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2019年09月30日 イイね!

横柄な警察官についての感想と妄想

社会学も政治学も全く知らないおっさんの単なる感想と妄想である。

横柄な態度の警察官が、交通ルール違反を理由に執拗な取り締まりを行うという動画がニュースとなっているので感想。

どちらが悪いかというあまりに単純な感情論でモノを言う場合にしても、可能な限り全ての情報を総合的に判断したうえでなければ後で自分が否定されることにもなるし、自分も恥ずかしい想いをすることになる。この手の動画を見ただけで全てを判断することは不可能だ。
というワケでこの動画そのものの感想を述べるワケではなく、ここからはあくまで一般論である。

木っ端役人が権力を笠に着て横柄な態度をとるのは人間の本質であり、洋の東西、時代を問わず不変である。このような人間は序列的に自分より上と見なす人間にはへつらい、下と見なす人間を蔑むのが「当然」のことであり、意図してか否かは別として社会の法則を忠実に実行しているに過ぎないのである。
個人的には、だからといって肯定するものでは全く無い。というかむしろ横柄な役人そのものより、それを肯定する人間がテレビやネットに大勢いることに嫌悪と恐怖を覚える。が、それもまた人間の本質であることも間違いないし、それが社会の水準であることも否定しない。「違反した者が悪い」などということは、小学一年生でも言えることである。一つの事件でも論点はいくつも存在するのであり、最近話題の「闇営業」問題でも「宮迫が悪い」だけで全てを総括しようとするのと同じである。これは一人の人間に全ての責任を押し付けることで複合的な問題も全て解決したように見せかけようとする権力側の人間と、自分は権力側であることをアピールしようとする人間の特徴的な論調であり、社会の法則に忠実に生きる人間の性でもある。このような人間は自分が権力側の人間あるいはマジョリティであると思い込むことに最大の満足感を得るのであり、個別の問題そのものには全く興味がない。
そもそも事件に全く無関係であるその他大勢の大衆にあっても、そのような小一レベルの「正解」あるいは「正義」で満足できる人間はむしろ幸せだろうし、それに疑問を持ってしまう人間は何一つ得をすることはない。

少なくとも自分の経験上、警察官は一般住民に対し基本横柄である(もちろんそうでない人間もいる)。相当過去のことで一語一句憶えているワケではないが、検問のときは「走りそうなクルマだね?どこで走ってるの?別に取り締まろうってワケじゃないけど」という感じだったし、交差点で信号無視の車に衝突されたときは「信号は青だったな?ウソはついてないな?」というのが過失割合ゼロの被害者に対する発言である。違反をしたワケでもないのにこの調子なのだ。むしろ切符を切る時は意外におかしなことは言わなかったりするのだが、「ノルマ」の達成に必死かあるいは達成できてホッとしているのかもしれない。ただここ十年程は、そもそも接点が少ないのもあるが、ここまでタメ口ではなかったのはやはり時代の流れなのだろう(こっちがおっさんになったせいもあるかもしれない)。
そもそも「取り締まり」とは犯罪や違反を少しでも防止する目的ではあるが、その方法としては、警告、威嚇、懲罰、見せしめでしかないのであり、横柄な警察官の態度もそのような意識からくるものだと思われる。クルマの速度違反などは矛盾だらけであるということは以前も書いたが、社会はその矛盾をむしろ受け入れているのであり、だとすればあまり論理的とはいえずまたその効果自体甚だ疑問であるこの「取り締まり」というものも、同様に受け入れるしかないということになる。
自分はここ数年コンプライアンス上やむを得ず「ほぼ」制限速度で走行しているが、煽られたりムリな追い越しをされたりするのは日常茶飯事であり、実際ムリな追い越しで接触されたこともある(「ドライブレコーダー体験談」のとおり)。不本意ながらも法令を遵守する者が嫌がらせを受け、そのような嫌がらせをする者はいくらでも存在するにもかかわらず、たまたま「些細な」違反で検挙されたときは、やり場のない怒りで発狂しそうになったものである。当然警察に対し一方的な恨みを抱いたのは言うまでもない。

