2020年12月31日
業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
東京都の2030年脱ガソリン車宣言について、トヨタの社長が厳しい発言をしたりとネット上でもかなりの大騒ぎになっている。
言うまでもなく「脱ガソリン」が具体的に何を意味するのかが重要な問題で、それが何かは結局よく分からないのだが、おそらく電動化ゼロの純ガソリン車の新車販売を禁止、というようなことになるだろうというのが大方の見方のようだ。
中身によってはダウンサイジングターボやSkyActivに対する死刑宣告になり、そのようなことをメーカーが受け入れるハズがないし、お上にそんなことができるハズもない。
もちろんディーゼルも禁止にはならないだろう。特に大型車や重機のディーゼルを10年で禁止するのは建設業、運送業界が受け入れるハズがない。だとすれば乗用車だけ禁止しても効果は薄いハズだし、それでも乗用車だけ禁止になるのかもしれないが、じゃあ軽は?二輪車は?といったことも現時点ではうやむやということのようだ。
この手の規制についてよく言われるエピソードとしては、「マスキー法」のハナシがある。
50年前アメリカで制定された、誰もクリアできないと言われた厳しい排ガス基準を真っ先にクリアしたという、ホンダのお約束イメージ宣伝エピソードだが、確か制定にあたってはメーカーとの協議は当然行われており、むしろ厳しい方がホンダにとってはチャンスとなると考えていたというハナシだったと記憶している。
今回も都と自動車メーカーはもちろん、日本政府とも当然内々にハナシはついているのだろう。その上であくまで10年後の目標としたのであり、制度の運用自体はどうにでもなることは間違いない。この10年という期間はメーカー側にとってクルマの開発に必要な期間としては決して長くはないが、本当の問題はその期間ではなく、自動車産業、牽いては日本の未来という最大の問題に、ついに公に手を付けたということなのである。
ネット記事の論調は概ね同じようなもので、基本的には自動車メーカーの主張を支持しつつも、現状を受け入れる外ないという感じであり、自分も2018年2月に書いた通りだ。
ガソリン車禁止の向こう側に見える各国の思惑。日本のとるべき道は?
岡崎五朗 | モータージャーナリスト
12/10(木) 11:09
東京都知事2030年に純ガソリン新車販売禁止明言! できるか? やるのか?? 真意と可能性
2020/12/10 17:23 ベストカーWeb
文/国沢光宏
自動車業界に迫る電動化ショックを超える衝撃波
JB Press 夫馬賢治:ニューラルCEO
12/22(火) 6:01
物事には目的があり(そもそも目的が「正しい」かどうかは別だが)、次にそのための手段がある。
そのための手段は一つではなく(一つしかない場合もあるが)、手段を考え、創りだすことが重要な作業となる。
最終的には哲学の問題ではあるが、その手段を構成する重要な要素が「技術」である。
技術の観点からすれば、目的はあくまで結果である。
例えば目的がCO2の削減だとすれば、CO2の排出量を基準とするのは言うまでもない。
その結果のために、その手段を初めから一つに限定するというのは本末転倒であり、無意味であり、あり得ない。
目的のために様々な技術を開発し、実用化し、最適な状況に合わせて使い分けるのが技術の理想であり、唯一の答えなどないのだ。
今回の場合で言えば、いわゆる「ウェルトゥホイール」の考え方を整理し基準を設ける、というのが本来のあり方だろう。
この時点で現在声高に叫ばれるEVシフト(最近は意図的に「脱ガソリン」に言い換えられているようだが)は、その論理自体に矛盾がある事は明らかであり、当然それは技術の問題ではない。このようなやり方は明らかに特定の勢力による何らかの意図があるのは間違いないだろう。
社会は理屈で動くワケではない。ほとんどの場合それは利害の問題であり理屈や理念はたいてい後から付け加えられるモノだ。
そして規制が利権を生むということもまた、社会の法則のうち最も基本的なシステムである。
