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2019年04月03日 イイね!

日本の電気製品について(その2)

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
おっさん世代、というか戦後の日本では、全てのモノは技術の進歩に伴い良くなる一方だと誰もが思い込んでいた。が、モノが良くなるも悪くなるも、技術ではなく経済の論理によって決まるということがこの20年でハッキリ解ってしまったのである。電気製品だけでなく衣料品なども判る人にはその差はハッキリ感じられるそうだ。

メーカーにとって「売れるモノ」が判れば苦労しないというのは言うまでもない。じゃあどうすればいいのかといえば結局「今売れているモノを作って売ればいい」ということになるのだろう。クルマで言えば確かにそれはこれまでトヨタが成功させてきた方法である。というかむしろ経営者にとっては、技術開発、商品開発で勝負ができなくてもその方法で何とかなるという意味合いの方が大きいかもしれない。これは電気製品を含む全てのモノに共通する法則だと考えられていたようだが、残念ながらそれは「トヨタにしかできない」ことだったというのが、この20年における答えのようである。おそらく業界全体が新しいモノを生み出せない状況では、この戦略では意味がないということではないだろうか。ましてやこれは主に国内市場のハナシである。「売れるモノ」の概念が世界的な規模となりまた予想を超えるスピードとなったこと、つまりグローバル化そのものには、この「売れてるものを作ればいい」という方法ではもはや追いつくこともできなくなっていると言ってもいいのかもしれない。

日本のモノづくり企業の何が変わったのか、いつどこで何を間違えたのかということになると、誰でも思いつくのはバブル崩壊とグローバル化である。
日本はモノづくりとその輸出によって成長してきたハズである。が、少なくともバブル期まではメーカーにとって最大の市場はやはり国内だったハズだ。バブルそのものは日本国内の事象だったが、その頃はまだ日本製品は海外市場でも絶大な信頼を得ていたし、誰もが日本はこのまま世界一の経済大国になると信じていたと記憶している。
バブル崩壊でモノづくりメーカーにとって何が起こったのかといえば、まずは言うまでもなく国内市場の縮小であり、いわゆる負のスパイラル、デフレ、低価格競争ということである。とは言えクルマと違いそもそも単価がそれほど高くなく大衆向けである上、人々の生活の隅々まで入り込んで幅広い製品市場を持つハズの電気製品が、そこまで売上を落とすものなのだろうか。また元々海外で評価の高かった日本製品の売上にそれほど影響が出るものなのだろうか。技術開発や品質の維持にそれほどブレーキがかかるものなのだろうか。この辺りが一番重要な問題だとは思うが、実際のところは自分には判らない。

仮にバブル崩壊、不況が原因ではないとすれば、次に考えられるのはやはりグローバル化ということになる。ではメーカーにとってのグローバル化とはどういうことなのだろうか。
国内市場の低迷により海外市場重視の戦略を取る、ということだとすれば日本のモノづくりメーカーは自ら国内に見切りを付けた、自ら選択したということになる。
もう一つは、生産を海外で行うというものである。労働力の安い国で生産し、通貨の高い国で売る、これは営利企業としては当然の選択であり、自国通貨が上昇した先進各国の企業が同じことを考えるようになった結果、国際的なルール作りが進められていったということになるだろう。ということはこれもメーカーが自ら選択したことである。
その結果何が起きたのかといえば、アジア諸国の台頭である。経済の自由化が進みコストの低さを武器に先進国メーカーの生産を請け負うことで技術力を向上させ、やがてその国の企業自体が国際市場に製品を供給していくという流れである。かつての日本と同じ原理であり、結果として相対的に日本の競争力が低下するのはある意味当然だ。そう考えるとやはり原因として大きいのはグローバル化の方だということになりそうだ。経済の論理で考えれば、自由競争によりライバルが増え、やがてその差が小さくなり、結果として敗北した、そういうシンプルな答えである。ということはもはや技術力云々の問題ではないということであり、そもそも技術力(の差)とはそういうものだということにもなるのかもしれない。スマホに例えると、日本メーカーの技術力は他と比較して特段優位性は見られない。リードしているのはアップル、サムスン、ファーウェイといったところだろうか。シャープにはディスプレイの画質と省エネに関して独自技術があるようだが、それだけで明確な優位性を示すことまではできていない。スマホは様々な技術の集合であり、例えばバッテリーなどは大きな割合を占めるハズだが、これについても日本メーカーの名前は特に聞かれない。