一方、一警察官の立場ではどうだろうか。
クルマの事故やトラブルの処理に当たる末端の現場では、人間がどれほどクルマの運転能力が低く、危険運転や飲酒運転を平気で行い、くだらない理由で揉め事を起こすかということを、イヤというほど思い知らされているハズだ。また取り締まりというものが矛盾だらけであることは重々承知で業務として行っているのであり、逆恨みされるだけであまり楽しい仕事でないことは想像できる(もちろん楽しんでいる者もいるだろうが)。
そもそも交通だけでなく、また犯罪は言うまでもなく全ての治安維持が業務の対象であり、程度の軽重はあれど万引き、ケンカ、不法投棄、オレオレ詐欺、徘徊老人、不審者、自殺、児童虐待、ハロウィンの渋谷等々、愚かな人間と社会が引き起こす無数の問題の後始末が仕事である。人間社会とはそういうものだということを認識しなければとてもやっていられない職業であり、理想主義的な傾向の人間には精神的に辛いことになるかもしれない。落し物や迷子の世話する交番のお巡りさんなどというイメージは、対外的PR用に作られたものである。高校大学を卒業するとともに志を持って、あるいはなんとなく、有意義であろう職に就くことを選んだ若者が社会というものを受け入れるのには、平均以上に厳しい職業であることは間違いない。もちろんそれはどんな職でも多かれ少なかれあることではあるが、やはり一定水準以上の耐性を持っていなければ務まるハズもなく、いわゆる「優しい」性格の人間は排除されていくのも自然の法則だろう。犯罪者と対峙するには、いくら組織力と権力と武力を持ってするとしても相当の戦闘的精神力が必要なハズであり、ハッキリ言えばいわゆる優しさとは相容れないものである(これについては異論もあるかもしれない)。
その意味では、警察官といえど人間である。警察組織全体としてみた場合、相対的にはフツーの社会と同じように、犯罪者と同等の精神レベルの人間もいれば、心の優しい人間もいるし、出世が全ての序列思考の人間もいれば、欲のない庶民的な人間もいるのである。裏金作りや不正を行う者もいるし、犯罪者と裏で繋がるものもいる。そのような内部の不正と闘う者はやはり組織から圧力を受けることになるし、組織の論理に忠実なものはやがて組織で力を得ることになる。ただフツーに考えて警察とは巨大組織、官僚機構、お役所中のお役所であり、その意味でも横柄な人間が多いのは当然だろう(もちろんそうでない人間もいる)。
まあ20年前は他の役所でも横柄な人間はまだまだいた(ナンバーの変更手続きに行ったときの陸運局職員の横柄な態度は20年経っても憶えている)し、JRの駅員やバス、タクシーの運転手などにも今とは比べ物にならないほど多かった。結局は相対的なものであり、社会の皆が横柄な態度であればそれはニュースにはならない。つまりある意味それがフツーだったのが昭和という時代である。これも時代の流れであり、この点だけを見ればたとえ僅かであっても社会が「正しい」方向に向かっているということにはなるハズだ。ただ逆に妙な息苦しさを感じないワケでもないというのは、自分がおっさんになったが故の感覚的、感傷的なものかもしれない。

もう一つ、これもあおり運転同様、「動画」を「誰もが」「いつでも」撮影できるという技術の普及がなければニュースにもならなかったものであり、大衆が新しい「力」を得たということでもある。社会全体としてみても、個人のプライバシーや監視社会などという負の側面はあるものの「防犯カメラ」「ドライブレコーダー」という技術がその「力」を一定程度発揮していることは間違いない。最近国会議員のパワハラや不正行為が明らかになったのも同様であり(この場合音声だけだったが)、スマホという「力」が誰もがいつでも使える状態にあることによるものである。ついでに言えば取り調べの可視化などということもこの技術の発展によってようやく実現することとなった。警察にとってこれは不利なことでしかないのかもしれないが、大衆にとってはやはり技術の「力」ということになるだろう。これについては当の大衆は全く無頓着だが、アメリカでは既に当然のことらしい。そもそもアメリカ人は警官を信用していないということもあるだろうし、日本人が平和ボケだということもあるだろう。だからと言ってアメリカがヒドい国で日本はいい国だとも、その逆だともいうつもりは全くない。技術が積極的に利用されるにはまずその意識が必要だが、問題の大きさに比して意識が薄いという場合も、誰もが手にすることができるまで普及した技術は自然に有効な使い方が広まっていくということもある。ドライブレコーダーにしても、カメラの小型化と記録の大容量化という技術がスマホによって普及したことが、スマホ以外での有効利用にも繋がっているということになるだろう。
ただ仮にいくら普及が進んだとしても、技術は万能ではない。言うまでもなく動画は「編集」できるし、写真も「加工」できる。全てを無条件で信用することなどできるハズもない。スマホもネットも犯罪に利用されるのであり、技術は常に「使い方」次第なのである。

