「ヘソ曲がり」「反抗的」などと取られる場合も往々にしてあるだろう。彼らの基準でできている社会では、彼らとは違う人間が低い評価を受けるのはあまりに当然のことであり、最終的には「迫害」といった状況にまで及ぶのが組織、社会の常である。自分あるいは家族を守るために彼らと同じ側の人間になるのか否かは個人の選択だが、一つの組織が皆彼らと同じ人間ばかりになったとしたら、戦前の日本という国家同様いずれ崩壊するのであり、最終的には自分も家族も守ることはできない。ただそのような状況をどこまで想定する必要があるのかということまで具体的に判断しているワケでもなく(その必要はまずないかもしれないが)、単に個人の信念あるいは性格によるものである場合がほとんどではあるだろう。それでも横柄な木っ端役人や序列思考人間とは本質的に違う自分を信じる人間にとっては、自分で自分を評価する以外にないのだが、組織の中にいる限りそれは一定の労力を必要とするし、ムダに消耗することではある。対する「彼ら」はそもそも何ら気に留めることもなく自分の利益を追求できる人間なのだから、その時点で彼らは全くもって幸せだし、そして実際彼らが「ほぼ」勝利者であることは社会の歴史が証明している。彼らと同じ人間になりたくてもなれない「愚かな」人間は、どう考えても損をするのは当然だということだけは、受け入れる以外にない。
Posted at 2019/09/30 23:57:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年08月31日 イイね!

あおり運転についての感想と妄想

社会学も精神医学も全く知らないおっさんの単なる感想と妄想である。

最近極めて悪質なあおり運転の事件がニュースとなっているので感想。

おっさん世代にとってあおり運転そのものは極々日常に存在する類のものであり、遭遇した場合は運が悪かったというのがこれまでの認識である。煽られるくらいであればごくフツーに、多少悪質なもので年に一度や二度はあるものの、それが事件や事故に繋がるケースは極めて稀だろう。実際そこまでの被害に合う確率は一般的な交通事故そのものと同じかむしろ低いかもしれない。
おそらくごくフツーのおっさん達の中でも若い頃は煽る側となった者も相当いるハズであり、歳をとるにつれそのようなことはしなくなるし、また煽られたときも適当に対処できるようになるものである。結局のところそれは程度問題ということになるのだが、今回ニュースとなっている事件は暴力犯罪であり当然程度が重いということにはなるだろう。

以前「ミニバンのオラオラ顔について」でも触れたように、かつてのヤンキーに顕著だった社会の序列思考におけるクルマとの関係においても、あおり運転というのは相当以前から存在するクルマと社会と人間の本質的な問題であり、またクルマは顔が見えにくいという性質から来る、匿名性という現在のネット社会にも通じるこれもまた人間の本質的な側面もあるのだ。
「オラオラ顔」を求めるのは煽りたい側のヤンキー(現在ヤンキーは相当減ったのでかつてそうだったおっさん以上の世代)であると書いたが、よくよく考えると、煽られたくない側にも意味があり、最近のあおり運転ブームとも微妙に関係があるように思える。

ヤンキーの脳内では「車種」というものが自分と相手、つまり煽る対象における序列の判断材料として相当の部分を占めており、序列が高いと判断される外車や国産高級車、最近ならアルヴェルやエルグランドは他人を威圧することができるクルマとして認定されるのである。逆に言えばそれらのクルマを煽ることは必然的にないのであり、ということは自分が煽られる可能性が減るということにもなる。ヤンキー自身、煽られる側にはなりたくないという心理が逆に他人を煽ることに繋がっているのであり、それはある意味序列思考の根幹であるとも言える。そのような観点から、まして家族を乗せるという状況を考えれば、ミニバンを購入しようとするごくフツーのファミリーが多少ムリをしても高額な車種を選択しようとすることも、それがムリならせめて外見の威圧感があるものを選択しようとすることも、ある程度理解できるかもしれない。まして実際街でミニバンを運転しているのは多くが子供を乗せたママさんである。そこまでクルマに詳しくないが故なんとなく外観で似たようなものを選択しておこうと考えるのは当然かもしれない。おっさん世代が中学高校の頃、どんなにフツーのヤツでも学生ズボンの幅を広げていたことにも通じる、ささやかな自己防衛ということになるのだろう。当時は標準ズボンを貫く方がむしろムダに精神力を要する場合もあり、多少の費用で一定の効果を上げようと考えるのがむしろ無難な選択だったのである。クルマ好きにとってはそのような基準で作られたクルマとそれを選ぶ人間が大多数を占めるというのはなんとも虚しいことではあるが、社会とはそういうものである。

冒頭にも触れたとおりあおり運転はごく日常に存在するが、それらのクルマは必ずしもいわゆるヤンキー車だけではない。だとすればヤンキーが仕事などでヤンキー車以外に乗っているときにあおり運転をしているのだろうか。またはヤンキー(かつてヤンキーだったおっさん)以外の人間もあおり運転をするのだろうか。