スマホに限れば、「ガラケー」という言葉が示すとおり「ガラパゴス化敗因説」は有名である。確かに、世界を変えた「新しいモノ」に早くから取り組まなかったということは明らかだろう。ではなぜ早くから取り組まなかったのだろうか。

バブル崩壊からグローバル化の流れの中で何があったのかということにおいては、一つの言葉が思い出される。「選択と集中」である。
これがどういう意味なのかといえば、フツーに考えれば、世界的な競争の中で生き残るためには、特定の分野に限られた資源を集中するべきだ、ということになるだろう。
これを別な一言で表現するならば、それは単なる「コストカット」だと言ってもいいかもしれない。電気製品はよく分からないのでクルマに例えれば、販売する車種を減らし、部品の共有化を進め、生産効率をギリギリまで追求し、開発費を抑える、ということである。ユーザー側から見れば、製品の選択肢は減り、高級車はより高級に、低額車はより低質になり、信頼性を失い、「モノ」としての魅力は低下したと言わざるを得ないが、自動車メーカーとしては結果として国際競争力を維持していくことに、ひとまず成功した。
日本の電子メーカーもおそらく同じ発想へと転換していったと思われる。スマホへの対応が出遅れたのは、おそらくそのためだろう。クルマと違ったのは、運悪くこのタイミングで、世界を変えるほどの「新しいモノ」が現れた、ということかもしれない。
スマホとは、要は小さなパソコンである。ということは、もし日本がかつてのように小型・軽量化を最大の武器としていたなら、まさにうってつけの素材となったハズだ。しかしそうはならなかった。そもそもパソコン、半導体市場で日本製品は敗北しているのだから、スマホも同じ結果となるのは当然と言えば当然である(現在はパソコン自体は既に衰退期ということのようだが)。ではなぜ、これも当時世界を変えた「新しいモノ」だったパソコンで敗北したのだろうか。

日本でパソコンが普及し始めた時期、例えばWindows98が登場したのがその名のとおり1998年だとすれば、日本の電子産業の衰退期とまさにピッタリ重なってくる。パソコンの普及は、正に世の中を変えたのだ。そしてその次に来たのがインターネットである。パソコンが普及したからこそインターネットも普及したのだが、この2つの巨大な流れが、いわゆる「IT革命」ということになるだろう。そしてその消費者向け市場における流れがまさにスマホというモノへと直結しているのだ。日本メーカーはまずパソコンで世界に出遅れた。もちろんこの当時は決して何もしていなかったわけではない。日本メーカーが国内市場においてはシェアを競っていた。が、この頃からグローバル化が進行し主戦場が世界へと広がっていくのである。そしてグローバル市場では、存在感を示すことができずに時間が過ぎていった。そのような状況が続く中、例の「選択と集中」が叫ばれ始める。そして日本メーカーの判断は、不利な戦場からは撤退するということだった。が、結局はこれが全てだったのである。なぜなら、IT革命によってこれまで日本メーカーが作ってきたモノのほとんどが、パソコン、またはスマホに取って代られたからである。
例えばカメラは、これまでレンズとフィルムの技術によって支えられていた画質という品質・性能の裏付けが、デジタル処理で可能になったのである。これまで日本メーカーが積み上げてきたアナログな技術によるモノづくりから、IT技術によるモノづくりへと変わったのだ。逆に言えばそれだけIT技術が世界を変えるほどの技術であるということであり、だからこそまさに「革命」なのである。日本のモノづくりメーカーは、もしかしたらそのことを理解できていなかったのかもしれない。もちろん以前はデジカメやビデオカメラで日本製品が充分存在感を示していたが、これもスマホによって駆逐されたことを考えると、やはりこれが致命的だったと言っていいだろう。

