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2020年04月30日 イイね!

新型コロナと社会についての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

この一、二ヶ月、日本、そして世界中が危機的状況なのだが、これだけの「災害」は自分にとってもこの先も間違いなく起こるだろうから、この時自分が何を考えていたかを記録しておくために、今回はまず個人の視点からここに書いてみる。

今の時点で自分はいつ自分が新型コロナに感染してもおかしくないと思っている。自分ができることはまあそれなりにやっているつもりだが、仮に自分でできることを100%やったとしても、それで感染する確率を、例えば既存のインフル以下にできるとは全く思っていない。とは言え、自分が「死ぬ」とは思っていないのも事実である。確率で言えば交通事故で死ぬほうがよほど高いと考えているからだ。どのみち正しいと思える情報がない中それはほとんど正当性バイアスであることも自分で認識してはいるが、結局、いつ、何で死ぬか、個人のレベルで言えばそれだけのハナシである。4月に入ってそれも多少揺らぎつつあるのも事実だが、ただ個人の「認識」とはそういうものである。
とは言え、感染しない方がいいのは言うまでもない。重症化すれば当然苦しむことになるし、感染したということになればそれだけでとにかく大変だということは判る。
やはりなんと言っても、万が一家族や他人に感染させたときのことを考えると、それは避けたいということは間違いない。

疫病とは、感染確率が高い、そして致死率が高いということであり、誰にとっても死の確率がそれまでに比べ高まっている状態である。
疫病だろうが何だろうが、個人にとっての優先順位はまず自分の命だということはおそらく間違いない。
そして次にこれまでどおりの生活を送ること、そして将来もそれを続けること、ということになるだろう。逆に言えば、死ぬこと、病で苦しむこと、生活で苦しむこと、という順序で回避していくことになる。
命の次にくるもの、つまり生活においては、個人は他人、つまり社会を強く意識することになる。
まずは自分にとって大切な人の命、次にアカの他人の命ということになる。
大切な人を失えばやはり自分が苦しむことになるし、場合によっては今後の人生も意味をなくしてしまうかもしれない。
またアカの他人の命を奪う結果になれば、自分がこれまでどおりの社会生活を送ることができなくなるかもしれない。疫病においてはやはり、自分のせいで他人を感染させ、死なせてはマズイ、それが社会性というものである。
これらはまさに「四苦八苦」そのものである。
結論、生命が全てにおいて最優先だということにおいて、異論の余地はないと言っていいだろう。

しかし、である。
いくら命が最優先だと言っても、最大の問題は言うまでもなくその方法だ。
実際自分がどう行動するのかということになればハナシはそれほど単純ではない。
これは本来、人間にとってとてつもなく大きく、難しいことである。
本来それは常に起こっていることであり、ほとんどの場合それを意識していないだけなのだが、それを突き付けられているというのが今自分に起こっていることであり、世界で起こっていることである。

津波が目の前に迫れば、おそらく誰でも逃げるだろう。
が、津波が来る可能性がある場所で地震が起きたとき、誰もが逃げる、というワケではない。
刃物を持った怪しい人間に出くわしたら、逃げるか、隠れるか、戦うか、選択肢は増える。
タバコは100%寿命を縮めると判っていても、やめる人間の方が少ないだろう。
自分の命を守ると言ってもこれだけ幅があるのだから、他人の命となれば尚更である。
刃物男と対峙したとき、そこに自分と他人がいたら、そして自分ではなく他人が襲われそうになったら、選択肢は更に複雑になる。
そこまでの非常事態ではない日常生活おいても、他人の命に自分が関わる可能性はある。例えば火の始末は昔から言われていることだし、現代であればクルマの運転が最も危険だろう。考えてみれば一般人がここまで厳しく、事細かく法律に縛られているのはクルマの他に思いつかないが、それでも飲酒運転も危険運転もなくなることはない。

かつてのクルマ好きとしては、これまでの自分の運転に危険性が全く無かったなどと言うつもりは到底ない。が、運転技術には個人差があるし、車の性能にも差があるのだから、リスクの評価の差、そして実際の対応の差ができて当然である。一定のレベルを超える損害が発生した時初めて自分の行動が社会から評価されることになるが、個人としてはそれをも含めて全てのリスクを自分で評価し行動するのである。
タバコに関しても、やめなければ50代で死ぬ、やめれば80歳まで生きるということではないワケで、他のリスクとの比較でしかない。個人としてはタバコと仕事のストレス、どちらが体に悪いかという比較はリスクの評価として当然だと思うのだが、社会的にそれが示されることはまずない。

