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2019年07月21日 イイね!

引きこもりと団塊ジュニア(その2)

社会学も精神医学も全く知らないおっさんの単なる感想と妄想である。

おっさん世代は「社畜」と「引きこもり」の世代であると言ってもいいのだが、なぜこうなったのかもう少し考えてみる。

一口におっさん世代といっても現時点での50代と40代ではまた社会的状況に違いがある。
いわゆる団塊ジュニアは現在40代中盤を人口のピークとする世代で、高卒ならギリギリ滑り込みでバブル採用、進学組はロスジェネ一期生、といったところであるのに対し、現在の50代が社会に出る頃は80年代の正にバブル期であり、また退職金、年金等いわゆる「老後」においても40代よりは明らかに有利だと思われ、団塊ジュニアから見れば嫌悪の対象と言ってもいいかもしれない(折しも「老後2000万円問題」がこれまた大ニュースとなっているのだが)。

引きこもりの原因の大半は教育にあり当然その責任の大半は「学校」そして「親」にあるというのが前回のハナシだが、それについても世代によって状況は変わってくる。
現在の50代は「受験戦争」「校内暴力」「家庭内暴力」「非行」「不良」の世代であり、「引きこもり」という言葉はまだ無かったと記憶している。
対する40代は、一つ上の世代を見ているせいか先に挙げたキーワードについては若干落ち着き、代わりに「いじめ」が問題化し「登校拒否」という言葉が聞かれ始めた世代である。「引きこもり」という言葉自体はおそらくバブル崩壊後に生まれた言葉だろう。あれから30年が経過しようとしているが、教育、学校に関しては全く進歩は見られず環境としてはむしろ悪化しているようにすら思える。

引きこもりの何が問題かといえばそれは社会との断絶であるというのが前回の話だが、その社会の最たるものが親である。
「家族」は社会の最小単位であり子供にとって最も近い社会である。その親が子供を学校という選別システムに放り込み、その結果をもって子供を脱落者と認識しそれを不幸だと思っているとすれば、それは子供にとっても不幸だと言って間違いない。少なくとも中高年引きこもりの親世代は、子供が引きこもりであることを「恥」と捉えている場合がほとんどだろう。一般的に「世間体」が悪いと感じること自体は理解しないでもないし、まして世の中の「自己責任」という言葉には「親」も含まれている若しくは親自身そう感じているハズだ。ただ当時はそういう時代であり、校内暴力、いじめが問題となった70年、80年代を経てようやく一部の意識が変わり始めたという程度なのである。おそらく今頃になって親たちも多少は自責の念に駆られていることだろう。

高度成長期以降、大多数の社会人=会社員となったことと学校が単なる選別システムとなったことには当然関連がある。少しでもいい会社に入るということが人生の全てとなり、そのためには少しでもいい大学、少しでもいい高校と、全てが一つにつながっていったのである。大衆レベルではこれが超画一化教育、超画一化社会の本質だろう。このような状況では義務教育以降入社から退職まで40年以上もの間、中学生と変わらない精神性のまま生きていくのであり、だとすれば現在の日本企業、ひいては日本経済の凋落ぶりまでもがその結果なのかもしれないとすら思える。まさに日本社会全体が中二病なのである(中二病の定義はあいまいでそれこそ人によって様々だということらしいが)。
ただいくら社会の画一化が進行した現在にあっても、本来現実的には多様な生き方が存在するハズである。しかし画一化教育を通過してきた多くの人々にとって、進学、就職に失敗するということは、その時点で自分の社会的評価、そしてその後の人生が最終的に決定してしまったかのような感覚にとらわれてしまっているのだろう。自分に対する「自分自身の評価」よりも、「社会的評価」を自分だと認識することがこの時代以降の日本人には強く染み付いているのである。学校という画一的評価、選別、排除システムに子供の頃から10年もの間「教育」されれば、そうなるのも当然だろう。だとすれば「就職氷河期」「ロスジェネ」「非正規雇用」が、社会からの評価という基準の下「自分」で「自分」を否定することに繋がっていると言ってもいいのかもしれない。

これについても、現在の50代はバブル時代で少なくとも新卒としては最も恵まれていた世代である。「非正規」が現れたのは中年に差し掛かってからで、引きこもりと雇用不安の関連性は低い。対して40代はまさに社会に出ようとするときバブルが崩壊し、社会は縮小し続けるとともに非正規雇用が大量に生み出されることとなる。引きこもりと雇用の関連性は当然あるハズだ。世代的には現在の30代までがいわゆるロスジェネということになるが、この世代はむしろ非正規がフツーになったと言っても過言ではない。もちろんそれは問題だが、それ以前の世代と比べ当人そして親達の意識に多少の変化はあるハズだ。そしてここ数年新卒採用は回復しているようで20代となるとまた更に変わってくるが、非正規格差、社会格差は縮小するどころか拡大しているというところだろう。日本人は物質的豊かさは得たものの心の豊かさが追いついていない、などと言われていたのは80年代のことだが、残念なことにその後の日本はと言えばまさに失われた30年であり、心の豊かさは追いつくどころか物質的豊かさと共に失われていったのである。
そもそも進学や就職が成功なのか失敗なのかという判断は本来は自分の中にあるハズであり、ましてそれはその時点でのものと5年後10年後とでは変わってくるものである。時代が変わればまた状況も変わり、自分もまた変わっていくのだ。つまり「答え」は自分の中にしかないのでありそれこそがまさに人生の哲学というものなのだが、現在の日本の社会人の大半にとっては新卒採用こそが全てであり、一生それを引きずって生きていくことになるのである。

50代40代の、正規雇用であることに自分の価値を見出し会社にしがみつくしかないという人々がいわゆる「社畜」である。
社畜から見れば引きこもりは社会のストレスから逃げているダメ人間ということになるのだろうが、裏を返せば長時間労働やストレスから逃がれられない自分と比較して「ズルい」という発想が根底にあるのだろう。自分は引きこもりよりは「上」であると考えることで満足感を得るというのは、差別(今風に言えばヘイト)の根源であり、人間の本質である。
対してロスジェネは、それまで自ら努力してあるいはむりやり勉強させられてきたのに、いざ就職するというとき社会の状況で更に厳しい選別を受けることになったのだから、自らの存在価値を重ねて否定されたような気になったとしてもムリもないかもしれない。それは実際の生活水準とは別な問題であるといってもそれほど間違いではないハズだ。同じ職場に正規非正規が混在し、全く同じ仕事をしているのにも関わらず収入に相当の差があるというのは、仮に実際の生活にそれほど支障がなかったとしても不満が鬱積するのは当然だし、まして新卒採用という旧来の社会慣行上たまたま社会に出るタイミングが悪かったために一生涯影響を受けるというのは、理不尽だと感じるのも当然だろう。
現在の日本社会の凋落ぶりからすれば、単に学力と組織の論理で選別されてきただけでエラそうにしている50代、あるいは運が良かっただけの一部の40代の社畜は、「非正規」「ロスジェネ」世代にとって憎悪の対象となるのも当然のことかもしれない。
このような状況はいわゆる「分断」「格差」であり、また米英でかつて社会問題となった「ジェネレーションギャップ」と言ってもいいハズだが、日本でジェネレーションギャップといえば単なるあるあるネタの意味以外なく、やはり画一化教育により全てが自己責任だと言う考え方を植え付けられているということがあるのかもしれない。「個」の力を徹底して削ぐということは、反抗すること、そしてそれらが団結しようとする力を失わせるのである。これはある意味マインドコントロールの基本と言ってもいいだろう。だとすればそれはまさに為政者と教育者にとって画一化教育の「成果」であるといって間違いない。つまり「社畜」と「引きこもり」は彼らが意図して作り上げたものであり、大衆は見事にそれに従うこととなった。

自分の居場所を確保するため自分より弱いものを攻撃するのは、群れで生きることで進化してきた人間の原始的本能であり人間社会の法則である。序列によって群れの存続を最優先しつつ自分が生き残るという方法は、進化の過程で獲得した能力なのだ。いじめる側の人間というのは常にいじめられる側が悪いという論理で動いているのであり、性別、人種、国籍、容姿といった原始的なものから、誰もがしばしば犯すであろう些細なミスまで、それが明らかに理不尽であっても、攻撃対象、攻撃理由となり得るものを常に探し求めているのだ。「引きこもりは自己責任」という理屈になるのもまた当然だろう。
これは学校も会社も同じであり、年齢的に大人になったからといって何も変ることはない。まして現時点の日本の「会社」「社会」では画一化教育システムで選ばれた50代40代が大多数を占め組織を動かしているのだから、この世代が日本社会から退場するまで状況は変わらないということだけは間違いない(それ以下の世代が社会を変えることができるのかどうかは別なハナシだが)。個人の論理的思考力で社会を変えることは不可能であり、個人の意識で変えることができるのは、その中で自分がどう生きるかということのみなのだ。
今自分が属する社会のストレスに耐えられないとすればそこから逃げるしか方法はなく、仮に引きこもりが自らの意志だと言えるのなら、それは全くもって論理的な行動である。

人間の本質的な問題から日常の些細なことまで、特定の事象において自分で判断するということは、それ以外の判断をする他人を自動的に否定することになるのは当然である。自分の行動において他人の行動を全く反映せずに生きていくことができる聖人であれば別だが、学校や会社では皆程度は別として心の中で他人を否定しながら生きているのである。
が、フツーの人間であれば、それを表に出すことは一定の範囲に限定している。必要以上に他人を攻撃すれば逆に自分が攻撃され、居場所が脅かされる可能性もあるからである。社会で生きていくために必要だからこそ表面上の付き合いをしているのであり、それこそまさに「常識」の範疇ということになる。また同時に自分の考えが正しいと主張することもなるべくしないようにすることもあり、これは万が一自分が間違っていた場合自分が否定されることを恐れるからである。通常これは相手と自分の信頼関係や力関係を測りつつ、自分が否定されない範囲で行われるのだが、閉塞した社会ではこの自己主張ができなくなっていくのである。本来それは論理的思考によって行われる限り仮に間違っていても何ら個人を否定するものではないハズだが、極度に組織、社会に依存している日本人にとっては、ことさら難しいのである。とにかく自分の居場所を失うことを恐れているのだ。
そうなると今度は、自分の居場所を脅かすことがないであろう自分より弱い者を攻撃するのである。また難しい問題は自分では考えず口にも出さない代わりに、些細なミスなど大手を振って他人を攻撃できる材料を見つけた時は、まさに鬼の首を取ったかのように攻撃するのだ。自分の居場所を守りつつ他人を攻撃するのに最適の場所である、匿名性の高いネット社会は、まさにそのような人間の本質を現している。