例えるなら、スポーツの世界でよくあるルール変更と同じようなものである。
古い話になるが、F1で言えばターボ禁止、アクティブサス禁止(これについてはセナの死との因果関係もありちょっと違うかもしれないが)といった具合であり、また柔道やフィギュアスケートなど、大多数の判定や採点によって行われる競技については、その基準などハッキリ言ってどうにでもなるのである(逆に言えばだからこそこれだけの人気競技になれたのかもしれない)。スポーツとは競技性が重要であり、つまりは面白くなければ意味がないということになるのだが、それ自体誰も否定するところではないものの結局その中身については有力チームとステークホルダーの力学で決まるのはあらゆるスポーツで衆知の通りである(もちろんそれも含めて「スポーツ」だということになるのだが、それを認識した上で本気で楽しめるにはある程度の達観か、無知であることが必要だろう)。そして言うまでもなく全ては資本主義と組織の論理であり、例えば日本が世界に誇る「柔道」は、なるべくして「JUDO」になったのである。そもそも柔道は創始者の言うなればトヨタ並みの商業的センスで全国的、そして全世界的「企業」となったというのは有名なハナシだ。
ちょっとハナシが逸れたが、今回の脱ガソリンについてはそんなちまちましたハナシではなく、世界規模の巨大な資本主義の力学によるものである。
2018年2月に書いた通り、EVシフト、CASEといった「百年に一度の変革期」をもたらしているのは、IT革命と環境問題であり、ということは自動車業界にとっての敵は「IT業界」と「環境業界」ということになる。つまり敵はもはや他メーカーではなく異業種、異業界であり、だからこその「百年に一度の変革期」なのである。そしてそれは交通という社会の根幹をも劇的に変える可能性すらあるまさに革命であり、そこには巨大な利権が潜んでいるのだ。当然、既存の巨大利権であるエネルギー業界が黙っているハズもなく、ひょっとしたら実は裏でこの問題を主導しているということもあるかもしれない。
自動車メーカーが主張する通り、自動車がEV化したところで地球温暖化の解決にはならないどころか問題山積だ。
本来であればEVが全てではないという理屈、正論を世界にアピールしたいハズだが、おそらく現実的に当然そうなるだろうと考えていたのか、それを必死で世界のステークホルダーにアピールしたり、世界のルール作りに対して直接影響を与えようとはしてこなかったのかもしれない。もちろんそのために日本政府を動かすということもなかったのか、少なくともそのようには機能しなかったと見える。
そんな中、やはり現実の壁にぶつかり一旦落ち着いたのかと思いきや、実は世界ではEVシフトの流れはむしろ加速していたようだ。
EVシフトの発信源は欧州、中国であり、彼らがまさに「ゲームチェンジ」を仕掛けているということになるだろう。
「コモディティ化」をもたらすと言われるEVシフトは中国など新興国、そしてIT業界などの新興勢力にとっては有利であり、逆に既存の自動車産業にとって望まざるものであることは基本的にどの国でも同じハズだ。にも関わらず欧州勢がそれに乗っかったのはなぜだろうか。
フォルクスワーゲンを中心とするドイツ勢の「ディーゼル不正」によるダメージを払拭するためだというハナシもあるが、コモディティ化の脅威を考えるととてもそれだけだとは思えない。だとすれば、もはやこの流れに呑まれるしかない、他の選択肢はないと考えているのだろう。とは言え自動車業界としてもみすみす敗北を選択するハズもなく当然一定の勝算はあるハズで、それはおそらくアメリカ、そして日本のメーカーもおそらく同じだと考えるのが自然だろう。もちろんここでいう自動車メーカーの「勝算」と、日本の産業や雇用が守られるいう問題とは全く無関係である。
言うまでもなく日本の自動車メーカーにとって主戦場は世界であり、最終的には彼らの土俵で戦うしかない。ゲームのルール自体をコントロールしようという努力は当然しているだろうが、どうやら自分たちが最も有利となる展開に持っていくことはもはや苦しい状況となったようだ。