技術には力がある。が、力というものはいいことばかりではない。使い方によっては人を傷付ける。だから使う側には責任がある。「権力者」という言葉は正にそれを顕している。
技術は権力者が生み出すわけではない。その力を認識し、有効に利用し、自分の利益を最大化することに特化したものが権力者となるのである。
人間の歴史上技術力とはほぼ「武力」であり、ほとんどの人間はそれによって自由を脅かされ、命を奪われてきた。善良な大衆はその力を細細と利用することでようやく僅かずつ自らの生活を向上させるのみである。
またもう一つの技術は「情報」である。情報には人を動かす力がある。情報を操作することで、他人を操作することができる。古来情報を使いこなすことで権力者となったのはシャーマンであり、武力と並んで最も有効な「技術」であった。これも今日まで変わらない社会の法則である。
欧米の子供向け映画やアニメなどでは、力を持つものはそれをコントロールしなければならないというテーマが数多く描かれている。権力者が力を独占しないよう、大衆が力を正しく使うよう、自らが考え行動しなければならないということが常に文化や教育で意識されているように思う。横柄な木っ端役人のハナシに戻るが、警察官も国会議員も力を持っているが故それを自らの感情のまま利用するのである。それが人間の性であるならば、「力」を「正しく」使うということは、簡単なことではない。日本では映画やアニメなどにそのようなテーマが描かれているようには思えないし、実際日本人にはそのような意識はまず見られない。全ては与えられるものだと思っているのであり、まさに親方日の丸、百姓根性そのものだと言ってもいいだろう。このような根性から来る集団的無責任体制こそ、この20年で日本の組織が起こした数えきれない不祥事の原因かもしれない。
ただ今回の事件では、警察官や国会議員という権力に対し動画や音声という記録が彼らに対抗する力となり、その力を正しい方向で利用する人間が多少なりとも存在するということにはなるだろう。実際の当事者個人としてみればそこまで社会的な意識によるものであったかどうかは判らないが、理不尽な力にはまず対抗しなければならないというのは一人の人間として当然必要なことであり、ひいてはそれが社会にとっても必要なことだと言えるだろう。
そしてそれはスマホ、そしてSNSという「技術」の大きな力によって成し得たことでもある。

技術を生み出すものは、現状に満足せず、真実を追求する。自らの利益を追求するものは、真実を求めず、現状を受け入れ、技術を生み出すことはない。どちらが幸せかということはとりあえず置いておくとしても、前者と後者は向いている方向が真逆なのだから、そもそも議論が噛み合うことはない。
地球は回っているのか、人間は猿から進化したのか、世の中のほとんどの人間にとって本当の意味でそれを知ることはほぼ不可能であり、ハッキリ言ってどうでもいいことではある。現代ではそれを大企業で出世するため、いい大学に入るため、テストでいい点を取るために一時的に大量に記憶できる人間がやがて社会を支配するのである。たとえ学者や技術者と呼ばれる人間であっても、中身は同じである場合も多い。どこぞの大学の学長と言えど、不正や問題行為が発覚したときのあまりに非論理的な発言に、またその横柄な態度に、見ている側が呆然とするほどである。これもまた社会の法則なのだ。
このような人間は、現代の教育システムでひたすら機械的、一時的に収集した断片的な「正解」をそのまま一方的に吐き出すだけであり、それが現実とどう結びつき、問題をどう解決するかなどということには一切興味がない。目の前の答案用紙に書き込むためだけにある中身のない「正解」をひたすら吐き出す単純作業を繰り返し、それを「成果」と見なすシステムを最大限利用するのみである。
最近、筆算の線を定規で引くことを小学校で多くの教師が生徒に強要しているというハナシが話題となっているが、まさに教師の精神性が小一レベルだと言ってもいいだろう。このような人間が学校だけでなく現在の日本社会の至るところで幅を利かせているのだから、教育も、大学も、その先にある日本社会ももはや絶望的であることは間違いない。そうかと思えば逆に「履歴書は手書き」という謎ルールも未だに存在するらしい。これもまたそれ自体の意味などそもそもどうでもよく、ただ何も考えずにそれに従う人間を採用することだけに機能しているのであり、そのような人間が集められた組織が現在の日本企業なのである。
ただし人間社会の法則という意味では、彼らのやり方はまさに「正解」に外ならないのだろう。

真の技術者にとって、筆算の線を定規で引かせることに満足するような人間たちの土俵で戦うことにそもそも意味はない。どう考えても議論が噛み合うことはないのであり、となれば最後まで「自分」を貫く以外にないのである。逆に言えば、筆算の線を定規で引くことが一個人としての信念だとすれば、誰になんと言われようとそれに徹すればよい。
このような態度が逆に「彼ら」から「横柄」「ヘソ曲がり」「反抗的」などと取られる場合も往々にしてあるだろう。彼らの基準でできている社会では、彼らとは違う人間が低い評価を受けるのはあまりに当然のことであり、最終的には「迫害」といった状況にまで及ぶのが組織、社会の常である。自分あるいは家族を守るために彼らと同じ側の人間になるのか否かは個人の選択だが、一つの組織が皆彼らと同じ人間ばかりになったとしたら、戦前の日本という国家同様いずれ崩壊するのであり、最終的には自分も家族も守ることはできない。ただそのような状況をどこまで想定する必要があるのかということまで具体的に判断しているワケでもなく(その必要はまずないかもしれないが)、単に個人の信念あるいは性格によるものである場合がほとんどではあるだろう。それでも横柄な木っ端役人や序列思考人間とは本質的に違う自分を信じる人間にとっては、自分で自分を評価する以外にないのだが、組織の中にいる限りそれは一定の労力を必要とするし、ムダに消耗することではある。対する「彼ら」はそもそも何ら気に留めることもなく自分の利益を追求できる人間なのだから、その時点で彼らは全くもって幸せだし、そして実際彼らが「ほぼ」勝利者であることは社会の歴史が証明している。彼らと同じ人間になりたくてもなれない「愚かな」人間は、どう考えても損をするのは当然だということだけは、受け入れる以外にない。
Posted at 2019/09/30 23:57:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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