現実の世界とは別の自分になれるネットの世界は、現実社会から排除された人々にとっても人との繋がりを持つことができる場所であり、だからこそ引きこもりの拠り所となっているという面もあるのかもしれない。ただそこにあるのは必ずしも理想郷ではなく、むしろ人間社会そのものである。そこには人間の本質がより色濃く現れるのであり、新たな自分、新たな社会で自分の居場所を確保できるとは限らない。ネットの世界でのトラブルから現実社会の犯罪に繋がった事件もあったように記憶している。どこまで行っても人間は他人を否定し否定されることから逃れることはできないのだ。逆に言えばそれが当然であるという認識が社会に対応するためには重要なのである。

自分と他人を比較し上下、優劣を付けるのは人間の本質であり、それ自体を否定することは不可能だ。ただそれが行き過ぎることで憎悪を生み出し、鬱積した憎悪が何か些細なことで爆発し、暴力、犯罪へと繋がるというのは社会のごく一般的な事象である。それは引きこもりだけのハナシでは無いのだが、一部の人と犯罪を安易に結びつけるのは閉塞した社会のこれも典型的な事象である。そしてそれがエスカレートし社会から徹底的に排除し続けるという攻撃を続けることで、憎悪は増幅し社会全体を覆っていくことになる。これはまさに歴史で繰り返されてきた差別と暴力の応酬の典型である。欧米の文化の中で自己主張と寛容を同時に説くことが多いのは、このような歴史、そして未だに民族紛争、テロ、ヘイトとの戦いが続いていることが大きいのかもしれない。

弱者を攻撃し自分の利益を最大化することに特化した個体が、一つの群れで支配的立場になるいうのは自然の法則である。人間社会ではそれはあらゆる場所、階層で継続され連続することでやがて国家レベルにまで及ぶというのが組織、社会の法則であり、結果としてどのような人間が選ばれるのかということは「君主論」で著されるとおりである。組織、社会はそもそも強者と弱者を選別するようにできているのであり、つまり人間も動物と同じ「弱肉強食」であるということは認識する必要がある。この辺りの認識も現在の日本社会では希薄というか、むしろコントロールされているようにすら思える。例えば、権力者の履物を懐で温めるという「気遣い」ができる足軽がやがて権力者になるという薄ら寒いハナシが「美談」として語られることにそれが顕れているように思う。また「茶」を飲むということの一挙手一投足に気遣いや「もてなし」の名の下いちいち理由を付け形に縛り付ける、これは今で言えば「謎ルール」としかいいようがないのだが、これを「格式」「権威」にまで発展させ権力者に取り入ることで名声を得た高名な茶人を、何百年後も崇拝する人々が大勢いることもおよそ恐怖しか感じない、ほとんど宗教的だといってもいいだろう。
歴史に残る大事件として、また娯楽作品として年末になると今も語り継がれているエピソードでは、江戸時代、地方の権力者が中央に赴任したとき、謎ルールを知らなかったために中央の権力者にいじめられたということが話の発端となっている。現代の一般社会でも「空気を読む」のが美徳とされ、それは「空気が読めない奴」という攻撃対象を作り出す格好の材料となるっているのだ。
結局社会の論理では「優しさ」や「気遣い」までもが、自分を有利にするためあるいは他人を攻撃するための道具として利用されるのである。

個人レベルで見れば、本当の意味で優しい人、気を使う人は、他人から影響を受けやすい、いわゆる「感受性が強い」人ということになり、他人を否定し他人から否定されることによるダメージを受けやすいということになるだろう。これはまず生まれ持った脳の性質によるものだが、社会で生きていくためにはそんな自分に対してまず自分がどう対応するかが重要であり、これはまさに発達過程で培われていくものである。
例えば街を歩いていてふと見ると子猫がいる、この状況で、ほっといても大丈夫だろうかと心配する人は世間一般的には優しい人ということになるだろう。そもそも何も思わない人が大半であり、むしろいじめるという人間もそれほど珍しくはない、というのが個人の資質である。
ただその後実際どう行動するかは状況によって変わる。学校に行く途中の小学生、会社に行く途中のおっさん、現場に向かう途中の消防士など、世の中には無数の要素があり、全て対応が違って当然なのだ。そこにあるのは、他の要素の重要度と比較し総合的に判断するという「論理的思考」と、その判断が最終的に正しいか否かを自問自答すること、つまり「自分」と向き合うことであり、これはまさに発達過程、そしてその後の人生で培われていくものなのである。
この例えも社会としてみればあくまで結果として存在する相対的な事象であり、その事象をまた相対的に認識するからこそ、個人の資質の違いというものが存在することになる。「優しい人」「冷たい人」はあくまで程度の問題であり、一般の水準よりその傾向が強いということに過ぎない。優しい人に比べれば世の中の大半の人々はそもそも何も感じていない、悪気はないということなのだ。それが「通常」のレベルを超えればそれは社会からも「悪」という認識になるが、そうでなければ「フツー」のこと、あるいは「やむをやない」「受忍の範囲」ということになる。そういった社会の性質を客観的に認識することが、優しい人、ダメージに弱い人が社会で生きていくうえで必要不可欠であり、これこそまさに今盛んに言われるところの「自己肯定感」である。他人を認めることは自分を認めることという言い方もされるが、これは微妙に誤解が生じやすい表現だと言える。他人は自分とは違うのであり、自分もまた他人とは違う、それが当然なのだ。
社会からのダメージに弱い人は、社会一般の評価を必要以上に意識するあまりこの自己肯定感が社会一般のレベルより低いということになるのだろう。悪く言えば自分で考えず社会に全ての判断基準を委ねているということでもある。社会全体でみれば、論理的思考力が低下し依存が強くなることで自主性、多様性が排除されていくのであり、これは閉塞した状況の現在の日本全体に言えることかもしれない。

「社畜」であるおっさん自身引きこもりになったことはないが、可能なら引きこもりたいと思ったことはある(というか常に思っている)。が、現実的にはまず不可能であり、おそらく他の多くのおっさんたちも同じハズだ。ただこの「現実的に不可能」という認識こそが問題であり、本来であればあらゆる選択肢が常に有効であるハズなのだが、結局一般的な人間の多くは自分と社会の「枠」を抜け出せないというのも事実である。社畜の多くは、「好きで社畜になったワケではない」と言ってもいいだろう。結局社畜も引きこもりもそれほど精神的に違わないのである。が、逆にもし自分が社会から強制的に遮断され、衣食住のみ与えられ、テレビやネット、ゲームだけで生きていくことを強いられたら、それを良しとするかどうかはなんとも言えない。もちろんそれも悪くないとも思わないでもないが、この辺りも引きこもりの一つのポイントと言えるのかもしれない。
結局これも、実際どのような生活を送るかが問題なのではなく、社会から脱落者の認識を受けることと、本人がそれを不幸だと考えることが問題なのである、ということに繋がるのだ。

学力と組織の論理だけで選別され生き残ってきた社畜達には、そのこと以外に自分を肯定する材料をおよそ持ち合わせてはいない。特に大多数の50代社畜はそうである。逆に選別されて振り落とされた側である引きこもりもまた、同じなのである。
ただ正規雇用である自分に自己肯定感を抱き引きこもりを攻撃する社畜も相当いると同時に、社畜である自分に自己嫌悪を抱き、引きこもりに一つの生き方を見出すおっさんも一定数いるハズである。また引きこもりの中にも、自己嫌悪と同時に社会を憎悪するものもいれば、社畜にだけはなりたくない(あるいは戻りたくない)というものもいるハズである。
いずれにせよ「引きこもり」は身近な問題と認識しているおっさんも多いハズであり、犯罪と結びつけ差別を助長するというよりむしろ背景にある社会に対する問題意識のほうが大きいと言ってもいいだろう。特に団塊ジュニア世代の社畜の場合、今頃になって年金では暮らせないから死ぬまで働けということになり、その上終身雇用の廃止で会社からは使い捨てとなり、終身雇用に基づく退職金制度も当然崩壊し、住宅ローンで破産するという不安をも抱える状況となっている。そしてそれは自分たちより上の「逃げ切り世代」に対する嫌悪、憎悪にも繋がっているのである。
結局それは「社会に対する恨み」であり、まさに前述の2つの事件の当事者たちと同じ感情を持っていると言っても過言ではない。ただ、だからといって犯罪を起こすワケでは全くないのである。

社会も支配者もあくまで個人の上に存在するのであり、安定して存在し続けるためには少なくともタテマエ上個人の存在が守られる必要がある。そのための道具として法が作られ、それを犯す者を社会から排除する唯一の理由となり得るのである。逆に言えば、犯罪以外で社会から排除される理由は全く無い(ハズである)。
中でも「暴力」は最も重い犯罪だが、練馬事件のように子が母に暴力を振るい、父が子を殺すのだから、そもそも人間社会に無条件の安全などというものは存在しないということを基本的な認識とする必要がある。児童虐待の報道も急激に増えているが、おそらくそれは急激に表面化しているだけのことだろう。世の中にはそのような人間が混ざり合っているのであって、その存在は表面的には見えにくいものである。いつなんどき自分が犯罪に巻き込まれるかなど誰にも判らないのだ。
犯罪にはたいてい理由がありその重さや中身は千差万別だが、動物的欲求によるものが大部分であり、人間的理由にしても引きこもりなどよりむしろ男女の愛憎の方がはるかに多いハズである。つまり犯罪においてその理由は基本的には問題ではなく、その犯罪だけが問題なのである。ただ理由は犯罪の性質に顕れ、川崎事件のような無差別に弱者を攻撃するという犯罪は、やはり人々の関心を最大限引くものであるのも間違いない。これがアメリカであれば、学校で銃が乱射されることになるのだろう。
それでも犯罪とその理由はあくまで別な問題であり、引きこもりと結びつけることは全く無意味である。くどいようだが、社畜も引きこもりも、精神性は大して変わらないのである。

結論としては、自分の意志で生きている限り、また法を犯さない限り、引きこもりは一切悪くない、だからどうどうと引きこもればいい、ということである。

前回、「放蕩」の漢字を検索した時たまたま「放蕩息子のたとえ話」というのを知ったのだが、これはまさに現代日本社会を現しているように思える。宗教的なハナシをするつもりは毛頭ないが、この話の登場人物の「兄」に当たるのが、引きこもりを否定し偏見と差別を助長しようとする数多くの社畜達なのだろう。

というところまでほぼ書き終えていたところに戦後最悪の放火殺人事件が大ニュースとなっているのだが、個人にできる唯一のことは事実をただ見ることであり、そして社会が問題を解決することはできないということを認識することである。
Posted at 2019/07/21 21:56:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年06月30日 イイね!