この辺についてはネットで読んだ次の記事のタイトルをそのまま書いておく(自分の言葉で書くのがこのブログのテーマだが、備忘録、まさに「ブログ」として)。

2020/4/23_11:20 「危機を煽ることで回避される感染症の危機」 森本紀行

つまり人間はまず「状況」の「認識」があり、次にその状況が将来的にもたらす「結果」の「予測」があり、次にその「結果」の「重要性」の「評価」があり、それが回避したいものである場合、次に自分がどのような「行動」が可能かの「評価」があり、その「行動」により「結果」が変わる可能性についての「予測」と「評価」があり、次に行動したときの結果としないときの結果の「比較」とその差についての「評価」があり、次に行動に複数の選択肢がある場合それぞれにおいての「評価」があり、次にその複数の評価の「比較」とその差についての「評価」があり、その評価が一定以上高いと判断したとき初めてその選択肢について「行動」するのである。
人間誰もがこの過程を意識的に、あるいは無意識に、情報や認識を逐一修正しながら、行きつ戻りつ繰り返すのである。そしてその回数や精度に個人差が加わる。
そもそもこの作業に費やす時間と労力は負担であってできれば避けて通りたい。まして時間的あるいは精神的な余裕がない状況では尚更である。

状況の認識にも、結果の予測にも、結果の評価にも、「情報」が大きく影響する。
そしてその「情報」をどう評価するのかということが(広義の)「哲学」である。
個人にとって情報とは、そもそも認識可能な存在であること、次にそれを認識すること成立する。つまり成立するか否か、環境と個人それぞれに要因がある。
生まれてから今に至るまで、原因と結果、正しいと間違い、良いと悪いという情報を積み重ねることで、何をどう評価するのかという哲学が形成される。結局哲学を形成するのも、情報の蓄積なのである。
また情報の評価には、楽観的、悲観的、直感的、論理的、正義感が強い、不安感が強い、等々個人の多様な性格が影響し、それにもやはり情報の蓄積が影響している。つまり相互に影響しあっているのであり、情報も哲学も結局は一体だとも言える。
結局個人がリスクを評価するには、無意識のうちに個人なりに持ちうる情報を最大限織り込んでいるとも言える。
が、もう一つ、人間は忘れる生き物だということである。特に不安や危険についての情報は感情という脳の反応による影響を受け、個人の性質によって特定の事象だけを大きく評価したり、あるいは自分の都合のいいように捨てていったりするものなのだ。こうして情報の取捨選択が自動的に行われるのである。

状況の認識から行動までの過程一つ一つにこれだけの過程を経ているのだから、結果としての行動に個人によって差があるのは当然のことである。それは平時であろうと危機であろうと基本的には同じなのだ。

そのバラバラなものを共有するため、統一するために論理的思考という手法を用いること、それが狭義の「哲学」である。
乗っている船が沈む時、隕石が落ちてくる時、ゲシュタポに尋問された時、数多くの小説や映画で扱われるテーマでもある。
有名なハナシとしてはいわゆる「トロッコ問題」というのがあるが、ちょっと前、小学校でこれを取り扱ったことが問題となった。つまりこのような哲学の入り口すら受け付けられない、受け止められないような人間が大多数だというのが、大衆の水準なのである。

今回はちょっと終わりが見えないのでこの続きはまたゆっくり考えることにするが、とりあえずどうしても今言っておきたいことを一つだけ。

「命を守るため」などということは、小学生でも言える。
そのために何をすべきかというとき、初めて人間としての本質が顕れる。
集団に任せ、皆で同じ行動をとる、この国で最も有名なロックミュージシャンに数えられている者がそんなことを真っ先に呼びかけていた。それも音楽ではない方法によって。
彼はロックミュージシャンとしての評価を失うことになったと、自分は思う。
最も「セレブ」としての評価は高めたのだろうし、今後もそれは揺るぎないのだろう。
もちろん一人の人間の発言としては、否定する何ものもない。
ただ彼の行動は、少なくとも自分が知っているロックというものとは全く違う。
そもそもロックなどというものは所詮資本主義社会の、消費財としての産物でしかないとして、その結果ロックミュージシャンがセレブになるのだとしても。

ロックとは、こういう時こそ必要だ。
いや本来常に必要なのだが、こういう時こそその真の意味が問われることになる。
ロックは正解を出すためのものではない。
生きること、その事自体への問そのものである。
全てを疑う、それがロックである。
本当に大事なことは何なのか、答えを出すのは一人ひとりだ、それを邪魔することは誰にもできない、そう叫ぶのがロックである。
誰も皆同じことを言う、そんなのはウソだ、お前らの言うことなど信じない、お前らが今まで口先で何を言ってきたのか、そして今まで本当は何をしてきたのか、そう叫ぶのがロックである。
怖れ、怒り、苦しみを吐き出し、さらけ出し、そして受け入れる、それがロックである。
弱く愚な自分を嘆き、呪い、それでも生きていこうとする、それがロックである。
そしてどんなに弱くとも、自分の力で戦う者の力になろうとする、それがロックである。
そのために音楽の力を用いるのがロックである。
世の中の弱く愚かな者達に何かを伝えたいなら、音楽を用いるのが音楽家の使命だろう。
そして我々は、こんな時だからこそ、音楽を必要としている。

だから僕は、どうしたらいいとか、そんなことなんて聞きたくはない。
Posted at 2020/04/30 06:33:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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