つまり、外からの敵が迫っている、どうやらそれはかなり強敵である、そしてついに彼らと本気の戦いが始まった、いや戦いはとっくに始まっており、それがついに表面化した、というよりむしろ決定的になった、ということになるのだろうと思う。今回の「脱ガソリン宣言」は、世界のゲームチェンジに着いて行くことが確定した、それだけのことである。
言うまでもなく国内ルールのコントロールについては今の自動車業界にとって造作もないことであり、今回も自動車業界の判断に基づくものであることは間違いない。とはいえ、政治の世界とてそこは権力闘争の場であり、自動車業界とて常に戦い続けなければならないし、それこそ10年20年後はどうなるか判らない。自動車業界と政治という見方をすれば、テスラの社外取締役なる人物が現れ、そして政府が動き、敵なのか味方なのかどちらでもないのかどちらにもなり得るのか、彼らは彼らの論理で動く、そのような世界で全ては決まるのである。所詮我々ごとき最下層に真実を知る由もない。
その上で、国内社会に相当大きな影響があることを考えると、当然最後は政府の仕事である(本来「最後」ではないハズだが)。
政府が声高に宣言するからには当然相当の働きをする、つまり相当のカネを出していくことになる。ユーザー向けには購入補助金の増額といったところだろうし、社会的には充電設備などインフラ整備があるだろう。メーカーにしても何らかの形で直接的にカネを受け取ることも当然あるのかもしれない。
もう一つ、巨大資本にとってステークホルダーが最も重要な要素であり、世界の投資家にアピールすることは絶対要件だ。彼らの土俵に参戦することが決まった以上大々的に宣戦布告する必要があり、そしてその中身が国内規制である限り政府が大々的に発表するのは、世界共通である。
そして最終的には、EVシフトによる自動車産業のコモディティ化は、凋落した電機産業と同じ道を歩むことを意味する。つまりモノづくり日本の終焉である。自動車産業は大リストラに突入することになり、そうなった時には当然政府の対応が必要となる。
ネットによると、都の宣言は全く中身がなく単なる政治パフォーマンスで実際は日本政府がようやく方針を決めた事のほうが重要だということのようだが、要するに世界に、そして国内にそれを知らしめるパフォーマンスとしての意味が大きかったという事になるだろう。
結局のところ現在のEVシフト騒動は、クルマのスマホ化という、産業構造の大転換が目前に迫っているということになる。
ましてお上が、日本の政府が公に問題を提起するということは、100%悪い方向に行っていることが誰の目にも明らかになった時である。
元クルマ好きからすれば、今回ばかりは自動車業界に理があるし、日本を支える最後の産業としてついつい肩入れしてしまう気持ちもある。
が、これまで自動車業界が常に誠実で、我々庶民の味方だったなどということがあるハズもなく、全てはカネと権力、そして欲望による戦いでありそれが社会というものだ。
最下層の人間が、自分たちの雇用や生活を自動車産業に守ってもらおうなどと考えることが間違いなのだろう。
既に1年が経つ今になって状況は最悪、ということはこれ以上悪くなる可能性も当然ある、というのがコロナにおける日本の危機対策である。
飲食、娯楽、観光業界や、一部の医療従事者に相当の負担をかけ、この困難をやり過ごそうとする日本社会を見る限り、自動車産業終焉後の日本に未来はない。
自分が永く生きたければ他人の血をすすり、自分の大事なものを守りたければ代わりに自分の命を賭して戦うしかない。我々に出来ることはと言えばまさに「生殺与奪の権を他人に握らせるな」ということしかないのかもしれない(自分はこの超人気マンガをちゃんと見たことは一度もない)。
コロナのハナシに前半の半年を費やしてしまった今年もあっという間に終わりである。
ちなみに今年の流行語大賞は「密」でも「鬼」でもなく「電通案件」で間違いないと思っていたのは、どうやら自分だけだったようだ。
Posted at 2020/12/31 07:09:22 | |
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