引きこもりと団塊ジュニア

社会学も精神医学も全く知らないおっさんの単なる感想と妄想である。

川崎事件と練馬事件が連日メディアを賑わせているので感想。
実はおっさん世代にとっては意外と身近な問題なのである。
とは言っても、直接的には自分の周りに引きこもりの知人はいない。が、社会に出る前後から問題が明るみとなり、歳を取るにつれていわゆる「非正規雇用」「メンタル」問題とも絡み、また世代的には既に教育面でも意識せざるを得ないということから、身近な問題ということになるのである。

まずもってメディアが事件と「引きこもり」という言葉を最大限活用しているのは経済の論理であり全てを真に受ける必要は全くないし、テレビで「お笑いタレント」がコメントし、それをまたテレビやネットで「有識者」や「タレント」が批判するのも、結局目的は皆同じである。
少なくともこの2つの凶悪事件に「引きこもり」が関連している事自体は間違いない。
言うまでもなく、凶悪犯を「不良品」と表現することとその考え方自体何ら異論はない。そもそも「不良」という言葉がフツーに存在しているのだ(最近は使わないような気もするが)。どんなに不遇であろうと、どんなに社会に恨みがあろうと、犯罪が正当化されればそもそも犯罪ではなくなる。
「不良品」という言葉が引きこもりを指しているとすれば当然異論はあるが、おそらく今回はそうではない。発言内容や言葉の定義もスッ飛ばしてこのような議論がされる時点で社会一般の認知レベルを顕しているといってもいいだろう。まして問題の解決など、このような社会には絶対に不可能である。

現時点の日本で「引きこもり」が一定数存在することに対してそれが異常なのかという判断は、世界的な数字と歴史的な資料が必要であるハズだが、そのような当然のことすらほとんど情報がないように思われる。だとすれば情報がないのが当たり前なのだということであり、異常か正常かの判定は不可能ということになる。これに対し本来その責を担うであろう「社会学者」と呼ばれる人々が明確な情報を出すことはないようだし、「精神科医」や「教育評論家」を名乗る人々の発言が感情論の域を出ない非哲学的なものであるのも、どうしようもないことなのだろう。まずはこの認識からスタートするべきなのかもしれない。

そもそも「引きこもり」とはどういうことなのだろうか。
簡単に言えばおそらく、義務教育終了後、就学または訓練を受けている状況を除き、仕事をせず、親(またはそのような存在)に食事と住居を与えられ、若しくは生活保護等の支援により生活している、ということになるだろう。ただこれだと「ニート(NEET)」とほぼ同じことになるが、この定義で言えば本人の意志とは直接関係はなく、そもそも悪意があるのかないのかということも問題ではない(ちなみにニートはイギリス発祥の言葉なのだそうだ)。
対して一般的な認識、イメージとしては、社会に順応できず、親に甘えて仕事をせずに生きている若者、ということになるだろう。現状はその「若者」がそのまま「中高年」になった、ということなのだが、いずれにせよそこには否定的な意味合いが相当込められているのは間違いない。
もう一つ言えるのは、遊び歩いている場合は引きこもりとは言わない、ということである。例えば欧米では大学卒業後就職するまで1年若しくは数年間、仕事をしないで好きなことをする、ということが珍しくないそうだが、これを引きこもりとは言わないハズである。まして日本的にも、仕事をせず毎日遊んでいる放蕩息子的なものは昔から存在するが、これも当然引きこもりには該当しないだろう。ということは、いわゆる「遊んでいる」という概念においてもそれは社会と繋がっている、というのが一般的な認識であると言える。逆に言えば引きこもりは、仕事をしているか否かが問題ではなく、文字通り社会との接触を遮断しているということが最大の問題ということであり、この辺りの精神的な要素がニートとは違う点だろう。

では「引きこもり」の何が問題なのだろうか。
おそらく現状の結論としては、自分で働いて生活し、子供を育て、老親を養う、という固定観念に反しているということ以外にない、と言ってもいいだろう。哲学的には本人の生活が持続できる限り、また犯罪的な行為がない限り、何ら問題はないハズだ。ましてここに国家の「生産性」などという概念を持ち出すなどむしろ極めて傲慢な考え方である。
ただ個人の人生観に照らした場合、それを良しとするか否かはまた別問題である。やはりそれが本人にとって幸せなのかということであり、おそらくそうではない場合が多い、ということにはなるだろう。つまり「好きで引きこもりになったワケではない」ということである。が、社会一般の認識としては、「引きこもりにならないことを自ら積極的に選択したワケでもない」つまり「自己責任」であるという見方が大勢を占めているというのが現状である。社会的には「積極的に避けるべきもの」という概念は間違いなく存在し、その「選択」更には「努力」があったのかということ重視する考え方があると思われる。これは倫理的あるいは宗教的なものかもしれないが、一般論としてそれ自体は否定されるものでもないだろう。より良い人生のためには自身の努力が必要だとする、陳腐ではあるがもっともらしい倫理観が、多くの人にとって基本的な認識となっているのは事実だろうし、自分もその事自体は全く否定するものではない。
問題は、そのような「努力」があったのかなかったのかという事実を誰も判断できないにもかかわらず、結果としてそうなったということをもってそれが「なかった」あるいは「足りなかった」という「推定有罪」的な考え方に陥るのが一般的な人間の認知能力の限界であるということだろう。結局のところ、社会からそのように「認識」されること、そしてそれを引きこもり本人が「不幸」だと考えること、それが最大の問題なのである。

ではなぜ「引きこもり」になるのだろうか。引きこもりは自己責任なのだろうか。これは議論のあるところだろうが、フツーの常識があれば、原因が一つではないだろういうことは誰にでも判ることである。

引きこもりが自ら社会と接触を遮断することだとすれば、おそらくその理由は社会から受けるストレス、精神的な苦痛から逃れるため、ということになるだろう。そのきっかけとしては病気や身体的障害なども考えられるが、おそらく最も多いのは義務教育、つまり学校に行かないという「不登校」ではないだろうか(前述の引きこもりの定義には当てはまらないが)。その原因として一般的なのはおそらく「いじめ」だろう。これにより社会への順応に障害が出る、つまり引きこもりのきっかけとなる可能性は相当高いハズである。ただその程度については千差万別であり、それが一定の範囲を超える場合のみ「いじめ」と認定されるというのもまた当然のことではある。もちろん原因はいじめる側にあるということは言うまでもないが、いじめられる側の精神的な感受性、強度、耐性というものにも個人差があり、結果として一定の集合における相対的な位置関係として「強者」「弱者」あるいはストレスや精神的苦痛に対する「強さ」「弱さ」というものが存在するのもまた自然の法則である。
仮にこれを「ストレス耐性偏差値」と呼ぶことにすれば、100人中70人が偏差値40から60までの「フツーの人」であり、40以下の「ストレスに弱い人」が15人、60以上の「ストレスに強い人」が15人いる、ということになるだろう。学校に例えれば、40人のクラスにそれぞれ6位までを「弱い人」「強い人」と順位付けできるということになる。そしてこれはあくまで相対的なものであり、母集団が変われば個人の順位は変わることになる。つまり社会ではその時に属する組織によって個人の相対的位置関係も変わるのである。どんな組織にも、どんな社会にも、人間社会全般としてみた場合でも、その場における一般的なストレス強度に対応できない個人が一定数いるのは当然なのである。そもそもどこからがいじめか、どこまでは受忍の範囲かというのも、ストレス耐性偏差値40から60までの100人中70人が許容できる範囲を超えた場合、ということになるのである。確かに、「絶対悪」というものが存在するのか否かということは問題ではあり、暴力や殺人などはそうだと考えられなくもないが、しかしそれもあくまで個人の中にあるのであって、社会としてみればそれすら相対的なものなのである。
例えば実際の学校でどの程度の頻度でいじめが発生するのかということについて100%個人の感覚で言えば、程度はさておき生徒自身がいじめと感じる事案はクラスに一人いるかいないか、100人いれば二、三人程度という感じではないだろうか。また引きこもりについては、クラスに一人とまではいかないが3から5クラスあれば一人はいてもおかしくない、だとすれば100人から200人に一人、ストレス耐性偏差値25辺り、といったところではないかと考える。
結局「社会」というものはそれ自体極めて相対的な、結果として存在するものであり、そう考えると社会からストレスや精神的苦痛をなくすことは「不可能」だということになる。その社会の中で生きていくということは、個人の「ストレス耐性」という結果的、相対的な要素に大きく影響されるのは避けられないことなのである。