ついでに言えば、パソコンの普及、IT革命という流れの中でもう一つ生まれた「新しいモノ」がある。それは「ソフトウェア」である。
それまでソフトウェアはハードウェアの中のモノ、またはゲームソフトというのが多くの日本人の認識だったように思う。それがソフトウェア自体が主役へと変化したのである。だが、日本の電子メーカーはソフトウェアメーカーにはなれなかったし、ソフトウェアメーカーと呼べるものは現れることはなかった。確かにパソコンはアップルかマイクロソフトかという、この2社のソフトウェアと抱き合わせでシェアを独占する戦略によって日本メーカーは完全にシェアを奪われ敗北することとなったのだが、ここで日本のソフトウェアも終わってしまったのである。結果として日本全体がこの後にくるインターネット時代に付いて行くだけで精一杯だった。時代はまさに「GAFA」である。そして更に現在最大の流れである「AI」についても「周回遅れ」と言われているは、このような過去の流れから考えれば当然だ。一足飛びに追いつけるものではない。そしてこれからのモノづくりにおいて、これらの技術は不可欠である。「子供にプログラミング教育を」などということが、しかも今頃になって声高に叫ばれるという時点で、もはや救いようのない状況である。

このような中、本来、というか昔ならメーカーにとって最も重用だったハズの技術開発、というより「商品開発」は、いったいどのようにおこなわれていくのだろうか。
常に新しいアイデアや技術を提供していくのは難しいというのは誰にでも想像はつく。どんな商品もいずれは需要の伸びが一定の水準に達し、新しい機能も飽和状態となるのは当然だ。そうなるとその後はもはや買い替え需要を狙うしかない。となれば如何に買い替え需要を創りだすか、となるのは当然である。一定のサイクルで、既存の商品と差別化し、宣伝戦略を立てるのである。もちろん技術開発は常に行っているだろうが、それを製品に反映できるまでは時間を要するし、更に市場に投入する最適なタイミングを計っているのである。そのような成熟した市場では計算されたモデルサイクルとグレード構成に基づいて、性能、耐久性、価格などの全ての要素が決定されるのである。最低限のコストで最大限の利益を得るという、営利企業として当然の論理でありそのための「技術」も昭和の時代とは比べ物にならないほど進化しているそうだ。一定の利益を得るためにどれくらいの品質が必要なのかというデータは、既に大抵のモノづくり企業が持っていることだろう。こうなると当然マーケティング至上主義にならざるを得ない、というかそれ以外の何者でもないと言ってもいいだろう。日本からヒット商品が生まれなくなって久しいが、それでもこの流れを否定するような動きは全く見られない。
そもそも営利企業の経営者にとっては利益を上げることが唯一の目的であり、そのために必要とするものはほとんどの場合、経済学、経営学ということになるだろう。マネジメント、マーケティング云々という言葉はよく聞かれるが、そこに哲学や独創性などというものが入り込む余地がないのは当然かもしれない。モノづくり企業は、モノづくりのためでも技術のためでもなく最大限の利益を得るために経済活動をしているのであって、その目的は明白だ。まして成熟した資本主義では、全ての営利企業がその原理に忠実になっていくのは自然の法則なのだ。パナソニックは今のところはモノづくりで奮闘しているように見えるが、シャープは台湾企業になったし、ソニーは既にモノづくりを本業とは考えていないと考えれば納得がいく。日本の電子メーカーにはブランディング、ロイヤリティ戦略というものが全く見えてこないが、そんな余裕はないか若しくは必要ないと考えているのだろう。

日本の消費者向け電機製品の性能と信頼性は、今や韓国、中国、台湾に並ばれるどころか負けているというのは既に常識となりつつある。同じ価格帯では既に勝負にならない中、わざわざライバルに劣る製品を生産することに何の意味があるのだろうかとは思うが、とりあえずまだ日本の人々はモノを必要としているし、日本メーカーはモノを作り続けている。が、コストカット、スペックダウンで製品を供給し続けるのはとりあえずの延命策に過ぎない。ただそれ以外に道もないというのも事実であり、もはや終わった世界を生きているに過ぎないといっても過言ではないかもしれない。とは言え消費者向け市場ではもはや勝負にならなくなったとしても、ビジネス向け市場では海外メーカーよりは有利ではある。地理的言語的絶対条件がある限り、海外メーカーは簡単にはこの市場に入り込めないというのも自然の法則である。メーカーとしてはこれで生き延びるしかないだろう。