ごく僅かな時間、程度の軽いものまで含めれば、少なくともおっさん世代ならおそらく誰もが煽る側となったことがないとは言えないだろう。そのほとんどは若気の至りであり、程度的にあおり運転とまでは言えないとも思わなくもないが、社会人としてはやはり未熟であったと言わざるを得ないだろう。現在では若者の人口は減少しクルマ離れも進んだため、あおり運転の犯人は社会人として成熟できないおっさん世代が大多数を占めることになる。

ではなぜヤンキーでなくともあおり運転をしてしまうのだろうか。
直接的な原因となるのはいわゆる些細な「交通トラブル」だろう。そのようなトラブルは挙げればキリがないが、あおり運転に関係するもので多いのはおそらく「脇道や隣接地からの合流」「複数車線での車線変更」「走行速度の違い」の3つではないかと思われる。

「脇道や隣接地からの合流」は、明らかにお互いの距離が近いにもかかわらず脇道やコンビニから自分の走行車線の前方に合流してくるクルマに思わずムカッとくる、という場合である。これについては自動的に車間距離が詰まることとなるが、感情的になり車間距離を詰めたまま不快感を顕にすることはあるかもしれない。これをあおり運転と呼ぶかどうかは程度問題だし、煽られた側も多少自分の非を認めている場合もある。逆に交通量が多い道路でいつまでも合流できないでいると後ろのクルマからクラクションを鳴らされたり、横から強引に割りこんで先に行くクルマもいたりするので、合流する側は多少距離が近くても気にしないのがフツーであり、「大人」であれば「お互い様」「ゆずりあい」として問題にもならないハズである。
この場合の煽る側の心理は「事故につながりかねない危険な行為をされた」ということもあるのだろうが、実際街中の合流で事故になることはかなり稀である。おそらくこの場合はむしろ「自分が優先されるべきである」という心理が大きいのではないかと思われる。事故やトラブルを避けるためにあるのが交通ルールであり、それを守らない、あるいは軽視するものに対する怒り、と言い換えることもできるかもしれない。ただほとんどの人は、優先される道路を走行しているクルマとどの程度の距離があればいいのか、優先される道路を走行しているクルマは一切ブレーキを踏む必要はないのか、そもそもそのクルマは制限速度で走行しているのかなど、自ら論理的な検討をすることはまずないだろう。何らかの事故に会った時警察と保険会社から「過失割合」という概念を突き付けられて初めて「自分にも非がある」と認識せざるを得ない場合がほとんどなのである。
「複数車線での車線変更」の場合も、クルマの死角という問題は関係してくるが状況や心理はほぼ同じようなものだと考えられる。
結局、陳腐ではあるが論理的かつ現実的な解決方法として「車間距離をとる」ということが重要なのだが、車間距離には感覚的に個人差があるため、煽る側も煽られる側も過剰反応となりそれがトラブルに繋がる場合もあるだろう。この「過剰反応」はクルマの運転にありがちな性質でもある。

運転は危険を伴うものであり、自らその認識を持って正しい運転をしているという人にとっては、だからこそ危険な運転には怒りを覚えることもあるだろう。それが煽る側になるという場合もあり、理由があって煽っている、自分が正しいと認識しているということも往々にしてあるように思う。
ただ交通トラブルの場合、どちらが悪いかということは当然問題ではあるものの、大抵の場合どちらにも非があるというのがフツーである。ましてほとんどの人が制限速度で走っていないのだから、法律的にもそう判断されることになるのが関の山である。
そしてこの制限速度というものが「あおり運転」の存在そのものにも大きく影響しているということは、おそらく間違いないだろう。

そもそも高速道路であろうが一般道であろうが、制限速度で走っていたら煽られる、追い越されたうえかなり近距離で割り込みをされる、といったことは日常茶飯事である。
このことは、ここ数年言われるコンプライアンス的に仕事上制限速度で走る必要がある人はおそらく痛感していることだろう。フツーの乗用車はもちろん大型トラックなども、同じくコンプライアンス重視の大手運送会社などを除けば、そのような行為は非常に多いと言っていいハズだ。
そのような行為をする人間は、制限速度を守らないことを強要しようとしているまたは制限速度で走ることを「悪」とみなし私刑を加えようとしているのである。
このような議論では、必ず「煽られる側が悪い」という主張が一定の大きさになる場合が多く、いじめの論理とも似ている。言うなれば「程度の低い正義」であり、社会が持つ性質のうちでも最悪の類のものである。
ネット上でも「高速道路の追い越し車線をダラダラ走る」ことを公然と批判し、あおり運転の対象となることを肯定する人々が相当数に上る。彼らの論理で「ダラダラ」とは時速何kmを指しているのかはほとんどうやむやだが、経験則からの勝手な想像で言えば、おそらく制限速度とは無関係な場合がほとんどだろう。
高速道路の追い越し車線を制限速度で走ることは悪なのか、追い越し車線は制限速度を超えることが当然あるいは許されるのか、大衆に論理的判断とその実践を求めることにはムリがあるということは認識する必要があるだろう。