では結局引きこもりの原因は、ストレス耐性が低いという本人の資質が全て、ということなのだろうか。

たまたま極めて社会的な基準であるストレス耐性偏差値25という個体差を持って生まれた子供に対し、それでも社会に順応させるのが理想だとすれば、そのために何らかの対応ができるのはもはやその親以外にないハズだ。
そもそもテレビドラマやマンガなどでも描かれているとおり、ましてアメリカやその他の国々のドラマや映画でもそうなのだから、ごく一般的な中高生、まして誰もが精神的に不安定な10代にとって「学校」という「社会」自体がかなりのストレスである、というのはおそらく世界共通なのだろう。だからこそ学校が社会的ストレスに対応する訓練であるという側面もあるハズだが、だとすれば子供、そして不安定な10代を社会に順応させようというのは、親、そして大人の努めであるといってもいいだろう。子供を社会で生きていけるようにするためには、当然のことなのである。
が、そのような意識を持っている親または教育者がどれほどいるのかといえば甚だ疑問ではある。「学校に行く事自体が社会に順応する訓練である」と考えているのだろうが、実際は「耐性がなければ振り落とされる」というシステムに子供を放り込んでいるだけだといっても過言ではない。言うなればそれはまさにただの「選別」である。もっともそれが「社会」というものの真の姿であり、むしろそれを認識することが全ての原点となるとも言ってもいいのかもしれない。なぜなら結局教育過程終了後社会に出たとしても、状況としてはほとんど変わらないからである。高度成長期以降、社会人=会社員(サラリーマン)というのが大半の一般的な日本人の生き方となり、そして「会社」という社会においては、結局のところ学校と同じように「いじめ」(現在は「ハラスメント」と言い換えられるが)もあれば過剰な同調圧力もある、出世競争もあれば派閥・勢力争いもあるというのが、紛れもない現実なのだ。そもそも採用選考でも入社後でも学歴が大きな影響を持つということもあり、結局学校と同じようなストレス社会が継続するだけのなのである。そしてその集団の中での自分のストレス耐性が結果として低ければ、やはり社会からの逃避、断絶、ひきこもりへと繋がっていくことも当然あるだろう。

そもそも学校というシステムそのもの、例えば一日中席に座って授業を受けるという事自体充分苦痛だとも考えられるし、更に中学、高校と厳しくなっていく監視・管理型の教育方法自体が子供にとって精神的重圧だとも考えられる。現在の50代が中学、高校生だった時代は「校内暴力」全盛期であり、厳しい「校則」により個人の自由を奪うことで生徒を管理すること自体、返って学校や社会への反感を助長し子供の社会的発達を阻害しているという指摘も一部にはあったと記憶している。更に「校内暴力」時代は「受験戦争」時代でもあり、学校というものが単なる学力による選別システムとなり、子供にとって学力競争の結果のみでしか親や教育者からその存在を承認してもらえないという状況が相当あったといってもいいのである。このような状況が、ましてや「脱落者」のレッテルを貼られるということが、子供達にとって社会との断絶を望む理由となったとしても、充分理解できるだろう。
現実的に多くの親がその選別システムをむしろ利用してきた時代にあって、少なくとも現在の40代50代の親に当たる世代は、子供がそこから脱落した場合にどう対応するのかということが全く判っていなかったといってもいいだろう。そもそもそのような意識を持っていたのはごく僅かだろうし、そのための具体策が一般的に認識されていたワケでもない。結果としてその選別システムにより振り落とされた我が子を、せめて自宅において養おうとするのが精一杯だったのである。そしてこの時代における一般的な世帯において、経済的にその事自体は可能だったということも大いにあるだろう。結局親に養ってもらえなければ、引きこもること自体難しいのである。

仮に子供を養い続けることが経済的に不可能だった場合はどうなるのだろうか。
親の収入だけでは生活、衣食住に困窮するということは、いわゆる貧困ということになる。
そのような状態においてはその子供自身が本能的に生存欲求が強くなるという可能性はなくはないだろう。空腹に耐えかねるということになれば収入を得ようとすることに対し一定の動機付けとはなるハズだし、戦後の復興期などはむしろ家族を助けるために働くのが当たり前でもあった(もちろんその時代に引きこもりがいなかったのかどうかは定かではない)。
が、少なくとも現代においては全くの別問題だろう。もちろん人間は動機付けにより変わることは充分あり得るし、これによりストレス耐性が上がり社会に対応できれば何も言うことはない(ただしこの場合はそれまで「甘えていた」という見方は避けられないかもしれない)。が、実際はそこまで単純ではないと思われる。そもそも親が教育を単なる選別システムとしか認識しておらず、本人もそのような画一化教育を受けてきた結果、現実的哲学的な思考能力、対応能力は相当低いと考えられる。となれば本人の基本的なストレス耐性が変わることもなく、また就業についても柔軟な発想に転換することもなく、いくら採用先を探し就業したとしても、結局同じことの繰り返しとなる可能性が高い。
となれば親は更なる具体的方法を採らざるをえないハズだが、最も理想的なのはそのような公共あるいは民間の施設に頼るという事になるだろう。が、そのような機関での対応が一般的に知られているとは現状では言い難く、まして貧困に直面している場合は色んな意味でそれも難しいのではないだろうか。貧困が全く珍しくなかった昭和以前の社会では、実態としては長時間あるいは過酷な労働を暴力的に強制し、そこから逃げることすら許されないような反社会的な企業あるいは組織といった、ある意味裏社会に子供を委ねるといったことはそれ程珍しくなかったことだと思われる。10年ほど前大ヒットとなった英印合作の映画では子どもたちの貧困と彼らを更に搾取する大人たちが描かれており、その中で子どもたちは生きるために反社会的組織に頼らざるを得ないのだが、これは洋の東西を問わず当然現実に存在することなのである。ヤクザになるというワケではなくとも、彼らに利用される側になるということはある。現代日本ではそのような裏社会はより表から見えづらくなっており、その認識が一般人から薄れているだけのことなのである。
ただ、暴力的ではないにせよ過酷な長時間労働を強制され、そこから逃げることすらできないという意味では、「社畜」と呼ばれる現在の日本のサラリーマンの大半がそうだといっても間違いではないだろう。そう考えると逃げることができるというのはまだ自らの判断能力が機能しているとも言え、引きこもりとは社畜よりはまだ高度な人間性の産物であると言ってもいいかもしれない。

おっさん世代はこのような社会を生きてきた結果、多数の引きこもりが生み出され、それ以外は立派な社畜となったワケだが、今回は今までになく終わりが見えてこないのでとりあえずこの辺でヤメておいて、これからの子どもたちがそうならないようにするにはどうすればいいのかというようなことは、また改めて考えたいと思う。
Posted at 2019/06/30 06:30:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | ニュース
2019年05月15日 イイね!

トヨタ式ビジネスモデルについての感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
ホンダの四輪部門が日仏連合に?というニュースを見てからしばらく経つがとりあえず感想。
現在国内シェア二位のホンダに何があったのだろうか。

平成になって「マーケットイン」「プロダクトアウト」という言葉を誰でも知るようになったが、おっさん世代のクルマ好きにとって「トヨタかホンダか」(更に上の世代であれば「トヨタかニッサンか」)というハナシは典型的なオタク論争だった。

マーケットインだろうがなんだろうが「売れるモノ」が判ればメーカーは苦労はしないというのは言うまでもなく、それに対する答えとして「今売れているモノを作って売る」というのがトヨタの哲学である。他メーカーのヒット商品を徹底的に研究し、トヨタブランド、ロイヤリティ、販売力で勝負するという方法は他メーカーとの戦いにおいて多くの勝利をもたらしてきた。また他メーカーにとっても、最終的には潰されたとしても一時的には流行を作り出し需要を喚起するという意味では、業界全体としてはメリットもあったと言えるかもしれない。
例えばミニバンブームがそうである。有名なところではニッサン「エルグランド」対トヨタ「アルファード」、ホンダ「ストリーム」対トヨタ「ウィッシュ」、ホンダ「フリード」(モビリオ)対トヨタ「シエンタ」といったところだろう。そして更にその前は「ハイソカー」ブームや「GT論争」といったところである。

開発コストの抑制としては確かに効果的なのかもしれないし、経営陣にとっては技術開発で勝負ができなくてもその方法で充分対応できるという意味合いの方が大きいのかもしれない。そういえば小学生の頃、香港映画はギリギリまでその内容は秘密で撮影するというハナシを聞いたことがある。ジャッキー・チェンのようなスターの映画はすぐに模倣作が作られ、極端なハナシ先に公開されてしまうということもあったそうだ。一時期流行った「キョンシー」映画は、日本では本家の香港製よりも台湾製の模倣作が大ヒットとなった。ちょっとハナシがズレたが、やはり「模倣」は「商売」の基本中の基本とも言えるだろう。
どんな新しいアイデアも僅かな時間で大メーカーがシェアを奪うというのは市場の法則とされていた。昭和の時代、確かにこれはクルマはもちろん全てのモノに共通する法則だったのは間違いないだろう。が、近年の日本国内の状況に限れば、残念ながらそれは「トヨタにしかできない」ことだったというのが、この20年における答えのようである。
電気製品に関しては、おそらく業界全体が新しいモノを生み出せない状況ではこの戦略では意味がないということだろう。ましてやこれは主に国内市場のハナシである。「売れるモノ」の概念が世界的な規模となりまた予想を超えるスピードとなったこと、つまりグローバル化そのものにはこの「売れてるものを作ればいい」という方法ではもはや追いつくこともできなくなっているということなのかもしれない。