ただ世界的に見れば消費者向け製品にはまだまだいくらでも可能性はあるハズであり、とりあえず次に来るのはおそらくバーチャルリアリティとロボットだろうと言われている。が、これだけ判りやすいテーマがあるにも関わらず日本企業の動きが見えてこないのは、やはり「AI」技術の遅れがそれだけ致命的なレベルにあるということになるのだろう。アメリカでは既に人々の心はモノから離れつつあるそうだ。逆に中国ではこれからが本当の勝負だろう。この両方の市場で戦えるのはどうやらトヨタだけのようである。それ以外の日本メーカーは、どちらにも対応できていないようにしか見えず、だとすればもはや未来はないということは確実だろう。

老後が心配なおっさん世代としては、この先の日本経済、社会のはどうなるのだろうかというのが最大の問題なのだが、それもさることながら、あの頃の日本製品の魅力を取り戻すことはもうできないのだろうか、日本はもうモノづくりで生きていくことができないのだろうかということを、どうしても考えてしまうのである。

技術とは続けることである、というのはおそらく技術者なら誰もが聞いたことがある言葉だろう。常に新しい技術、新しいアイデアを提供することが難しいのは誰にでも判る。が、その幅が大きいか小さいかは別問題として、どんな技術でも常に進歩し続けることができるということだけは間違いない。社会が変わるときにはその評価も全く変わるかもしれないし、地味な進化がいつか特異点に達するというのが昭和の日本の技術だったハズである。まして一度失った技術を取り戻すのは容易なことではない。
ただしそれは商業的成功と必ずしも合致するわけではなく、現代の経営者にとって絶対的に必要なものでは全くない。それを続けられるのは一技術者の哲学でしかなく、現代の企業ではその余地は減る一方だろう。「プロの経営者」はいくらでもいるのかもしれないが、「プロの技術者である経営者」などというものが存在し得ない時代である。むしろ今の経営者から見れば、日本の技術者がダメになったと考えたとしてもおかしくはないかもしれない。日本人ノーベル賞受賞者が出るたび「日本人としてうれしい」などというコメントがマスコミにあふれるが、それは昭和の研究者達の成果が今評価されているのであって、20年30年後どうなるかということには多くの研究者が危機感を持っているようである。

結局初めに言ったとおり全ては経済の論理でありどうすることもできないのだが、どうしても技術的な視点になってしまうのは、結局今自分が知りたいことが、これからの技術者はどうするべきなのか、ということだからだろう。
モノづくり企業がこのような状況になるのは、組織の論理という自然の法則によるものであり、全てのモノづくり企業はこの法則に基づいて選別され、経済の論理によって浄化、先鋭化していくものなのだ。結果として日本のモノづくりは間違いなく衰退しているとしても、日本のモノづくりメーカーとその中にいる人間にとっては、一切関係ない、つまり衰退すらしていないのである。そしてそのような時代の技術者も当然、その論理に選ばれた人間のみ生きていくことができる。これは時代の宿命であり誰にも抗うことはできないのだ。技術者は、まずはそのことを自覚しなければならないだろう。
もう一つ、時代が変わる時に限れば間違いなく持たざるものに強みがある。つまり中小企業こそ本来産業全体で見れば重要な存在なのだ。本当に世界が変わらざるを得なくなった時、少なくとも身動きがとりやすい、スピードでは大企業に優るということだけは間違いないだろう。そこには技術者本来の仕事があるハズである。しかし社会が成熟すると中小企業も同時に力を失っていくというのも、どうやら避けられないことのようである。とすれば古いタイプの技術者にはもはや国内に居場所はない。もし自分のやりたいことがあるとすればおそらく海外、主にアジア諸国かまたは米国ということになるだろう。つまりこれからの時代に本当に必要なのは、自ら積極的に日本から飛び出すこと、つまり技術者一人ひとりの「グローバル化」なのかもしれない。
Posted at 2019/04/03 06:30:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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