そもそも速度制限という規制が相当矛盾に満ちたものであることには間違いない。
警察による取り締まりはほとんどの場合それほど罪の大きくない人を見せしめのために利用するだけのものとなっているのはもはや誰の目にも明らかだろう。
少なくとも日本では100km/h(最近120kmも可能らしいが)以上出せるクルマが存在することが矛盾であり、制限速度を順守しようとすれば機械的技術的にいくらでも可能なハズである。が、自動車業界と行政、マスコミはその矛盾に触れることは絶対にないだろう。もちろんクルマ好きにとっても、そうでもない一般大衆にとっても心理的にはそのような規制はないほうがいいに決まっている。いずれ来るであろう完全自動化時代にはそもそもスピード違反などあり得ないハズだが、それはクルマ好きにとっての「クルマ」の終わりを意味するものでもある。その意味ではせめてクルマ好きに残された最後の時間、事故や危険運転を最大限防止しつつクルマの「魅力」を「残す」ための技術を社会にもたらすことが、クルマ好きがクルマの技術者に求めることだと言ってもいいのだが、残念ながらそのような動きは微塵も見られない。

あおり運転も、ドライブレコーダーの普及によりそれがニュースとして扱われるようになっただけということではあるのだが、技術の進歩が社会の問題解決に僅かでも貢献していることは間違いはないハズだ。映像はまさに動かぬ証拠であり、その有効性は従来とは全く比較にならない程の差があると言える。本来なら10年20年早く普及していて然るべきだが、ようやく大衆にその有効性と必要性が認識され始めたということである。やはり「需要」なくして技術は普及しないということなのだ。
イベントデータレコーダー(EDR)も、最近のブレーキ踏み間違い事故によって一部で注目されているものの、世の中的にはそれほど取り上げられている感じではなく、日本で有効利用されるには10年以上はかかるだろう。アメリカでは既に実用段階にあるそうだが、残念ながらこういうことに関してはこと日本の大衆はとにかく無頓着である。
EDRは基本的に自動車メーカーでなければ設置することはできないが、当のメーカーは保身のためこれを全面的に表面化することには全く後ろ向きである。技術的にはわざわざ設置するどころかそもそも既にあるものでありながら意図的に見えなくしているような性質のものなのだ。遅れ馳せながらようやく最近自動車メーカーがこぞって「事故ゼロ」を掲げるようになったものの、それもどうやら所詮「大本営発表」でしかないようである(事故が起きたあとのことは事故ゼロとは言わないか)。仮に「自動運転」が実現すれば当然EDRは必須となるハズだが、そもそも踏み間違いも事故もなくなるハズであり、やはり事故をなくすには自動運転しかないということにもなるのである。
とはいえそれまでの期間は既存の「OBD」製品のような後付できる簡易的なものでも一定の機能を果たせるハズであり、まずは自動車メーカー以外が供給して普及するのが理想かもしれない。
技術を問題解決のために積極的に利用しようとするのは技術者の考えることであり、組織で自分の利益を追求する人間には全く無関係のことである。そして技術者がその想いを込めた先にある大衆は、その技術が持つ意味すら理解できない人たちが大多数を占めるというのが現実なのである。
最近、飛行機の操縦士が飲酒チェックに引っかかり運行が遅延したというニュースは連日報道されるが、あれだけ大ニュースとなったにも関わらずクルマ側の技術的具体的な飲酒運転防止策は全く出てこないし、おそらく今後も出てこないだろう。
現実として、数トンもの鉄の塊を、どんな人間でも、100km/h以上で動かすことが可能な中で日常生活を送っているにもかかわらず、自動車と飛行機のどっちが危険かというハナシも理解できない人が大半であり、まして隣国の独裁者が発射する「ミサイル」のニュースに大騒ぎしているというレベルなのだ。これが社会の認知能力の水準であることはどうすることもできないのである。

社会に悪人や愚者がいるのはどうしようもないことである。言うまでもなく人間には絶対的な善も悪も存在しない。一定数の人間がいる結果として社会が存在しているのであり、善人も悪人も賢者も愚者も金持ちも貧困も全てはその中での相対的なものであって、結果として人間が作り上げたもの、もしくはそう認識しているものなのである。善人偏差値30であれば学校のクラスにに1人はいる程度の「ワル」ということになるが、例えばこれも校内暴力全盛だった現在の50代であれば、「校舎の窓ガラスを壊してまわる」という性質だけをとらえた場合、特段ワルでもなんでもないフツーのヤツということになる。
犯罪者、悪人は可能な限り避けるのがまさに無難というものだが、この社会にはそれらが全て混在しているのであり、当然運悪く遭遇することもあるのだ。現代はそのことがかつてに比べ見えにくくなっているのだが、逆に言えばいい世の中にはなっているのである。「平和ボケ」という言葉もあるが、それもまた人間の認知の構造上どうしようもないことなのだろう。
ある日突然それが我が身に振りかかり呆然とすることになっても、運が悪いと認識する外ないし、事実そうなのである。

クルマそのもののニュースより、クルマ社会の問題を考えるしかないというのは、クルマ好きにとってはつまらない時代になったものだが、技術にできることはまだ数多くあるハズだ。しかし、技術者が自分に何ができるのかだけを考え実践できる環境は、日本には既にないのである。
Posted at 2019/08/31 07:00:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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