ではなぜトヨタ「だけ」がそれを成功させ続けられるのだろうか。

クルマ作り、モノづくりとは、B2Cビジネスのまさに典型だろう。当たり前かもしれないが、昭和の日本のメーカーのほとんどはあくまで「ユーザー」を見てクルマを作っていたハズである。それに対しトヨタは初めから「ディーラー」を見て商品開発を行っていたのであり、ある意味B2Bに近い考え方だったといってもそれほど間違いではないだろう。トヨタは昭和の時代から一貫して、消費者にクルマを売るのはあくまでディーラーであり、ディーラーにクルマを売るのがメーカーである、という考え方を徹底していたそうである。消費者に売ることについては、彼らディーラーの言うことが自分たちメーカーよりも正解に近いハズだと考えていたのだ。確かにこれは全くもって正論である。消費者からの要望とディーラーからの要望、これは同じことに見えても実はそうではない、ということを最初から判っていた時点で、トヨタと他のメーカーは営利企業として明らかな差があったといってもいいのかもしれない。消費者ではなくディーラーからの要望がクルマを作ると考えれば、これまでトヨタが作った全てのクルマに充分納得がいくように思える。「売る」ということ、つまりビジネスにおいて当たり前のことを当たり前に行っていたのであり、そして結果を出しているのだから、それが正解に他ならないのだ。トヨタだけがこの形のビジネスモデルを徹底的に貫いた稀有な存在だったと言えるかもしれない。とは言え「メーカーがユーザーの要望に応える」「いいモノを作ればユーザーは買ってくれる」という考えが間違いだったというのも、平成になってようやく誰もが気づいたことである。クルマだけでなく電気製品も含め日本のモノづくり企業は結局できなかったことだといっても間違いないだろう。この時代にあっても模倣品で売れるのは、最強のディーラー網を軸とするトヨタ式ビジネスの威力があればこそであり、このビジネスモデルでなければもはやソニーであってもモノを売ることはできないということになるようだ。

ただいくらディーラーからの要望に応えて他社で売れているクルマの模倣品を作るといっても、他の消費者向け製品とは違いクルマとは無数の部品と高い技術を必要とするある意味特殊なモノであり、市場に供給するまでにそれなりの時間を要するものなのである。ということはこの時間をどれだけ短縮できるかということが、ディーラーの要望に応えるために最も重要な要素となるだろう。そのために必要なことは何かといえば、おそらくそれは生産効率を徹底的に高めるということになると思われる。具体的には、部品一つ一つの単純化と組み立て作業の単純化、要するに簡単に作れるようにすることである。極端に言えば、トヨタのクルマは単純なのだ(あくまでモノとして見た場合、他社と比べて、というハナシである)。しかしこのことはクルマの開発、生産のスピードだけでなくあらゆる面でいいことづくめである。単純であるということは品質が安定し、故障が減る。クルマという製品自体が複雑であるからこそこのことの重要性は高くなるハズだ。部品に高い技術が要求されれば対応できる部品メーカーも限られ、時間もコストもかかるということになる。多くの部品メーカー全ての技術力を高水準で安定させるのは大変なことだろう。当然組み立てにも同じことが言える。これら全てを一定の水準で安定させるということが「品質」に直結するのである。この「安定性」こそがまさに「トヨタの品質」なのだ。
そしてもう一つのトヨタの哲学は「80点主義」である。クルマというのは高速で移動するという性質からどんな製品よりも物理的な問題に支配され、走行速度が上がるほどそれは顕著になる。そのために複雑な構造を持っているが故、どこか一箇所の性質を変えればどこかが良くなるとしてもどこかが悪くなるというのが常であり、殆どの場合それは実際に走ってみなければ解らないのである。仮にクルマ全体として「100点」を目指すとすれば、そのバランスをどこに持っていくかという哲学的な問題を解決しなければならず、そのためには膨大なテストと修正作業を必要とするのである。「80点主義」とはつまり100点を目指さないということであり、それはこの膨大な時間とコストを減らす、ということでなのである。そもそも大多数のユーザーには、メーカーがコストを費やした「哲学的問題」など判るはずもない。その分のコストを誰でも判る内装の向上に振り向け、販売チャンネルごとに僅かにデザインを変えることに使い、そして宣伝費に回すというトヨタの考え方は全くもって合理的なのである。このような考え方自体も、あくまでユーザーではなくディーラーからの要望に応えるという基本があればこそできたことだと言えるかもしれない。
完成車メーカーが作りたいクルマを設計し、そのために部品メーカーに発注し、そして組み立てたクルマをディーラーを通してユーザーに売るというのがフツーの「形」だと考えれば、トヨタはむしろディーラーと部品メーカーの間に位置し、それらを全体の組織としてコントロールする存在だったといっても間違いではないだろう。
モノづくりの王者となった理由は、作るモノそのものの技術ではなく、製造の技術、商売の技術、組織統制の技術にあったのである。
これはおそらくトヨタが単なるモノづくり企業ではなく、国内販売網を中心とし、そこから部品メーカーまでを結びつける「クルマ生産販売システム」メーカー、あるいは今風に言うところの「プラットフォーマー」のような存在だったという見方もできるのかもしれない。

ただしこれは国内市場のハナシである。いくらトヨタとはいえ海外にまでこれだけのディーラー網を持っているワケではないハズだ。それでもトヨタが世界的なメーカーとなり得たのは、おそらくこの基本的なビジネスモデルがあったからではないかと思う。
トヨタに次ぐ自動車メーカーはかつて自ら「技術のニッサン」を標榜したし、ホンダは「技研工業」を名乗るように、やはり技術をその拠り所とした。ここで言う技術とはあくまでクルマそのものの技術的優位性ということである。発展途上の技術あるいは市場においてはこの方法は有効だろう。そこにはまだまだいろいろな可能性があるからである。が、技術が成熟し、市場が成熟し、資本主義が成熟した環境では、技術より経済、またはモノ作りの技術より経営的技術が重要であるということが、ハッキリと証明されたのである。

完全に世界で敗北し衰退してしまった日本の電気製品の場合、商品開発はトヨタ以外の自動車メーカーと同じくあくまでメーカー中心の発想だったハズである。もちろん電気製品とクルマの違いはあるし、時代の流れも当然同じではない。クルマの場合そのイメージがユーザーにとっての判断基準の大半を占め技術的な優位性はそれほど問題ではないということが電気製品とは違う部分かもしれないし、また製造に必要な技術的水準の高さ、複雑さのため技術の陳腐化が起こりづらいということもあるだろう。そのため電機メーカーはトヨタ式ビジネスをやりたくてもやれなかったということもあるのかもしれない。
近い将来クルマにも電気製品と同じことが起こると言われている。となれば、日本の自動車メーカーもまた同じ道を辿るだろう。トヨタはその時に備えこのビジネスモデル、つまりプラットフォーマーとして進化することで生き残りを賭けているが、単に「クルマ」とその技術で生きてきた他のメーカーは、果たして今までの方法で生き残れるのか、電機メーカーと同じ轍を踏むのか、判断が難しい状況かもしれない。

とはいえ現時点ではまだ勝者が全てを得てそれ以外は全て消えるしかないというほど資本主義原理主義が先鋭化しているとまでは言えないだろう。だとすれば一位と二位以下との差がどこにあるのか、他にもそれなりの理由はあるハズだ。
かつて国内二位だったニッサンの場合は、バブル期以降の「放漫経営」が衰退の原因だと言われているし、また三位だったミツビシは言うまでもなく「リコール隠し」である。誰にでも判る明らかな失敗があったのである。逆に言えば、ニッサンはルノーとのアライアンスを契機にV字回復を成し遂げたし、ミツビシはコンプライアンスさえあればこうはならなかった可能性もある。つまり明らかな経営ミス、組織的不祥事が原因だったのであり、技術的な問題では全く無かったということだけは間違いない。

そのニッサンやミツビシ、ホンダなど他のメーカーは今後いったいどうなるのだろうか。
例のカリスマ経営者によるニッサンのいわゆる「V字回復」は、一言で言えば「リストラ」そのものだったということのようである。自動車メーカーに限らず一般的に不採算部門を切り捨てることでとりあえずそれは可能だと言ってもおそらく間違いではないハズだ。もっとも多くの経営者にはそれすら出来ないということも言えるのかも知れない。やはり外の世界から「カリスマ経営者」「コストカッター」が現れてそれを成し遂げた、というのが現在のニッサンである。ということはやはり今後もそのような外部の経営者が必要だろう。
また日本のマスコミによれば、現在は技術的にも売上的にもニッサンの方がルノーよりも上なのだそうだ。であればなおさら技術的な優位性と商業的な成功は関係がないということになるだろう。だとすれば、ニッサンがトヨタを超える可能性においては、一切の要因は見当たらない。
ミツビシについてはそもそも自動車産業の枠に留まらない巨大な資本の一部であり、自動車メーカーとしての経営という概念には当てはまらないといっても間違いではないのだろう。これからの時代に改めて一自動車メーカーとしての存在意義を見出すことができるとは思えない。

そしてそのニッサン、ミツビシに統合されるという噂の、現在国内二位のホンダである。
タカタ製エアバッグやフィットの大量リコールなどの問題はあったにせよ自動車メーカーとしてはこれと言って大きな不祥事も経営問題もないように見える。にもかかわらずそこまで追い込まれているとすれば、それはもはや自動車メーカーを取り巻く環境がこれまでになく厳しい状況にあるということになるのかもしれない。
ただホンダはこれまでも経営難と言える状況は何度もあったと言われている。その度に「新しいモノ」で市場に旋風を巻き起こし経営を立て直したのだそうだ。が、このような経営は営利企業としては理想とは言えないだろう。最近で言えば軽自動車の「N-BOX」がその旋風を巻き起こしているが、これによって普通小型車の販売が落ち込みディーラーもメーカーもかえって利益を損ねる状況にあると言われている。クルマが高額化する中、事実上の大衆車となっている軽自動車の品質が格段に向上したということはユーザーとしては確かに評価するべきことではあるが、メーカーとしてはこれは明らかな戦略ミスだろう。技術へのこだわりと安定経営とは両立するのが難しいということなのかもしれない。
ただ少なくとも四輪に関してはここ10年ほどで大メーカーとして生きるという方向性をハッキリ示してきたように思う。ホンダはある意味トヨタを目指しているといっても間違いないハズだ。この時代にあってはこれはある意味正常な進化と言えるだろう。とは言えそれを実現できたのはごく一部である。元々国内市場にトヨタのようなディーラー網は持っていないし、国内市場には早々に見切りを付けている。その中にあって軽自動車に注力するという戦略もどこか方向性が定まらないように思える。また三代目フィットの大量のリコール、そしてコストカットにより安全性を損なうこととなったホンダのリアハッチ脱落事件は、かなり悪質だと言ってもいいだろう。結局ホンダがトヨタに習っているのは市場を最優先にクルマを作るということだけであり、ディーラーを含めた総合的なプラットフォーム的経営技術も、一貫した経営理念もない。トヨタ化したなどと言うのは逆にある意味トヨタに失礼かもしれないとすら思う。
今になって思えば、20年前「だからホンダはトヨタに及ばない」と言っていたトヨタファンは、全くもって正しかったと言える。多くの元ホンダファンは今、自らの誤りに気づいていることだろう。かつてのトヨタファンは今もトヨタファンで在り続けることができるのだから幸せだ。その意味ではドイツ車ファンも同様だろう。

少しハナシがそれるがスバルについても問題が徐々に深刻な感じになってきているように思える。バルブスプリングの問題は技術的にはそれほど悪質なものだとは思っていないが、どう見てもコストカットの結果でありそれによってスポーツブランドとしてのイメージを傷つけたことは間違いない。高回転を多用するスポーツカーならではの問題だとも思うが、逆に言えばもし対応を誤れば、彼らを支えているファンを失うことになる。またメンタル自殺者のニュースもあったが、社内の空気が悪くなっていることを顕しているとも考えられる(他のメーカーにはそのようなことがないということではないのだろうが)。いずれにせよこれからの大変革の中で、スバルがスバルでいられるのも時間の問題なのだろう。スバルファンもまた、10年後には元ホンダファンと同じ悲しみを味わう運命にあるのかもしれない。

崩壊に向かいながらそれを避けることができた組織はおそらく存在しないのだろう。個人的には、ニッサンもミツビシも復活することはないと思っている。これまでのことを考えれば、むしろ消えてなくなったほうがいいのかもしれない。今起きていることは全て組織の論理と経済の論理で動く者達によるものである。彼らにとって組織とは自分のために利用するものであり、それがニッサンであろうとルノーであろうと根本的には問題がない。今までもこれからも如何にその組織で自分の居場所を確保するかということだけに全力を注ぐのである。これは自然の法則であり、真理である。技術者であってもその認識は当然必要だ。そのような組織で、技術者が生き生きとその仕事ができるなどということがあるとは到底思えない。ミツビシのリコール隠しのときから現在まで、おそらくそれほど変わってはいないだろう。
一方技術者たちにとっても、自分が「組織の一部」だと思っている人間を除けば「組織」が消えたところで根本的には関係ないハズだ。ニッサンでもミツビシでもなく「ルノー」の技術者となったとしても、仮にルノーが10年後、何らかの技術で世界的に評価され、今思えばあのときのおかげだ、それを影で支えたのは元ニッサンと元ミツビシの技術者たちだ、と言われるようになれば、それはまさに技術者冥利というものだろう。戦後の自動車黎明期には国内でもメーカーの吸収合併は当然あったし、現在も転職、引き抜きなどメーカー間での技術者の移動は全く珍しくはないそうである。日仏連合にホンダが加わるとしても何ら変わりはないのだ。今回の噂はあくまで四輪部門のハナシであり、ホンダ自体は今後も生き延びることができるし、むしろ業績は向上するかもしれない。営利企業としてそれは当然のことであり、またホンダの自動車部門の技術者にとっては新たな場で活躍するいい機会となるかもしれない。

全てのものに「ピーク」というものが存在するとすれば、その後は落ちていく一方なのは当然である。ホンダは今まさに自動車メーカーとして成熟し、ピークを迎え、そして過ぎようとしている。
モノづくり、まして消費者向けのモノづくりで儲けようと言うのは、成熟した資本の行うことではない。技術を信条としてモノづくりに徹した昭和の日本メーカーは、既にその役目を終えたのだ。

昭和のクルマ好きのおっさんにとって、ホンダというのは単なるクルマ屋ではない稀有な存在だったように思う。
戦争で全てが破壊された後、復興、成長、成功、衰退という戦後の日本の歩みを見るようでもある。伝説的ロックバンドがデビューし、頂点に君臨し、堕落し、解散するという経過を辿るのにも似ているかもしれない。
このような物語を見ることができるのは貴重なことなのだろう。

今のホンダの人間にはこの稀有な企業の全てを記録しそれを残して欲しい、というのが元クルマ好きのおっさんのせめてもの願いである。
Posted at 2019/05/15 00:55:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年04月03日 イイね!

日本の電気製品について(その2)

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
おっさん世代、というか戦後の日本では、全てのモノは技術の進歩に伴い良くなる一方だと誰もが思い込んでいた。が、モノが良くなるも悪くなるも、技術ではなく経済の論理によって決まるということがこの20年でハッキリ解ってしまったのである。電気製品だけでなく衣料品なども判る人にはその差はハッキリ感じられるそうだ。

メーカーにとって「売れるモノ」が判れば苦労しないというのは言うまでもない。じゃあどうすればいいのかといえば結局「今売れているモノを作って売ればいい」ということになるのだろう。クルマで言えば確かにそれはこれまでトヨタが成功させてきた方法である。というかむしろ経営者にとっては、技術開発、商品開発で勝負ができなくてもその方法で何とかなるという意味合いの方が大きいかもしれない。これは電気製品を含む全てのモノに共通する法則だと考えられていたようだが、残念ながらそれは「トヨタにしかできない」ことだったというのが、この20年における答えのようである。おそらく業界全体が新しいモノを生み出せない状況では、この戦略では意味がないということではないだろうか。ましてやこれは主に国内市場のハナシである。「売れるモノ」の概念が世界的な規模となりまた予想を超えるスピードとなったこと、つまりグローバル化そのものには、この「売れてるものを作ればいい」という方法ではもはや追いつくこともできなくなっていると言ってもいいのかもしれない。

日本のモノづくり企業の何が変わったのか、いつどこで何を間違えたのかということになると、誰でも思いつくのはバブル崩壊とグローバル化である。
日本はモノづくりとその輸出によって成長してきたハズである。が、少なくともバブル期まではメーカーにとって最大の市場はやはり国内だったハズだ。バブルそのものは日本国内の事象だったが、その頃はまだ日本製品は海外市場でも絶大な信頼を得ていたし、誰もが日本はこのまま世界一の経済大国になると信じていたと記憶している。
バブル崩壊でモノづくりメーカーにとって何が起こったのかといえば、まずは言うまでもなく国内市場の縮小であり、いわゆる負のスパイラル、デフレ、低価格競争ということである。とは言えクルマと違いそもそも単価がそれほど高くなく大衆向けである上、人々の生活の隅々まで入り込んで幅広い製品市場を持つハズの電気製品が、そこまで売上を落とすものなのだろうか。また元々海外で評価の高かった日本製品の売上にそれほど影響が出るものなのだろうか。技術開発や品質の維持にそれほどブレーキがかかるものなのだろうか。この辺りが一番重要な問題だとは思うが、実際のところは自分には判らない。

仮にバブル崩壊、不況が原因ではないとすれば、次に考えられるのはやはりグローバル化ということになる。ではメーカーにとってのグローバル化とはどういうことなのだろうか。
国内市場の低迷により海外市場重視の戦略を取る、ということだとすれば日本のモノづくりメーカーは自ら国内に見切りを付けた、自ら選択したということになる。
もう一つは、生産を海外で行うというものである。労働力の安い国で生産し、通貨の高い国で売る、これは営利企業としては当然の選択であり、自国通貨が上昇した先進各国の企業が同じことを考えるようになった結果、国際的なルール作りが進められていったということになるだろう。ということはこれもメーカーが自ら選択したことである。
その結果何が起きたのかといえば、アジア諸国の台頭である。経済の自由化が進みコストの低さを武器に先進国メーカーの生産を請け負うことで技術力を向上させ、やがてその国の企業自体が国際市場に製品を供給していくという流れである。かつての日本と同じ原理であり、結果として相対的に日本の競争力が低下するのはある意味当然だ。そう考えるとやはり原因として大きいのはグローバル化の方だということになりそうだ。経済の論理で考えれば、自由競争によりライバルが増え、やがてその差が小さくなり、結果として敗北した、そういうシンプルな答えである。ということはもはや技術力云々の問題ではないということであり、そもそも技術力(の差)とはそういうものだということにもなるのかもしれない。スマホに例えると、日本メーカーの技術力は他と比較して特段優位性は見られない。リードしているのはアップル、サムスン、ファーウェイといったところだろうか。シャープにはディスプレイの画質と省エネに関して独自技術があるようだが、それだけで明確な優位性を示すことまではできていない。スマホは様々な技術の集合であり、例えばバッテリーなどは大きな割合を占めるハズだが、これについても日本メーカーの名前は特に聞かれない。

スマホに限れば、「ガラケー」という言葉が示すとおり「ガラパゴス化敗因説」は有名である。確かに、世界を変えた「新しいモノ」に早くから取り組まなかったということは明らかだろう。ではなぜ早くから取り組まなかったのだろうか。

バブル崩壊からグローバル化の流れの中で何があったのかということにおいては、一つの言葉が思い出される。「選択と集中」である。
これがどういう意味なのかといえば、フツーに考えれば、世界的な競争の中で生き残るためには、特定の分野に限られた資源を集中するべきだ、ということになるだろう。
これを別な一言で表現するならば、それは単なる「コストカット」だと言ってもいいかもしれない。電気製品はよく分からないのでクルマに例えれば、販売する車種を減らし、部品の共有化を進め、生産効率をギリギリまで追求し、開発費を抑える、ということである。ユーザー側から見れば、製品の選択肢は減り、高級車はより高級に、低額車はより低質になり、信頼性を失い、「モノ」としての魅力は低下したと言わざるを得ないが、自動車メーカーとしては結果として国際競争力を維持していくことに、ひとまず成功した。
日本の電子メーカーもおそらく同じ発想へと転換していったと思われる。スマホへの対応が出遅れたのは、おそらくそのためだろう。クルマと違ったのは、運悪くこのタイミングで、世界を変えるほどの「新しいモノ」が現れた、ということかもしれない。
スマホとは、要は小さなパソコンである。ということは、もし日本がかつてのように小型・軽量化を最大の武器としていたなら、まさにうってつけの素材となったハズだ。しかしそうはならなかった。そもそもパソコン、半導体市場で日本製品は敗北しているのだから、スマホも同じ結果となるのは当然と言えば当然である(現在はパソコン自体は既に衰退期ということのようだが)。ではなぜ、これも当時世界を変えた「新しいモノ」だったパソコンで敗北したのだろうか。

日本でパソコンが普及し始めた時期、例えばWindows98が登場したのがその名のとおり1998年だとすれば、日本の電子産業の衰退期とまさにピッタリ重なってくる。パソコンの普及は、正に世の中を変えたのだ。そしてその次に来たのがインターネットである。パソコンが普及したからこそインターネットも普及したのだが、この2つの巨大な流れが、いわゆる「IT革命」ということになるだろう。そしてその消費者向け市場における流れがまさにスマホというモノへと直結しているのだ。日本メーカーはまずパソコンで世界に出遅れた。もちろんこの当時は決して何もしていなかったわけではない。日本メーカーが国内市場においてはシェアを競っていた。が、この頃からグローバル化が進行し主戦場が世界へと広がっていくのである。そしてグローバル市場では、存在感を示すことができずに時間が過ぎていった。そのような状況が続く中、例の「選択と集中」が叫ばれ始める。そして日本メーカーの判断は、不利な戦場からは撤退するということだった。が、結局はこれが全てだったのである。なぜなら、IT革命によってこれまで日本メーカーが作ってきたモノのほとんどが、パソコン、またはスマホに取って代られたからである。
例えばカメラは、これまでレンズとフィルムの技術によって支えられていた画質という品質・性能の裏付けが、デジタル処理で可能になったのである。これまで日本メーカーが積み上げてきたアナログな技術によるモノづくりから、IT技術によるモノづくりへと変わったのだ。逆に言えばそれだけIT技術が世界を変えるほどの技術であるということであり、だからこそまさに「革命」なのである。日本のモノづくりメーカーは、もしかしたらそのことを理解できていなかったのかもしれない。もちろん以前はデジカメやビデオカメラで日本製品が充分存在感を示していたが、これもスマホによって駆逐されたことを考えると、やはりこれが致命的だったと言っていいだろう。

ついでに言えば、パソコンの普及、IT革命という流れの中でもう一つ生まれた「新しいモノ」がある。それは「ソフトウェア」である。
それまでソフトウェアはハードウェアの中のモノ、またはゲームソフトというのが多くの日本人の認識だったように思う。それがソフトウェア自体が主役へと変化したのである。だが、日本の電子メーカーはソフトウェアメーカーにはなれなかったし、ソフトウェアメーカーと呼べるものは現れることはなかった。確かにパソコンはアップルかマイクロソフトかという、この2社のソフトウェアと抱き合わせでシェアを独占する戦略によって日本メーカーは完全にシェアを奪われ敗北することとなったのだが、ここで日本のソフトウェアも終わってしまったのである。結果として日本全体がこの後にくるインターネット時代に付いて行くだけで精一杯だった。時代はまさに「GAFA」である。そして更に現在最大の流れである「AI」についても「周回遅れ」と言われているは、このような過去の流れから考えれば当然だ。一足飛びに追いつけるものではない。そしてこれからのモノづくりにおいて、これらの技術は不可欠である。「子供にプログラミング教育を」などということが、しかも今頃になって声高に叫ばれるという時点で、もはや救いようのない状況である。

このような中、本来、というか昔ならメーカーにとって最も重用だったハズの技術開発、というより「商品開発」は、いったいどのようにおこなわれていくのだろうか。
常に新しいアイデアや技術を提供していくのは難しいというのは誰にでも想像はつく。どんな商品もいずれは需要の伸びが一定の水準に達し、新しい機能も飽和状態となるのは当然だ。そうなるとその後はもはや買い替え需要を狙うしかない。となれば如何に買い替え需要を創りだすか、となるのは当然である。一定のサイクルで、既存の商品と差別化し、宣伝戦略を立てるのである。もちろん技術開発は常に行っているだろうが、それを製品に反映できるまでは時間を要するし、更に市場に投入する最適なタイミングを計っているのである。そのような成熟した市場では計算されたモデルサイクルとグレード構成に基づいて、性能、耐久性、価格などの全ての要素が決定されるのである。最低限のコストで最大限の利益を得るという、営利企業として当然の論理でありそのための「技術」も昭和の時代とは比べ物にならないほど進化しているそうだ。一定の利益を得るためにどれくらいの品質が必要なのかというデータは、既に大抵のモノづくり企業が持っていることだろう。こうなると当然マーケティング至上主義にならざるを得ない、というかそれ以外の何者でもないと言ってもいいだろう。日本からヒット商品が生まれなくなって久しいが、それでもこの流れを否定するような動きは全く見られない。
そもそも営利企業の経営者にとっては利益を上げることが唯一の目的であり、そのために必要とするものはほとんどの場合、経済学、経営学ということになるだろう。マネジメント、マーケティング云々という言葉はよく聞かれるが、そこに哲学や独創性などというものが入り込む余地がないのは当然かもしれない。モノづくり企業は、モノづくりのためでも技術のためでもなく最大限の利益を得るために経済活動をしているのであって、その目的は明白だ。まして成熟した資本主義では、全ての営利企業がその原理に忠実になっていくのは自然の法則なのだ。パナソニックは今のところはモノづくりで奮闘しているように見えるが、シャープは台湾企業になったし、ソニーは既にモノづくりを本業とは考えていないと考えれば納得がいく。日本の電子メーカーにはブランディング、ロイヤリティ戦略というものが全く見えてこないが、そんな余裕はないか若しくは必要ないと考えているのだろう。

日本の消費者向け電機製品の性能と信頼性は、今や韓国、中国、台湾に並ばれるどころか負けているというのは既に常識となりつつある。同じ価格帯では既に勝負にならない中、わざわざライバルに劣る製品を生産することに何の意味があるのだろうかとは思うが、とりあえずまだ日本の人々はモノを必要としているし、日本メーカーはモノを作り続けている。が、コストカット、スペックダウンで製品を供給し続けるのはとりあえずの延命策に過ぎない。ただそれ以外に道もないというのも事実であり、もはや終わった世界を生きているに過ぎないといっても過言ではないかもしれない。とは言え消費者向け市場ではもはや勝負にならなくなったとしても、ビジネス向け市場では海外メーカーよりは有利ではある。地理的言語的絶対条件がある限り、海外メーカーは簡単にはこの市場に入り込めないというのも自然の法則である。メーカーとしてはこれで生き延びるしかないだろう。

ただ世界的に見れば消費者向け製品にはまだまだいくらでも可能性はあるハズであり、とりあえず次に来るのはおそらくバーチャルリアリティとロボットだろうと言われている。が、これだけ判りやすいテーマがあるにも関わらず日本企業の動きが見えてこないのは、やはり「AI」技術の遅れがそれだけ致命的なレベルにあるということになるのだろう。アメリカでは既に人々の心はモノから離れつつあるそうだ。逆に中国ではこれからが本当の勝負だろう。この両方の市場で戦えるのはどうやらトヨタだけのようである。それ以外の日本メーカーは、どちらにも対応できていないようにしか見えず、だとすればもはや未来はないということは確実だろう。

老後が心配なおっさん世代としては、この先の日本経済、社会のはどうなるのだろうかというのが最大の問題なのだが、それもさることながら、あの頃の日本製品の魅力を取り戻すことはもうできないのだろうか、日本はもうモノづくりで生きていくことができないのだろうかということを、どうしても考えてしまうのである。

技術とは続けることである、というのはおそらく技術者なら誰もが聞いたことがある言葉だろう。常に新しい技術、新しいアイデアを提供することが難しいのは誰にでも判る。が、その幅が大きいか小さいかは別問題として、どんな技術でも常に進歩し続けることができるということだけは間違いない。社会が変わるときにはその評価も全く変わるかもしれないし、地味な進化がいつか特異点に達するというのが昭和の日本の技術だったハズである。まして一度失った技術を取り戻すのは容易なことではない。
ただしそれは商業的成功と必ずしも合致するわけではなく、現代の経営者にとって絶対的に必要なものでは全くない。それを続けられるのは一技術者の哲学でしかなく、現代の企業ではその余地は減る一方だろう。「プロの経営者」はいくらでもいるのかもしれないが、「プロの技術者である経営者」などというものが存在し得ない時代である。むしろ今の経営者から見れば、日本の技術者がダメになったと考えたとしてもおかしくはないかもしれない。日本人ノーベル賞受賞者が出るたび「日本人としてうれしい」などというコメントがマスコミにあふれるが、それは昭和の研究者達の成果が今評価されているのであって、20年30年後どうなるかということには多くの研究者が危機感を持っているようである。

結局初めに言ったとおり全ては経済の論理でありどうすることもできないのだが、どうしても技術的な視点になってしまうのは、結局今自分が知りたいことが、これからの技術者はどうするべきなのか、ということだからだろう。
モノづくり企業がこのような状況になるのは、組織の論理という自然の法則によるものであり、全てのモノづくり企業はこの法則に基づいて選別され、経済の論理によって浄化、先鋭化していくものなのだ。結果として日本のモノづくりは間違いなく衰退しているとしても、日本のモノづくりメーカーとその中にいる人間にとっては、一切関係ない、つまり衰退すらしていないのである。そしてそのような時代の技術者も当然、その論理に選ばれた人間のみ生きていくことができる。これは時代の宿命であり誰にも抗うことはできないのだ。技術者は、まずはそのことを自覚しなければならないだろう。
もう一つ、時代が変わる時に限れば間違いなく持たざるものに強みがある。つまり中小企業こそ本来産業全体で見れば重要な存在なのだ。本当に世界が変わらざるを得なくなった時、少なくとも身動きがとりやすい、スピードでは大企業に優るということだけは間違いないだろう。そこには技術者本来の仕事があるハズである。しかし社会が成熟すると中小企業も同時に力を失っていくというのも、どうやら避けられないことのようである。とすれば古いタイプの技術者にはもはや国内に居場所はない。もし自分のやりたいことがあるとすればおそらく海外、主にアジア諸国かまたは米国ということになるだろう。つまりこれからの時代に本当に必要なのは、自ら積極的に日本から飛び出すこと、つまり技術者一人ひとりの「グローバル化」なのかもしれない。
Posted at 2019/04/03 06:30:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年03月05日 イイね!

日本の電気製品について

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
最近ケータイとデジカメを買い換えようとして何かと残念な思いをしたので。
というのも、近い将来クルマにも同じことが起こる、というか既に起こっているのではないかとここのところずっと思っていたからである。ただ自分は電気製品に関しては標準的なユーザーでしかなく本当のところなど全く判っていないのでご容赦を(ネットで答えを検索する前に自分で妄想してみるのが目的でもある)。

ガラケー、パソコン、デジカメ、ビデオカメラ、レコーダー等々、かつて隆盛を極めた日本製電気製品の現状を目の当たりにしたユーザーとして最近学んだことは、縮小する市場では、コストカットによる質感の低下は当然として、操作性や反応速度の明らかな低下、機能の縮小や廃止といったスペックダウン、そして「ソニータイマー」に代表される耐久性の低下等々、商品の「退化」は極々フツーのことだということである。
自分は特に家電好きというワケではないのでそのような退化は残念な限りだが、製品のスペックから、メーカーの技術力、マーケティング、今後の方向性まで読み解くマニアな人々の口コミを見るともう既に全てを受け入れており、まさに達観の域である。電気製品の場合海外メーカーの製品がフツーに手に入るため、日本メーカーは単なる選択肢の一つでしかないのだ。

なんとも不名誉な称号を与えられたとはいえ、ソニーといえばかつてはベータマックス、ウォークマン、ハンディカムといった技術、こだわり、プロダクトアウトという言葉がふさわしい商品を生み出した、まさに昭和の日本企業の星だったハズである。その「イメージ」による「ファン」が大勢いたことも特徴であり、単に大衆受けするヒット商品によって世界的企業に成長したというワケではないだろう。

プロダクトアウトといえば、近年ではスマホがまさにその代表だろう。
そしてスティーブ・ジョブズといえば近年のカリスマ技術者の代名詞であり、学のないおっさんでもこのように名前を挙げられるのは、あとは本田宗一郎と井深大くらいである。
現在、世界的スマホメーカーとして日本企業の名前が上がることはない。そして先に挙げたソニーの代表作3つは、全てスマホが取って代わったといってもいいだろう。

なぜソニーは、そして日本の電子産業はここまで衰退したのだろうか。

モノづくりにおける競争力といえばまず技術力、そして価格である。またどちらか一方ではなくこの両者のバランスが最も重要であり、そしてこれらは競争相手との相対的なものである。
技術力で言えば、アジア諸国の台頭により日本の技術力が相対的に低下したのは間違いない(絶対的に低下したとはさすがに思えないがこれについては測りようがない)。
価格で言えば、通貨が上昇したのだからこれもまた競争力が相対的に低下したのは間違いない。ということは、価格に比して技術力が低下したということになる。つまり同じ性能なら価格が高い、同じ価格なら性能(もしくは魅力)が低い(もしくは高くない)ということである。よくよく考えてみれば、これだけで全てを説明するのに充分かもしれない。
だとすれば、かつて日本製品があれだけ世界をリードしたのは、そもそもコストが低かったからというその一点のみだったということになるだろう。日本が技術的に世界をリードしていたワケでもなんでもなく、価格とのバランス、つまり「コスパ最強」だったということである。もちろんその市場で戦えるだけの技術は当然必要だが、当時のライバルである欧米に比べて明らかにコストが低かったということは間違いない。
現在はといえば日本製品のコストは欧米と同水準であり、対するアジア諸国は技術的には水準を上げつつコスト的には明らかに日本より低いのだから、彼らに対して不利なのは当然である。このような現象は、技術の陳腐化、価格競争、コストカットという流れによるものだが、この事自体経済の論理であり抗うことは出来ない。

同じ価格なら性能が低い(高くない)ということは具体的にはどういうことだろう。
「性能」とは、例えばスマホの場合、メモリ容量、CPU速度、WiFiやBluetoothの通信速度、カメラの画質、ディスプレイの画質、電池容量、省エネ、充電速度、防塵防水、耐衝撃、そして耐久性といったところだろうか。仮にこれらに明らかな優位性があれば、価格が高くても選択するユーザーは一定数いると考えられる(もちろん市場が成熟するまでの間ではあるが)。日本メーカーはこれらの点において、性能または独自性で特段の優位性はない。つまり技術力では明らかに競争力を失っているということになるだろう。スマホに限らず全ての製品についても同様である。
同じ性能なら価格が高いというのは、一般的には通貨の問題でありライバルは中国、韓国、台湾等アジア諸国ということになるだろう。が、かのアップル社はアメリカメーカーである。つまり価格競争力では、確かに不利ではあるが理由にはならないといっていいだろう。とは言えアップル製品を製造しているのはアジア諸国であり、米国内でもその点を攻撃する大衆も相当いるようだ。じゃあ日本メーカーはどうなのかといえば、当然生産はアジア諸国であり国内生産にこだわっているというワケでは全くない。ではなぜアップルは成功し、日本メーカーは失敗したのか、ということになるハズである。

技術力に関して、昭和の日本製品の優位性はどこにあったのだろうか。
おっさん世代としてはここからはかすかな記憶と完全なる憶測だが、性能そのものにおいてずば抜けていた、ということでも、新しい価値観、イノベーション、独自性ということでもなかったように思う。
記憶によればマスコミが伝えていたのは「日本製品は壊れない」という海外ユーザーの評価である。やはりこれはユーザーにとって最大のポイントだろう。そしてもうひとつはウォークマン、ハンディカムに代表される「小型化」である。やはりこれも世界のユーザーに驚きを与えたというようなことをマスコミは伝えていたと記憶している。つまり当時の日本製品の最大の武器だったのは、耐久性、信頼性、小型化、軽量化といった一見地味な、しかし重要な性質だったハズである。これらはまさに日本人が得意とする分野であるという自覚すらあったハズだ。スマホやパソコンのような全く新しい価値観を生み出すことはできなくても、それらを高い水準にまで地道に進化させることで特異点に達することができる、ということである。誰もが簡単に安心して利用できる高性能、それが日本製品だったハズだ。
仮にこれを現在のスマホに当てはめると、ライバルと比較してスペック的には同じだったとしても、重さ、厚さ、耐久性、バッテリー持ちで優る、といったところだろうか。これで価格が安ければ売れるのは当然だが、仮に価格は高くてもこれらに明らかな優位性があれば間違いなく売れるハズだ、と考えるのは素人過ぎるだろうか。
そう考えるとウォークマンもハンディカムも、それほどプロダクトアウト的なものではなく小型化・軽量化を突き詰めた結果の、地味な技術だったのかもしれない。ただそれはユーザーの想像を超えていたのであり、人々は驚きと喜びを持ってそれを受け入れたのだから、それはまさに技術の力によるものだろうし、やはりプロダクトアウトであると言ってもいいだろう。商品そのもののアイデアが新しいワケではなく、イノベーションではないかもしれないが、そういう一見地味な技術にこそ世の中を変える力があるということなのではないだろうか。
そして現在の日本製品には、このような発想は微塵も見られない。

「マーケットイン」か「プロダクトアウト」かというハナシは昔からのテーマである。昭和風に、そしてクルマ好き風に言えば、「トヨタ」か「ホンダ」かということになる。この辺はおっさん世代はおそらく誰でも判るハズなので説明は割愛する。
ユーザーとしては当然「いいモノ」を評価するハズだが、それが何かということはまさに一人ひとりの価値観の問題であり、またそれこそが「クルマ好き」にとっての精神性そのものである。だが大多数のクルマ好きではない人々にとっては「いいモノ」といったところでそれがどういうものなのかほとんど判らない、あるいはその水準は決して高くないというのは、ある意味当然である。営利企業としてはその大多数に売れるモノを作ること、つまりトヨタの哲学こそが正解なのであり、成熟した資本主義では「いいモノが売れるワケではない」ということを全てのモノづくりメーカーは当然理解しているハズだ。
そしてホンダ車もトヨタ車になった。ソニー製品も同じである。
30年前、「だからホンダはトヨタに及ばない」と言っていた人が大勢いたが、彼らは今自分たちが正解だったことを確信しているだろう。そしておっさんは今、自分の間違いを完全に認めている。

しかしである。
「いいモノ」を作ることをやめ「売れるモノ」を作ると決意したとしても、果たしてそれを実現できたのかということに当然なるのであり、そして現在の日本のモノづくりメーカーでそれを成功させたのは、トヨタ「だけ」であると言っても過言ではないだろう。例えばホンダは、少なくとも四輪においては、単にその魅力を失っただけという日本の電子メーカーと同じ状況だと言ってもおそらく間違いではない。
ということは日本の電子メーカー外モノづくり企業は、「売れるモノ」が重要だということに気づくのが遅過ぎた、だから敗者となった、ということなのだろうか。もちろん今はそれを理解していることは間違いないハズだが、いつ、どこで、どうしていれば良かったのだろうか。そしてもう元の輝きを取り戻すことは不可能なのだろうか。

と、今回はなかなか話の終わりが見えそうにないのでこの辺でひとまずヤメておこうかなと思っていたところに、「ホンダの四輪部門が日仏連合に?」というニュースを見てしまいさすがにショックを受けているところである。
というワケでこの辺も含め改めてじっくり考えてみることにしたい。
Posted at 2019/03/05 22:32:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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